おい・・・ 糸のないギターを弾いてくれ 
ヤクザ+状況劇団オールスターで描く情念のアンダーグラウンド!
        任侠外伝 玄海灘
              1976年  唐十郎作  

任侠外伝 玄海灘



25年前、朝鮮に渡った混同と沢木の暗い過去の絆。沢木が女を殺し、近藤が死んだ女を犯した。 そして今、ヤクザの二人は、韓国から密航してきた女たちを下関から東京に売り飛ばしている。 近藤の舎弟分の田口がその女の一人と愛し合った。だが、女は朝鮮で近藤が死姦した女の娘だった。 女には金田という男が影のようにつきそっていた。 金田、この男こそは、女の母親の恋人であり、近藤へ復讐するためにやってきたのだ。 玄海灘の荒波を背に、傷を負った近藤を追いつめる金田。今、復讐の火蓋が切っておとされた・・・。 (チラシより)




・・・ 伝説のアングラ劇団、状況劇団主催者・唐十郎。彼の最初で最後の映画監督作がコレなのである。 ともかく70年代後半のATGという「広さ」と「生々しさ」と「開放感」。そしてエンタ「メジャー方式」の唐十郎の情念。   この「余りに」魅力的な舞台に登場、主演するのが安藤昇。   そう、あのデカすぎるスケールを持て余していた安藤が 50歳直前の、男として最も熟した時期に、このデカい舞台に主演するワケである。   この時点で本作は最高。そして、何といっても、唐十郎も安藤フォロワーだったのかは知らないが ともかく安藤ファンには憎いだろう(いつもの)戦中の過去を引きずる情念のキャラクター設定は勿論のコト いちいち安藤が「男の中の男」として格好良く撮られ 5種を超える安藤昇のファッションショー(学ランもあるよ!)も楽しめて さらに本人歌唱・キャラソン「黒犬」を、劇中、タメてタメて最後の最後に持ってくるという 最高のエンタ「メジャー場面」で安藤昇の最期を飾る、そのドラマ性もピカイチである。   安藤昇。ギャラに頓着せず、ホンが良ければ何でもやる性質で、これまで読んだ中で 一番の脚本は「私設・銀座警察」だけという並外れた暴力性を持つ男の中の男。 そんな男・安藤の元へプロデューサー富沢幸男が本作の企画を説明。興味を持った安藤は さすがのアングラ脚本には理解が追い付かなかったようだが、唐のエネルギッシュな経歴を知り出演を快諾。 基本金銭欠乏状態の劇団がオールロケーションのオールスターキャストをやるには 見返りナシ覚悟の死に物狂いの撮影に挑まなければならない。 そんな、スタッフキャストの宿泊費すら満足に払えない状況の中、安藤は不満不平を言わず、逆に宣伝になるからと 唐と共に真鶴沖で実弾発射。唐と共に逮捕され話題を呼び、慰労会の費用を捻出するために 地元・佐渡の一番大きなキャバレーで安藤昇ショーを開き、そのギャランティーを慰労会費に充てたりと 関係者一同を脱帽させる懐の大きさをダンディに披露した。


唐十郎によって眠れる獅子安藤昇が再び蘇り、映画という名のジャングルが、その咆哮に震撼するに違いない ――菅原文太 李礼仙は、人間のかなしさを表せる稀有の女(ひと)。彼女が内面からふりまく香水は人を酔わせる。 僕は彼女と喜劇をやるのが夢だ。 ――勅使河原宏 小松方正については長い長い物語である。語るも涙の物語である。憂きにたえぬは涙なりけり。 今、小松方正は沈黙の代価を支払う。 ――大島渚 独特の次元の世界に居る根津甚八さんを始めて観た時、体中の血が逆流したような衝撃を受けた。 あの怪しく光る目は、人々をその世界へ誘いこむ灯の様だ。 ――中野良子 宍戸錠は元来、善と悪との両面をうまく見せる役者である。今回、彼は徹底した悪を演じる。 それが彼に新しい定見を植えつけるであろう。 ――長門裕之 ゴミ捨て場のテント劇場・・・河から吹いてくる風がハタハタ・・・唐十郎に酔った、あの夜。 こんどは、フィルムの中で・・・あの怪しさに酔いたい。 ――渥美清

  (左から唐、李、安藤) 玄海灘はインク色した三途の川 荒波にもまれた玄海灘は、戦前の植民地、戦後の朝鮮戦争と 歴史的にも地獄の象徴にふさわしい海峡である。 ・・・ スケール、玄海灘と書く。セットなぞちゃっちい閉ざされた空間には唐十郎は既に興味なく まったく新しい世界・・・いわば娑婆で大(どぅぁい)ロケーションを敢行。 70年代において、ようやく娑婆での大活躍で「活劇をブッ飛ば」す安藤昇が 最も(裏)日本国土を踏み、漕ぎ、犯したのが本作だ。   実録・安藤組でも見せた学生服姿の安藤昇。しかも医学でもって学生している。 「男の顔は履歴書」と「実録シリーズ」が合体したとも言える。軍服も着ているよ。 「懲役18年」と「阿片」も合体しているのだ。   何を着ても格好良い。これは安藤昇プロモーションフィルムだ! 次にあの、まさかあんなに弱りきって死んでしまう人には見えなかった根津くんが TVより先に、映画界で主演を張る。   初主演とは思えない調子の良さと存在感は当時大いに注目され ぶっきらぼうと不良性、しかし「陰りある甘いルックス」・・・といった女イチコロの個性でもって 朝鮮女とのドラマを魅力的に演じ、安藤にもヒジョーにかわいがられるという得なキャラクターを作り出す。   小松方正がキチガイキャリアの最高峰を演じる。 日本人に娘と妻を犯され、妻を孕まされるというドラマの前に 日本人への復讐しか考えられなくなった哀れな人物像である。 朝鮮の「恨」の血が時に同情を、時にドン引きさせる――そういう極端すぎるアクの強さを 顔面から炸裂する狂気で描き、熱演。小松の代表作はコレに決まりである。 さてシリコンモンスターこと「宍戸錠」。 「仁義」では堅物な、「東京湾炎上」では熱気・・・という 宍戸錠の飄々としたフィーリングが殺されていた70年代の代表作2作であるが 本作はまさしく宍戸錠のキャラクターである、知性を帯びたおもろい狂人という ジョーの個性丸出しであって気持ちがいい。   具体的に言えば 長髪をたなびかせ、メガネをかけ、狂気にあふれ、妙に知性を感じさせ、3枚目で そして安藤とはかつて親友であったという 詰め込みすぎ、おもしろすぎる役である。   「誰かボクの言葉を訳せる者はいないのかぁ!?」 この台詞回しの美しさ!おもしろさ!キャラクターをつかんでるジョー。 (実は本作のこの役には当初三国連太郎が予定されており、本読みまでやっていたのだが 同席していた安藤昇にビビりまくり、本読み後、突如姿を消した。そして宍戸の世界が・・・。 三国がやっていたら、彼の新たな代表作の一本となっていただろうね。) 結局は宍戸錠のキャラクターが小松の娘や妻に襲い掛かったのであって 全ての元凶・・・こういうのが本当の「プラトーン」(虐殺場面)だろうね。   理由もクソもなく「ヤリたいからヤる」という一部狂人の迷惑で 国民全員が苦労するという、その不条理な物語を彼は時にコミカルに、常識外れに語るのだ。   最後は安藤とのむなしい死闘の果てに あっけなく死んでいく。そしてその傍らで 死人のような男・安藤もまた、溜まった膿を噴出し死んでいくのだ。   本作のドラマは三つ。 根津と李コウジュンの情念、小松の復讐、そして 安藤と宍戸の裏切りと葛藤である。 ただのサイドストーリーかもしれないが面白すぎる個性の2人のぶつかりあい・・・直前には 足を引きずりながら海辺を進む安藤昇「黒犬」の情念と共に。   これは一番の見所に間違いない。 その2人の死を見届け、小松は崖から飛び降りる。 小松の印象は安藤の足にナイフを突き刺したまでで終わっており その所業により視聴者の同情をドン引きにした為か直後「根津にぶっとばされる小松」 ・・・視聴者的に嬉しかった。   コッチはねえ、安藤の味方だから(笑) どうなのか、足を刺すのは小松のキャラを満足させるためなのか 黒犬の流れる中、足を引きずりながら歩く安藤の絵を撮りたかったからなのか どっちもなのか唐さん。うまいね唐さん。 安藤と根津   安藤と宍戸 この硬軟合わさった組み合わせは最高だ。 この3人を知りたくば本作。特に安藤昇は完璧に俳優してる。 顔もしまりきり、いよいよ貫禄がデカい。安藤最後の傑作だ。   (BIG3) ・・・・・・・・・・ キネ旬の情報では本作はビスタビジョン、ヨーロピアンサイズで撮影されたという事だが DVDではスタンダード収録である。 右に焼きつきの字幕が表示されるが、途切れている、 やはり本作のオリジナルサイズはビスタなのではないのだろうか。 DVDにはオリジナルネガからHDリマスターにしたと書いてあったが ・・・現存するフィルム、という事なのではないだろうか。 VHS版ではテロップが途切れてなかったし。 ・・・・・・・・・ 唐十郎の状況劇団の(演技とかの)本質がどんなのかを知らないので デカい口は叩けないんだけども 唐的なムードや情念は中々出ているのではないか本作。 まず「日本人による朝鮮人レイプ」という社会派ネタをメインに描いてながら 男同士の決闘を含め、魅力的なキャラクターたちの活躍は娯楽商業作品として十分楽しめるし   その中に常田や不破、十貫寺、天竺のアングラなムード   安藤、ジョー、李、根津、小松の魅力を最大限生かしたハマリ役に 初監督作とは思えない拡散的なロケーションが浮かずに敷き詰められ   そこに主演者歌唱である「黒犬」をぶちこんでもなお浮かないという   かなり唐の支配が行き届いている――ここまで詰め込んで――それも成功している――のだ。




映画演出第一作「任侠外伝 玄海灘」は、彼が映画作家としてもなみなみならぬ才能を持つことを実証した。 玄海灘の李コウジュンは父親は朝鮮戦争に従軍した日本人軍属だ。 そんな彼女が日本へ密入国、実の父親とも知らずに抱かれた後、男は死に、彼女はストリッパーになった。 この作品にも、唐の戯曲のテーマの一つである朝鮮日本の、いわば玄界灘を越える南下思想がある。 ここに描かれた現実は、幻想の回路をかいくぐった向こう側にこそ露にされるものを 照らし出さなければならないとする唐の方法論の実践であった。(斎藤正治) ・・・




既存の映画監督たちと違う立場から 初監督作に挑戦する輩は多いが、大体一作目が成功しても それ一本が「長年の悲願」という執念の作品であるから成功したという事がほとんどで だから2作目の映画作品に挑戦しても薄っぺらな企画と執念しか実らず 結果失敗する・・・ずるずると3作目、4作目も というパターンが多い。 そして監督としての名誉は「マグレ」という 負の烙印を押されるのだ。 そう考えると唐の「一作目を作風的に成功させてトンズラ」 これはエラク正しいものだと思える おそらく商業的に失敗した事もあっただろうし 元から「これ一本だけ」という感じだったのかもしれないし ただの状況劇団の宣伝だったのかもしれないし やっぱり「オレは舞台だよ」を悟ったのかもしれないが ともかく舞台、TV、そして映画と「伝説だけ」を残し去っていく 虚構・俳優人としての完成度は見事である。唐の名誉は堕ちることを知らない。 1976年度キネマ旬報ベスト10でベスト11位。 (これはすごい事です。かなりの好評価です。) 本作の「男の格好良さ」に「ギャグ」に「アングラで舞台的な世界観」に そして「映画的な盛り上げ」・・・ここまでの最高をやってくれれば一作だけで十分なのだ。




開巻、根津が売血場の前で水道ホースから水を飲み、通行人に突っかかってゆく。 この水道水を飲む男は唐さんにとって、重要な戦後の原風景のひとつなのだそうです。 『魔都の群袋』に収録された「斧としての終末」というエッセイ、その冒頭にこういうくだりがある。 「青砥の売血場に栓ぶっこわれて流れっぱなしの水飲み場がある。 どうしてだろう。飲みたくないのにそこに口を当てて馬のようにがぶ飲みするのは――。 物腰というのは妙だ。血を吸い取られたあとだとこんな具合に、いたわるように、体の中に水を流し込む。 そんな時、僕は体とは袋だなあと思ってしまうのだ。」 魔都は東京であり、袋は人間です。魔都の群袋とはつまり、東京の群衆を意味している。 自分を含む人間たちを、唐さんは水を入れる袋の群れと認識していた。 実は、この水道水を飲む男は少女仮面にも登場しています。演じていたのは不破万作さんで 延々と水を飲み続けていたそうです。そして、この舞台で根津甚八が大きく飛躍し 唐さんは岸田國士戯曲賞を受賞したのでした。 水道水を飲む男が、唐さんの作劇上の最も重要なモチーフのひとつであることは間違いありません。 それを象徴するシーンを、初映画監督作品のオープニングで、今度は根津に演じさせたのです。 この映画のラストシーンでは、根津がドブ川に顔を突っ込み、顔を上げたところで ストップモーションになる。最後に、根津の顔のまわりで水飛沫がきらめく。唐さんはこう解説してくれました。 「泥の洗礼を浴びても、泥の中に潜っても、虚構空間の中にバッチリ印象を刻み込む、ということですよね。 そういうふうに理解してください。あのシーンには、ぼく自身もずいぶん影響を受けました。それはいまでも残っています」 根津甚八(2010年)


  ヤロォーッ!! パンフ

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