安藤昇の扮する近藤という男は、朝鮮戦争のときに学生で、アメリカ軍の死体処理のアルバイトを沢木と一緒にやっているが、 韓国で死体集めをやればもっといい金になると聞いて韓国に渡る、そして、二人で一緒に韓国人の家に押し入り、 沢木が強姦しようとして争って殴って仮死状態にさせてしまった女を犯してしまう。 朝鮮戦争の時のこの経験の後、近藤は女を抱く気になれず、自分が屍姦(のつもりだった)した女の記憶に魅せられたかのように、 韓国から女を密航させて日本で働かせるために、韓国と下関の間をモーターボートで往復する人買い家業になっている。

唐十郎は演出意図と題した文章で、この人物について次に様に述べている。 「狭くも広い日本列島を見渡したところ、わたしには勇気を背負ったこの歴史の落とし子ほど典型的な人物はありません。 町にフォークが流れ、恋人たちが合いをささやいても、それらはすべて虚構であり、嬉々として悪魔を伴れ歩くこの男の胸の裡こそが、最も魅力的な現実なのであります。」

まさにこの近藤は、韓国との関係において典型的日本人ということになるであろう。 屍姦とは、和姦や強姦にもあり得る相手との愛想こもごもの心の交錯がなく、その快楽は荒涼たるものであろう。 朝鮮戦争の時の日本の韓国に対する態度がまさにそういうものではなかったのか。 あの時の日本は、韓国を愛してもいなければ憎んでもいなかった。韓国のことなど、どうでもよかったのである。 ところが、たまたま戦争が起こり、彼らが打ちのめされているところへ、 まったく手前の得の為だけで乗り込んでゆくことが出来、彼らから歓迎も拒絶もされなくて、一方的にうまいことをした。 それがいわゆる特需景気だった。近藤が李に対してやったことは、まさに、朝鮮戦争の時に日本が韓国でやったことであった。近藤は実に典型的人物と言える。 が、しかし、このことは、このストーリーが日韓関係の諸要素を一人一人の人物に象徴させた国際関係の絵解きの様なものだということでは全くない。 近藤が李を犯してインポテンツになったということは、おそらく、 彼が罪の意識に捉えられたという事であろうが、だとしたら、彼の方がよほど、日本国家全体よりも、よほど良心的なのかもしれない。 だからハムレットのように、悲劇の主人公であり得るのだ。

平気でやってしまえるのは沢木であり、沢木こそは妓生パーティーに象徴される日本人代表そのものであろう。 近藤は、以後、自分が犯した屍の怨霊にとりつかれたように、自分が破滅の淵に引きずり込まれてしまうまで、韓国女性たちに対する加害者であることをやめることが出来ないのだ。 中途半端な良心を持っているとこういうことになってしまうのは、父の非業の死の復讐をせねばならぬと思いながらぐずぐずしている内に、次々とエルシノア城内の 高貴な人々を殺害し続ける羽目に陥ってしまうハムレットと同じことである。その中途半端な良心が招いた加害責任の決着をつけるために、 最後に自分と同じ穴の狢ともいうべきものと大立ち回りをやって壮烈なくたばり方をしなければならない所までハムレット的ではないか。 近藤の弟分のような若者田口と李孝順の悲恋はロミオとジュリエットだ。出会った瞬間からもう恋が芽生えているかのような二人だが、彼女が 日本に密航してきた目的が母を殺した日本人への復讐の為であってみれば、容易に結ばれるはずもなく。 最後はロミオとジュリエットの墓穴の仲ならぬ、どぶ川のヘドロの上での死者を抱きしめての号泣となる。 この映画で、映画的に一番成功しているのは、李孝順と根津甚八によって演じられるロマンスの部分だろう。

この映画には、ドタバタ喜劇的な趣向も盛り込まれているし、大メロドラマ的でもあり、本格的な悲劇の趣も含まれている。 政治的、思想的なドラマの要素も盛り込まれ、いろんな要素をごたごた混ぜ合わせたせいか、 エピソードとエピソードの間がストーリー的にうまく繋がっていないようなところもある。 日本と韓国の問題、それを象徴する玄海灘と、モチーフとテーマはガッチリ捉えられているが、 そのモチーフとテーマをめぐって、様々な人間がどう自分を主張してゆくかということを、ある程度まではほとんど点でバラバラに主張させるのだ。 てんでに自分を景気づけるようにして自己主張をするなら、あるものはメロドラマ的、あるものはドタバタ的、あるものはアジテーション的となって収集がつかなくなるはずであるが、 あえてその、収集の就かないような局面を臆面もなく作り出すようなところにこそ、なまじつじつまの合っているリアリズムのドラマにはないリアリティも生まれてくるはずである。 その混沌たる世界の作り方において、この映画が全面的に成功しているというワケではない。残念ながら、ドタバタの面はもう一つ調子が乗っていない。 脚本は石堂淑朗が主に書いており、いくつかの情感の細やかなシーンは石堂淑朗の才能が大いに貢献していると思うが、 ナンセンスによる景気づけとか、セリフによるイメージの喚起という面では、赤テントの激情の醸し出す活気に及ばない。

「この映画は悲惨な話でしょ、しかし、悲惨な話、トラゴディアをブルーな色合いで魅せてはいけないというのが、ぼくの考えなんです。 悲劇は、ロマンの極彩色で魅せなければならないんです。 映画をご覧になってもらえばわかると思うんですけど、私は非常にプラトニックな人間じゃないかと思うんですけどね・・・ 例えば、女性のうろんな肉体ってのが、すごく嫌いなんです。女性のぴちぴちした太ももと言ったものにすごく目を奪われる作家がおるでしょう。私は正反対なんです。 そんなもの、はやくすぎてほしいんですよ。といってインポテンツなんじゃなくてね。」

生き返った李礼仙が、安藤昇を追って包丁を投げるシーンがある。テストでは、その包丁が海の中に落ちたのに、本番では見事なくらい、安藤の肩に当たった。 もし、あれが安藤の頭に当たったら、どうするか。「東映でもあんな怖いことはしませんよ」と、あとで安藤昇が言っていたという。 続いて李礼仙が橋から川に飛び込むシーン。さすがに李は怖がっていたので、天草四郎が一度上から飛び込み、 若いものに棒くいはないか、と調べさせたそうだが、それでも危ない実演だ。 こんなリアリズムのダイレクト演出はまだまだある。痩せ男の二枚目、根津甚八が、ガラス窓を蹴破って逃げるところをホントにやらせたものだ。 しかし、根津はファーストシーンのホースをまくところで、競馬場帰りの群衆が本物の喧嘩と思いブリキ板を掴まされてなん針も塗った。 また、最後のどぶ川を腰までつかりながら来るシーンでも、泥の中に沈んでいた自動車で、足を切りなん針も縫っている。 あのどぶ川で、仰向けに使っている李礼仙は冬の終わりでかなり寒かったが、唐十郎は、何ら同情的な言葉を吐かなかった。 それよりあの泥水は、女性にとって、大変に危ないらしく、3,4日、李礼仙は、体の工合がおかしかったと、後で言っていた。 便所は後楽園のトイレを使った物で、もちろん、撮影する前には、よく掃除して、その上に小便の色に近いオレンジ・ジュースをまいた物だが、 根津甚八は平気で、そのトイレのツボに、顔をこすりつけている。 ここで根津と格闘する鬼馬二の刑事の役は、初めは藤田敏八がやるはずだったが、さすがに敏八は恐れをなして、降りたという。 宍戸錠に言わせると「こんなバカな映画の作り方をしている奴が、いま、まだ、いたんだね、これは地獄だ」とホメたんだか、ケナシたんだかわからん言葉もある。


戻る
inserted by FC2 system