やぶにらみの暴君
               1952年 ポール・グリモー 作  

やぶにらみの暴君



ポール・グリモー監督によるフランス初の長編アニメーション巨編。 1952年、まだ未完成だった作品を資金回収のため、共同製作者アンドレ・サリュが「やぶにらみの暴君」として勝手に公開するやいなや 世界的に絶賛を浴び、日本でも当時国内トップの知識人の集まりだったキネマ旬報ベスト10の6位に押されるなど、半端じゃない好評。

 

1967年、「やぶにらみの暴君」に納得していなかったポール・グリモーは、裁判により作品の権利とネガをGET。 80年に「やぶにらみの暴君」から大部分のカットと、新規のカット20分ほどを足し、ストーリーを変え、音楽、声優を変えた「王と鳥」を完成。 フランス他、世界的に評価されるも、日本では「やぶにらみの暴君」の影響が凄まじすぎたため、圧倒的不評。


「やぶにらみの暴君」・・・ジブリの高畑、宮崎がほれ込んだ魅力はどこにあったのか。  

まず「やぶにらみの暴君」の魅力は、無骨さにある。センチメンタルもストーリー性もクソもないが、その為に感情のブレがなく、シンプル。 シンプルだからこそ、フランス作画と、その世界観と、音楽だったりが100%活かされる。それが独特の詩情を生んだのだろう。 淡々とした凄味がそのまま詩情へ。これを60分に詰め込む。魅力の塊というワケ。


 

映画でいったら「酔いどれ天使」なんでしょう。ストーリー性もクソもないが、エモーションで勝負する。 では「王と鳥」はどうなのか。まず、新規作画の陳腐さ。 若手のアニメーターではかつてのようなフランス味と「鬼気迫る楽しさ」を出せる天才アニメーターがおらず 年代的にも80年・・・やはり52年部とは浮くし、なにより凄味がない。 そして、センチメンタルに溢れているが詩情はない。 あげく風情のないセンチメンタルのため、非常に安っぽいのである。安直安易。これもまた80年という新しい感覚のためだろう。 52年「やぶにらみの暴君」の無骨な魅力は、技術もさることながら淡々とした詩情が大きいと書いた。


 

それはアニメーターの情熱だったり、戦後の死臭だったり、52年という時代だったり・・・ なんにせよ時代が作らせた奇跡的なムードによってなしえたものである。 「王と鳥」は前に前に出していくフィーリングの為、非常にハリウッド的なのである。 ラストの「考える人」も陳腐だし、叩いた手にも「やぶにらみ」のような哀愁がない。ただの手なのだ。 音楽はどうか。「やぶにらみの暴君」は娯楽的で「王と鳥」は芸術的だ。 52年の娯楽的な音楽の方が絵に素直である。それにより高質なシーンが活かされている。 そして、これまた時代がかったスコアがそのまま凄味になり、1つの神話として完成されている。 しかし「王と鳥」は何度も書いている通り、前に前にセンチメンタルを出し過ぎているため、ある種 作為的な感慨が目立つのである。感動してくれと。いい曲なんだけど、素直さが違う。

日本の業界人は、グリモーの魅力というのが「やぶにらみの暴君」にある無骨さだと思って、賛美したのだろう。 しかし彼の本当にやりたかった「王と鳥」は甘っちょろい感傷映画だった。極端すぎる変化。 前者が好きな人が後者を好きになるはずがないのだ。 アニメーションは淡々とした方がいいんじゃないか。70年代ぐらいまでのアニメーションの凄味はそこにある。 ここ20年のアニメーションは濡らし過ぎだ。淡々としたムードのが、やはり日本人には合っていると感じる。 そして淡々としたムードとは、意図的に作れるものではないのだ。 戦後の死臭がまだ残っていたからこその枯れたエモーションである。ここ20年でその残り香が完全に失われてしまったが・・・。


 

「やぶにらみの暴君」は、技術だけを見ても純度100%の高密度ぶり。「王と鳥」は混沌としてまとまりが薄い。 日本のアニメーターが「やぶにらみの暴君」を見て感動したのが分かる話。 ディズニーのアニメーションもすごい。しかし、彼らのアニメーションというのは余りに「自然さ」というのを気にしすぎて 動きにメリハリがない。それはリアルではあるが、アニメとしてはつまらないという言い方も出来よう。 それを考えては本作の、アニメーションを託されたキャラクターたちの一挙一動。・・・すべてが楽しい。 ワンダーバードのしぐさ、部下が逃げ回る動き、ロボット、なによりコウモリ男の羽ばたき方。


    それに加えて立体感。上から下絵、後ろから前へ。アニメーションに要求される視覚スペクタクル効果の極めつくし。          

これは高画質で楽しみたい。 しかし、悲しいかな「やぶにらみの暴君」はグリモーにより封印されてしまった為、誰かが流出させたアメリカ吹き替え版を 海賊版として楽しむしかないという始末。しかしながら、画質が悪くともすさまじさは理解できるはず。 なんにせよ52年という凄味が大きい。絵に死ねる、芸術に死ねる、そういうことをマジメに豪語していた世代が作った作品である。


 

本作を観た宮崎駿は「こんなもんがあったのに 当時本作を観ていた他の連中は何をやってたんだ!」とブチぎれたらしい。 これは国内だけでなく、フランスへの怒りもあったんじゃないか。 悲しいかなフランスアニメというのは結局個性を成立させることができなかった。後続が出なかった為であろう。 「ファンタスティック・プラネット」は娯楽というよりアートだったし。 ソビエト(ロシア)もそうだった。「The Tale of the Priest and of His Workman Balda」が完成していれば 世界のアニメーションが、今とは全く違った形として存在していただろうと断言できるほどの個性があった。 結局アメリカと日本だけが残ってしまった。 しかし「やぶにらみの暴君」は今でも凄まじい魅力に満ちている。 淡々としたトーンとコメディ、妙な恐怖、そこから出る詩情。これは時代が作らせた絶対的名作であろう。 ポーランドの「灰とダイヤモンド」と対になる、後続が出なかったからこそのマスターピースなのだ。




詩人ジャック・プレヴェールとシナリオを競作したこの長編は、アメリカ漫画映画の影響の全くみられない 完全に独自のスタイルと感覚で演出された、ほとんど類例を見ない長編アニメの金字塔である。 この作品一本をもってグリモーは、アニメ史に不滅の地位を確立した。 独裁者圧制などへの切込みの鋭さには、ナチス占領下の歳月を身を持って体験した作者のしこりや判断の確かさがうかがわれ、 しかもこの種の作品の陥りやすい観念的な展開を巧みに避けている。風刺は厳しく、しかも詩情にあふれ、優雅さとモダニズムが見事に同調している。 様式面にも、思想面にも高度の美学と哲学を持った傑作であった。しかし、この傑作は多額の製作費のため赤字となり、ついに未完の大作となった。 ラストシーンは唐突なハッピーエンドであり、登場人物全員がとった記念写真という形の、動かない一枚絵で終わっている。 「やぶにらみの暴君」は52年のヴェネチア映画祭で審査員特別賞を受けたが、やがてグリモーはアンドレ・サリュと衝突。 ジェモー社は分裂。グリモーは再びCFの製作に戻った。 67年発表の「王様と鳥」と題された長編は、この未完の傑作のラストシーンを15年ぶりに修正保管、完成したものではないかと思われる。 フランス動画界最大の巨匠である。


――岡田英美子 1976年

    シャルル十六世の時代のこと、と不思議な鳥――ワンダー・バードは話しはじめる−−。   「この映画は皆様の娯楽のためのもので、登場人物はすべてフィクション。」 「ウソです、そう言えと命令されたので・・・問題にしたくないのです。この話は真実です。完全な真実です。」 「そこにいたころ、城の頂上に巣を持っていました」   「人々は王を嫌っていた。王の趣味は銃だった。我々は分かり合えなかった。」     ワンダーバードの妻は王に射殺され、墓下で眠っている。   タキカルディ国王シャルル十六世は生来のやぶにらみ(斜視)。それに暴君。気に入らない家来を、落とし穴で殺していった。 今日も捕えた小鳥を的にピストルの腕前を試そうとするところ、親のワンダー・バードが飛んで行って危うく救け出した。 ワンダー・バードは王をからかうことが何よりも楽しい。         王は1999階のメカニックなプライベート・アパートに住んでいた。   王は額ぶちにいる羊飼い娘を愛していた。そして煙突掃除の少年を嫌っていた。         「初恋はなによりも素晴らしい 春のように 甘く優しい 初恋とは 物乞いにも 王にも 同じこと」     王は自分の容姿が嫌いだった。 ワンダー・バードにからかわれ、姿見を破壊したのち、宮殿の最上階の寝室に入って寝てしまった。     夜ふけて額ぶちの中の羊飼娘と煙突掃除の少年が動き出した。二人は愛し合っていた。   しかし、羊飼娘に邪魔な恋をする王様の肖像画が気づいて捕えようとし、若い二人は煙突から逃げ出した。   肖像画の王様は本物の王様を例の落とし穴で殺し、本物になりすまして警察に羊飼娘の捜索を命じた。     一方屋根の上で夜を明した若い二人は、またも罠にかかった小鳥を救って親鳥であるワンダー・バードと仲よしになった。         しかし警察の追跡をうけ、ワンダー・バードの応援に助けられつつ二人は逃避行を続ける。   「ワンダー・バードと叫べば いつでもやってくる」 最初の追っ手は二人を逃がし、王の手で、落とし穴により殺された。   一人残された家臣は何とか助かったが、王の飼い犬により散々な目に遭った。   二人は博物館にいたが、またも追手がやって来た。     たくさんの追っ手、博物館館長、アニマルボート、こうもり男。                 ワンダー・バ―ドがその囮になるも、かいなく地下街に追いこまれる二人。     そして王様の操縦する巨大なロボットに捕えられてしまった。     ワンダー・バードの入智恵で羊飼娘は王様の妃になる約束をし、少年を救おうとしたが、 王様はワンダー・バードと少年をライオンの檻の中へ入れた。     しかし、ワンダー・バードは得意の弁舌と盲目のアコーデオン弾きの音楽でライオン達を手なずけ、 王様と少女の結婚式場へライオン達をひきつれて襲った。       王様は少女を連れてロボットの頭上に逃げたが、 ワンダー・バードはロボットの操縦者を気絶させて自ら操縦し王の城を破壊した。       夜になった。羊飼娘と煙突掃除の少年はロマンスの真っただ中だったが、生きていた王が二人を狙う。       しかし、ワンダー・バードの機転により、王は天空高く吹飛していった。           こうしてタキカルディ王国に平和が甦り、少年と少女は結ばれた。       ・・・

本作は純度100%と書いたが、その為にかなり見疲れるのは事実。 なので本作の一つのピークが階段を駆け下り、コウモリ男登場までなのだろう。


 

実際追いかけっこという意味でも、展開でも、作画でも、劇伴でも、あそこが一つのクライマックスなのである。 そこから地下世界に入る。サングラスをしている盲人。本作のおもしろい点は、中世的な世界観ながらも モーターボート、ロボット、機械仕掛け等々、ギミックが現代的だったりするところだろう。


             

ワンダー・バードの端的なおもしろさからもわかる通り 古臭い作品ではなく、現代的なフィーリングをも大いに取り込んだからこそ、魅力的だったのだ。 ただの童話ではないのである。一つのシンプルな型をこうまで魅力の塊に仕立てた例は少ない。 ある意味、黎明期だから出来上がった作品である。 童話を現代的なフィーリングに仕立てる、それを大真面目に、情熱かけてやる。黎明期だからこそ。


 

ワンダー・バードの暖かみはディズニーとはまた違った優しさである。 どう違うかと言われると・・・うーん。ただ、苦しみを知っている分、優しいっていう優しさでしょうか。 フランス的苦しみが活きているということなんでありましょうか。 アメリカの優しさってのは、そこまで苦境ではないからか、意外に乾いたように見えるんだけど 本作のワンダー・バードってのは、親でもあるし、妻を殺されているし、うーん、本当 アニメにしかいないイイキャラなんだよな。ある意味でアメリカのアニメってのは等身大なのかもしれない。 アメリカ人自体がぶっ飛んでるから、だからアメリカそのまんまのセンスなのかもしれない。 でもワンダー・バードは、やはりフランス的でもない、単なる優しさの塊・・・わかんねー。


  1952年のムードとして、ロボットの雰囲気が異様である。不気味である。それが妙な緊張感をもたらす。     ロボットが街を破壊する。本作はその走りであり、迫力も半端じゃない。       それは遠近法だったり、そういう見せ方のうまさだろう。特にラストの城破壊の場面はアニメでこその場面。       遠くから見つめる破壊の恐怖。ロボットの不気味な暴れ様。夢で見る感じの場面。   そして夜。   ロボットと、吹き飛ばされる王様。全てが終わり、廃棄されているロボット。    

淡々とした詩情はこんなところに出る。劇伴もいいのだろう。「王と鳥」は音楽がダメだった。 あと、ロボットが歩いてくるときに盲目の男が歌いだす、詩劇的演出としてはあれがピーク。あれはいいな。


 

作画的な見どころとしては、全編見どころだけど、 落っこちないようにチロチロ移動する家臣とか


  コウモリ男とか、   (見得を切る) 逃げ惑う二人の影とかね。この影はすごいよな。          

あとは見せ方だったり、階段を降りる下りは本作を象徴するところでしょう。 それと王様の顔が立体的に流れていく場面とか。  


      ああいうのがセル画の醍醐味で、思想の魅せ方なんだね。

そして絵の中の二人。彼らは成長しない。何故なら絵の中の存在だから。絵の中にいる人々は永遠にそのままだ。そういう示唆。   だから彼らはワンダー・バードに救われるばかり。それでいいのだ。 そういう意味では、子だくさんの世話焼き鳥、ワンダー・バードこそが本作の主役なのだろう。


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