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『トカレフ』、拒絶志向の俺
1年1本のペースで映画を作ってきたが、「トカレフ」は一度撮影が延期になったこともあり、「王手」までとは違った取り組み方になった。
大和武士から電話があった。「いま、ニュース観てました?」子供が殺されたが、裁判で無罪になったというニュースだった。「俺だったら自分で殺しに行きますよ」大和はそう言った。それをヒントに書いたのが、『トカレフ』だ。
大和の愛憎は彼の少年期からのものだ。少年院時代は自慢にはならないが、そんな愛俳優業の中で表現してほしいと思った。溜めずに昇華してほしいと思った。
いわゆる社会派ドラマの意識はまったくなかった。復讐劇というジャンルへの興味と、極力台詞を削って描くという試みだけがあった。
あとは、佐藤浩市だ。彼が、「コンビニエンス・ジャック」で久しぶりにスクリーンに「帰ってきた」ころだった。
そして、俺はまだ一度も関東を舞台に映画を撮ったことがなかった。それをやる。場所や風景というテーマもあった。
自分を受け入れてほしい。周囲を拒絶したい。ふたつの思いがぶつかって、「トカレフ】になった。
佐藤浩市の台詞は、当時の俺の拒絶意識を表しているかもしれない。「笛を吹いても、踊ってくれなかった」。たまたま、ロケの前日に泊まっていた成田のホテルで、聖書を広げたら、出てきた言葉で、それを書き写しただけだ。
大和を、復讐する側にキャスティングしてから、その復讐の相手をずっと探していた。
レンタルビデオ屋に行って、「コンビニエンス・ジャック」を借りて観たら、浩市がすごくよかった。客に媚びない、冷たさがよかった。これは俺が一方的に感じたことだが精神的な「欠損」や「歪み」、そしてどことなく彼の「閉じた」雰囲気に共感を覚えたのだ。
当初の予定から撮影が1年延びたので、浩市にも1年待ってもらった。1年のあいだに、映画はガラッと変わった。最初に書いた長いシノプシスは、もっとわかりやすい、もっと明快なものだった。1年間延びたことによって、意固地な部分が強化され、「わかりにくさ」のほうに傾いていった。いや、傾けていった。それは、俺にとって「客を信じる」ことだった。
後ろ向きに全力疾走。そんな気分だった。
俺は、「トカレフ」のような映画でデビューしてもよかったのかもしれないと思えた。「王手」が終わり、1年くらい時間が空いたせいで、「この仕事を続けなければ」、あるいは、「映画監督とはなんぞや」などということを、あまり難しく考えなくなっていた。その時間が、リラックスさせてくれて、リラックスした分、何かもう一回、非常に個人的な趣味の世界をやりたい、そういった気持ちに落ち着けたのだと思う。
もうひとつの自分。それまでの3本で表していない、もうひとつの「私個人」が残っていた。「自分自身が閉じている世界」を、ある種、正直にやってみてもいいのかなと思えた。「トカレフ」の大和武士も完全に俺の分身だし、佐藤浩市も完全に俺の分身。
笑いが起きる現場ではなかった。
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に参加したとき、「トカレフ」の是非をめぐって、観客のあいだで友情が壊れたという話を聞いたことがある。「認める!」「認めない!」と、ふたりは夕張の飲み屋で大喧嘩したらしい。そこまで拒絶反応が激しかったら、映画として喜ばしいことだ。「わからない」という反応ではなく、「嫌い」なら「嫌い」とかハッキリ言われるほうが、作り手としては受け入れられる。
もし、「トカレフ」が処女作だったら、2本目はなかっただろう。4本目だからできたのだ。「こういうものはめったに作れない」と思いながら作っていたし、このテイストを続けるつもりもなかった。しばらくのあいだは、こういったテイストのものを作らなくてすむように、覚悟してやった。
「トカレフ」で俺は、また「空っぽ」になった。