第一期の終わりが「トカレフ」だとしたら、第二期の終わりは「顔」だ。
 そして、今度は新・仁義なき戦い。」を撮ることになった。「仁義なき戦い」のリメイクなんて、キツイに決まっている。深作欣二さんの「仁義なき戦い」を、僕にどうしろというのだ。せめて題名だけでも変えてくれとお願いしたが、もう無理ですと、東映に断られた。
 それならプレッシャーを一緒に担ってくれる主役を探そう。豊川とは一度、大阪が舞台の映画をやりたかった。彼は大阪人だ。まず、彼に加わってもらって、「勝ち」を探ろう。
 次に、布袋寅泰を、みんなで思いついた。直接会って交渉した。「僕、昔からトラヤスさんのファンだったんです」と、口説いた。トラヤスじゃないトモヤスだ。額に血管が浮いているのが見えた。後日、OKをもらった。
 ここまできたら、よっしゃ、まず、前作を平均身長で勝ってみよう(笑)。
 豊川悦司、布袋寅泰、松重豊......。189センチや190センチの身長の人間を集めていくと、キャスティング全体に対してもだんだん贅沢になる。哀川翔が欲しい、沢仁志が欲しい、佐藤浩市には是非、岸部一徳さんにも当然のごとく出てもらわなくては・・・・・・
 東映京都撮影所では仕事をしたことがあった。「二代目はクリスチャン」という映画で井筒和幸さんの助監督として、ひとりだけ東京のスタッフとして行った。「新・仁義」のときも、そのときお世話になった美術さんを指名した。覚えてくれている人もいた。「あー、あんときのヤツかー」「そうです!」。
 生まれて初めて撮影所にセットを組んだ。
 志賀勝さん、佐川満男さん、余貴美子さん・・・・・・いま考えても本当に豪華な顔ぶれだ。
 群集劇は初めてだった。脚本は高田宏治さんにお願いした。「全員を描こうとしたら、群集劇は失敗するよ」。高田さんは教えてくれた。
 自分なりにいろいろ「決め事」を作った。ある種の条件がある作品の場合は「決め事」がいくつか必要になる。それも、「これはしない」という「決め事」だ。「これをしたい」では駄目だ。「こうしたい」ではどんどん欲が広がるばかりだ。「これはしない」を決めなければいけない。
 ヤクザ役は全員、ダブルのスーツをやめた。ネクタイも柄ものをやめた。基本的にダーク・トーン。下手したら銀行マンに見えるくらいの衣裳にした。スーツは全部シングルニつボタン。三つボタンは佐藤浩市だけだった。さらに浩市はサングラスかけっぱなし。目の芝居を封じた。信じていたからだ。『新・仁義』の豊川は、「傷天」の豊川とは明らかに違っていた。僕も、あのころの僕とは違っていたと思う。仕上がったあと、彼は「初めてカッコよく撮ってくれましたネ」と嫌味っぽく言った。やっと、あんたのことわかってきたんや。僕は心の中で言った。
 そして、布袋寅泰が作ったテーマ曲は、後に『キル・ビル」の音楽となって、世界へ出た。

東映京都撮影所の、プレート

「二代目はクリスチャン」のときは、撮影所のスタッフによく皮肉を言われた。「僕、東京から来たんですけど、大阪人なんです」「なんで大阪人のくせに東京行ったんや」
 東京での撮影は、エキストラプロダクションに所属する人が通行人をやる。だが、京都の撮影所では大部屋俳優さんがやる。大部屋さんには「そこのメガネの人」などという言い方では動いてくれない。全員、名前で呼ばないといけなかった。俳優で、必死で前を覚えた。
 笑える話も笑えない話も、色々あった。
 東京に帰るとき、拍手で送ってもらった。涙が出そうになった。その映画の最後のラッシュを見てから帰る予定だった。その試写室で、上映を始める前に、チーフ助監督が言った。「阪本、明日帰るんで拍手で送ってあげようや」
 みんなの前に出て挨拶したら、本当に涙が出そうになった。
 撮影所は「中に入る」と本当に温かいところだ。
 そこに、今度は監督として来たのだから、感動した。「阪本組」というプレートがあった。ペーペーの時代に働いていたその場所に、自分の名前のプレートがかかっているのだ。
 東映京都撮影所の中にスタッフルームがあり、そこに自分のプレートがある。
 古典的な撮影システムの中に、「自分の部屋がある」という感慨は、初めてスタッフについた映画のクレジットに自分の名前が出るのと同じぐらいの嬉しさだった。
 僕の名前が最初にクレジットされたのは「爆裂都市」だ。美術助手と、編集助手として、2回名前が出てくる。
 そのとき、「一生残る」という思いがあった。
 自分の目指す業界に「片足の親指」ぐらいはなんとか突っ込めた感じがした。
 「阪本組」というプレートは、それぐらい嬉しかった。


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