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俺ビビりだから、体の不調があるとすぐこれは癌じゃないかとか思っちゃって センチになって親のこと考えたり、涙が出たりしたんだけど、急に天啓みたいなのが来てさ 世のなかの唯一不変の本質ってのは「生まれて、死ぬことしかない」ってことで つまり何歳で死ぬとか、何をしたかとか、誰と会ったとか、実績、生き様ってのは 実は意味がないんじゃないかってのが頭の中に入ってきたんだよね。 それから急に、死が怖いどころか、死を待ち遠しく、否、楽しみになった。 何故かって理屈で考えると「生まれて、死ぬ」ってのが本質・・・つまりは人生のメインテーマってことで その間の問題、つまり上に書いた様々ってのはオマケに過ぎないんだと だから、世の中に難しいことって実はなくって、ただラフに俺を死(テーマ)に委ねればいい・・・ 半分はこういう感じだったと思う。でもおそらく天啓だから、膨大な情報のコアだけが頭に展開した状態で 残りの部分ってのは、後付けで思考していくしかない。 で、天啓を理屈っぽく展開していったんだけど、ある程度は、理解できる話になったと思う。 これ、感覚の問題なのか理屈の問題なのかわからんけど、100人に一人ぐらいは分かるんじゃないかな。 大切なキーワードとしてすわりのよさ、ってのが出てくる。
世の中で絶対と言えるものは生まれて死むことしかないんじゃないか。 その他に絶対はない。どんな文化も価値観も、すわりがいいから流れて発展していっただけで絶対じゃない。 死=悲しいってのもそう。いつの時代も悲しいだろうが濃度が違う。 本質的に死の悲しみは30%程度でいけると思う。しかし、昔々の人間は論理的思考ができず価値観が一方通行だったからか 死の悲しみを意識的にかまたは無意識の内に増長させ、今では90%程度にある。 だからこそ死=恐れ、怖いという概念が確立しきってしまって、死というものは泣き、病み、苦しいなるイメージが出来た。 そしてだからこそ、生だけに目を向けた文化が成り立った。死は悲しいというすわりのよさでもって。 生だけに目を向けた文化だからこそ、生だけを大切にする。 つまり生への執着的な映画や文学も、いわゆる生だけに目を向けた文化からだと言える。 もっと言えば、この世で何かを掴む、執着するっていう生き方・エンタメもまた、生だけに目を向けた文化から発展したのだ。 確かに、そういう生への圧倒的な執着なんかには感動するよね。 でも、そこから外れたらどうするか。 いわゆる映画やニュース、メディアがいう勝利者・・・社会的なアイコン、タレントになるでしょ、何かを獲得した人々。 そうじゃない奴は、一般の人々であり、無名の大衆であり、ハエであり、色のない有象無象にすぎないと。 つまり一部の人間はとってもハッピー、そのほかの多数派は微妙な気持ちに終始する。 これが今の生だけに目を向けた文化、価値観による一部の勝利者、多数の敗北者、という歪の構図だ。 そしてそういう歪は生死の問題でも適用されてしまったわけ。 生まれて年とって高齢者になって、死ぬ。今の社会の基準。人間はこうあるべきという基準。 確かにすわりはいいよ。だって多数の人間はそうだから。これがスタンダードってのはおかしくはない。 でも、絶対的なモンじゃない。だって高齢者になるまでに死ぬヤツがいるんだから。 途中で病気事故事件なんかで死ぬやつがいるわけ。 そんな生だけに目を向けた文化の中で、そのすわりのよさにかまけて派生した長生きこそ最高、という 多数派から転げ落ちたら、いわば普通以下という烙印が押されるわけだ。 つまり可哀そう、哀れ、悲惨、絶望、涙、刻苦。 これひどくないか 哲学とかインテリジェンスとか抜きで、俺たちは死ぬために生きてるわけじゃないすか。 だって生まれた生き物はいつか絶対に死ぬから。もし不老不死ができても地球や宇宙の死により死ぬでしょ。 だから生きて、死ぬ。この関係は絶対不変のもので間違いないし、大事にしなきゃいけない。
ここで確認すると、死とはゴールである。じゃあ生きることはマラソン、という言い方もできる。 ならば、ゴールは喜ばなきゃいけない。 そう、ゴールなんだ。突き詰めればゴールのためにマラソンはあると言っていい。 なのにゴールするために生きて(走って)死んだら(ゴールしたら)悲しむ...おかしいわな。 もちろん悲しまないゴールもある。でもそれは大体が高齢者になって、という多数派の形だけ。 それ以外は絶対に悲しまなきゃいけない。90%の濃度で。 簡単な問いだけど、死はゴール、その前提で、 「どんな死でも喜ぶべきか」 「条件つきの死だけ喜ぶべきか」 どっちが正しいと思うか。いや、どっちがいい世の中になると思うか。 答えは決まってるよな。どんな死でもゴールはゴール、無条件に喜ぶべき。 ここで最初に戻るんだが、この世の絶対というのは 生きること、死ぬこと、これしかないんだよ。 だから
いつ死ぬとか、 誰と会ったとか 何をやったとか、 何の意味もないの。
そう、実は俺たち人間の文化なんて、生と死の絶対からすれば、なんの関係も、意味すらない。 だって、すわりのよさ、が無意識に増長して文化・価値観に派生したというだけで 今の、まあ昔からあるけどポリコレとかの思想変容からわかる通り、人間ってなんでも適応できる生き物なんで 絶対的ってのがない、つまりどうとでもなるから。 ヴィ―ガンよろしく肉食反対ってのも理解できるし、肉食肯定ってのも理解できる。そんなもんよ。 俺たちって実は前に後ろに思想や価値観がいってるんじゃなくて、右左にゆらゆらしてるだけなんだよね。 良いこと、悪いことってことも、すわりがいいってだけで、絶対じゃない、揺れてる。 だから、多数派からこぼれ落ちたら不幸になるのかというワケじゃないんだな。 その従来のセオリーもまた、変わるんだから。 だからこそ、文化・価値観がいくらでも変容できるのなら、 今の生だけに目を向け、死=悲しいという文化・価値観もまた変容できる。 そうとも、そろそろ俺たちは、生だけに目を向ける文化・価値観から手を切り 生と死の両方に目を向ける生き方へ変えていくべきなんじゃないか?これを言いたかった。 生だけ見て死に目をむけないというのは、言い換えれば現実逃避なんだよね。 だって死も現実なのに見ないってのはおかしいし。 だからいざ死がくると、精神が落ちこむ・・・やっぱり歪だと。間違っているワケだよな確実に。 死に目を向けない、ってのはそれを肯定的に見ないとか、ゴールとして受け入れていないってことなんだよね。 死に目を向けないことにより、生もまた楽しめないという状況がある。 今までは半端だったんだな、生そのものが。だって死と併せて生なんだから。死のない生は生じゃないんだよね。 死もまた半端だった。でもこれからは違うワケだ。ちゃんと生と死を見れれば、立派な人生ですよ。
それにやっぱ、生だけしか見ない文化・価値観では損する人間がどうしても出てしまうし、勝ち組負け組という歪すら出てしまう。 (歪は死生観にまで及び、人間の死という名のゴールすら条件を設けて否定してしまう最悪の結果が訪れてしまった。) しかし、世のなかには生きて死ぬことしかなく これだけが絶対で、他のことは実はオマケにすぎないという文化・価値観なら、みな平等になれる。 だって能力があろうとなかろうと、早く死のうがなんだろうが 絶対視すべきは「生きて死ぬ」という誰もが何もせんでもクリアできることだけしかないんだから。 そしてその世のなかになれば今より10倍は楽しく生きていける。 メインテーマは何もしなくてもクリアできることは保証されてるんだから、合間のオマケをどう楽しむもよしってことでさ。 今じゃ生こそが幸福、死こそが不幸だから、逆に生が非常に湿っぽい、重苦しいものになってんだよね。 でも俺、いやもうこの時代、重苦しいのより、俺個人は軽くいきたいんだよね。 走るのならある程度軽くいきたい。生と死が前提の文化・価値観になれば、 もっと生に対しても死に対してもフランクに付き合えるんだよ。 だって、そういう前提になれば、みんなもっと楽しくなるように考えるでしょ。すわりのよさでもって。 そう、死が怖いってのは理屈・理論、または感情でも思考を制御できなかった昔の人たちの発想であって 今の、ある程度頭の回るようになった人間たちからすれば、もっと自由に、すわりのよさでもって 明るくハッピーな発想に変えていけるんだよ。人間がすわりのよさから逃れられないのなら、それによってよくしたいじゃないすか。
確かに生と死しかないから何やってもいい。でも収集つかなくなると楽しく生きてはいけない。 楽しく生きていくには、ルールが必要だ。 そしてそれは基本的に法律とか宗教とかでない形で行われるべきなんだよ。 悲しいことに、個々人が理屈とか理論とかで考えられなかった時代に、 社会を落ち着かせるため法律と宗教ってのが生み出されてしまい、それが本質を覆い隠してしまった。 つまり、宗教で言えば、個々人を納得させるための道具として天国や地獄という概念を生み出してしまった。 何かをすれば天国、何かをすれば地獄、という方程式により、この世は生と死しかないという絶対からズレてしまったんだね。 この世でいいことをすれば死んだ後良いところにいけて、悪いことをすれば死んだあと地獄に落ちるという すわりのいい考え方が普及したことにより、 いいこと、悪いこと、といういくらでも変わる概念が法律を超え、そのまま死生観につながってしまったんだ。 悪い例を挙げると、酒を飲めば地獄、虫殺したら地獄、人を殺したら地獄、親より先に死んだら地獄、自殺したら地獄 という風に、生への制限が普及し、生きる上での枷になってしまっているんだね。 天国地獄という極端なペナルティを設けることにより人間を制御するってのは昔だからわかるが、今には合わないんじゃないか。 少なくとも宗教ベースのこの枷は、誰かが得し、誰かが損するという事態を今世にも招いてしまった。 例に挙げた後者3つなんかは個人ではどうにもならない環境なりがあったりするワケだけど 人に嫌な思いをさせのし上がり、殺されずに生き延びた奴は得をし 我慢できずに殺人を犯したり、病気になったり、精神を病んだら、損をするという 宗教が逆に、新たな不幸を生んでしまっているワケだよ。
本質のずれが起きてしまったんだね。
もう俺たちは、ある程度、自分の頭で考えることができるフェイズには来ているんだよ。 屁理屈だけかもしれないけど、でも複雑なことを考えられなかったころよりましかな。 だから、俺はそろそろ、人間はそこに行ってもいいんじゃないかと思う。 法律とか宗教による本質を隠した枷から突破する。 ここをクリアし、収拾できれば、人間ははるかに楽しくなる。 死と生しかないっていう文化・価値観になることによるデメリットは まあ従来の文化・価値観による生き方やエンタメだったりをちょっとだけ理解しずらくなるということから。 生き方でいえば、今みたいに生のみに執着しているからこそできた芸術とか仕事とか、 そういうものに対しやる気がなくなるから、そういう執着による成果が出にくくなるとか。 エンタメで言えば火垂るの墓みたいな死=悲しさ、みたいな芸術的フィーリングもまた 「うーん、どう死んだとか、何歳で死んだとか、そんな気にしなくていいだろ。」みたいなもんでさ。 もち、上に書いたように、やたらめったら殺しちゃいかんって前提からしたら、彼らの死は不幸かもしれないけど しかしそれは集団の不幸なんだな。 だから別にいいんだよ人殺しても。殺すべきヤツはいるかもだ、分かるよね。 でも人間は賢くないから、悪い奴は殺していいってなったら、やたらめったら 殺す範囲が拡大して、収集つかなくなるから、この世は生きるのが大変になるよね。 別にいいんだよ自殺しても。でも人間賢くないから、早く死ぬことだけがベストだっていう思考に終始してしまうから大変。 確かに個人の死は平等だから祝福するべきだけど、やたらめったら殺しあったりして 道端に死体がゴロゴロ転がるってのも、またすわりのよさが極端にいきそうでダメなんだよな。 死の悲しみ=0%ではいかんのだ。 俺が望むのは死を怖がらない、不幸にしないというはもちろん、 今の10倍は良い表情して生きていけるということでね。 だから個々人が、ぎりぎりの線引きを意識して、コントロールできれば最高だよな。 そしてもう、その時は来ているんだろうと・・・。
俺の望む死の悲しさって30%なんだよね。つまり、失って悲しい、というより 例えると、子供のころ友達と遊んで、帰る時間になって、友達が帰った時の喪失感なんだ。 家族の密、情もまたすわりのよさにより息苦しいほどになっている感がある。 それはそれで大切かもしれないけど、じゃあ失う段になって、あまりにしんどいのも、嫌だな。 死ってのは、マラソンで例えたがゴールだと。 そしてそのゴールは人により場所が変わる。80年走る奴がいれば、20年走ってゴールの奴もいる。 生まれてすぐゴールの奴もいる。そしてそれでいい。 いっしょに走っていたやつが、先にゴールを迎えた。 まだ走ってるやつは 「あー、あいつここでサヨナラか、ちょっとつまんなくなるな」 ゴールにたどりついた奴は 「あー、もうゴール?早いな、まあ楽しかったな」 俺が望む死の悲しみ30%の世界。冗談でもなくってさ。 俺たちの世界の絶対は生と死しかないから。 つまり、俺たちの任務、メインテーマは、生きて、死ぬことしかないんだから。 だから死ってのは救い、ってのは宗教的だけど、任務終了ってことだから、やっと終わったぜ、みたいな。 だからさ、よくさ、癌とか難病とか、あるじゃん。で今の生にしか目を向けてない文化・価値観の社会からすると みな「絶対直さなきゃいけない」ってなるじゃん。映画とかでも闘病ものとかあるけど。 その執着ってのはこれまた生にしか目を向けない結果からくる「この世で何か残さねば」っていうところなんだろうけど なんていうか・・・しんどいわ、見てて。京都大学で白血病で死んだ子いたけど、重すぎる。 軽くいけとかじゃなくて、ああいう悲劇的、刻苦、悲しみってのは、俺はやっぱり歪だと思う。生にしか目を向けない文化・価値観による害毒だな。 病気になったら闘病しなきゃいけないし、死にたくない!とか、嫌ですねえ。 そのすわりのよさが無意識の中でエスカレートしていってる現状。 生の文化の中で、生だけを褒めたたえる内容のエンタメ『成り上がり・闘病・勝利・長生き・実績・死への哀愁』が大量生産されることにより このエンタメ時代、つまりエンタメに全身どっぷりと浸り、人生の指針にすらしてしまう現代人は ますます生だけに傾倒し、その結果、生の基準からこぼれ落ちれば絶望しか感じられないという、この歪の構図。 我々は世間の生の文化・価値観から外れないようびくびくしながら生きることになっている。 だから、逆に生きにくくなっているんだよな。枷になっている。 無意識にすわりのよさだけを賞賛することにより、自分を追い込んでしまっているんだね。それに気づかない。 自分で自分の首を絞めてるんだ。それを無意識でやってる。 やっぱりさ、生まれて死ぬ、それだけが人生のメインテーマ・任務なんだよ。他はオマケなんだよ。 だから早めに難病になったら、「え、もうゴール?早えな」とかでいいと思うんだよ。 その方が確実に生きやすくなる。楽しくなる。ハッピーになれる。 だって今の人間が笑顔を失いしんどさを感じるのは、将来への不安・・・端的に言えば死への恐怖だから。 しかし死への恐怖ってのが、この生と死しかないってのでなくなるんだよね。俺はなくなったよ。
上にある理屈で言えば 死=悲しいってのは友達と別れる寂しさであって、今のやばいほどの悲しみってのは 喪失感というすわりのよさから増長しすぎた文化・価値観の歪な感情だと思うから だから死ってのはそれほど悲しくないし、だからこそ怖くないんだよ。 天国地獄っていうのも否定したしね。 人間がすわりのよさってのを絶対視した結果生まれた産物だけど、何度も繰り返すけど この世界には生と死しかないんだよ。あとの善悪とか良し悪しってのは後付けの概念に過ぎない。 だから「善悪とかの複雑な概念がこの世界にあるんだからあの世にもあるんじゃない?」みたいなとこで生まれたんだよ天国も地獄も。 でも複雑な概念もコロッと簡素な概念に変わるだろうし、概念自体なくなるかもしれないからね。 絶対=生と死。だから仮にあの世があっても、すげー簡素だと思うわ。 この理屈でなくても天国も地獄もないってわかるわな。 だって生まれって選べないでしょ。場所だけでなくって 生まれの遺伝子とか、脳内物質とか、あらゆるものが選べない。 そら、金持ちの育ちのいい場所に生まれれば犯罪を犯す率は低いですよ。 そら、貧乏またはヤンキー世帯に生まれれば犯罪を犯す率は高いですよ。 で、生まれは選べないワケでね。じゃあなにかと、生まれた瞬間天国と地獄が決まるのかと。 バカらしいですよそういう意味で。
今まさに生だけに執着するのはやめようって言える理由の一つとして その生だけに執着する生き方により生み出された文化・価値観が限界点に達した・・・言い過ぎだったら「飽和した」ってことなんだ。 もう散々色んなものが出てきたけど、これ以上いらないだろってぐらい溢れてるもんね。 溢れることでおぼれるように、急かされるように生きてかなきゃいけない状況も生んでいるワケ。 基本20世紀まで、アナログ時代のフィーリングだと思うよ。
死ってのが楽しみなんだよね今。癌告知されても怖くないね。いや、これはすごい思想だぜ。 宗教じゃない、強がりでもない、理屈・理論でも感情でも、正しい思想だもの。 俺、本当、10年以内にこの思想は流行ると思うよ。
人間、一周して、死は怖くないってとこへ戻っていくんじゃないすか? 動物は生と死しかないよね。人間も、生と死しかなかった、本当の昔はね。 でも、徐々に知恵が生まれて、知性がはぐくまれて、複雑なことを考え始めた。 その結果、世の中ってのは複雑怪奇で難しい場所なんだという発想が出来て 宗教という理屈により、皆の唱える複雑怪奇をそのままあの世に直結させた天国地獄etcが誕生した。 でも今、個々人がより頭を回すことができる時代、逆に世の本質ってのは生と死でしかない という真実にたどり着いたということで、この世が単純ならあの世も単純だろという次第で 死んだ後の恐怖もなくなり、今この本質の中で軽く楽しく明るく生きていけばいいじゃんということだよね。
宗教ってのは、個々人がまだ理論めいて思考できなかった頃の産物であってさ 社会が無茶苦茶にならないために天国とか地獄とかいう極端な概念を作ったんだよな。 それこそ選択肢としての地獄なんてさ、昔だったら問答無用そのものよ。 つまり思考する必要もない絶対的な存在。A=地獄行きなら、Aは人生の選択肢としてありえない、みたいな。 でも今じゃ地獄の種類も増えて、全体エスカレートして変なことになってるもんね。 宗教ってのは世界最高のエンターテイメントだったことは間違いない。 世界で求められ、それぞれの地域ライズされ、天国地獄の条件も違ったりする。 その中で今、個々人が理論めいて思考できるようになって、屁理屈なんかも覚えてさ 虫殺したり酒飲んだり嘘ついたりで地獄ならもうみんな地獄落ちるんだからやりたい放題やるべとかさ。 まあそれなりの生き方してたら、世界のどこの宗教みても、絶対に地獄に落ちるってことだもんな。バカらしいわな。 宗教もまたエスカレートしすぎた。 だから一時代の産物に過ぎないんだな。もうそこから突破していいもんね。
生と死だけが絶対だと書いている中で、じゃあ生と死を生み出す生殖装置のありようも絶対じゃないかと。 そういう機能は各自絶対に持たされているワケで、それは動物でも植物でも同じだと。どんな生命も持っている仕組みだしね。 だからよく言われる人間の人生=子孫を残すこと=生殖器を使うために生きる=自分を磨いたりとか、ということで じゃあ生と死の間にある人生はおまけじゃなくて、本編じゃねえかと。 とそこまで考えたんだけど、しかし生殖能力は年齢により制限があるわけだろ。 生まれた瞬間、生殖行動がとれますかと。答えはノーだ。 じゃあ絶対じゃないワケだよ。書いたように年齢による変化や気づきってのは課長になったらとか部長になったらとかの その時に処すればいいだけの事柄であって、絶対にこなさなきゃいけないことじゃないんだよな。 だから生殖行為を持たされたワケでなく、生殖器を持たされただけなんだよ。あとどう使うかは自由であって、その時その時に処すればいいんだと。 そういう意味じゃ、生まれた瞬間に死んでも役目は果たしてんだ。生殖器は持ってるだけでオッケーすね。
生まれて死ぬってのが人生の本質ならば 間でなにをやろうが、起ころうがどうでもいいんだろうが それでもやりたい放題やりすぎると、 結局、みんな怖がりながら生きるという本末転倒が起こっちゃうからね。 まずこの思想の前提は、今より10倍楽しく生きていくってところなんだから。 そうじゃなきゃこんな思想考えないし、伝えようとも思わんしな。
俺が世界の統治者になったら、死は尊いぞ。だから喜べ。 でもすぐ自殺したりするなと。精いっぱい生きろと。そのうえで死にたかったら死ねと。 そういうね。
先の話に連続するかもしれないけど、やっぱり今は、生きることと死ぬことの意識が乖離しすぎてほとんど躁鬱状態にあるな。 生きるっていうすわりのよさにかまけて極北までいってる。生100%だな。 で死ぬときは、当然死100%になる。生100%から死100%、この差異がしんどいな。 だからやっぱ、もうちょい死を身近においた生にできないかと。生70とかでもいいワケでね。 どうしても癌告知とか難病告知、余命告知受けたときみたいなショックがさ、クソデカくて、しんどいんじゃないすか。 生100から死100という飛躍がね。 でもそれなりにあるケースだからな告知ってのは。そういう場面にあう確立はあるっちゃあるワケで、それに対応できる精神、社会をね。 で考えると、やっぱどうしても社会制度から何から生100%ありきの仕組みなんだよな。 保険でも労働でも学校とか、会社、お金・・・生ありきの一本の流れだと。生に頼りきりというか。 そして未だ、死ってのはイレギュラーなんだよな社会は。それはやっぱりいかんね。 考えたら建物もそうなんだな。家の中、あらゆる場所ってのが生ありきなんだよ。 で病院の怖さな。死100%の空気、匂い、色、見た目、空間・・・。 建物自体も極端だ。俺はな、もっと死を身近に意識させる、死がイレギュラーでない社会にすれば 生も死もそこそこに躁鬱みたいにならずに済むと思うんだな。 まずは病院をもっとアナーキーというか卑俗な場所にするところから始めるというのは・・・。
死がイレギュラーってのがおかしいんだよな。死が当然なワケで。 自然災害でも病気でもなんでも起こりえるワケなのに。 死=悲しい、ショックってのが、まあすわりの良さなんだろうが、いかんね。 死をイレギュラーにするってのは現実逃避の産物なんだ。よくないよくない。