戻る
製作者鈴木敏夫「良い意味でも悪い意味でも若さがある」 駿&高畑「よく頑張った。感動した。」 米林監督「女性に見てもらいたい!」 女性社員「女の子同士のギュっていうのは抵抗がある」 男性社員「印象に残るセリフは全部ネガティブなものだけ」 総括してウンコ
思い出のマーニー
2014年 米林 宏昌![]()
思い出のマーニー
この作品との出会いって、鈴木敏夫のドキュメンタリーなんだよな。 鈴木敏夫の宣伝屋とかキャッチコピーとか、そういうのに密着した番組で、本作の試写が行われてたんだな。 そうしたらさ、そのチームみたいなのが試写終わった後、葬式みたいな面持ちなんだ。 もう面白い作品では絶対ないワケ。かといって心に深いものを残す深刻なヤツでもなさそうなんだよ。 「なんていったらいいんだろう」みたいな。困惑してんだよ。鈴木ですら「うーん」みたいな感じなんだ。 で、鈴木敏夫が「女性向け映画だけど、女性はどう?」って何人かいる女性に聞くんだけど 全員引いてるっちゅうか、無言なんだよ。で「こういうのはちょっと」みたいなこと言うんだよ。 もうこの時点であかんなと思うわけ。で、その後もテレビCMとかネット上で版権絵とかたまーに目にするじゃない。 すでに面白そうじゃないし、キャラに魅力もないし、辛気臭いイメージを持っていたわけ。 絶対に見るはずのない作品ですよ、でもな、俺もあの、ここ昨今の作品がいかにどうしようもないかばかり書いてきたろう。 ちょっとは今に合わせる必要あるなって思って、観たんだ。まあ、あの番組みたいな雰囲気ですよね。 一言でいうと、生きてる人間が一人もいない。ジブリ、駿や高畑が最も嫌いそうな テンプレステレオ描写、なのに絵はジブリっぽい。居心地が悪かった。 頭よさそうなのに実際そうじゃなかったみたいな苦しさと言おうか。 挙句、主人公とマーニーの交流はキモすぎとしか言いようがないのであります。 あれね、心に染みた結果もう観なくていいとかでなく、うんざりしきってもう一回観れば十分という奴。 これは正しくリトマス試験紙だ。 難なく観れるやつか、俺みたいにきついきつい言いながら苦行のように観るヤツ。もち、後者がスタンダードだ。
「思い出のマーニーは」似非ジブリ作品の一つだ。まずジブリの雰囲気ってのは、もう道徳の教科書というか すでにお堅い感じで、気軽さがない、それを製作側も求めてしまっているのか。 端的に言って、もはやジブリの絵や間、感覚ってのは「説教臭い」そのものになってしまっている。 それを説教臭くしなかったのが、宮崎駿の複雑かつ深い理論を越える 『生々しさ、センス』だった。 知的ロボット高畑勲に青春を捧げ、何十年も理論に理論を重ねてようやく監督になった男。 そこからも日々勉強。もとよりすごかった男がさらにすごくなった。その磨き上げられた理論を超える センス、欲望。この究極の右脳と左脳がジブリ映画に理屈とエンタメを共存させ、最後にはエンタメが勝つという娯楽作品に仕立てた。 彼の究極に矛盾した部分を解消するのがあの絵柄だったのだ。テレビアニメのように色がどぎつく目がでっかくとかでない、 もしかすると教科書的、道徳的な落ち着いた絵柄・・・理論、それに加えるフェティシズム・・・感性。 これでジブリの、説教臭くない あの究極の画面が完成するのだ。それも千と千尋までだけど。 しかしハウルから絵が完全に死にに行って、説教味が増してきた。それはデジタル制作というのもあろう。 あの宮崎駿タッチってのはやっぱアナログだよな、温かみとか、セルだから表現できる「生きた」ムードだった。 千と千尋は2001年21世紀元年の作品だ。ギリギリ残っていたアナログ感覚 そして駿に残っていた欲のカスがあの作品を最後の生きた傑作にした。 そして今、だ。宮崎駿はアニメ界を指して「オタクばかりになっている」と語った。悲しいのは、ジブリスタッフもそうだということ。 残念ながら宮崎アニメ自体がもう、美少女ファン多数だったりするんだわ。もち、そうじゃないやつもいるだろう。 でも、わざわざ熱中し、アニメ―タ―になる・・・アニメ監督、今アニメ界にいる60手前ぐらいまでの野郎の顔。 ほとんどがオタクのそれ(顔)なんだ。アニメ界入る奴って基本そうなんだ。ジブリもそうなんだ。 もっと言えば駿自体がその手の顔だったから。もち、もっと硬派だけども。 そら、彼が青年のころには美少女アニメなんてないから。マジにアニメーションの可能性を信じ もちろん美少女も好きだけど、なんかすごいことやりたい、そんな硬派な奴の顔がたまたまカエルっぽかっただけで・・・ 駿が何を考えてたかは問題じゃない。でもやっぱ基本、男のジブリファン=アニメファンなんだ。そしてジブリにイカれる男の興味の対象は もち雰囲気あるだろう、しかし何よりも美少女なんだ。挙句わざわざジブリの美少女描写にほれ込む、どう考えても そのフェチシズム的には駿ばりなんだ。 つまり、駿ほど理論も理屈も勉学もないけども、彼レベルに欲望がある連中ということ。 ちょっと毛の生えたオタクなわけだ。それにすぎない。だからこの作品はジブリっぽいものにしかならない。 理論も理屈も微妙で、あげく絵もハウル以降の死んだフィーリング、間や感覚も。なので説教臭い雰囲気だけ。 しかし道徳アニメにもなりきれない・・・ネチョっとした感性が駄々もれ。結果、エセジブリ作品に仕上がっている。
だから駿前後世代のアニメ監督はすごいワケ。オタクじゃないから。押井守ぐらいまでじゃないすか、アニメファンじゃないの。 駿が珍しいのはあの世代で明確にアニメやりたいからアニメに来たって人だから。あの当時でアニメファンだし、ばりばりに。 それも娯楽アニメでなくて芸術アニメとかで来ている硬派ですよ、硬派。 本作の監督米林はジブリファンゆえアニメーターとなった。ジブリファン・・・。ナウシカ以降ということだ つまりばりばりのアニメファンなのだ。それも軟派の。ジブリ=硬派なんて違うよな。高畑ならわかるけど。 宮崎アニメ=軟派なんだ。いいことだ。それは説教臭くないと同義。上に書いた通り。 でも軟派アニメにイカれる・・・やっぱオタクなんじゃないか。断言するよ、ジブリスタッフの男の9割型が 駿の思想とかでなくて美少女どうこうできているんだ。それ以外ありえるか?駿に従事=アニメファンだ、オタクなのだ。これは断言できる。
「米林世代の宿命」 米林より上の世代からそうだけど、やっぱコピーのコピーのコピーのコピーの世代なんじゃないすかね。もう伝統芸みたいにやっている。 でもなぜそれが伝統芸なのかって理解していない・・・みたいなね。その技みたいなのを「間を持たせるだけの技術」と勘違いしているとかね。 例えばヤクザの演技しろっていったら、もう東映ヤクザの仁義なき戦いのマネするみたいな・・・今もそれあるでしょ。 70年代の映画だけど、80年代の時点で色々言われてたわけ。例えば優作とかに。「役者にヤクザの演技しろっていったら、東映かどっかで覚えてきたそのままをするんだよな」 オリジナルをやった世代は何かをつかんだ、納得したからその芝居をしたんだろう。でもそれをコピーした世代が、彼らの納得を理解できていたかと言えばそれは分からない。 それが何度も続けば、そら、中身何もない、それっぽいだけの伝統芸になるんじゃないすかね。 お茶、茶道もそうでしょ。もうそれっぽいプライドの高そうな、お茶がまずくなりそうな雰囲気の輩が色々しているわけだ。 固定概念か。茶道=厳格。それすら何十代ごしのコピーだ。伝統芸。ほかにもあるぞ、特に俺が言いたいのは落語だ。 若手とかいるじゃない、そいつらのやる落語、わざとらしすぎて笑える。これこそコピーの悪い部分だよ。昔だから合う話し方とかを なぜ今なおやるのか、今の時代には今らしい話し方とかあるんじゃないのか。なんで昔の流行のやり方そのままで今もするかと言えば 上に書いた通りだな。わかんないワケ。なんで伝統芸なのか、なぜかって。だからこれからも意味のないコピーが続くんじゃないすかね。 で、変な信者がついて「これはこういうもの」みたいなね。「わかんないやつは素人」みたいに閉じていくんじゃないすかね。 本作もそういう匂いを感じたな。だから本作でジブリ製作部門休止みたいにしたんじゃないすかね。もう劣化コピーにしかならんだろうと。 あのジブリの絵柄はともかく危険だよ。演出も。取り違えたら説教臭くなるし、わざとらしくなるし。やっぱ駿でしか扱いきれねえ。
「思想抜きで人間を語れるか」 時代を迎えるごとに人間薄くなっていってますからね、それは知性でもそうだろう。もう高畑とか駿とか ああいう世代の分厚さってのは身につけられないんじゃないすか。本読むことが流行りだった世代だし、アナログだし、今より開放的でしょ。 そういう分厚い世代がアニメ時代とか、漫画とかいろんなエンタメを芸術の域まで上げたんだろ。 で、それに乗っかって徐々に薄くなっていく世代が入ってきて、基準値が下がってきて・・・マーニーはそれを端的に象徴する作品だと思う。 ガワのマネはできるがってことかな。こういう風に書いてきたらだんだん絶望してくるんだけど、正しい絶望もたまには必要だ。
見てて入りこめないのはつらいぜ。どのシーンも「それっぽい」にしかならないんだ。そう感じちゃうんだよ。 ハッタリだな。ハッタリの連続なんだ。 俺が思うのは、駿にしろ高畑にしろ、理論理屈、いわば思想をもとに作品作るワケだろう。 だから、ある意味で思想映画なんだジブリ作品は。で、思想映画と言えば山本薩夫とかの社会派監督だ。で、彼らの 思想映画の何が面白いって、まずその思想部分がガッチガチに固まっているのが前提。このシーンの理屈、キャラの心情、やりとり すべてがガチガチの思想内からきている。つまり映画のすべてに裏付けができて、だからこそ余裕が生まれる。その余裕が思想映画としてのエンタメを加えさせる。 それができるヤツが少ないから薩夫映画は社会派で、かつ偏っていながら面白い。 そして山本薩夫の最高傑作「皇帝のいない八月」の面白さは、上に書いたことからくる予想外の何かが起きたこと。 薩夫も駿も撮影の中で臨機応変に流れを変えていくってのは一緒なんだけど、薩夫は右をバカに描いて左を正義に描こうとした。 思想をガチガチに固めたうえで。 しかし結果、監督本人も認める通り右の方が目立ち、かつ正しいことを言っている風に完成させてしまった。 そしてそれを俺たちは楽しめる。監督の意向はもちろん、完成品を見ても、どちらの思想も理解できてしまう。これが思想エンタメの面白さだ。 思想を固めまくったからこそのある種の破綻なのだ。ジブリ映画にもたくさんの、こうした破綻があるんじゃないか。 そもそも思想、イデオロギーってのは両極端だから、右の方に振れてしまっても、それは我々が現実的に納得できる現象として残るワケ。 それは裏付けがガチガチだから。 思想がガチガチとは、現実の感覚をそのまま持って鑑賞できるということだ。 現実の感覚とは、右も左も理解できるということだ。右にいこうが左にいこうが納得できる説明が作り手も観客もできるということだ。 端的に言えば、俺たちが生きている世界と同じ常識が根付いているということ。それが分かるということ。 思想=社会に生きる人間の、あまりの幅の広さそのものだ。 ジブリ、もし駿や高畑が言おうとすることの逆に観客が受け取っても、それはそれで一つの考え方として受け取れてしまうわけ。 例えば高畑の火垂るの墓な。高畑は清太を責める人間が多いことに愕然とした。それと一緒。そして、監督の言わんとすることも、 清太を責める人間の気持ちも俺たちは理解できる。感情でも理屈でもな。それは思想がガチガチだから。生きているということだ。 駿映画のテンションは高い。それは薩夫と同じように臨機応変に流れを変えていくライブ感覚があるから。 そして、そのハイテンションを裏付けするものがあるから、ただ滅茶苦茶に破綻するのでなく、思想エンタメとして一本筋が通って納得できるんだと思う。 この作品がエセジブリというのは、その思想が固まってないからだと思う。ハッタリだけだから。ハッタリだけじゃジブリじゃない。 筋があやふやだということ。現実の感覚をどうひねくりまわしても付いていけないとか。 駿とか高畑作品は重箱の隅をつつくようなレベルまで考えまくった結果の思想の固まりだから、だからこそ、ようやく全盛期ジブリができたって考えたら、そらあの二人以外にできるかって話だな。 千と千尋のラスト、なんで両親が分かったかを疑問に思わないのは、というか思わせないのは、アニメーションを見る際に最も大切な要素「感性」を大事にした作風ということもあろうが 何よりも裏付けがしっかりしていたから。ガチガチの上で遊ぶんだと。ここだな。マーニーは乗り切れなかった。なぜか。俺たちの世界とリンクするところがないから。そういうことなんだ。 ジブリの絵にしろ演出にしろ80年代後半、魔女の宅急便が一つのピークだったんじゃないか。 でも色々変わっていくだろう。結果調和が消えたんだな。このマーニーをするには余計なものを取り込みすぎたんじゃないか、それも感じたな。 魔女の宅急便時期にこれをやっていればもっとね・・・。でもジブリは以降どんどん政治的な方向に向かう。 そういう頭でっかちを取り込んでしまったってこと。地に足つけて扱える人間がいればよかったんだろうけど・・・。 駿とかあそこらへんが異常なだけで、やっぱ人間一本やるぐらいが精いっぱいなんじゃねえか。 庵野も異常なほどに自分の痛みに敏感な男で、それをそのまま作品に転換したからエヴァだけが何となくわかる作品になったんだろうな。 近藤喜文は絵の演出はいいよな。でも脚本が駿だからな。どのレベルまで行けてたのか分からないな。 俺はやっぱ断絶してると思う、才能は。俺が言うまでもないか、センスとか脳みそは、天性のもんだな。追いつけるもんじゃないな。 だから俺は、人間ってのはすべて神的な何かにそれぞれ役割を持たされた存在なんだと思うな。 石器時代の人間がなぜにコンピューターを作ろうとまで考えたかと。「天才」ってのは人間を越えずに発展させるためのアリバイみたいなもんだろ。 少なくとも米林はうまいアニメーターではあるけど、感じさせる絵は描けないんだ。 脚本は人間の存在が見えてこないんだ。演出も大雑把なんだ。それが米林だ。悪いやつじゃないよ。でもそういう才能を持たされたんだな。 彼の存在ってのは、ジブリアニメーター=ヒューマニズムじゃないことの証明でもあるんだな。 俺ジブリスタッフは全員ポスト駿みたいに考えてたけど、それは違うということが分かった。
「ネチャっとしたただのコピー絵」 ともかく鼻についた部分、きつかった部分、そら、散々書いてきたような部分+ジブリ的な上滑りセリフとか・・・ 何よりも、米林らスタッフの絵なんだな。一番の売りかもしれない。でも絵にカリスマとか、デカさがないんだよ。やばいな、こうも違うのか駿たちと。 それ考えたら近藤はよかった・・・。 ともかくな、動きが変なんだわ。ぎこちないとまでは言わない。 でもいわゆる宮崎駿が1985年に言っていた「若いアニメーターが軽く軽くいこうとするところ・・・」がそのまんま出てんじゃないか。 だからジブリ、じゃなくて「ジブリっぽさ」になっていると。ジブリ=理屈理論9割、でもそれを超える感性・・・ていう絵だろ。 でもこの作品はなんでそういう動きになっているのかという理論理屈がない、若者が軽く軽くいこうとしている、そのまんま出ているというかね。 思考でなくフェチ丸頼りみたいなのな。つまりね、そこら辺の美少女アニメと変わらないんだよ、絵の感じが。それがジブリっぽいにつながっている。
そもそも俺2010年辺りから出てきたハイビジョン的な絵、つまり細い線の、線の細い、シャープとかじゃなくて、ふわふわしたような絵の感じな。反吐が出るほど嫌いなんだよ。 そういう絵に、昨今の京アニとかさ、まあ何でもいいけど、繊細な動き?でもリアルなんじゃなくて、リアルっぽいヤツ。 あざといヤツだ、私可愛いでしょって動き。このサイトで腐るほど書いてきたけど、もうあれだな、キャラの動きとかにさ、アニメーターとかのネチャッとした部分が見えちゃうんだよ。 新ドラ映画のしずかちゃんみたいなやつな。きもいんだよ、分かるだろう。従来のスカッと爽やかな感じでなくて、ネチャネチャした湿度高い感じのばかりなんだよ。 マーニーはそれなんだ。緻密なジブリの感性でなくて、もう考えずにそれっぽさだけを追求したって感じか。で、上にうるさいやつはいないしな。 ジブリ美少女ファンが駿に縛られずやった美少女アニメって感じか。そう考えればジブリっぽさとか、でも限りなくジブリじゃないってのもわかるわな。 (こういうのが欲しいんでしょ その1) 庵野からそうだし、新海とか細田とかそういう絵の連中だろ。でオタクだろ。顔見りゃわかるわな。きもすぎねえか。米林もそうなんだ。 新世代全員ネチャっとしている。で、彼らは駿辺りの作家に憧れているんだよ。話方とか見ればわかる。作家的に話そうとしたりしているが 結局エロいの描きたいとかいうの優先ってのが分かるんだ。実際そうなんだ、見えるんだ。駿みたいなせめぎあいが出てこない。なんだかんだ言って 駿映画って美少女だけに終わってないんだよ。フェティシズムとか。フツーに見たら、そんなの要素の一部ぐらいにしか思わないワケ。結局書いた通りの厚みの断絶だな。ここに書いたように。 いわゆる手塚治虫が連呼していた、ただぬるぬる動くだけの「フルアニメーション」に、萌え的な浅いあざと可愛い描写を加えただけなんだ。 駿ジブリにあったような・・・考えに考えた結果の「見ればわかる爽やかな自然さ」はないんだ。 食事シーンとかも。すごいイライラしたんだ。卵とか。ジブリっぽいねって。でもマジに言わせてほしいのはさ、もともとのジブリのあの食事シーンとか ああいうのは大見得の、言ってしまえば押しつけがましいシーンなワケでしょ。ここすごい素晴らしいシーンでしょ、みんな見てくれよっていう。 駿の食事シーンとかが許されてるのは、大見得でも、そのまま素晴らしいと思えるから。流れと浮いてないから。 本来ジブリアニメの様々な演出、涙とか食事とか様々ってのは大見得も大見得ですよ。押しつけがましいものなんだ。でもそれを不快と感じないのが 駿の厚みある思想だったりそこからくる描写だったりセンスだったりするわけだ。ここもまたガワだけマネしたら、そらただ押しつけがましいだけの不快さしか残らんわけだよ。 俺は思うんだが、やっぱり駿の言う通り人間嫌いの奴がアニメ界だけでなくエンタメ業界に集ってきたってことなんだろうな。 つまり人間すきなら、あんなきもい絵で人間を描こうとしないだろうということだ。美少女アニメですと開き直ればいいんだろうけど そうじゃないからな。真面目なジブリ的作品ですみたいな意識でやってるからな。ジブリじゃないけど。まあ、悪く言えば意識高い感じの奴だ。 ここ2、30年、泣く怒るとか、ドラマの中に入ってないんだよ昨今のは。あまりにもな。その要素だけが独立してしまっているんだよ。 実写でもひどいからな。泣くシーンだけが異常に浮いて、演技も独りよがりだからノイズにしかならねえ。 つまり感情の流れをかけない。人間に興味ないから。だからポイントだけ置いていく、要所に。なので話や顔は繋がっているけど、感情は見えない。 でも駿の魔女の宅急便でキキがトンボと仲良くなっているのに仲間と出会ったら機嫌悪くなるシーンとか、ナウシカの アスベルに異性的に意識しているのかあんまり心開いている感じしないところとか、まあどんな映画でもそうだけど、心情が理解できるわけ。 で、中でもトトロでサツキが泣き出すシーンとか、完全大見得の大泣き芝居なのに、まったく浮かず、そらそうなるだろうと、ナチュラルですよ。こういうのが本物ですよ。 そして、ジブリの涙シーンは千と千尋あたりから涙がでっかくデフォルメされているんだけど、そこにも理屈なり理論があったうえでの描写なんだろう。 本作も泣きの場面たくさん入るんだけど、ただなぞっているという感じでね・・・泣きにもついていけないし、描写もついていけないし、やばいな、良いところあんのかよ。 それに、駿はいくら異国風と言っても日本的な情緒ですよ。アクションの一つ一つが日本的な繊細さだ。ディズニーのようにひん剥いたりしない。 それが日本を代表するアニメーションってのは嬉しいね。そしていくらアクション、かつてのルパンであっても、駿のでなくても日本的な情緒だったな。 あざとくない、顔がバカでも地に足ついている。 どんどん絵が細くなって、写実的な、デフォルメの苦労もない、線を増やしたら絵がうまい、迫力がある、心理を表現できている という流れ・・・顔芸の世界。今はもう顔芸しかないんだ。それに若者は熱中している、らしいんだ。それが日本らしい。クールジャパンだと。 うっせぇわとかいう知性の末路みたいな曲のpvとかな・・・なんでこうなったんだろうな。感性、センス、エンタメの姿よ。 マーニーもまた、というかジブリ映画なる本作もまた庵野や新海細田的な人間不在の絵、顔なんだ。 顔、こういうのな。
こういう顔いつからなんだろうって、たぶんハイビジョンからなんだろうな。 ハッタリ効かせた顔。今の世代には通じるかもしれないダウナーな顔とか。でも中身なんにもない顔なんだ。 言ってしまえばアホの顔だ。何が嫌いなんかな。口元とか、目だな。口と目が気に入らない。なんでこういうあざというというか 繊細「風」のどや顔が流行ってんだ。そら、センスがもうないからですよ、今は。受け手もね。お約束の『俺』以外はね。 みんな顔死んでるし。義母とか祖母とか絵描きとか、みんなそういう偽善の顔してるんだな。 実写もそうだな。ここ10年出てくるアーティストとかの顔、みんな「自分だけが苦しんでいる」みたいな顔してるもんな。ドヤ顔。 一言でまとめると、マーニーにはカラッとした繊細さがない。つまり日本の半分な。ジブリはどこまでも繊細だった。絵も中身も。日本以外ではできない作品だ。 でもマーニーは違う。外人が日本映画を作った時の、精神の理解の欠如を思わせる、それだ。
「ジブリは日本最後の桜だったのか」 マーニーは、日本的な情緒を最後まで持ち合わせていたジブリはもうないんだという証明である。 そして日本人とは、身も心も西欧ライズされ、東洋の良いところ全部捨てて、これからはそういう勝ち目のない勝負をすることになるんだろうと。 精神論だのなんだの。東洋人が西欧人に勝とうとした結果の独自性も全部非合理だと投げ捨てやがって。 その結果が西欧より体格の小さな東洋人、当然体力も少ないだろう、そいつらが、スタイルも悪いそいつらがズボンとかはきだして 髪染めたりして、必死こいて西欧、白人のマネをしようとするが勝てるワケなんかがない。 東洋の美学や繊細さに西欧は納得したのに、それも全部捨てて、白人、西欧のものまねしかできない。二番煎じしかできない。 もうそういう時代なんだ。アニメも実写もエンタメは西欧白人のイミテーションのみだ。心すら東洋を捨てやがった。 もう俺たちは過去のバリバリの東洋の遺産を後生大事にするしかないんだ。 駿世代のよさって、何か失敗したらもしかしたら腹でも切るんじゃないかと思わせる緊張感だよ。それは世代ごとの厚みにもよるんだろう。 もちろん高畑も駿もするワケないと思うんだけど、でも40代50代のときのあいつ等は作品のためなら死ねるとか本気で思ってそうだったよな。 そういう人間か世代か、ともかく今、緊張感がまったくないんだよ。 なんだかんだ言って高畑も駿も非合理な東洋を否定したいが、結局否定をしたくないという人間なんだ。それが染みついたものなんだ。 世代としての死臭ということだ。 でも昭和35年以降の人間にそういう奴どれだけいるよ。俺ぐらいか?いや、クリエイターとかな。 口ばっか達者になったが、かといって駿世代ほど厚みがない。失敗してもつまらん長生きをしていくんだろうと。 東洋的な、三島的な美を追求したうえでの自滅ってのがないんだ。 そう、俺が言っているのは美学の果ての破滅だよ。本当に美を求めるなら結果、自分の身を亡ぼすのもありうるだろうと・・・。 しかしそんなことは、もはや今ではあり得ない。徐々に美への探求心か、そもそも美自体に関心がないのか。 でもそんな輩の作品にどれだけの美しさがあるよ。東洋の究極の美学とはそこにある。死が見えていたということだ、美学のために、張り詰めるということだ。 美学に死す、非合理だろう。切腹なんて、死ぬのに名誉なんて、非合理の固まりだ。しかしそれこそが繊細さだった。 もはや日本人に、切腹の美しさは理解できないんだろう。絵でなくて、気持ちの美しさが・・・。
「なぜ駿たちは燃えたのか」 俺は漫画アニメ映画音楽他様々がここ100年の文化だと思っていて、後100年続く確信はないんだ。なぜならもう見たいものを大体見たから。出し切ったというか。 そして何より、なぜこういうエンタメ文化が100年も続く土壌があったか、それはそういう時代だったから継続しえたということなんだ。 あのアナログな時代だったから生まれたし、発展した。それだけ。今、デジタルだ。個人主義だ。多様化とかなんとか。従来の流れが続くか?答えはノーだ。 そもそも永遠に続く、延々続く文化なんて姿勢でいえば人間の営みぐらいしかないだろう。だからこそ、映画がこれから100年200年延々続いてくわけないだろ。 彼らはまだ何か確固としたものを信じられる時代にいた。アナログの、道徳による制限が小さかった時代に。だからエンタメに命をかけられたんだと。 そういう時代だから張り詰められた。死ぬ奴も出てきた。そういう作品ができた。過渡期なんだな。人間の価値観の。 何か確固としたものがあった、そういう価値観の時代に生まれたから、確かなものがあると信じることができた、だから命をかけられた。 でも今、確かなものは何一つない。明日になれば今正しいことも否定される時代だ。今の流れを批判すれば老害、差別主義者とこうくる。自分から雁字搦めにされることを望むようになった時代。 共通の何かもなければ、死んでもいいほどに、自分も愛せず、周囲も愛せず、アナログの息苦しいほどの密着した時代によりできた確固とした共通項は デジタルの今、力を持った連中か、人間そのものが望んだのか分からないが、一人よがりにしか残ってないんだ。 どこかに書いたな。スターウォーズ一作目のスタッフしかいない世界があったとして、彼らはスターウォーズを作ったかと。答えはノーだ。 それを見てくれる人々、何十億の共通項、密着した何か、確信、アナログの有縁、それがあったから彼らはスターウォーズを作りえたのだ。 共通項もなく信じられる何かもない時代、みんながエヴァの主人公ぶっている時代に、駿らマスターピースなんて生まれてこねえ。
「マーニーは現代の落とし子だ」 今はプロパガンダとか、弱者男性弱者女性とか黒人人種LGBTジェンダーとかの思想、 または自分が正義側に回っているんだと安心させるための左右きょろきょろ作品、エロ、グロ、ぐらいですか。それぞれ度を越えた。 もう様々なエンタメが出し殻状態だと思う。コピーのコピー・・・とかの要素も含めて。男が女になり、男が子供を生む時代に何を語るんだよ。 なんでもありな時代にカタルシスはあり得ねえ。そしてそんなものをすでにエンタメに求める時代でもないんだ。エンタメの限界を知ったから。 そうそう、エンタメの限界な。ここ100年でエンタメがどれだけの影響力を持つか、その限度が分かったと思う。別にエンタメが頑張ろうと たかだか芸術なんで、知らなかった事象を知った、とかはあるだろうけど、それだけ。それを100年かけてわかった。だから エンタメの可能性っていうハッタリ、または魔法に酔う美学者もいなくなった。地獄の黙示録だって、もう10年前に公開していたら もしかすると時代が変わっていたかも、なんて公開当時言われていたけど、そんなわけがないって、今は理解できるもんな。 でも何かできると思ったからコッポラはあの映画を作ったわけ。みんなエンタメの限界を知った今、ああいうのを作ろうとするやつが出るワケがない。 さらに当時からして東洋人差別どうこうで叩かれてたから。今じゃあ上映禁止レベルまでいくかもな。もうエンタメにデカい人間も作品も社会の余裕もありえないのだ。 俺は老害と呼ばれたいぜ。指さされて石投げられたいね。なんでこんな嘘ばかりの世界に馴染まなきゃならないんだ。 理不尽な世界、でも虚構の世界だけは嘘でも本物の何かが、確固としたものを見たいんだよ。 松田優作が死んだとき・・・30年前に、映画雑誌の読者コメントにこうあった 「今の刑事ドラマは虚構に次ぐ虚構。犯人を逮捕し、手錠をかけ、去っていく、それだけ。でも優作さんには痛みがあった。本物の痛みが。」 今、虚構の世界、エンタメの世界に本物が、本物の痛みがあるかよ。何のための虚構、エンタメだよ。もうテレビにしろ何にしろ 権威付けとか仲間内の金儲けとか、それだけじゃないのかよ。俺はいいジェラシーを感じたいんだ。本物を見て、俺もやる、頑張るぞ。それが生きるエネルギーになるんだ。 でも、悪いジェラシーではそうならない。なんでこんな奴らが・・・そういうヘイトだけだ。 そして俺が18歳を迎えるころには、現世と未来には既に悪いジェラシーしかなくなっていたんだ。 マーニーのありがたいのはここまで色々考えさせてくれるということだ。まとまりはないけど、ダメだよ、これじゃあ。 簡単にまとめてみる。 本作に厚みある思想はなく、なので描写もジブリの上っ面をなぞったコピーにしかならず、絵はネチャっと悪く繊細で、最後何も残らない。 ジブリにも美少女アニメにもなれず、大人向けとも子供向けともとれない中途半端に終わっている。 飽食の果てにある、中身スカスカだけど側だけ豪華、かつ深刻「ぶっている」という、今を象徴する何もない作品だ。
ストーリー。 持病の発作で夏休みは療養しろというので親戚の家で。あまり夏休み感はないんだけど・・・ マーニー以外にはそっけない杏奈だが、マーニーにははまり込んでいく。でも喜びが伝わらない。 真の友に出会えたっていうカタルシスとかもないし、百合作品なら理解できなくもないけど・・・ まあ結局マーニーは杏奈の祖母なんだ。杏奈はハーフなんだ。マーニーの娘と喧嘩して娘は死ぬ。娘の子が杏奈だ。 杏奈は孤児院にいた。そして今の両親に引き取られた。その両親は市から補助金をもらっている。 両親はそれを杏奈に言わない。補助金のことを知っていた杏奈は両親がそれを自分に黙っているということは ほんとうの家族でないからだし、何よりも信頼関係を築けないと、両親には冷たい。 杏奈の悩んでいることは家族間の湿っぽいところなんで、まあ理解はできるね。 そんな中でマーニーが出てきた。マーニーとのスキンシップ・・・スキンシップを越えた生々しい情のつながり。 抱きしめあう。しょっちゅう抱きしめあう。締めには「大好き」「愛してる」「私だけの・・・」きついな。 ![]()
でもこれを、娘とうまくいかなかった祖母が、必死こいて孫を助けようとするシーンだとするとまだなんとか・・・ でも描写の一つ一つがキモいんだよな・・・声も合ってないし。杏奈の声。ここ20年の声って自意識過剰なのばっかりで この作品は特にそう。神木隆之介とかもそうだけど、いちいち気取って、濡れた声。まあアニメファンの監督とか それが好きな信者とかが喜ぶんだろうけど、橋本環奈とかの元気な声のが合ってたんじゃないですかね。 女子学生の声とかも深夜アニメ演技のそれだしね。役者演技も昨今またはジブリっぽいって感じだし。 トトロの父親の声が下手とか言われるけど、プロの仕事だぜあれは。あざとくもそれっぽいとかもないし。 本作は声すらも深夜アニメ+ジブリっぽい、つまり人間がいないという結果なんだな。 で、ある少女に協力してもらって謎解きするんだけど、そのワクワクもないし、 この作品には緩急もカタルシスもなく、盛り上げどころはそういうキモイ百合シーンのみだ。 そして問題は杏奈があまりにも急に元気になるということ。魔女宅のキキがラスト明るくなるのは その場のテンションの問題だから、それまでの暗さと併せて理解できるんだけど、これは変貌が急でね。 まあ人間はいないわな。やっぱ。出てくるキャラに生きた人間はいない。動きと心が理解しがたい。魅力的なキャラが一人もいない。 家族の情とかストーリーは原作準拠だからいいんだろうけど、演出や描写、つまり作劇としてはダメなのが本作だ。 そもそも話分かりにくいしね。よっぽど自分なりに無理くり考えないと納得はできないだろうな。 一番上にリトマス試験紙とか書いたけど、今の若ものの読解力の問題にもつながるんじゃないかな。 この作品見て感動したってのは、子供ならわかるけど、ちょっとバカにしてるよな。 全部言葉で説明するとか、杏奈が元気になる=精神的成長とか、浅い薄っぺらい・・・ジブリの雰囲気にのまれ過ぎじゃねえか。 稚拙なセンチメンタルで感動するな。信者がこれでいいこれでいいと言ってきた結果が今なんだから。 自分なりに好きってならわかるけど。客観的ならクソ作品だっていうことを自覚したうえで褒める作品だぜこれは。 これを素晴らしい作品だと恥ずかしげもなく言えるヤツはよっぽどの低脳か、すごい病んでるやつのどちらかだな。 極めてパーソナルな物語だし。まあ全体久々に腹が立ったですよ。 大体女主人公=女性向けってのもおかしい。この作品の少女を分かる女性がどんだけいるんだろうな。 だから男とか女とかじゃなくて、男女ともにある共通項で語ればよかったんじゃないか。少年少女ともに感じる問題とか。 でも本作を男女入れ替えたらやっぱきついしな・・・百合っぽくしたいっていう欲望なんだろうな。ダメですね。
良いところ書く。 マーニーの良いところは、心情とか流れとかがスカスカのスカだから、観た人が自由に考え受け止めていいってこと。 そもそもどんな映画も受け止め方は自由なんだけど、この映画は特にそうなんだな。 だから端的に百合アニメだとかいう奴の気持ちは間違ってはいないワケだ。でもそういう目でも特別面白くないんだよな。 男も女も魅力的なキャラいないし・・・マーニーもあんまり・・・だからもう杏奈しかいないんじゃないすか? (キキっぽい) ジブリ顔で、まあ深刻ぶっているだけなんで、雨の中帰るキキとか、ナウシカの物憂げな感じとか、ああいう真に迫る 憂鬱な表情は出ないんだけども、それなりに魅力はあるんだ。
髪型は微妙だけど・・・あかんな、いちいち「これはこうだけど」っていうマイナスから入ってるな。 もうね、マーニーって、プラスに転換するイメージがないんだよ。それは作風とかな。明るい映画では決してないわけで。 どよーんとしてるんだよね。主人公の暗さもそうだし。カラッとしていないワケで。 だからさ、俺は杏奈が最後までデレることなく、暗黒少女ぶっていたら、それはそれでマイナス×マイナスで 逆にスカッとするんだと、いいと思っていたわけ。でもマーニー出てからは完全デレチャウンダヨナア。 リリカルなのはのフェイトは好きだけど、一期のクールな時だけなんだよ。デレてからはダメなんだ。
(纏ったものを感じるね) ↓
(デレて没個性) あのミステリアスな感じがいいんだ。コナンの灰原もそうだ。ここ10年のデレデレはもうカリスマ殺されてんだ。 それと同じで、杏奈は拗らせていた方が可愛いんだ、絶対。冒頭のクソ恥ずいポエムから、心の内で罵倒するセンス 挙句デブスに豚野郎と、こうくる。最高だ。ジブリにはなかった拗らせ中二少女、新しいヒロインの誕生。
どうせ思想で語れないんだから、エヴァみたいにキャラの個性だけ強くしとけばよかったんだよ。 そうすりゃまだ残るものになっていただろうけど。こういうのはどうだ。最後、地元に帰った杏奈は久々学校に登校する。 何とか一日を過ごし下校する際、待ち伏せしていたデブスが刃物で杏奈を突き刺す。デブスは奇声を上げて逃げていく。 エンディングテーマ「とんぼ」が流れる中、杏奈、血まみれのまま、家へと歩を進める。映画は終わる。 それはそれとして、杏奈の服とか、冒頭の診察シーンとか、フェチが分かるワケ。でもそれ自体相当意識しないと 何とも思わないワケ。普段着はよかったけどね。シャツ。それよか表情のがあざとくてダメだったな。杏奈媚びすぎだろ。 どうせ本編終了後は美大行って典型的な美大生になったり、SNSとかでクソみたいなことつぶやいてんだろうな。そういう奴なんだよ。 杏奈がまた病んでくれたらなー、やむというか拗らすというかね。一気に魅力がなくなって、これまたスカスカなんだ杏奈が。 ガキなんて拗らせてた方がいいんだよ。早いよ無色になるのが。高校ぐらいまではそれでいいんだよ。マーニーのアホめ。 そうだ、マーニーの娘がこれなんだけどさ、こっちマーニーにしろよってすごい俺は思ったよ。
本当。こっちだったらまだわかるよ、百合的にさ。 そしてデブチンな。
愛すべき信子。ステレオテンプレだが、悪いヤツじゃないな。杏奈は普通になりたいと書く。 家庭の問題や健康の問題、心理の問題を孕んだ普通という言葉だ。でもデブがいう「あなたにはあなたの感性があるから、みんなと同じにはなれない」。 つまり「あなた自身を変える必要はなく、ただ見る角度を変えろ」ということ。 家庭も健康も、心理も自分が固定化してみているだけで、実はそうでないかもしれないと。それは終盤になって効いてくる魔法の言葉だ。 俺は思うんだが、このでぶちんことは、もしかすると杏奈にとってのマーニーになっていた可能性が十分あるということだ。
![]()
しかし杏奈は面食いだったのか、単に血のつながりで引き寄せられたのかは知らないが、でぶちんには心惹かれない。 残念なことだ。杏奈がでぶちんを選ぶような展開があれば、本作は百合とかじゃない、もっと心躍るようなバディアニメになっていたんじゃないか。 ジブリでバディモノってないもんな。で本当のマーニーの、本編にあったような謎解きとかするんだよ二人で、すげえ面白いだろ。 あの眼鏡とか、少年とか、ただの展開機能に過ぎなかったもんな。稚拙なフェチしか見えないしあの子の服とか。 ステレオ的だろうが、あのデブをもっと生かしていたら本作はプラスを感じる何か、になっていたろう。 あのデブが杏奈にとっての疑似マーニーなら、杏奈ももっと面白い性格になってたかもしれない。あの、喧嘩するほど仲がいいみたいな感じでね。 本編終了後あの罵倒センスもなくなってしまったのか。俺はあの罵倒センスは、杏奈のポジティブな個性として残した方がよかったと思うんだけどな。 それもわかんないし。まあわかる作品では絶対ないからな。
まず冒頭の、唯一の学生シーン。絵を描いている。ポエムが始まる。この世には目には見えない魔法の輪がある。 ![]()
絵はうまい。友達はいない。先生に見せようとするが恥ずかしい。自分が嫌いだと告白。発作が起き、帰宅。 ダイナミックな展開だが、引き込まれない。なんにせよここでこのキャラの表情すべてが分かる。 こういうすかした感じの顔と、頬染め。
![]()
この作品ではちょっと照れたりするとすぐに頬が染まる。それでしか表現方法がないのだ。 そしてこういうデラックスな表情。美少女的ではあるんだ。ここが一つのピークともいえる。
そもそもハーフですから。すごい贅沢な素材なんだな。 で、診察シーン。何でもないシーンながら、ジブリ=少女愛みたいな感じが定説になってしまっている現在では 狙ってるシーンになるんだろうな。
で、出発。無表情。うるせえなとか言ってる。
この服が一番いいね。鎖骨とかあれがな。
これ以降は一面的なデレなんで、終わり。
(ここがピーク)
(はいデレた 終わった) 表情が出て、口数が増える=精神的成長らしい。そうですか。 で、ラストの大見得な。美少女ですよ。いいんじゃないかな。
![]()
![]()
このサイトで言っている悪いところを煮詰めたような作品だ。今を映す鏡なのだ。