『KT』、違和感から出発した問題作  


 釜山国際映画祭を体験したことは、僕に多くのものをもたらした。韓国の観客に気持ちよく受け入れられたことも大きいが、映画ファンというより韓国の普通の人たちに出会えたことも大きい。「韓国の俳優さんとも仕事したいな」。単純に思った。釜山映画祭で「クワイエットファミリー』のキム・ジウン監督と知り合い、トロント国際映画祭で再会した。「韻」がン・セバスチャン国際映画祭に呼ばれたとき、後に「殺人の追憶」を撮るポン・ジュノ監督とも会え、メシを食って酒を飲んだ。ロッテルダム国際映画祭でもまた会えたし、彼らが来日すると僕にも連絡がくるような間柄になった。
 僕がソウルに行ったときは、また一緒に飲んだりした。そうやって韓国の映画人と知り合ううちに、韓国にまつわる話をやりたい、と思った。「ビリケン」の年に、いまはもうなくなったソウル国際映画祭に参加し、そのときアン・ソンギさんと会った。『ディープ・ブルー・ナイト』は大好きな映画だった。釜山映画祭のパーティでもアン・ソンギさんと一緒に写真を撮ってもらった。
 たとえば、アン・ソンギさんが無実の罪で捕まり、自分を陥れたヤツは日本に逃亡。そこでアン・ソンギさんは釜山から密航船に乗って日本に密入国。そこで大楠道代さんと恋に落ちる。そんな日韓中年のラブストーリーを考えた。
 そうこうしているうちに、巷ではワールドカップが大きな盛り上がりを見せていた。テレビやマスコミがさんざん騒いでいた。いきなり「日韓友好」かよ、心の中で反発した。
 プロデューサーの椎井さんといろいろ考えた。中高年の異国間の恋愛を、もし1970年代に設定したら?その男女が密会する際、エレベーターに乗ったらそこに拉致されたキム・デジュンがいたとしたら?
 そんな「鉢合わせ」を考えるうちに、椎井さんの提案で、もっとストレートに「キム・デジュン」そのものをやったら?というアイデアが出た。それ、誰が観るのかな?と僕は思いながらも、いま、このワールドカップに向けられた騒ぎに違和感があるのはそういうことかな?とも考えた。「ビリケン』のとき一緒にやった李鳳宇プロデューサーに、その大胆な提案をした。こんな大それた企画、それも日韓のタブー。提示できるプロデュサーは李さんしかいない。「キム・デジュン拉致事件」をそのままやりたい。彼は絶句した。
 李さんが韓国の映画人に相談すると、「それは絶対いい」と賛同してくれた。李さんはサッカーが大好きだが、僕と同じ気持ちを抱えていた。雑誌などでむやみに韓国特集が組まれることなどに、李さんなりに違和感を持っていた。「やりましょう」
 荒井晴彦さんとは、10年来の飲み仲間だ。飲み屋の常連客として、決して「仲のよくない」酒をずっと一緒に飲んできた。荒井さんなら、「娯楽性」と「政治的な題材」を書けると思い、荒井さんに頼んだ。
 脚本の第2段階で韓国側にキャスティングに行った。役どころ的にアン・ソンギさんよりもう少し若いほうがいいだろうということでキム・ガプスさんに決めた。「太白山脈」でアン・ソンギさんと共演し、韓国で助演男優賞を獲った俳優だ。キム・ガブスさん以外の俳優にも会ったが、キム・デジュン拉致の映画に出ることは韓国の俳優にとって、とてもリスクが大きいことだった。「作る意義はあると思うが、そこに自分が参加するのは......」と、みんな尻込みした。
 大統領選の前だった。そんな時期に、キム・デジュンが昔、苦労したという話を映画化して、韓国でも公開されるとすれば、「プロパガンダ映画」になる。そこに自分が出演することは「政治色」のある参加になってしまうということだった。
 すでに韓国の一般紙では、日本で「キム・デジュン拉致事件」を映画にするニュースを、「プロパガンダ映画」と表現していた。キム・ガプスさんは、それを「いま」作る意味を理解していた。それに、「役者は役がきて自分が納得できればやるもの」という彼なりの哲学があった。
 韓国で1週間くらいロケをした。帰りの空港でフィルムを没収されそうになった。軍はOKだったが、軍の係員に説明しているときに、元KCIAの系列の情報局の人間が来た。「俺たちは聞いてない」。「これは大統領の映画だ。大統領が苦労したときの映画なんだ」となんとか説明して、ようやくフィルムを持って帰ることができた。
 事件が起きたのは1973年8月。僕は中学3年生だった。新聞で見たグランドパレスホテルの写真は、微かに覚えていた。
 調べれば調べるほど、謎の事件だった。わからないことだらけだった。事件は結局、指紋を残した一等書記官ひとりの犯行になって決着している。「こんなことありえないよな」と、興味を持った。真相が解明された事件なら、再現ドラマにしかならないが、謎だらけの事件なら映画になると思った。
 脚本作りには半年以上かかった。
 最終的には日韓合作になったが、李さんも最初から合作にするつもりはなかった。あくまでも、日本の監督が日本の資金でやる企画だった。
 佐藤浩市が演じる、陸上自衛隊の「別班」といわれた部署に属す者が、「彼ら」とどう関わって、どういう命令を受け、どう決着したか。あくまでも、日本人を通して、この事件を考えようとした。
 最初に、荒井さんも僕も悩んだのは、誰を主人公にするかということだった。キム・デジュンか?なぜ、日本人の監督が隣の国の大統領を主人公にする?なら、筒井道隆君が演じた「キム・デジュンを守れなかった」役か?しかし、そうなると、非常に「正義」が映画の真ん中にくることになる。
 荒井さんも僕も、「正義」を真ん中に置きたくない性質だった。そのやり口は避け、荒井さんのアイデアで『灰とダイヤモンド』方式、つまり殺し屋が真ん中にいる構造にした。
 善悪の「悪」を真ん中にしつつ、「悪」を討つ手法でいくことにした。現在の日韓ブームに対しての違和感を、その当時の日韓の個人と個人の関係性の中でやろうと思った。
 タブーに触れる企画だったから、「お前は東京湾に沈められるぞ」と言われたこともある。実際、尾行はされていた。見つからないように尾行するのではなく、威嚇するように尾行されていた。「彼ら」と目が合ったこともある。
 考えてみれば、「新・仁義なき戦い。」が公開された2000年は、『バトル・ロワイアル」の年だった。政治家が、映画の「倫理観」を問うたことで、大きな社会問題となった。『バトル・ロワイアル』が、僕の尻に火をつけた。
 荒井晴彦さんとの、格闘「KT」では、その脚本のあり方をめぐって、荒井さんに激しく批判された。荒井さんが編集長を務める季刊誌「映画芸術」でも、「傷天」のときの丸山昇一さんや「新・仁義」でご一緒した高田宏治さんをも巻き込んで、大きな特集が組まれた。荒井さんが僕に対して「無礼だ」と発言している一番の理由は、「自分に言わないで直した」ことだと思う。もちろん、僕も荒井さんの台本は直せないし、直してはいけないと思っていたから、当初は「そのまま撮る」つもりだった。
 だが、台本は長すぎて、結果的に短くしなければいけなくなった。僕は荒井さんの家に日参し、ああだこうだとディスカッションを続けた。僕は僕で、役者が決まっていく中で、その台本から変えたいところが出てきたりもしていた。その点で意見が合わなかったのも事実だ。
 しかし、結局、言い訳として、時間が足りなかった、というしかない。クランクイン直前に、僕が直したところもある。撮影中も自分で直したところがある。それが「無断」だったことで、大論争になった。飲み屋でも、本人を相手にものすごい大喧嘩をした。
 深作欣二さんが、荒井さんと僕のあいだに座っていた。深作さんを挟んで、罵声が飛び交った。深作さんは、寝たふりをしながら、すべてを聞いていたらしい。翌々日、深作さんに会ったら、「やっぱり、荒井は先輩なんだから」と諭された。敬語どころじゃない大喧嘩だったからだ。
 撮影中、ずっと胃が痛かった。荒井さんの台本を直している痛み、一所懸命書いてもらった脚本を直している痛みが常にあった。荒井さんが出来上がった映画を観るまで、それがずっと尾を引いていた。
 荒井さんは、政治的な発言をしつつも、それを「男と女」の世界の中に、あるいは一個人の中に閉じ込めて表現してきた脚本家だ。それをあからさまに、台詞の中に、世界観として出すという「KT」の試みは、荒井さんにとっても初めてのことだったと思う。「血の汗を流して苦しんだことぐらい、僕にも想像できる。
 だから、その胃の痛みは、なくなるものではない。正直なところ、「映画芸術」で一方的に書かれたことで、逆に気が楽になった部分もある。これが正直な気持ちだ。
 だが、これは「決裂」ではないと思っている。もう一回「勝負」しなければいけない。お互いに「納得」できるかどうかはわからない。また同じことになるかもしれない。だが、荒井さんには荒井さんにしか書けないものがある。  

戦友、佐藤浩市  

『新・仁義」でサングラスかけっぱなしのヤクザを演じている佐藤浩市を見ながら、単純に「うまいな」と思った。優しい男の役だった「顔」の後だったから、なおさら落差があった。
 考えてみれば、僕の映画では「トカレフ」がいちばん大きな役で、彼を主役で撮ったことがなかった。そして、この企画を、彼なら理解してくれるだろうと思った。彼だったら、僕がこの映画を「いま」やる意味をわかってくれると思った。
 勝手に彼のことを「戦友」だと思っていた。猛反対を食らっている、この「危ない」映画を、一緒に担ってくれる役者だと思った。一緒に戦ってくれるヤツが誰かを考えたとき、それはやはり、佐藤浩市だった。「キム・デジュンの話なんだけど」「オレ、学校の帰りそれ見たよ。あのホテルの裏だったから、学校が。なんでパトカー止まってるんだろうって、思った。あの事件、身近に感じてるから」
 キム・デジュン拉致事件を「見た」男が、ずいぶんと身近にいたものだ。彼は、騒々しグランドパレスの前を通って帰ったのだという。
 浩市は、僕が話さないことも含めて、意図を解釈してくれた。ただ、彼にしてみても、相当神経をとがらせざるをえない役だったと思う。自衛官の服を着ることも、あの時代の人間を演じることも、実際のモデルがいる人間に扮することも、すべてこれまで経験したことのなかったことだから。彼はそうした全部を、映画の「座長」として背負ってくれた。
 浩市と僕は、「生まれ育ち」が確実に違う。だから、決して僕らは似ていない。似ていないから、互いのことがわかる。
 浩市は、複雑で難解な意味合いを、シンプルな台詞でしか書いていなくても、その言葉のどこかにヒントを得て、本来の意味を見つけてくれる俳優だ。それが信頼感だ。『亡国のイージス」でも、佐藤浩市はそうだった。


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