涼宮ハルヒの憂鬱
                         2006年 石原立也作

涼宮ハルヒの憂鬱



山本寛の自己愛とハルヒの自己愛が奇跡的にリンクしたのが第一期ハルヒなんだと思う。 周りも山本寛の自己愛を、それこそハルヒの、学生時代特有の自己愛と同じように 次第に落ち着くもんだろうとか思っていたんだろうが残念ながら本人の自己愛は根っこのものであった。矯正不可。 でも誰もが、本人さえも、その病に気づかなかったという幸福な出会い。若者特有の反抗心だろうとか、性格だろう、とかね。 さらに本人もまだ本性を出す前、というかまだおとなしい頃なので、監督のコントロールもきき、これまた理想的な共同制作となる。

山本寛の出身校・京都大学って、悪いけど人格破綻者ばかりのイメージがあるんだよな。 東大はオールマイティって感じだけど、京大はそれこそ研究者養成だから、人間的に欠けているというか そもそも人間的に欠けていていいんだ、という開き直り、甘えがあるんじゃないかと。 山本寛もその癖を引き継ぎ、何かしら能力はあったが、欠けていた。 第一期ハルヒのセンスはもちろん山本寛だけのものではないが、なんていうかキューブリック的に非人間的な面白さがあるよな。 それはフルメタルジャケットの翻訳をした原田眞人にも思ったんだが 自己愛的な人間特有の下品な文と綺麗な文がポンポンと並んでいるところが、どこか人間不在めいたものを感じる。 なんつーか人間味を出したいんだが、しょせんロボットに過ぎないというか。 人間味が出ない機械の宿命としての「ただ快楽原則としてのワードと台詞廻し、演出」がハルヒ世界の妙な緊張感を作っていることは間違いない。 褒められたもんじゃないけどね、欠けているから出る魅力なんで。本人はそれに気づかないだろうけど。

これで名を上げ、続くらきすたでは監督を任されるが、監督としての無能でスケジュールが押し 結果4話で監督を降板となり、京アニを退社する。 この時の京アニが声明した「監督としてその域に達していない」は当時から賛否あり、未だに議論を呼んでいるが やはり山本寛の所業を見るに、これは正しいやり方だったと思う。 まずハルヒ人気も山本寛人気も、当時普及してきたインターネットによる評価大であり 山本寛は(口汚い)ホームページでもって軽い内部事情等発信し、ファンと交流してきた。 もしここで黙って監督を降板すれば、山本ファンや信者が下手な勘繰りで京アニ批判をしたり 何より山本寛が、京アニが黙っているのをいいことにあることないこと言って被害者面し ファンを扇動して京アニ攻撃をする可能性もあったのだ。 それほど当時の山本寛は多くのファンを抱えていたし、何をするか分からない狂犬的な側面も強かった。 京アニ声明を批判する人間は、そういった状況を知らなさすぎる。自分で火をつける火薬庫なんだから。 自衛手段といったところ。  

その後のハルヒ二期は山本寛抜きで制作したが、奇を衒えばいいという発想なのか エンドレスエイト等の失敗でハルヒブームは一気にしぼみ、ファンの間ではやはり山本寛でないと といった京アニへの批判も出てきた。しかし今考えると、ハルヒ二期というのは アニメハルヒシリーズから山本寛の亡霊を振り払う作業として必要だったのではないかと。 あのハルヒの自己愛極まったヒステリーぶりも、そのまま山本寛だと思えば納得できる。 そうしてハルヒから山本寛味を抜いた後、劇場用新作「消失」が公開された。 一期に引けを取らない、もしくは超えている(海外では超えてる)評判で ここにきてようやく山本寛抜きのハルヒが生まれ、成功した。




押井守には実写映画があったし、庵野秀明には特撮とアニメがあった。 それらの愛情をオタク的に表現していった。だからなんとなく温かみというか 人間的な熱があったような気がする。

じゃあ山本寛は何を表現したいのか分からない。 何となくスゴイことをしたいというのは分かる。 そのスゴイことが、押井や庵野的なものでなく、細田や新海のようなリリカルなものでもなく 何も表現したいことのない人間が何か表現しようとした結果 一般的な快楽原則にのっとった無味無臭のパターンと、内輪ネタ&メタネタでしかない。 MV上がりの映画監督みたいなもんで、例えるならイギリス監督のトニー・ケイ。 作家性とかでなく奇抜な映像っていうタイプでCM制作で名を上げた。 (初監督作は映像に凝った作品となったが製作遅延とトラブルとクレームで干された。) 00年代に入り、アニメだけでなく映画でも何でももう表現することがなくなり 特に萌えブームもあって、やることと言えば美少女をヘンテコに遊ばせる以外にない。 そういう時代の象徴的な人物と言える。何もない。 00年代ってのはイイ風に言えばまっさらな時代なんだよな。 エヴァンゲリオンから続いた過去作のパロディ世代もひと段落し 残ったものは何か。




アニメ監督という職で名誉を得ようとした最初の生き物だと思う。 駿も押井も庵野も富野も、アニメ監督もといアニメ業界への世間での扱いに 冷めた感覚を持っていたからかわからないが、ともかくすごい作品を作りたいというだけで 名誉だの地位だのはオマケ程度に思っていたのかもしれないが・・・

山本の、自己顕示からくる、なんかスゴイっぽいことで認めてもらおうという形が 何もない時代とマッチしたというしかない。 ダウンタウンのような個性かもしれない。 20世紀の総ざらいやオマージュは90年代に庵野らがやったとして じゃあ00年代には、ともかく過去のおもしろそうな演出や方法論を 愛しむとかいうんじゃなく、ただ面白そうだからとまんま入れたり真逆に押し出したり・・・乾いた引用。 世代としても、引用になんら抵抗を持たない年代であってその気軽さもまた、無機質だと。 キューブリック的な非人間性と萌えアニメというのが合致したワケだ。 山本寛の演出はあくまで乾いた快感原則によるもので じゃあハルヒの持つ温かみは、絵と声と音楽なんだよな。時代性も込みで。




庵野がアナログ時代のアニメファンと横並びの存在と言われる。 90年代のアニメファンはパロディもオマージュもギャグも当たり前のものとしていた、 じゃあ山本寛は、ネット時代のアニメファンと横並びなのだ。 ネット時代のアニメファンと言えば、いわばMADやフラッシュ、BM98と 素人たちが技術もなしに批評精神ののちパロるという存在。 庵野らの世代と比べては、より敬意のないアマチュア的な姿勢。 アマチュア的姿勢(批評)というのは、いわば気軽だが無神経にどんどん突っ込めるということ。 ネット世代に必要なのは対象に無神経に迫って、使った後は切って捨てる そんな乾いた姿勢なのだ。情はいらない。

あと庵野秀明世代はいくら作り手受け手がオタク同士と言えども、あくまでアマチュアとプロという違いが それぞれの壁になっていたが、しかしネット世代は同じ土俵に存在してしまっている。 同じアニメ世代の庵野のエヴァとはまだ距離があった。 ネット攻撃も一部だった。ネットよりも紙やTV媒体での盛り上がりだった。 ハルヒの場合、ネットがメインとなり距離がない。0距離。ネットでの賞賛も多く、半々の割合での。 0距離だったからこそのピンポイントでのヤマカン推しであり、0距離だったからこそ欠点を指摘され終わった。 ネットで反応がダイレクトに伝わるからこその瞬間瞬間でしか考えない。 長いタームで育てられない。その最初の世代。だからこそダイナミックで歪で緊張感のあるシリーズが出来た。




よく山本寛が外れたからダメになったと言われるが、その処遇の回避は不可能だったとして間違いない。 本人の異常な自己顕示と自己愛、さらに傲慢ぶりが、ハルヒ演出で注目されることでもはや、本人すら制御できないレベルにまで悪化し 無責任にやりたい放題という方法論が、らきすた、かんなぎともに職務放棄やスケジュール遅滞という形で現場の失望に短絡し 挙句噂レベルではあるが、かんなぎの制作進行が自殺しただのどうのこうの...オチはフラクタルでオオコケして消えたと。

もとより表現したいテーマなぞなく、ただ目立ちたいだけの本人が最後にたどり着いたのは 彼の本拠地であるネット上での快不快を目的とした抗争でしかない。 ネット上での一喜一憂はもちろん、自分が敵だと設定した相手を負かそうというだけの作品作りへ。 ハルヒにしろらきすたにしろ、その演出もまた長期的な目線での挑戦でなく、瞬間瞬間の楽しさ。 これをあくどくやると炎上商法になるんだが、かんなぎ騒動なぞまさしく典型例。 それを本人は政治的、社会問題へのアプローチだとか言いながら制作している。 高畑勲みたいな、作品で社会問題を照らし返す作風ってのは本人がメディア露出を自制して 作品だけで勝負しているから、そして喧嘩っぱやくない長期ペースで物事を見ているから確立しているワケだけど 悲しいことに山本寛は圧巻のメディア露出と炎上商法により物事を単純に二分させ、喧騒させ さらに「異常に喧嘩っぱやい演出」により社会風刺にもならず、ただの幼稚な当てつけに終わっている。

元々自己顕示が異常だったから、変な形だろうが知名度が上がったことで 自分の大儀を知らしめたいのか日本がどうだとか変にデカいことを言い出すようになり、 しかし山本寛を知っている人からすると そこまで大した実績がない癖になにをワケわからん事言ってるんだこいつは ということにしかならない、そのズレ。 山本寛=作品はどうでもよくともかくチヤホヤされたい。 アニメファン=普通クリエイターは作品で勝負するだろ。 という感じ。




かつてハルヒヒットでオタクに感謝した男は、自分が落ちぶれて以降はオタクアンチに成り代わっていった。 小林よしのりなんか有名だが、深いロジックや信条どうこうがあるワケでなく 自尊心を守ることを前提にその場で味方になりそうな、または自分をチヤホヤする人間を持ち上げているだけなので 自尊心が破壊される恐れがあるやいなや、昨日の友は今日の敵、になりかねない。 それこそネット社会で可視化された部分であるし、やっぱネットは自己愛発見機として有能なのだ。 自己愛こそネットで交流し、自己をアピールしたがり、正当化したがるから、その経過を見ていけば 必ずそいつの本性が分かる、と。

ハルヒ演出で注目された結果、ある意味「人事不省」状態に陥ったワケで 監督はもちろん、演出すら気負いと傲慢さゆえ務まらない・・・せいぜいハルヒの余韻を残したらきすたOPまでの男だったワケ。


おもいで



ハルヒ一期はやっぱ好きだね。俺が小学生3年ぐらいにやってて、おもフラとかでも特集されてた。 ビデオで録って観て、うおーおもしれ―みたいなもんでさ。俺みたいなアホなガキでもわかるワケ、楽しさが。 途中から録ったんだよ、射撃の回だったっけ。最初から見たのは再放送からで。 最初録ってた分は4:3目いっぱいのトリミングバージョンだったけど 再放送以降は上下に黒帯のオリジナルサイズで、ちょっと窮屈だった。 おもフラ末期世代だから、パロディとか(超人類)ちょっと背伸びしたような萌え系美少女ものとか(ドクロちゃん)知ってて その延長線上としてハルヒはあって、で実質ハルヒはそういう要素をある種文学的に昇華したって作品なんだろうけど。 メタ的な笑いってのも知ってたから、第一話のドラマも楽しんだし、ともかく時代に乗った作品なのは間違いないよな。 他にムシキングのパロディとか、ゲーム大戦とか、視覚的にも・・・ライブシーンも楽しんだし、暗いシーンも納得できたし 10年前ぐらいから見返してないけど、同時期見た作品と比べて覚えてるシーンが多いってのはやっぱ印象的なんだろうな。 二期のハルヒはイラついたし、始めてギャルゲー買ったのも2010年3月の涼宮ハルヒの約束だったし・・・ やっぱ俺はミーハーなんだよな。誰が書いても同じみたいな感想しかないわ。

演出による各話シャッフル構成は良かったと思うよ。 いわば原作=アニメそのものじゃないっていう方法論だよな言い換えれば。 原作も読んだけど、ハルヒ激重で異世界行ってキスして似合ってるぞの なんていうかハリウッド的なオチの最終回ってのがアニメハルヒ一期の超エンターテイメント仕様に合ってるし。 一話のあれもライブもサムデイインザレインの挿入も ハルヒの精神のアンバランスが分かりやすくって、いいもんね。




ハルヒのいいのは、キャラクターデザインと雰囲気な。 京アニのデザイン的にも、ハルヒまでが従来のびしっとした線なんじゃないかな。 kanon以降ふにゃふにゃしちゃって、ハルヒ二期なんて、よくいう猫まんまだもん。嫌っすね。

雰囲気も、いわば深夜アニメってハルヒ以前以降ってのがあると思うんだけど いい雰囲気を残しているというか、まあアングラな感じも残ってんだよな。 90年代的なフィーリングが漂う本当の際にいたんじゃないかと。 なによりもフルハイビジョン制作じゃないから、画面が硬くなくって、ぼやっとしてて 線もぼやけて、ある意味映像の持つ雰囲気って意味じゃこれまた最後の段かもね。 フルハイビジョンなんぞ映像に雰囲気を持たせられないもんな。

90年代がエヴァンゲリオンなら00年代はハルヒだとはよく言われた話。 ネット時代、パロディ時代、メタ時代の無法ぶりをオシャレに小粋にまとめ 俺のよーなオタクでないミーハーも取り込むことに成功し 深夜アニメが日本のサブカルチャーを牽引していく起爆剤となった。 京アニも名を上げ、新鋭演出と繊細な作画も話題となり、平野綾筆頭の新世代声優も若者たちのアイドルとなり 加えてインターネットにyoutubeニコニコ動画等の簡単な動画サイトが登場し始めた時期と合致して いわば違法動画の顔的存在となり、さらにネット上に拡散していた若者たちのエネルギーがハルヒ推しに一致して 作品を盛り上げる要因になるなど、時代と寝た作品と言える。 またインターネットにおけるファンおよび製作トラブルもここからどんどん発生し始め、 その後のエンタメの展開をも予期しているのだ。

ここから深夜アニメ(日本のアニメーション)の新時代が始まっていくワケだが、 ハルヒまでが面白かったという意見も理解できる。 混沌とした要素をハルヒがオシャレにまとめてしまったもんだから、らきすた含めそれにならい それまでにあったいわば秋葉系というか、アングラというか隠れ家というか、素朴というか 破綻した楽しさだったり、どうしようもない感じの作品だったりはなくなってしまった。 前年にこいこい7が放送されていたことを考えると、これは隔世の感がある。




キョンの傍観者&父親&やれやれ系ってのも時代。谷口の語りぐちも時代。 うる星のメガネなんかが原作に影響してるんだろうけど、やっぱりネット時代を鑑みて 世代なのか、ただインターネット民のクールぶりたい部分そのものだったのか、ウケにウケた。 今見ると気取ってる感満載で、未だにやれやれの系譜から変わってないのは問題じゃないかと思ったり。 ハルヒがリードしているように見えて、結局キョンの方が保護者面して、どこか冷笑的で、周囲を小ばかにしていたりと、 精神的には上位に位置しているのも含めて、今のアニメとそのファンを象徴しているんだな。 キャラクターがリードしている風に見せて、こっちが精神的上位で批評してクールに楽しんでいるんだと。 でもたまにバカやったり燃えたり、とこれまたエヴァのシンジ君と並んで時代を象徴していると言える。 素直に気持ちよく感情を出さずに、いったん自分の中で格好つけた理屈を作ってから、やるって感じで。 何にせよネット時代の主人公なんだな。でも今キョンみたいなヤツいたらクサいしな、虐めネタとかじゃなくて 単純に今はもっと明るくなってきてるんじゃないか、空元気かもしれないけど。




最初見たときもそうだけど誰が好きとかで見てないもんな。というかアニメ見て誰が好きで、とか後からの感覚だもんね。 単純に面白いアニメだと思って見てたよ。戦闘シーンのある古泉が格好いいってのはあったけど。 しかし今見るとハルヒはいいキャラだな。朝倉もいいけど、ハルヒ以降でキャラクター的に、まだ人間的側面に迫ろうとしているのは あんまないんじゃないかな。あれでも男目線だとか色々言われるんだろうが、男女ともに通じるカリカチュアはうまーく出来てるよね。 ただのいじめっ子かと思いきや繊細で、で頭よくってスタイルよくって才色兼備か、 ともかく桃井かおりとかスカーレット・オハラみたいにエネルギーはあるんだけどどうしたらいいか分かんねーから暴れるわ みたいな感覚を出せてるのはハルヒだけだな。ビーム出したり技出したりするキャラじゃないゆえの焦燥。 よく言うけどSOS団内で一番精神的に脆いみたいなところもあって、一歩間違えたらただの傲慢な嫌われ者なんだけど、そうならないのが人徳というもの。 そうそう、現実的にハルヒみたいなヤツいたら社会の憤懣がそのままフェミニズム活動に行きついちゃうんじゃないか、それも込みでバランスがいい。 コラだけど富野由悠季のおまんこをなめたくなるようなキャラになってんじゃないかな。そう富野とか押井とか駿とか いわば巨匠連中の描くキャラクターに匹敵するデカいキャラクターなんだな。庵野のアスカより、線が太くて、キャラクター的には上手いんじゃない?

ビジュアル的にも艶っぽさより乾いた感じのが強くって、着替えでブラ出すときとか、あの耳をすませばの姉の着替えシーンみたいなもんで、 純文学風っていうんすか?エロさとかがないしね。 うん、そういうところは、バニーコスの男目線も含めてだけど、男女共に楽しめる強みだな。 京アニの上手かったところね、いやハルヒだけかな?みくるのセクハラシーンは今見ると・・・な人多いかもしれんけど いわば巨乳キャラ、そうそう大人バージョンでもギャグ的なエロさで、ともかくエロってのはエロく表現するからエロくなるっていう事を 分かっていたのか、エロっぽいけどエロく描かないからエロくないっていうところを徹底出来てんだよね。 今では美少女キャラ=艶っぽくとか京アニ作画みたいにふにゃふにゃとかで、何も考えずにエロエロエロなんだろうが ハルヒは違うんだよな、一期だけは。二期ではふにゃふにゃになって単純なエロシーンが増えてしまったが・・・ そういうのも込みで、二期はフツーのアニメに落ち着いちゃったんだよ、一期は抑制が上手い。

だから京アニが深夜アニメのジブリと呼ばれたのは、深夜アニメクサさもありつつ、オシャレであるとか 何よりも男はもちろん女も抵抗なくストレートに各描写を楽しめるってのが、よかったワケだな。同世代としては細田守とか。


時代



らきすたは途中から録ったんだよな。それこそ山本寛が降りてすぐ頃に録ったんじゃないか。だから5話からとか・・・。 まあ世代的にはあずまんがじゃなくってらきすたが美少女4コマの始祖だな。オタク系ってのはらきすたが文字通り最初だけど。 時代的なのか資質なのかアニメ文化、オタク文化に興味を持つ人間が増えだしたころ 実写では電車男、アニメでは京アニがハルヒらきすたというオシャレアニメを繰り出し 動画サイトもタケノコみたいに出てきて、みんなその枠の中に入り込んで行ったんだよなあ。 その中でも勝負作なのがらきすたで、ハルヒでミーハーを取り込んだ次に萌えの具現化みたいなキャラクターとイカれた主題歌で いかにもなオタク向け、深夜アニメっていうフィーリングにナチュラルにこれまた取り込んでいったというね。 賛否はあったろうが、引くより突き進んだ人が多かったんじゃないかな。でますます深みへはまっていくという。 だからハルヒらきすたほどいわゆるミーハーをオタクにした流れはなかった。

しかしハルヒらきすたの偉いのは閉じた感覚がないことな、湿っぽくないし、エロくもない。 だから結局・・・ゴールデンタイムでは規制が強まって難しいことができないから、深夜アニメでこそ芸術活動ができるという 昔の日活みたいな流れがあったと、だからこそ、逆に深夜アニメこそがアニメクリエイターにとってはメインのフィールドであって さらにダウンタウン登場みたいな感じでアニメ=格好いい、おしゃれという雰囲気も出てきておしゃれな連中も増え、当然オタク的な感性を持つ世代も同様に、 ダメ押しにエヴァンゲリオンが「もう俺達の世代以降には何もない」ってことを完全燃焼させ、残ったのは萌えという空虚を煮詰めたカテゴリーしかないという中で じゃあその萌えで文学してみっか、とか、萌えを客観視してみよう、とか、萌えで狂ってみるかとか、萌えすらも食い尽くそうという若い世代がいた、ってことなんだな。 そのあとで萌えで人生とか、萌えで国民的キャラクターやるか、とか。

まー萌えが当たり前になった世の中で、また新しいカテゴリーが出てきたんだけどね。 新海とか出てきて、なんすかね、おしゃれアニメ・・・でもないんだよ。カテゴリーがもうない時代なんだな。当たり前、だから。 そうそう、萌えと萌えじゃないの境界線がない。深夜アニメとゴールデンアニメの差が規制線の有無でしかない。 今リリカルなのは日曜の朝にやってもおかしくないもんな。というかなのはの絵をいかにもな深夜アニメのそれ、秋葉系のそれっていう 印象、若いやつは持たないだろうな。逆になのはの絵は硬派って言われる時代かもしれん。 そういう意味じゃ、まだカテゴリーだとか、萌えだとかに拘っていた古き良き時代のアニメともいえる。 深夜アニメから典型的な萌えってのをなくして、良い意味でも悪い意味でも変えてしまった作品なんだが、 萌えとか、ザ・オタク的な物事に拘っていたという意味では結局、典型的な深夜アニメの世界を突破しなかったわけで 一時代のあだ花、なんだよな。


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