前ページで生前提の社会はやめて、死を含めた社会を作ろう。つまり死を育てていこうという大枠を示して筆を置いた。 今回はその最終結論である。

従来の社会は続けること前提の社会だったが、 これからは「終わってもいい前提」の社会へなのだ。
 何故か。前ページに書いた「人間は死ぬために走ってる」はもちろんのこと、 「続けること前提」の社会、を今の俺たちの尺度ーメリットデメリットーで計れば もはやデメリットにしかならないのでは、ということに気づいてしまったから。


何故終わってもいいのか



何故終わっても良いのかを言う前に、そもそもの話を。

前ページにも書いたけど、 人間の許容範囲は人権の名のもとに、またコンプライアンス強化のもとに、どんどん狭まっていってるわけだけど、 それが進めばいずれあらゆる言動が許せなくなり、にっちもさっちもいかなくなって、自分さえ許せなくなるんじゃないか。 もはや自己も他人も愛せなくなるのでは。そこまでいけば人類は滅ぶ以外に道がなくなる。

そして、人権という問題の究極は生と死だと。 そう、いずれ死の問題を解決する安楽死の議論がきっと出るだろうし、なにより「出生」という一方的に生命を生み出すーあるいは苦痛を味あわせるー行為に関して言えば、 「反出生主義」という言葉でもって議論されるに違いない。 (今議論されてないのが不思議だが。もし議論されなければこれまでの人権問題どうこうは全て茶番だ。)
 そう。何もしなくてもゴールは決まっているのだ。人類が無意識化に「進んで」滅んでいくというゴールが。 で、ゴールが決まっているのなら、いつまで続けるのかと。

こういうそもそも論から始まるワケだけど、こうだらだらと、無意識のうちにいつの間にか滅んでいくという道を取るのか、 意識的に「終わってもいい」を社会的に取り組んで、さっぱりと生きていくか、どっちを取るか考えなければいけない。 俺は当然後者。この話はあとで。

そもそも論を書いたけど、もう一つ。
 前ページで、21世紀までの人間は本能と生活と政治により子孫を残すことを無意識で続けていたが、 今では理屈づけないと子孫を残さない時代、だと書いた。 それと同様に、「なんとなく」や20世紀当初にて芽生えた「世界人類観」から、 核戦争とかで人類が滅ぶことはNGという意識がかつて「あったはず」だが今ではどうか。

質問。「人類は100年後も生き続けなければならない」と叫ぶ人間がいたとして、 そいつは正気なのか狂気なのか、どっちだと思うか・・・というもの。
 ほとんどの人はその人間を「狂気」と思うんじゃないか。それがすべて。 実はすごいことなんだよ。つまり人類の存続に熱を上げる人間など現代ではほとんどいないし、重要とも思ってない。 もっと言えば人類を存続させてはいけない、と思う人間が多くなっているのでは・・・という風にも考えられる。 (昔・・・冷戦下の映画とかでは人類存続を叫ぶ人間は正しいとされていたのに。)

と、現状、理由はさておいて、人類の意識はここまできているんだということも併せて銘記しておく。 子孫を未来に残すという概念が失われ、人間そのものの存続を求めているかすら怪しい。そもそも論として「終わってもいい」という空気が出来ている、ということを書いてきた。


じゃあ、何故そういう空気が出来ているのかと。
 それは戦争などの切羽詰まった危機が薄れ、国や社会から大義がなくなり、 結果的に、子孫を残さざるを得ないという状況から脱した・・・ここから端を発しているんじゃないか。 簡単に言えば、生活に余裕ができて以降・・・そう、社会のために生きるのでなく、個人のために生きるようになってから、ということ。
 そう、世の中から大義がなくなったから。大義がない、目的がない。だからやることがない。 さらに個人のためだけに人生を過ごすには、ちょっと時間を持て余す。長すぎるのだ。 そう、人生というのは周りのため、社会のために生きる、ということでなければ長すぎる。それを人類は気づいてしまったのだ。初めて余裕のある時代を迎えて、実は世の中でやることはそうそうないということを。

21世紀までの子供を作るー子孫を残すーという行為は、本能と生活、政治(社会統治とかね)によるものだと書いてきたけど、 その中でも今や戦争(内戦)が一般的じゃないし、多産多死になるほど劣悪な生活もほとんどなくなってるし、 人権どうこうで政治もそこまで介入できない。あと経済的な理由もあるんだろうが・・・。 ともかく子供を作らないと困る、または子孫を残すのは当然・常識だ、という意識が、国民からはもちろん、国家・社会的にも薄れているのが現状だ
 薄れてると言いながら、日本では高齢者を支える財源だとか、労働人口だとかが圧倒的に足りてない状況。 国家的に、社会的に本当に必要なら強権的に子供を作らせるだろうが、何故か先進国のほとんどではそういう空気は一切見ない。 必要なのにやらないのは人権どうこうもあるんだろうが、何よりも大義が薄れているというのが要因としては大きい。 そしてそこから来る個人主義。時間を持て余す書いたが、社会のために生きるという大義が薄れ、個人のために生きるとしても早々にやることがない、少ない。

だったら終わってもいいんじゃないかと。 そう、続ける根拠がない。 出生どうこう、中絶、育児、生の重み・・・というしんどい行為をやるほどの根拠がない、というのだ。
 ん?「やることがない」のと「続ける必要がない」、ってのは別もんじゃないかと思われるかもしれないけど、 そこが最初に書いた「続けることのデメリット」につながってくるわけ。


続けることのデメリット



前ページに書いたことと重複するかもだけど、前は生きること前提、ここでは続けること前提というニュアンスの違いがある。あんま変わらんけど。

まずやっぱ、前ページに書いた「生が重くなりすぎた」に尽きるんじゃないかな。続けるために生が重視され、その枠の中で生きるしんどさ。 それに乗っかって出生のことね。上にも書いたけど、出生、育児、生の重み、または中絶問題・・・非常にしんどい。 そこからくる、命を抱えるという重みが果たして現状、メリットデメリットで計る社会において生きやすさを生んでいるのか。 そして、出生を巡る男女の関係ーーいわば女の上昇婚男の下方婚からくる、社会的な性別役割。賛否はあるだろうが、問題と言えば問題だ。そう、性別役割ってのは出生どうこうから始まっている。 もし続ける必要がなくなれば、結婚・出産が当然でなくなり、幸か不幸か、差異のない社会が生まれるかもしれない。歪みが出るだろうが。

続けること前提の社会の大きなデメリットは生死に勝ち負けがつくこと。 前ページで熱く語ったが、続ける社会=長生き前提ーー労働者の在り方ーーだから。 長生きしないことには「不幸」というハードルが出来てしまっている。 何よりもだ、続ける前提の人生だから、寿命の限界である80、90歳ぐらいまで生きるのが常道という意識まで植え付けられてしまっている。 だから80まで生きなければ短命であり、可哀そうであり、哀れ、悲劇だとされる。

これがいい人生か?

そもそも、80歳まで生きてこそ幸せっていう前提は完全に「ハードモード」なんだよ。 まず労働から金から健康から天災から、あらゆるものが揃ってようやく80まで生きられるんだぞ。 そのハードモードから脱落したら不幸だとかバカだろ。

幸せのハードルが高すぎる。

いいんだよだから20でも10代でも一桁でも。 戦国時代でも人生50年とか言われたけど、それでも長いわ。人それぞれが人生の長さを決めればいいんじゃないすか。 当たり前だけど欲は小さければ小さいほど生きやすいから。生まれればよし、5歳まで生きられれば、20まで、30まで・・・。長生きのハードルは自分で決めろと。

ほかに「続ける前提の社会」だから「何かを成さねばならない」空気がある。 それは継続でも、進化でも変化でもそう。 それが人生を続ける、生きる意義であり、ほとんど義務でもあるんだと。 目標を立てろと。 やらなければもったいないとか不幸だとか言われる。 で進化や変化をしなければ、またはついていけなければ愚か者だと罵倒される。
 何かに追われるように生きなければならない、という空気がしんどい。 先に書いたように、個人主義の時代ではやることもそれほどにはない。 しかし変化や進化、継続を求められる。何のために?

継続することのしんどさもそう 会社倒産とか、競争社会とか、政治の限界だとか、文化や故郷の保全だとかあまりに面倒で、もうね続けるメリットはないんだよと。 それらのために労働者を作らないといけないから、その質も期待できない。いわば半グレとか犯罪者みたいなやつも頭数として育てなければならない、社会に居場所を与えなければならない。 その結果犯罪は起こるし、嫌な思いする人も出る。 続けるからしんどいんだよ。みんな思ってることだろうけど。 終われっていうんじゃないんだよ、ただ続けることで生きる楽しさみたいなのが相当失われているね。 続ける=追われるように生きる、だから。だって維持する、ポジションを守るってしんどいしね。

よく韓国の人とかが歴史を学ばない国に未来はないっていう正論吐くけど、それは逆に国家というものを維持するなら、ってことなんだよな。 別に国はなくなってもいいという精神なら学ぶ必要すらない。てか国という呪縛に囚われている面倒さ。もはや囚われる国家の形なんてほぼないんじゃないかな。 で国家犯罪ってのは年々増えるわな、そしてそれに比例して、学ぶこと・反省することも増える。そこまでして国を残す根拠あるか? この国は落ちぶれたとかダメになったとかいうヤツもいるけど、落ちぶれちゃいけない根拠あんのか?ダメなのか?無意識の呪縛に囚われてるやつには困る。ないんだよ根拠なんて。 いいか、やっちゃいけないこともなければ、やらなきゃいけないこともないんだよ世の中。一体全体もういいだろ。

そういう現状では、もうこの一代でバーッとやって終わろうぜ、文化も国も滅んでもいいじゃん、という精神がウソにならない。

あと、続けること前提の社会だから「規律、規則、法律、道徳」が生まれたということ。 で、それに縛られる。ほか、風土、常識、過去、国家、社会、etc...にも。 学校という施設は、個人の充実のためでなく、国家の優秀な労働者を作るための存在であって、 何故ロリコンが駄目なのかと言えば、子供を守らないと国が保たないからというそれだけの理由に過ぎない。 何故殺人、自殺、麻薬が駄目なのかと言えば、それを許せば社会の維持が成り立たなくなるからであって・・・ 何故戦争をするのかもそうだし、国家という枠、言語という壁がある理由も、一つでは人類がまとまりきれないから。 お墓もそうだな。その文化すら、後に残された人、遺族の想いのありどころであり、 社会維持―命の尊厳の象徴として、生きる人々の道徳指針として存在してるわけで。 刑法、刑務所なんかも社会維持だ。処罰感情や生きる人々の安心材料として存在している。
 続けるために、上の縛りがあるわけ。縛り。
 で書いてきたように、やることもあんまりないのに、その縛りだけが増えていく状況があるわけだけど、 じゃあ一体なんのための縛りなんだってことになるよな。

あとね、社会を続けるためのあらゆる社会構造ーインフラから政治形態までーの維持が不可能になってるのな。
 時代が進むごとに解決事項の複雑さが増し、SNS普及による問題提起の増加も、あとインフラ整備・・・ 社会課題や人の憎しみを起因とする犯罪なんか解決不可能なんだよ。 だって世の中ってのはいくつもの相反する理が存在し、それを納得できちゃうんで、問題だと言えば何でも問題になっちゃうワケ。
 つまり肉を食う人間の気持ちも分かるし、ビーガンになる人間の気持ちも分かるということ。 SNSの普及で問題提起が圧倒的に増えたってのはそれ。いくつもの相反する個の問題にも関わらず理屈としては納得できちゃうんで、提起されたすべてが人類全体の問題になると。(肉食わせろ&肉食うな)


 それと一つ課題を解決した分、人間の許容範囲が狭まって、そうなると今まで気にならなかったことが気になってくると。 例えば体罰が禁止になった、そうなると次は怒鳴られたりすることも気になりだす、いずれ怒るという行為がNGになるだろうという・・・。 背が低くなってるわけね。視点が低くなるごとに前は気にならなかったものが気になりだしてくる。

人の憎しみが消えないのもそう。許容範囲が狭まることで、前なら気にならなかったことが気になりだすという。 今は人権だとか自分らしくだ、とかで人間をどんどん繊細に、プライド高くしてる時代だから、ちょっと勘違いとかが起こると、あいつは社会は自分をバカにしてる侮辱してる、とかね。
 それらの繰り返しだから。

これら諸問題は絶対解決不可能 なのに、これを解決しなければ人間は先に進めないとか、 勝手に人間の目標が立てられてしまっている。いつの間にか既定路線が轢かれている。 これを解決しないことには人間は終われんぞ、みたいな。 でも続いていくなら、社会課題も犯罪もなくならないというジレンマ そして最初に書いたように、続けるごとに人間の許容範囲が狭まって、あらゆるものが許せなくなって、結局滅亡、ってことになるんじゃないかと。

続けることで人間の幸せのハードルが上がっていくってくんだな。 衣食住保証してるだけじゃ満足できない。自由と名誉と健康、長寿はもちろん、社会がどう政治がどうこう。 ありもしない自分を追い求めて苦しむというやつだよ。 俺は決して従来を否定してるわけじゃなくって、 あくまで現在の俺たち、我々・・・の意識のボルテージがここまで来てしまった以上、従来と同じように続けていくのは無理で嫌 なんだと。

究極的に言えばな、社会ってのは騙し騙しやる以外にないってことを気づいてしまったんだよ。 相反する理が当たり前のように存在する社会だろ、常に賛否だろ、で何より絶対的な仕組み・・・方法論がないんだよ。 フラットがないというかな。つまりね、学校という施設は、国というか文科省の基準を100%こなしてくれるから存続しているんじゃないんだよ。 他の方法論だと20%ぐらいしか達成できない中、学校は30%達成できるから存続しているに過ぎない。 この世のあらゆる仕組みが全部そうなんだ。100%なんてとんでもない、50もありえない。20、30でやりくりしている状態だ。 そんな世の中だから「イレギュラー」・・・いわば「失敗」が当然。でもイレギュラーは「そんなはずはない」というメディア・国民の願望により巧妙に隠されているから 失敗こそがイレギュラーとなり、成功がレギュラー、当然となる。その苦しい矛盾に気づき始めたのだ。 何故失敗=当然を認めたくないのかと言えば、この世がそれほど不安定な仕上がりだと思いたくないからだろうと。 しかしそれに絶望するのでなく、一つ限界を認めて、しょうがない、という風になっていけないかと思っているんだが・・・。

話長くなったが人間の限界が分かっているんだということだな。 それなのになお、続けるのはしんどい、意味がないのではないか。

で、こういうデメリットがたくさん出てきている状況で、それを妨げているものはなんなのか。


終わらせることを妨げるものは



人間そのものに、生きることを続けたいという本能があるのは間違いない。 しかしそれを「死んだら負け」というほどにエスカレートさせたものは何か、ということだ。
 それは前回書いたように、まず政治であり宗教なんだと。 生きたいという本能に重ねて、上の人間が得する楽するため「義務から逃げるな」という仕組みを作った。 だから死は許されない。自殺は地獄行きだということになる。社会維持のための宗教を政治が利用したということでね。

そして他に妨げている要因を挙げればエリート・勝ち組たちということになる。

確かに人間は生きることを本能的に続けたいと思っているが、死んだら負けレベルに生に固執しているかどうかと言えば違うわけで。 しかし彼らは固執している存在なのだ。
 そらそうだ、だって能力があるから。
 つまり、それを活かした人生で安定した暮らしを送れるし、ちやほやされるし、楽しいし、やりがい・功績、自分らしさ、夢、キラキラ、と 今社会で流行ってる「人生の意義」そのものを送れるわけだから。この世で生きてるのが楽しくて仕方がない。
 この世で楽しく生きれる連中ほど、この世に固執すると。 だから、そういった固執はエリート・勝ち組の価値観から始まっているのであって、 能力もなく、あまり欲もない大衆はそこまで固執するはずはないのではないか。 なのに大衆の意識は死んだら負け、というところまで行ってしまっている。何故。 大衆の意識をエスカレートさせる存在、アジテートする存在・・・。

もうお分かりだろうと思うが、 大衆の意識をこうまで生に固執させてしまった存在こそ、映画アニメ漫画音楽小説テレビetc・・・の各エンタメメディアであり、 それを作っている人々こそ「エリート・勝ち組」の皆さんなのだ!
 能力があり、かつそれを活かして大衆に評価してもらいたい、という欲求。 メッセージ性やテーマ性で社会を変える、大きなことをしたいという自信・確信・名誉欲。

そう、自分たちの価値観こそ世界の常道だ、そうあるべきだ、という願望で作品を発信するということ・・・。


 まさにエリート・勝ち組の発想であり、これらと併せてのポイントは、 彼らー芸術家はプライドが高く、その高さというのは、自分の過去・・・いわば自分の人生に充てられているワケで、 だからこそ、あらゆる国家、社会、政治機構、環境、生き物、有り方、人生を極めて重要に、大切に描く。自分の過去や人生を軽くしたくない。
 人生というものをあまりに抒情的に、優しく、重要で、美しく・・・描いてきたな、エンタメは。 それはやっぱり悪影響を及ぼしてるよ。
 死は美しく、音楽が鳴りひびき、荘厳であったり。 想い出は美しく、家族は素敵で、社会は捨てたもんじゃなくて、友情、情、愛、やっぱりこの世は最高だ、と。

少なくともヒューマニズムだとかの作品は全部これなんだ。人を大事にしようとかそういうことで作るんじゃない。 自分の人生を過大に持ち上げたい、重要だったと思いたい、否定したくない、プライドに賭けて昇華したい・・・実はそれが根底にあるわけだ。 仰々しいんだよいちいち。 宮崎駿のトトロなんて典型的だな。何故あそこまで立派で郷愁じみたヒューマニズムを作るのかと・・・それは彼の作品全部そうだが。

この世のことを重要なことだと捉えないと、彼らのプライドが許さない・・・これはあると思う。 自分の人生にはちんけなんか一つもない。常に意味・道徳・美しさがある、というように。
 別に彼らの実感にケチつけてるわけじゃない。ただあまりに行き過ぎてる。 それも自分たちの恵まれた境遇に対し無意識で。まさにすわりのよさにかまけてって感じだ。 ハッキリ言えばものすごく迷惑、悪影響なんだよ。 「この世は生きるに値するんです。」宮崎駿の迷言だが、まさにエリート・勝ち組の傲慢。 あらゆる意味でーーー生きなきゃいけないの前提だとか、そら生きるの楽しいわな高スペックだからとか・・・ こういう連中だけがエンタメをやってるわけで、当然歪みが出るわな。

人間ってのは理に納得できればその方向に進める生き物であって、大衆なんて特にそうなんだけど、 現状を言えば、エリート・勝ち組が極端な方向に進めすぎた。

人生も身の回りのすべても、あまりに立派すぎて息苦しい。逃げ場がない。 逃げようとすると後ろめたいし、逃げればそれは負けだと言われる。そもそも逃げ、という言葉すらおかしい。 さすがにやりすぎだわな、この状況は。

この世のエンタメというものはすべて、この世に固執した人間による産物なのだ

だから俺がすげーすげー言ってる火垂るの墓もエヴァンゲリオンも何も、この世に固執した、続けることに 固執したうえでの作品なんだよ。いや名作映画、映画、何もかもそうなんだ。 社会派映画とかもそうでしょ。何か人間の弱点とか課題が見つかったと。 そしてそれを学び、これからの社会に活かしていきましょうと。続けること前提なんだよ。 そもそもエンタメ=明日の活力のために、という概念があるからな。それは有史以来あんま変わってないかもしれない。 エンタメが続けること前提の社会を成立させているのは間違いないわけだが・・・
 エンタメーー作品の説得力が極めて強いからこそ、俺たちは「人生=仰々しい」「続ける前提の社会」 から突破できない。

各エンタメが世界レベルで拡大したのは第二次大戦後の「武力でなく文化国家へ」という流れなんだろうが、 第二次大戦により命の大切さが過剰に求められ、 これにより、従来にはありえなかったクリエイター(映画製作者)の意思の統一が成り立った。 いわく「反戦」「夢を叶えろ」そして「命の大切さ」というもの。他にもあるんだろうが、 とにもかくにも死は負けだ、という意識はこれにより拡大、増長していったのは間違いない。


 そういうエンタメにどっぷりつかった世代ばかりな今の世の中。そういう「続けること」「死は負け」を前提とした意識の 作品ばかりを幼少期から今に至るまで浴びている。もちろん、親の世代も、祖父祖母の世代もそうかもしれない。 で、そういう意識を持った人たちが、社会を作り、建物を作り、道徳、教育も、何もかもを作っているー何世代にもわたって、というワケだ。


 だからもう依存症だ。ポルノ依存症みたいなもんなんだよ。ポルノ依存症ってのは、最初ポルノへの興味がそこそこでも毎日のように摂取しているとポルノなしじゃ生きていけない、みたいな。オナニーを週に2、3ぐらいだったのが 一日2、3回やらないと気が済まないみたいな。
 死は負け、長生きが勝ち、この世に固執しろってのはまさしく幼少期の頃からの摂取により意識がエスカレートしすぎた証拠なんだよな。

俺たちは20世紀以降、エリート・勝ち組による品種改良を新たに施されていたのだ。

俺これまでに「今の時代、各エンタメ映画アニメ漫画音楽小説テレビetc・・・が消滅すれば、この世に生きる根拠がなくなるって人かなりいるんじゃない?」 とか結構書いてきたけど、今振り返ると、エンタメメディアってのは「続けることを固執するアジテーター」だから、そら、アジテーターが消えれば一旦冷静になって 考え直すわな。

そしてもう一つ。 これもエリート・勝ち組が大きく関わっているんだが、 今流行の「自分らしさ」「大志を抱け」「夢をかなえろ」みたいな意識もそうなんだよ。 何かを成し遂げるってのは続けることが前提だから、続けないことにはありえない。
 そう、世界の覇者アメリカプレゼンツ「資本主義」による意識の植え付け。 今流行の「何かやらなければ」をアメリカが全肯定して推す理由はそこだ。
 当たり前だけど資本主義ってのは続けること前提だからさ、終わらせる意識とは真逆なんだよ。 それにエリートほど欲が強いし。ウォール街でゲッコーが言ってた「欲こそエネルギー」。

そう、エリート・勝ち組と資本主義の相性は驚くほどにいい。まあそのための資本主義だから当たり前なんだが。 それを考えると、エリート・勝ち組が上記の標語を言うのも、それを彼らが納得してるからドヤ顔で言えるわけでね。 自分たちエリートの価値観こそが常道なのだという願望を、エンタメや社会でもって表現しているのだ。

先に結論言っちゃうけど、エリート・勝ち組の価値観はエリート・勝ち組を気持ちよくさせるためのものであって、そして 彼らの価値観によりあまり得にならないしんどい参加を与儀なくされ、しんどい常識を植え付けられる我々大衆、という次第。そして続ける欲を増大させる夢をかなえろの大合唱で終わらせる気運を排除していく資本・・・というわけだ。

ついでに言っとくとこの社会での「何かをやらなければ」とか「夢をかなえろ」ってのも、テレビ広告だろうが映画だろうが、そこに描かれてるのは「営利主義」なんだよ。コマーシャリズム、商業主義。 それが金になるかどうか、エリート企業かどうか、みんなに称賛されるかどうか。 CMでも輝く私、とかあるけどしょせんは企業広告なんだ。映画でもそう、金・エリート・能力・企業・起業。
 そこには自己満足で一銭にもならないゴミ拾いや、一日オナニー5回やるぜ、とか、働かずに生きていくとか、 そういうものは一切含まれてないわけ。 資本主義による自分らしさ、とはどうやって金を稼ぐかだし、夢をかなえろ、何かやらねば、も営利にすぎない。 つまりそれらの広告やアジテートは、我々大衆にも向けたものだと思いきや、所詮はエリート・勝ち組への アッピールなんだよ。


 で、その中でさ、例えばCMでやる輝く私みたいなのあるけど、大体あそこで描かれてる仕事ってのは、 工事現場だとしても現場作業員でなく現場監督だったり、またはきれいなオフィスで働いていたりと、 ブルーカラーみたいなもんはほとんど描かれない。もしそこで介護現場でお爺さんのお尻拭きながら 輝く私、みたいなことやってたら認めるよ。でもやらないし、そうじゃない訳なんだろ。所詮そういうもんなんだよ。

で何よりな、労働ってのは二種類あるんだ。つまり能力を生かしたいっていう労働と、仕方なく働いているっていう労働。で、当たり前だけど仕方なく働いているって人の方が圧倒的に多いわけだろ、世界中。 自分の能力を生かして働きたいとか、エリート・勝ち組の発想なんだよ。本当に。 だって大衆の能力なんてたかがしれてるだろ。いくら選択肢があるっつっても鼻くそみたいな選択肢ばかりでさ。 自分の能力活かして働きたいとか、どんだけ余裕があるんだって話。 どれだけやりがいがあるか、じゃない。できるだけ楽で待遇のいい仕事、を選ぶのが大衆なんだ。
 だから、映画でもCMでもなんでも、そこで描かれてる自分らしく、夢をかなえろ、何かやらねば、は 全部エリート・勝ち組向けなんだ。少数の。
 得するのは彼ら。そんな彼らのための社会構造ではないのか。 エリート・勝ち組が存在できるのはその下に無数の非エリート・負け組がいるからで、 人類・・・動物の資質として、優秀なリーダーを称えることに抵抗はなく、また快感すら感じられる。 だからエリートの存在は非エリートにとって、決して悪ではなく、善に近い。 映画でも社会でも、そういった部分で、エリートと非エリートの関係性は上手くいっているように見える。
 しかしだ、ここで書いている観点、つまり続ける、という点で言えば、エリートやらを称えるために この人生観を続けるしんどさー所詮負け組に甘んじて特別良い思いすることなく生きていく面倒さを実感しつつある現状では・・・いよいよ限界なんだな。生きるデメリットに書いたように維持するしんどさがね。競争社会だのなんだの。

やっぱ全部金発信なのが所詮はって感じだ。大衆が男も女も一人残らずどっかの企業の属した方が、大企業は儲かるし、 資本にとっては都合がいい。うん、エリートはもちろん資本に都合がよすぎるわ、今の「働いて笑おう」ってのは。

まとめると、エリート・勝ち組がエリート・勝ち組のために映画・広告etcを作る。 そこで描かれる人生の意義ってのは「続けること前提」の社会でしかありえない。 エンタメから社会構造から、何から何まで「続けること前提」の社会を維持してきた。
 エリートの作るエンタメが人生には意義があり、重々しく、素晴らしいものだと教え込ませ、資本主義という社会構造が 何かをやらなければ人生の無駄だ、という指針を押し付けた。
 その結果、人生=「死は論外、生こそ史上」「死は敗北、長生きこそ人類の幸福」 などといった人間は死というゴールに向けて走っているという普遍的な生命観を「捻じ曲げた」人生観が、世界の常識と化してしまった。

そのデメリットは上に書いた通りだ。


ここまでのまとめ



・何故終わらせるのか
 =社会から出生のための大義がなくなり、また個人主義の高まりによって、生き続ける根拠がなくなった。

・続けることのデメリット
 =続けること前提の社会づくりにより生が重くなり、出生の苦労もそれに準じる。そこから性別役割も生まれた。そして長生きこそ善で死は悪だという価値観が。 また、続ける=何かを成さねば人生の無駄みたいな面倒さが。そこでも勝ち負けがつく。 さらに法律道徳などの縛りも増え、しんどい。
 何より「続けていっても」人間の許容範囲が狭くなるばかりで、また社会的な課題は増える一方で、 「続ける意義」が幸せを求める旅なら、その目標は絶対に果たされんと。 つまり人間の限界が分かってきた、それでもまだ続けるのか?

・終わらせることを妨げるものは
 =統治者が楽するために奴隷を逃がしちゃいかんと宗教を利用し、自殺は地獄行きだとかいう縛りを作った。 なによりエリートたちが「生き続けなければならない場」として人生を捉え、それをエンタメその他で表現。 それを摂取しまくった人類は続けること前提の社会に染まり切って死は負け犬というところまでエスカレート。身動きが取れない
 またエリート主導の資本主義により、何かを成す=続ける前提の社会を肯定せざるを得ない社会設計になっているため、そういう点でも早死に=何も成さなかった、で不幸とされる。挙句何かを成せるのはエリートであって非エリートは彼らを称えるだけの、しんどい、あまり得のない人生に終始する。


ここまでで少しの矛盾を発見した人いるかもしれない。

社会から大義がなくなっていると書いたのに、社会の意義は蔓延していると。 また無理に出生を要求しない社会なのに、続けることを優先した社会と書いてあると。

そう。ここでそれぞれの「義」の強弱が出てくる。 つまり従来の世界的大義とは、国家国民を犠牲にしてでも、しんどかろうが出生をさせるし、続けさせると。


 いわば拡大。

しかし今の義とは、建前上あくまで自由に、なのだ。少なくとも無理やりな出生はありえない。


 いわば維持。

つまるところ、今の義は拡大しようとするものではなく、今ある範囲内で続けようということなのだ。 少子化が進もうが、国力が落ちようが、いる範囲内でやっていこうということ。 強制の度合い、空気の強さで言えば、確実に弱い。 社会的意義とは生きる上でのアクセサリーみたいなもんか。 (アクセサリーの価値が高まりすぎたのが問題なんだが)
 なんつうのか、国家主導から企業主導みたいな違いがあるんだな。もちろんアメリカなんて企業の方が強いんだが、企業が空気作って大衆をリードするか、大衆発信で空気作って企業が乗っかるのか、色々あるんだろうが、 流れの自由さで言えば企業主導の方がいいんじゃないかと思ったり。
 ただ企業・・・資本ってのは儲けるために存在してるわけで、今の働いて笑おうとか、 自立だとか言って成人した男女すべてをどこかの企業に属させようとするとか、儲けるためには空気さえ ごり押しする連中なので、続けることをやめようという流れがあっても阻止されるのではないかと。
 少なくとも、現在の社会的意義を推し進めているのは 資本主義の雄・アメリカだってことを忘れちゃならない。ここを突破しないことには。 国家のトップであり、資本のトップであるアメリカが最大の障壁なのか。

とにもかくにも 続ける根拠がないのに、支配層により「続けなければいけない」という意識だけ刷り込まれ、 さらに続けることによるデメリットがいよいよ無視できないところまで来てしまった。 だからこそ、それを突破する方法を考えなければならない。


終わっても良い社会を



俺は決して続けるな、とは言わない。ただ、生きることが至上、死は敗北・論外という 人間の幸せの枠を著しく狭める意識についてはいよいよ異議を唱えたい。

 で提案の前に、まず意識の確認としての方法論を。

つまり、あらゆる場面を「続けるのか、終わっていいか」の二択の選択肢でもって捉えていくべきだろうと。
 いわば、続けるメリットとデメリット、どっちがマシかを天秤にかけろということ。 そうするとだな、悲しいかなデメリットばかり、という方向ばかり選ぶことになっちゃうんだよ。
 政治問題、憎しみ、殺人、矛盾、環境、労働、病気、etc・・・まあ世で直面する嫌なことに対し、二択をもって挑めば、たいてい「続けなくてもいい。もう終わってもいいわ」となるんだ。つまり苦しい状況を今後の糧にするとか余裕はすでになくって、 なにより、続ける根拠がないという意識が脳内メーカーの99%を占めるという事実を悟ってしまうはずなのだ。

映画とかでもさ、社会派みたいな学び映画な、 人間こういう弱点があるから学ぼう、これからに活かそう、みたいな。バカかっての! ナチの凡庸な悪だとか、ああいう弱点があるから学ぼう、じゃなくって、もう「ああいう弱点があるんならもう終わらそう」とならないのがおかしい・・・という時代になってるんじゃないかと。 もういいよってさ、何回人間の限界を分からせられれば気が済むんだって、弱点だらけじゃん。 それでも続けようなんてマゾなんだな。
 SDGsとかもさ、続けること前提だろ。でいつまで続けんだって。長く細く絞ろうって魂胆だろ、じゃあもうこの一代でばあ―っと全部終わらせた方がいいよ。

まあ、こういう方法論、考え方で持って世の中に挑んでみようと。上に書いたようにほとんどすべての事柄に対し「終わってもいいか」 「続ける根拠ないな」「終わる方が楽だな」となるんだと。
 ただこういう考え方してると本当世の中楽になるぞ。金のことでも将来のことでも嫌なことでも何でも、何故苦悩するのかと言えば、続けること前提だからだよ。その悩みを抱えてこれから先何十年も生き続けなきゃいけないと思うから悩むんだよ。老人になるまで生きなきゃ負けなんだと。 でも例えば余命一年とかのやつが、普段俺らが直面するような嫌なことにかちあって、同じように悩むかといえば悩まんわな。 だって時間もったいないし、もう終わるし。もう終わるというテーマの前では些細なことに過ぎない。 いわばこの世に固執してないわけだ、もう死ぬ人は。だから悩まない。悩み事は固執してるから悩むわけだ。

そういう意識の確認ができたという前提で、


続けるオンリーという社会から、終わってもいいという社会へ。


続けるという意識は、終わりたくないという意識ー死が怖いという意識が潜在的な支柱としてあったがゆえだ。 しかし死が身近、かつ苦痛がなければ、死を従来ほどに恐れることはない。 つまり大切なのは、いつ死んでもいいという状況を作り出すことだ。 それは意識の上でもそうだし、なにより気軽さや苦痛などのハードルも込みで。 死が近ければ、怖くなければ、「続けなきゃいけない」という牙城を崩せるわけだ。

つまり状況が意識を変えるということだが、その状況は何によって生まれるのか。


安楽死という答え



安楽死という、苦痛のない死のカードを常備することにより、初めて人間は生と死を身近に捉えることができるのではないか。 そこから人間というのはスタートするのではないだろうか。だって生と死を併せて初めて生きるー人生なんだから。
 これまでにはありえなかった意識、発想だから異質だと思うかもしれない。が従来を否定しているわけではなく、 ただ、安楽死装置の発明により、人間の「生と死」を身近に捉えられる契機が今でこそ実現できそうなのは事実だ。
 もちろん、現在では常備ー誰でもいつでも気軽に使えるというところまではいかない。続けること至上の社会により、使用は病人に限るとか、それも賛否両論であったりと、ともかくけち臭い状況だ。

従来、死というものは苦痛そのものであり、また死生観の不透明も込みで、人間にとって遠ざけたい概念だった。 死は恐ろしいと。それは死に方が病死、戦死、事故死、ごくまれに寿命での死・老衰しかなかったから。ほとんどが苦しい。
 自殺が重苦しいイメージなのも同じで、苦痛と併せて殊日本に関しては実行のハードルが高い。 だって飛び降り、飛び込み、首つり、水死、焼死、切腹ぐらいしかないでしょ。ハードルがメチャ高い挙句、 しんどいしね。これがアメリカとかなら銃で頭撃ち抜くという、日本と比べてのハードルの低さと苦痛の少なさにより 自殺よりsuicideの方がもっとさっぱりしてて、ラフなイメージだ。

しかし安楽死は機械でもカプセルでも注射でも、眠っている間に心臓が止まるという仕組みだ。
 そういう、人間の創生から今に至るまで終始恐れ続けていた「死」という概念を 、安楽死装置が突破してくれたわけだ。

安楽死が可能にする俺の理想の社会とは 、上に書いた通りだな、死を身近にすることにより、 初めて人間は生と死の両方を伴った人生を送ることができるということ。 そしてそれに似合った社会が構築される、ということだ。
 ある意味でそれは従来の社会・・・否、特に戦後からの「生こそすべて」的な社会をひっくり返すことになる。 エンタメから教育から施設から、生オンリーの意識を維持するものばかりな時代。 しかし安楽死が誰でもできるような時代になれば、死=当たり前となり、ラフで、怖くないー忌避する対象ではなくなり、死をも取り込んだ社会の到達が期待できる。

人類にとって死は忘れ物というか、忘れたい存在だった。 だから病気とかになって初めて死を意識するみたいな。それが駄目なんだな。 その生と死の急転直下が歪だと。そしてそれが変わるのだ。 意識せずに生きるからしんどいのであって、意識しながら生きればーーしかも意識したところで怖くない・・・従来の常識は壊れるかもしれないが、 今より遥かに生きやすい、だろう。


 従来の常識
・・・それは生や社会を続けることが前提のエンタメ、道徳、法律、社会etcまあほとんどだな。 これを終わってもいい、が前提となれば、もう映画とかのエンタメも、やる気力がなくなるかもね。だって描くものないもの。上にも書いたけど、明日への活力、未来とか提起とか、そういう続けるためのものがエンタメだからな。それと前と同じ熱量で楽しめなくなるかもしれん。
 しかし、従来を否定してるわけじゃない。ただ、死を意識した新人類として、従来の作品を楽しめばいいというだけ。 まあ、同じ楽しみ方はできないだろうが。火垂るの墓とかエヴァとか、新人類からすれば「なんでそこまで生に固執するんだ?」みたいな・・・それはそれで寂しいんだが・・・でも、軽く生きていけるのなら、俺はそっちを選びたい。 そうそう、名作映画ってのは特にこの世に固執してるって感じなんだよ。でそういうものばっかり見てると死は負け、になっちゃう。

続けることをやめる、生に拘らないってのはもちろんデメリットがあるけどね。前ページに書いたことそのまんまだけど もう一度書くか。 生に過剰に拘らなくなれば従来より格段に生きやすくなるんだが、生=雑に扱っていいということではなくって、 だから道端に死体がゴロゴロ転がっても何にも思わないってのは違うワケでね。あくまで現状とその惨状の間を、その中間を行かなくてはいけないわけだ。

安楽死はその中間を可能にしてくれるんだよ。かつて戦乱の世では人を簡単に殺しまくって、命は吹け飛ぶような軽さ。 で今度は平和国家だからといって命は地球より重いってことになって、死は負けだと。極端から極端いって、で安楽死。 決して死ねというわけでも、生きろというわけでもなくて、自分で選べる。という・・・。

安楽死が制限なしで使える時代になれば、死を選ぶ人間が飛躍的に増えるか、そうでなくても死に対する意識が変わることは明白。、その空気の中で生きる人間たちが、それに準じた文化を作る。 そこにはもう、続けること前提の社会でなく、もう終わってもいいやという、法や規律、過去の呪縛や人生の楔ーー重苦しい何か、維持するための労働から、ある程度身軽になった、今より100倍は楽しい社会が待っていることだろう。

メリットをもうちょい詳しく。 病んだり息苦しさを感じなくなる。 病んだり息苦しくなるのは、何か嫌な目にあっても、それを抱えて老人になるまで生き続けなければならない、という 重い荷物を背負い先の見えないゴールへ向かう・・・という不安と絶望があるということなのだ。 いわば長距離マラソンのためにペースを温存して、その一定の速度で走り続けなければならない、ある種の拷問。 だからこそ死という逃げ場・・・逃げ場という言葉が悪ければ、自分で作れるゴール、それも低いハードルで作れるゴールがあれば、 閉塞感はなくなるはずなのだ。

安楽死が出来るようになれば、死生観がガラッと変わり、死を恐れることがなくなるとは書いた通り。 病んだ奴息苦しいやつ閉塞感持ってるやつがやることは安楽死の自由化運動これしかない。

だから自殺という、いわゆるネガティブで殺伐とした行為もほぼなくなるだろうね。 死にたかったら安楽死すればいいんだから。 書いたように自殺ってのは首つり飛び降り飛び込み水死焼死割腹と極めてハードルが高い。 やる決心から苦痛まで、あまりに殺伐としている。練炭とかもミスる可能性高いし危険だし。

死へのハードルが高いから、自分を陶酔させて、それが出来る精神状態に持っていくしかない。 それが俺なんかも経験した「離人症」仏教用語でいうところの悟りを開いた状況というわけだ。 現世への、つまり生への執着がなくなり、だからこそ死への恐怖がなくなり、割腹も美しい最後としか考えられなくなっていた。 そして同時に、従来拘っていた喜びや悲しみ恨みとかが薄れ、死へ向かっているにもかかわらず「精神的には生きやすい」状況になっていったわけだが、 それこそが「続けるからしんどい」の答えだと。

だからそういう状態になると、やはり俺もだがあの世の目になってるね。光がないというか、死ぬ人間の目になってるよ。

しかしこれらは生と死の距離が飛躍的に遠いから起こる状況だと思っている。 生100%の状態から、死という遠い世界へ、それもハードルの高い死を考えれば、精神の極端な飛躍が必要ということ。 安楽死の自由化で、生と死を伴えるような意識を人生に取り入れることができれば、 こういう極端な現象は起こらないはずだと思う。

あってももっとマイルドだろうね。

それと、そういう精神状態と自殺がなくなれば、急な飛び込みとか、家族に黙って死ぬとか そういう突発的な死ってのもなくなると思う。俺も黙って一人旅みたいな感じだったもの。 だから安楽死が必要なんだ。死=それで安らかに、ってだけだから、変に気負う必要もなくなるんじゃないかな。 まあ人様に迷惑かけたりする死がなくなるということかな。

ただメッセージとか儀式的な自殺は残るだろうけど。焼死とか割腹とか。それぐらいかな。
もう一つは センチメンタルなムードからの解放かな。 人生をマラソンに例えたけど、家族とか出会う人ってのは並走者であってね、それぞれゴールが違う。 そういう関係性なのに、生こそ至高・長生き最高という意識で、いつまでも走れるんだみたいな平和ボケっていうのか・・・。 親はいつまでもいる、みたいなね。それは美しいかもしれないけど、いきすぎると死んだときのショックの度合いがね。 他に子が親より早く死んだら親不孝だとか、親が子供を固執するとか、息苦しさの枠になってるよな。 もっと各自自由に生死を勝手にできるみたいなさ。その方がいいもの。 もっと自由度は高いよっていうところまでいければね。枠が狭いってのは自由度が低いから。 で狭い枠=センチメンタルにつながるわけで、一蓮托生・一方通行・・・。 自由度高ければ密集だけでなく、サラッとした関係もありえる。俺は哀しみ30%でいいですから。


発想の源



何でこういう発想に至ったかと言えば、そういう世代だから、と世代論に投げる しかないわな。 うん、同世代の連中は多分ほとんど同じ気分 なんじゃないかな。少なくとも終わることへの抵抗はないと思う、書いた通り。
 ただ理屈でこの発想が下りてきたんじゃなくて、天啓的に下りてきた んだよな。 前ページの普遍的なのは生と死だけ だ、っていうのは2年前の夏かそこらだったはず。 そこから一年ちょっと経って今ここだ。

で、人間やっぱ追い込まれたから苦悩し、何か結論が出るってこと多いと思うんだけど2年前のはそれ。 考えたってことでなくて下りてきたんだけど。 ここ数年一年か二年ごとに生命の危機的な勘違いがあったんだよ。 前に書いたように最初は3年前かの白血病か骨髄かの病気だと勘違いし、2年前はリンパ腫だと勘違い。 そのリンパ腫の時に生と死だけだというのが下りてきた。あの時は月に3回だけだけど、異常な寝汗かいてて、ヤバいと思って苦悩したんだけど、何にもなかったんだけどね。
 苦悩中にその生と死、という発想出て、そうすると死ぬことが怖くなくなった のな。 それはつまり、死の恐怖 ってのが「やり残したことがある」とか「やらなきゃいけないことがある」とかの未練 だったり、もっと言えば天国とか地獄とか、「あの世への恐怖」っていう不安 があったからだろうけど、生と死しか普遍的なものはなく 、その中間にある人生というものはおまけ にすぎないという答えが見つかったから、「やるやらない」という未練こそ無意味 で、生と死しか普遍的なものはないのなら、善悪の区別も時代ごとにばらけて 、だったらばやっぱり天国も地獄もありえない なと。結果的に、死を構えることはないな、というのが身体に降りてきた・・・。

でな、個人的な話が続くんだが、20越えてから体の不調がひっきりなしに出てきたんだな。 糖尿、痔、痩せの無呼吸、頭髪の元気のなさ、たまにくる歯茎の腫れ、 (無意識に身体を傾けて生きてきたからか)右足がミリ単位で短いことが発覚・・・等、 確信する、人生は長すぎるのだ!戦国時代の人生50年すら長い。80年なんてとても。 健康だのなんだの気にしつつ長生きこそすべてとか、バカらしいとしか思えない。 加えて事故などの偶発的な死だとか、天災とか、恨みつらみとか勘違いからの殺人だとか、 それを超えて長生きして、得あんのか・・・というか、なんか面倒くせえなー。そこまでしんどい思いして生き続けなきゃいけない根拠あんのかって。で、 ないんだと。

で、生き続けなきゃいけない根拠として家族愛とか生の重みだとかがあるんだろうけど、 そこも降りてきた発想「この世に固執するエリートによるエンタメ洗脳」により、生への根拠が異常に高まりすぎた んだと納得。宮崎駿のトトロ見て確信したんだよな。あいつらはプライドゆえ生を肯定しすぎる。否定しろっていうんじゃない、ただ自分のプライドと固執による人生賛歌を他人に見せびらかすな、押し付けるなって。
 俺は親、愛してますけど、しかし彼らとセンチメンタルな心中する気はないんでね。さっぱりしたいわけだ。さっぱりした関係をね、やっぱラフに生きたいからなあ。それも世代論としてね。 ただ親の世代もエンタメ洗脳、教育、社会も同様で、人生を重く、センチメンタルに捉えているから難しい。
 俺さあ、ネットとかテレビとかにある、年寄りでもイキイキとか、60から始める〜人生、とか健康な暮らしを、とかイライラするね。いつまで生きる気だよって。いつまで生きれば正解なんだよと。100まで生きれれば勝ちってことか? ある種のドグマに囚われててさ、それは自分の幸福の追求としてやってんのかって疑問なんだよ。 幸せになる気がないのに幸せになりたいとか言ってるみたいな。何にも考えずに生きてんのかって。間抜けだな。

そう、続けること前提の社会の問題がまた出てくるけど、これゴールがないことも大きいよな。明確なゴールがない。 長生きつっても80、90、100で違うしな。なんかあったら「まだまだ長生きしてくださいね」っていうのがほのぼの感動コメントみたいな。生き地獄よ。 だから続けること前提の社会ってのは、全部自己責任、自分で判断しなければならない。 しかしSNSだの有名人だの、エンタメだの、そのエリートによる勝ちの世界を見てると、とても安易に勝ったと納得しづらいんだよな。

上に書いたロリコン問題。子供を守るってのは本能と、あと社会維持のため、それと一般的な倫理観に反してるとかいうんだろうが、その倫理観も続けること前提の倫理観なんで・・・あのな、同性愛を否定してた理由と変わらんね。 何故同性愛を否定してたかというと本能的に嫌、社会にとって迷惑、倫理的にキツイ、おいおいおい、一緒やんけ。
 あと政治活動家とか、何かの被害者とか、恨みつらみ持ってるやつとか、ともかく何かに拘って人間性荒廃してる連中によるニュースやらもめ事やら見てると、やっぱこういう発想がいちばん正しいと思ったな。 彼らは続けたいから、拘ってる。まあ二重だな。で拘ってるから不幸になる。 意地悪く言うと、勝手に拘って、勝手に不幸になってんだ。まあ俺からすると冷めるなってのがあるわな。 これまた謎のドグマに囚われてるだけでね。

世界のあらゆる不幸は「社会維持」「続けること前提」から起こっていることを銘記せよ。 宗教、戦争、政治、恨みつらみ、etc。

結局、俺は完全ネット社会ど真ん中に生まれた訳で、なので情報過多なんだよ。あらゆるエンタメも映像も文章も、理屈も歴史も十分すぎるほど獲得した。映画もアニメも見すぎた。インプットは十分だ。 あとはアウトプットするだけって感じだ。だからさ、人生30年ぐらいで十分 だわ。 そういう意味でも人生を過度に続ける根拠はない。マジでない。そういうヤツは多いと思う同世代に。 もうホームレスになっても盲目になっても困らないとかすら思ったりした。結局人生ってのは頭の中にインプットした情報をこねくり回すだけだから。

前ページみたいに、死への意識どうこうを理屈と言動で納得しようと思ったらかなり難しいんだよな。不可能に近い。 それは全体の問題でね、一人二人ってことでなくて国民レベルでってことだから。 そういう意味で、安楽死が社会機構の一つとして、国民の選択肢の一つとして存在するようになれば、 状況により 、死前提の人生を肌で感じるようになるだろうと。 もしなったら楽しみだけどね、そういう社会で生まれた子供がどういう意識を持ち始めるのか。
 まあ理由がないと安楽死できない社会 の方がまだ続くんだろうがね。やはり資本や支配層の反対とか。国が主体だった頃の方がやりやすいかもね・・・。 そして本来それらに対抗するはずの人権団体だったりも反対するんだ。まあ所詮あいつらも資本の手先だから。 本当の人権派は安楽死の自由化を目指すはずだ。反対する連中を銘記せよ。

エリートと大衆との闘いだよな。エリートこそ「続けなきゃいけない社会」を構成する一番の要因であることは間違いない。 彼らは欲が深い。よく宗教とかで現世のしがらみとか苦しさから突破するには欲を捨てろというけど、まさにそれ。 欲深い人間が世界をリードしているんで、つまり現世へのしがらみしかない連中が世界を支配しているので、 そうやすやすと、彼らの欲を満たすに必要な奴隷を捨てることはないだろうという・・・。 欲深い連中との闘いだな。

世界レベルの解決策・・・安楽死が自由化されれば世界レベルで生と死を併せ持った、終わってもいい社会が来る。 これが来るまでは個人レベルでの解決策を、つまり終わってもいい意識、生と死の人生を併せるには常に、「続けるメリットかデメリット」を天秤にかける思考を身に着けるべきだ。 今は無意識に続けて苦しんでいる時代だ。しかしこれでほとんどの人間が「デメリット・・・終わってもいい」という答えを手にするはずだ。そこからは拘りが薄れ、生きることがさっぱりするよ。

俺が何故生きるのか。それは安楽死で楽に死ぬためだ。そのために生きる。死を意識しながら。それだけだ。


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