高千穂逢

見終わって残ったのは、やり場のない腹立たしさだけだった。あからさまに時間を損したと思った。いろいろとひどい映画も見てきたが、こんなことは珍しい。 しかし、まず、作画スタッフには称賛の声をかけておこう。彼らは、よく描いた。 いささか宝島的であり、家なき子的ではあったが、それでも十分に必要な水準には達していた。この点に関しては、はっきりと認めておく。 が、文芸スタッフはそうではない。彼ら、とりわけシナリオライターに与えられるのは罵声だけである。 ライターの藤川は、あれだけの原作を得て、こんな低レベルの脚色しかできなかったことを、自ら恥じるべきだ。 この「エースをねらえ」は山元の「エースをねらえ」ではない。全く別物の駄作である。 そして、そのすべての責任は文芸スタッフにあるのだ、原作との差は、謳い文句ひとつとってみても明らかである。 ポスターに書かれたそれは、こうだ。「二度とないこの一球にきらめくような愛と生命を込めて私は―打つ  これに対して原作の文句はこうだ、きらめくような命を込めて、本当に二度とないこの一球を精一杯打たねばならない・・・ 愛は仰しく言葉をひけらかして観客におしつけていくものでは決してない。 作品が、そのテーマの中心に愛をそえたのなら、それはただ単に言葉によってのみ表現されるのではなく、作品全体の流れとそこに映し出される行動によって ひとつの魂のように観客の上になだれ落ちてこなくてはいけないのだ。むろん、山本はそのことをよく承知していた。 きらめくような命を込めて打つ その行為によって自然に愛が表現され、観客の心を揺さぶることを彼女は確かに知っていたのだ。 山本のエースをねらえは壮絶な作品である。読んでいて胸が締め付けられてくる。そこには哲学があり、闘いがあり、人間の善意がある。 それは、もう、後にも先にもこれしかないというほどの秀峰なのだ。 その作品を、この程度にしか理解できない連中がいるのである。 驚くべきことではないか。しょせん格が違う、才能が違うと言ってしまえばそれまでだが、にしても、どうやれば「エースをねらえ」から最も重要な精神と精神の激闘と成長の部分を省き、 単なる恋愛ごっこと、スポーツ根性ごっこの脚本に仕立て上げることができるのだろう。 教えてもらいたいくらいである。「ロッキー」「ロッキー2」のフィルムの垢でも煎じてみたらどうか? エピソードのシークエンスがテーマを生み出していくという最も基本的なセオリーが少しは学べるはずである。 たとえばラストシーン。原作では、水をかえに行った蘭子、ふとベッドを見る。 息絶えたコーチ、日記の「岡、エースをねらえ」の文字、花瓶を取り落とす蘭子、タラップを登ろうとするひろみ、はっと振り返って、「今、コーチの声が」と言う。 愕然となる藤堂。みごとな流れだ。花瓶を取り落とすほどの動揺で蘭子とコーチの絆を示し、 ひろみにコーチの声を聞かせることで、ひろみとコーチの絆を描き、愕然とする藤堂の表情で、藤堂とひろみの絆を活写しているのである、 映画には、これらのシーンは一つとしてない。ナッシングだ、何も描いていないのだ。 これで作品といえるのだろうか。ぼくは折に触れて一部のアニメライターの知的レベルの低さを多くの人に訴えてきた。しかし、そのひどさも、ここに極まれりである。 原作の本質を取り違えたうえに、内容がこうもお粗末では、どうしようもないのだ。必死の思いで絵を仕上げたであろう作画班には、ただただ同情するのみである。

小野耕世

喫茶店で原稿を書いていると、時々、楽しい会話が聞こえてきて、つい聞き耳を立ててしまう。 「それでね、母ったら、ひがむといけないからって、あたしに、後で兄と同じもの買ってくるのよ。ひがむわけないじゃないの、子供じゃないんだから、ねえ。」 「それで、お兄さん、まだ結婚しないの?」 「いろいろ考えてるみたいよ。でもね…あたしも、ときどきいらいらしちゃうわ。お客さんが来るでしょ。 全部10ドル札にすればいいのに、50ドル何枚、20ドル何枚、5ドル何枚なんて言われると、あ、もう、やめてやめてって、そういう感じよ。 だけど、あたしの気持ちを知ってて、主任が、じろっとこっち見てるのよね…あら、このコーヒーカップ、かわいいわね」 銀行へ勤めている女性とその知り合いの少し年上の女性との会話らしいのが分かる。 たいてい、ケーキ皿か何か、店の食器の花模様のデザインに、話の途中で目をやり、かわいいわね、という。男の場合は、まずこんなことはない。 この会話を耳にしたのが「エースをねらえ」というアニメーション映画を見た後かどうかは、忘れてしまったけれど、この映画は、その時の会話みたいな雰囲気に仕上がっている。 ええと、高校だったか中学だったか、とにかくテニス部があるんですよね。かなり立派な学校だったことは確かで、堂々たる門というかホールがあって、 そこを通る主人公の女の子、(もちろん彼女は、かわいらしく、ちょっと舌足らずのしゃべり方をしなくてはならない。) 喫茶店の銀行員の話し方と、まったくおんなじ。 彼女の前に、背の高い、恰幅のいいハンサムな男がいる。ぶつかってしまう。見上げる。まあハンサム。どぎまぎしてしまう。 動物の視点から見た人間というのも大きいだろうが、女の子から見た憧れの男性は、大きくそびえ、髪は長く、目元涼しく、口元引き締まり・・・。 でも、こうした少女漫画は、素敵ですよ。サンディエゴのコミックス大会には、モンキーパンチ氏の一行が日本の描く少女漫画家の絵を持って行った。 目のパッチリの大きな女の子の、ハンカチーフのデザインにいいような花をあしらった小さなカラーの原画を飾っておいたら、むくつけき男がやってきて、買いたいという。値切られて50ドルで売ってしまった。 後でその男に聞いたら、漫画家の原画を買い集めるのが趣味で、アルバムを見せてもらったら、彼の家のいたるところに原画がいっぱい・・・。 日本の少女漫画家の絵は、娘に買ってやったのだという。ちゃんと額に入れたら素敵だよと喜んでいる。この種のきれいな女の子の絵に、漫画大会にやってくる連中は関心を持っていた。 日本の少女漫画は、目が異常に大きくて、星が二つ照っている、と非難したのはディズニープロのウォード・キンボール氏だったけれど、あれが可愛いというアメリカ人も多いのですよね。 もっとも描かれているのが日本人とは思わないのでしょうけれど。 「エースをねらえ」は、少女漫画の画面から感じる光キラキラをそのまま生かして、やたら光が画面に差し込む。(あたしたち、光の中で生きているのよ、素敵ね。) お姉さんテニスプレイヤーの神はブロンド、それでこそいい。もちろん、髪を染めているわけではなく、本当は黒髪なのだろうけれども、黄色や赤色でなくてはならない。それが様式なのだから。 これは、少女漫画ランドのお話なのだから、内容は、典型的なソープオペラ。憧れの人は、余命いくばくもないのだと知り…ずいぶん早く作っちまった作品だと聞いたけれど、それで構わない、 光の差し込む色刷絵ハガキの紙芝居。アメリカで売れるかもしれないな。




映画芸術 1980年 ベスト10 19位


 森世一 2位

エースをねらえは管理社会そのものずばり。 自由経済でありながらマクロ的な都合で統制、制御される。金利の上下で銭の流れを変えるというのだ。 この場合ヒロインがお金、制御する政治がコーチとなる。岡ひろみが詰まらん政治事情に振り回されながらも実は大変自由に少女としてこの軌跡を描いていて そのひたむきさに感心させられた。映像としてのアニメ手法も最大限配慮されたものだと思う。


 尾形敏郎 5位

エースをねらえはアニメにも関わらず、女学生の体臭が芬々と匂ってくるような エロチシズムがあって、それは「美少女狩り」における鈴木則夫の波乃ひろみに対するオマージュと軌を一にしているような気がしました。


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