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映画「野獣死すべし」は映画「野獣死すべし」 であって、小説「野獣死すべし」ではない。 それは、大藪春彦氏のものでも角川春樹氏のものでもなく、ましてや我々製作現場のものでもない。 わざわざ劇場まで足をはこび、千数百円の大金を投じて観て下さるお客様ひとりひとりのものである。すべての映画がそうであるように。
小説「野獣死すべし」は、素晴らしい。昭和38年の発表当時、この小説と出会った人々は、戦後生まれの我々が村上氏の「限りなく透明に近いブルー」に出会った時のショックと同様のものを味わったのではないか。 若い作者が内に秘めるだけ秘めて、もはや爆発せざるをえなくなって、ついに噴出せしめた圧倒的なエネルギーと研ぎすまされた感覚は、時を超えて若い世代をうつ。私のように戦後の混乱期を知らず、ハードボイルドに殆んど興味をもたない者でも圧倒されるのだ。
八十年代の社会情勢や映画状況から判断して小説「野獣死すべし」をそのまま映画化することは不可能である。伊達邦彦の鮮烈な人間像やストーリーは、昭和33年という時代そのままにとりこんでてゆかないと、その無類の衝撃波は発射されない。 今の映画界で“昭和38年を背景にしたハードボイルドを製作することは許されない。あくまで八十年代の野獣死すべし。がスクリーンに誕生すべきである。 そこで我々は、八十年代の野獣死すべし創作するにあたって、伊達邦彦のキャラクターを模索する作業から開始した。 何よりも肝心な点は、主演俳優・松田優作の一本の指の動き、目の配り、微細な心のアヤの表現が、松田優作自身の常人には信じ難い生理とデリカシイに満ち満ちた感覚によほどマッチしないかぎり、一ミリも作動しない、この一点にある。
結果的には、神聖にして冒すべからざる伊達邦彦の正体を、我々は暗闇に誘い込み、いかなる手段に訴えても別の衣裳を着せねばならなかった。例えどのような批判を浴びようとも。
この企画が持ち上がって数ヵ月経ったあるパーティの席上、松田優作は私を呼んでこう言った。
「丸山、伊達邦彦をつかまえたよ。ちょっと見てくれ」
彼は、その場にジッと立ちつくし、何の動きもしない。目の輝きだけが次第におちてゆく。そしてゆっくりと、実にゆっくりと首を回し始めた。地球の自転くらいのスピードで振向くのである。 その余りにも緩慢な動作、返った瞬間の気の立ちのぼるような眼差。それがすべての出発点だった。脚本家として、これで八十年代の伊達邦彦をとらえられるのじゃないかと思った。
彼は考え続けていたのだ。延々と悩み、工夫し、崩し、また一からやり直してキャラクターを考え続ける。それを何回かテストしてみて、あるカタチを醸成した時、脚本家の私に託すのである。
「丸山、俺たちがやる野獣ってのは、大都会の静寂、そこに答えみたいなものがあるん じゃないかね。そう思わないか」
「その静寂の影の部分にひそむ何者か、ですね。」と、私。 彼はこの時から大いなる助走を始め、私も脚本化の作業をスタートした。
私が自分に課したことは、ひたすらシンプルにしたストーリーを組むこと、この一点である。
日本映画としては珍しく納得のゆくまで時間をかけることが許された。私はまず、大藪春彦氏の発言やエッセイ等、いわゆる“大藪春彦マインド"について研究した。 それをこちら側で発酵させ、昇華させて、映画のどこかでボトリとおとしこむ。 そこがこの脚本の一つのポイントである。
脚本をじっくり練りあげる時間を貰えることは素晴らしい。 例えば一篇の詩を探すのに一週間の時間をかけられる。 私は図書館に日参し、古今東西の数千の詩とにらみあった。例えば、この映画の犯罪を行なう場所や周囲の条件、逃走経路についても十分に研究できる。 私は犯行場所を日本橋に決めるとこれまた日参し、繰返し犯行前後の詳細を練りあげた。 まさに犯罪者と同じ心理で、大都会のある一隅をウロついたのである。
ある程度のストーリーを組んだ段階で、製作総指揮の角川春樹氏と、黒澤満プロデューサーをまじえて打合せに入った。八十年代のスクリーンに登場する「野獣死すべし」は、小説とかなり形がかわらざるをえないのだが、角川氏には快く了承してもらった。 かけだし脚本家の未熟さを暴露したストーリーだったが、こちらの若さに賭けてくれたのである。嬉しかった。角川氏はハードボイルドにも大変造詣の深い方である。この時いくつかのアドバイスをもらったが、それは長い執筆時間の中で硬直しつつある 私の脳天に非常な刺激をもたらす効果的な助言だった。
第一橋がようやく完成した途端、私はまったくの虚脱状態になってしまった。自分のもっている数少ない毒を全部出しきってしまった。 読み返すのもオックウになるほど、毒に満ちたホンを書いたと思う。これでいいのか悪いのか、私には判断のしようがなかった。
この脚本は、それからニヵ月かけて数回稿を重ねたが、そのすべての作業に、映画人・松田優作がタッチしている。 彼は撮影の数ヵ月前から早くも食べる物をチェックするなど八十年代の伊達邦彦の具象化にとりくみ、そればかりか脚本化の作業にも尽きることのない意見を提出しつづけるのである。 ただ一本の映画に賭ける彼の執念は、この映画をとりまくすべての製作陣を圧倒し、静かでしかも熱い現場へと雪崩れこんでゆくのである。
私の脚本は、現場で、村川透監督の計算されつくした深い映像感覚、仙元誠三撮影監督や渡辺三雄照明監督等すぐれた映画人たちの洗練された技術によって解体され、 さらに俳優・松田優作のひらめき、折々の感覚や生理、共演者とのディスカッションを通して増幅され、八十年代のエンタテインメントフィルモグラフィに再構築されて、いま、観客席の皆さまひとりひとりのもとへ届けられます。
映画「野獣死すべし」をご覧になって、願わくば小説「野獣死すべし」を一読いただきたいと思う。 八十年代の数十人の映画人がスクリーンに送り出した“野獣”と、昭和33年以来活字の中で脈々と梁をつづける。野獣を比較して、「本当の野獣」とは一体何なのか、観客の皆様自身のエンターテインメントの一つとして思案していただければ、幸いに思います。