出席者 遠藤誠 見沢知廉

見沢 で、97年に死刑が執行されてしまうわけですが…。 葬式の時に、先生は「法務大臣のヤロー、いつか絶対にぶっ殺してやる!」と、 参列者の前で、顔を赤くして獅子のごとく吠えてらっしゃいましたね。

遠藤 あぁ、あの怒りは今でも忘れられませんね。

見沢 僕はやはり、獄中作家としての永山則夫に、並々ならぬ思い入れがあるんです。 獄中では、原則創作禁止ですから、その条件下で小説を書くことが、どれほど大変かは 誰よりも身にしみてわかるんです。

遠藤 それは、接見などで多少は刑務所内の様子が分かる僕でさえ、大変だと思うんだから、実際に 体験してきた見沢さんなんかは、永山の真の苦労が分かるでしょうね。

見沢 えぇ。その苦労をしながら、新人賞を撮るまでの作品に研鑽していくというのは奇跡に近い行為ですよ。 ですから、僕があれほどつらい獄中で小説を書き続けられたのも、永山則夫という一筋の光明があったからこそなんです。 それまで、メッカ殺人事件の正田昭が群像新人賞の候補になったことはあるのですが、新人賞を獲ったのは永山一人ですから。

遠藤 永山君と見沢さんは確か同じ新日本文学賞でしたね。

見沢 彼が19回で僕が25回です。

遠藤 永山の遺稿「華」の生原稿をマスコミより先に見沢さんに見せたことがありました。

見沢 「華」は3600枚の大作なのに、一行も改行がない。それについては、色々な評論家の意見がありました。 「強迫症状で文節が終わらないのでは」「白いマス目が怖かったのでは・・・」実は違うんです。 原稿用紙は原則房内所持は一冊。それを終了し、次の原稿用紙一枚を房内舎下げすると前のものは領置。 いったん領置する見るためには、いちいち所長の許可を取らなければならないので大変なんです。 それでできるだけ長く手元に置いておくために改行せずびっしり書き詰める。改行するともったいない。 だから、僕の時の原稿なんて、便せん7枚に原稿用紙50枚くらいの小説を2,3ミリの字で書いているんですよ。

遠藤 そう、今だから実をいうと獄中の見沢さんから来た獄中のアドバイス要請の手紙の字 、ほとんど読めなかったあ!(爆笑)


 私が獄中にある間、肉親としか文通ができない囚人ゆえに、私は母を代理人として、右や左の集いに出席させた。 その中で一番豪華だったのが、野村秋介さんと、遠藤誠弁護士の出版のパーティー。
 しかし私が出所後、母はもう使命を果たしたと公の場から一切姿を消した。
 で、94年12月8日出所後、わずか4日目。 現実感が全くないフラフラの状態で、まだ母あてだった招待状を手に、私は遠藤弁護士のパーティーに出席した。
 「えっ!あの、レコンにときどき、中の短信を載せていた見沢さん!?いきなり裸になって、テーブルの上に乗って踊らないでしょうね(笑)」 と、プロフィールのみ聞いていた遠藤弁護士の奥様、大心配。 ところが見沢は人により顔は真っ青で、高い天井やシャンデリアがコワイ! そして、中で決起やハンスト、訴状など戦闘モードの発信を四方八方に出し、他の弁護士からは、頭が変だと一切相手にされなかった見沢知廉に唯一、毎年手紙や年賀状を書き続けた聖人・遠藤誠登場。 見沢が、おそるおそる名前を告げると急に感激した顔でいきなり抱き着いて、いつまでも強くギュウギュウ ・・・・・・遠藤先生は、きっと、永山、平沢さんに・・・・・・も、こうしてシャバで、思い切り ギュウギュウ、抱きつきたかったんだろうなぁ・・・・・・。


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