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映画が後半に入るにしたがって、満員の試写室は啜り泣きの声で包まれてしまった。 クライマックス近く、まだ元気だったころの妹節子のイメージが次々と出てくると、これはもうきわめつけ。 試写会に催涙弾をぶち込んだような有様になってしまった、こんなことは珍しい。大概のお涙頂戴映画には、すっかり慣れっこになっているはずの 鉄面川の試写会族を、ここまで追い詰めて泣かせてしまうとは、と僕は驚き、絶句してしまった。高畑勲監督火垂るの墓が上映された時のことである。
劇場では、数多くの子供たちも、水を打ったようにシーンと静かになって、画面に見入っていたらしい。 らしいというのは、二度目の火垂るの墓を見る勇気が、僕にはまだないからだ。他人はいざ知らず、どうも僕は、この映画を一本の映画としてではなく、 余りに描かれた世界の中にのめり込みすぎて、一つの体験として捉えているからだろう。もう一度、節子の声を聞くのは辛すぎる。 もう少し時間がたてば、冷静に見ることができるかもしれない。しかし、ビデオが発売されるとなると、話はまた別。 心置きなく自室でわぁわぁ泣いても、誰はばかることはない。ビデオの効用は、色々あるけれど、他人様に泣き顔を見られたくないという意味合いでは、 ダントツのおすすめが、この火垂るの墓ではあるまいか。
でも、いったい何が、いい年をした大人たちを、恥ずかしいほど泣かせ、普段は騒がしい子供たちを、これほど厳粛にさせるのだろうか。もちろん物語自体が、大きな部分を占めているのは間違いない。 しかし何よりも、作者たちが、この原作と正面から対峙し、 言葉の正確な意味で誠実さを最大の武器にして取り組んだ姿勢、それが画面の隅々にまで染みわたり、結果として、この感動を呼び覚ましたのではないかと僕は考える。
原作は、野坂昭義の名編であり、氏の直木賞受賞作の一つである。敗戦前後の焦土を舞台にして、幼い兄弟を主人公にした哀切極まるドラマであり、しかし演出の視線はほとんど兄弟に対しては冷めた距離を置いて見つめている。 空襲によって母親を失い、二人きりで生きていかざるを得ない。この兄弟は、現在から見れば想像を絶するような苦境に 見舞われ、死んでいく。ラストをのぞいて、高畑演出は、兄弟の運命を淡々とつづるのだが、その淡々さが尋常ではない。 ドロップの缶ひとつまで徹底的にリアルに描くことによって、兄弟は、アニメーションという、もう一つの現実の中で生きてしまったのだ。
だからこそ、心無い人々が言うように、火垂るの墓は、子供をダシに使った、お涙頂戴の観賞用映画では、決してない。 むしろ兄弟が、そうした運命をたどらざるを得なかった時代を、あきれるほどの正確さ、緻密さで描いたからこそ、単なるお涙頂戴の域を脱した説得力を持ち 、見終えた後、いつまでも観客の心の中の鐘となる映画になったのである。
さらに、この映画は月並みな反戦映画でもない。そういうレッテルを張られたとしても、ある一つのジャンルに、おとなしく収まっているような映画でないことは、明白である。 この並々ならぬ切実さの根本にあるものは、作者の、この時代=現代への問いかけであり、その結晶体が、映画火垂るの墓という形になっている。 映画を見終えてからの時間が、ちょうど濾過される機関となっている。魂となった清田と節子の兄弟が見つめる摩天楼に住む我々に対して 精神も環境も、そんなありさまでいいんですか?二人が望んで果たせなかったのは、こんな未来だったのですか?兄弟だけの防空壕暮らし、 そっちの方が、まだしも充実していたのではないんですか?とさえ、問いかけてくるような気がする。
今、答えだけの映画が氾濫している中で、火垂るの墓が、なぜ希少価値の高い映画化と言えば、その問いかけの深さによるものだろう。 映画に答えだけを求めている人々にとって、火垂るの墓は、戸惑い以外の何物でもないかもしれないが、重要なのは その問いかけに対して、観客が答えようとする力さえ失っている――ひどい場合には、問いかけられていることさえ分からなくなっている、という事だ。 優れた映画は、そのまま観客の現在をも照らし出す。
実写から再びアニメーションへ帰還して作られた火垂るの墓では、さらにアニメーションならではのリアリティが、作者の内部で再確認され、より理想的な形で この現実へ向けて発進されたと捉えたい。とにかく一度は見るべき秀作を、高畑監督は作り上げたのだ。