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桂千穂
8月14日午前1時、盛岡市郊外"の 「ファースト・シーンから、画面はテンポ快調に進む。そしてただごとでない風雲をはらんで、鹿児島へ、博多へ、首相官邸へと切り換わる。 畳みかけるような躍動感があって、安心して任せられ、ついていける山本薩夫演出である。 さすがはと感心し、この調子で全編を押し切れば大したものだが、との期待感も湧いた。が、それは甘かった。ところどころで描写(説明)不足が気になるようになる。
よく映画を一緒に見た者同志で、あの 場面がよくわからなかったがどうなって んだろう、と話し会うことがある。寄らば文殊の知恵で納得のいく場合もあれば、結局わからずじまいになることもある。大体そんな場面が散見するような映画は、A級たり得ない、というのが私の持論だ。 試みに内外の優れた作品を振り返ってみ給え。優れた作品はどれも全編にわたって明快そのもので、判じ絵もどきに首をひねるようなことはまずないといってよい。その点「皇帝のいない八月」はA級たり得ない作品ということになる。 しかしA級ではないとしても、娯映画として面白くできている作品ではある。
自衛隊のクーデター事件が描かれる。 一種のポリティカル・サスペンスといっ てよかろう。かつて日本映画はブルジョワ社会を描くのが苦手だったが、「傷だらけの山河」「白い巨塔」「戦争と人間」「華麗なる一族」「金環蝕」「不毛地帯」 などでそのジンクスを破った山本薩夫である。 クーデターで動揺し緊張する自衛隊上層部と緊急閣議、そして与党内の派閥抗争と腹の探り合いを事件の推移にない交ぜながら、間断なく急ピッチで場面を追う。 厚みのある演技陣の生かし方、さばき方も、自家薬籠中の物といってよい鮮かさで、山本薩夫の面目躍如としている。 この種の演出ではやはり当代随一である。総理(滝沢修)の老獪さ、総理の椅子を狙う右寄りの大物(佐分利信) の怪物ぶり、仕掛人内閣情報室長(高橋 悦史)の非情、元憲兵の自衛隊陸将補 (三国連太郎)の強権ぶりなど、なかなかの異彩である。クーデターの指揮者藤崎(渡瀬恒彦)が血盟の同志(山崎努)涙をのんで射殺する徳山駅の場面も印象的だ。
しかしクーデターの核心があばかれるまでの、臆測と狼狽と対策が錯綜する前半が緊迫感をためて優れているのに反しばれてからの後半はありきたりのサスペンス・アクションになってしまう。 クーデター部隊にジャックされた特急「さくら」内に、藤崎とその妻(吉永 小百合)、妻の元恋人だった雑誌記者(山本圭)の三人が乗り合わせている設定はメロドラマ臭フンプンだし、三角関係の この3人と、これに三国(吉永の父)を加えた人間関係にも明確さを欠くものがある。男女関係の描き方はあまり得手でない 山本薩夫だが、やはり三角関係に関しては色艶がない。 渡瀬が吉水を犯して妻にしたイキサツ、夫婦になってからの愛情の屈折・密度もよくわからない。列車 爆破前、山本圭、渡瀬、そして吉永が一席ずつぶつのも生硬だ。 事件に不可欠なの新聞記者だが、神山繁、森田健作の記者は格好をつけているだけでオザナリであり、乗っ取られた列車内の乗客の反応もこれでは軽重すぎる。岡田嘉子と渥美清、それにアベックが乗客代表といったところだが、全く失敗。もっと乗客の混乱状態を見せるべきであった。
渡瀬も吉水も山本圭も死んで列車は爆破炎上、東京では佐分利が毒殺され、佐分利の情婦太地喜和子も死ぬ。そして事件の全貌を知る三国は植物人間化され、事件は報道管制で列車転覆事故として片付けられる。目撃者が沢山いるからそれで済むというものでもなかろうに......。 一転して、騒擾にはワレ関せず鳥の市民が群れている、天下泰平然とした歩行者天国の風景で終わる。荒船行管長官が、 自衛隊のクーデターについて、クレームをつけたというが、同じ自衛隊を扱った「野性の証明」のほうに、人道上許すべからざるゆゆしき問題点があるように思う。そして同じ娯楽映画でも、ケタ外れに製作費をつぎ込んだ「野性の証明」 より「皇帝のいない八月」のほうが数等上の出来栄えである。 大東黒洋士
日本の推理小説の水準は、米英にくらべ信じられないほど遅れている。断わっておくが現在の水準である。松本清張、世沢左保、佐野洋氏らがクツワを並べて登場してきた50年代後半には、わが国のミステリの前途洋々たるものがあったのだが。
そのダメな水準のなかで、特に箸にも棒にもかからないのが(推理小説家の手による)冒険、スパイ活劇のジャンルだと思う。(SF系の平井和正氏や、筒井康隆氏の作品では、アナーキーなまでの 破壊と暴力が醒め切った眼で描かれ、私は高度な文明批評すら感じて、いつもうならされるのだが。)
これが暴論だとお考えなら、西村寿行氏の作品とデズモンド・バグリイや、ジェフリー・ジェンキンズなどの冒険小説と、一冊でも読みくらべてほしい。例えば氏のパニックスリラー「滅びの笛」。同じテーマを扱ったジェームズ・ハーバート作「鼠」の前では、赤ン坊と関取りほどの腕力の差がある。
こういう貧弱な冒険スリラーの土壌のなかで、自衛隊のクーデターにまきこまれた平凡な市井人のお話を、あえて映画化した見識に、私は非常な期待を抱いて いた。 巻頭、盛岡近郊の闇を疾走する大型トラック。パトカーの追跡。炎上。一転して 鹿児島で墓参中の三国連太郎陸将が、さらに東京の内閣情報室の高橋悦史室長が登場。このあたりまでは(トラックがいきなり機関銃で応射するのだけは無茶だ-未見の方のために理由は書かない)テンポといい、サスペンスといい、申しぶんない展開だ。
ところが、あとは矛盾が目立ってくる。
この大長篇を支える主役三人、つまりクーデターの指揮官・渡瀬元一尉、その妻・吉永小百合、小百合の昔の恋人でまきこまれ型主人公を演じる山本圭の心情が、ほとんど納得できないからだ。
三国陸将の娘で渡瀬に誘拐され、ホテルで強姦されたのがキッカケで、主を捨 結婚して五年、いまは渡瀬を愛しているという吉永の性格など、三十年前のメロドラマ以上の陳腐さなのだ。(しかもドラマはこの三角関係を主軸に展開するのだから厄介だ)
山本氏のようなベテランが、こんな設定をするはずはないと考えた私は、大枚 九五〇円を払って原作を購入、一読し
と、原作では、渡瀬はいちだんと狂信的に描かれ、吉永は自分が逃げ出すと山本圭が殺されるのでは・・・・・・と恐れて、やむなく渡瀬の情婦の境遇にあまんじている。そして渡瀬を好きでもないのに、決起には最後まで行動をともにしたいと心の底で思っているらしい。到底ついてゆけぬ人物像だ。豊島の魅力が出てきた吉永も、久しぶりの本編というのに、演り にくそうで気の毒。
こんな設定では山本薩夫監督も手のつけようがなく、主役三人の人間ドラマのほうは最低のツジツマあわせにとどめ、原作のもうひとつの面である、政界奥の院の超右翼派的な反共精神の摘出と、右傾化の危険に力点を置いたのだろう。政財界のどろどろした葛藤の描破は、監督の独壇場なのだから。
その限りでは手慣れた運びで、いつもながらのそっくりショー的興味もあり、登場人物の派閥までタイトルに出すのはお遊びがすぎた感じだが、一応、最後まで見せることに、この映画を見た政府の偉いひとが、何か抗議めいたことを洩らした(私はTVニュースで見たらしいから、仕掛人? としては愉快だったろう。
だが、山本監督がこんな境地に安住していられては困る。明らかに停滞でしかないのだ。とりわけ、ラストの《非人間的な〉処理など政府のやりそうな手口だということぐらい、情報化社会のおかげで、いまやどんな観客だってお見通しだし、全然衝撃を感じはしないだろう。
せめて、「カサンドラ・クロス」を超 える結末を創造してほしかった。