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秋本鉄次
封切初日の新宿ミラノ座の大画面に踊る東映三角マークの波しぶき。だからでもなかろうがこの映画、いつもの歌舞伎町東映気分にすぐ切り換えられた。
大作ブームもピークは過ぎたかとはいえ、まだまだ量産されている。こっちも見慣れすぎたせいか、身構えるなんてことはない。歌謡メロドラマとしての「燃える秋」。石井輝男が撮ったら更に奇怪さが増しただろう「日蓮」。いずれも、気になるはずのゼイ肉部分まで、勝手に消化して、オツな味だと思っている自分がおかしかった。
例によっての大量宣伝で、春の大作群真打たるこの東映新作、又してもゼイ肉タップリのイメージが想起されそう だ。なんの、そんなゼイ肉位、肉なら何でも喰う私としては、エバラ焼肉のタレでもつけて、バリバリ噛み砕いてやるわいの息込みだった。
ところが、噛み砕くつもりのゼイ肉が、少ないのだ。ヒーロー鶴岡七郎=夏木勲には、ひいき目を割り引いたとしてもゼイ肉などミジンも感じない。例えば、天知茂検事に喫茶店で出喰わし「せっかく注文して飲まずに帰るのかね」と突っ込まれても、ニコリ微笑んで、天知の勘定書もさりげなくつかんで去ってゆく、あの余裕。開巻、画面を奪う隅田光 岸田森にしても、ハメられる側の佐藤慶や成田三樹夫も、そして最後まで鶴岡の片腕であり続ける私設銀座警察の太田洋助=千葉真一も脇に徹したこの余裕。全て私のイメージキャスティング通りに遂行してくれた。
そのゼイ肉の無さは、ヒロインにも波及する"七郎いのち"を二の腕に彫り込み、鶴岡の悪と共に、一瞬のためらいもなく落下する毒婦綾香は、原作以上の描き込みだ。
自分の悪に、さすがに夢でうなされる鶴岡を、更に悪に徹するようさとす、おんな。鶴岡を生かす為に、九鬼と無理心中する、おんな。男の身勝手な発想から言わせてもらえれば、これ程のヒロインは、ゾクゾクする気持良さである。
戦後史を焼き付ける気など、おそらくサラサラ無いのだろう、村川透監督。アブレゲール達に、哲学的なセリフも、余分なモノローグも与える暇などなく、ちょいと高級な天才パクリ屋集団の活躍ぶりを描破するに徹し、一気に2時間半を駆け抜けた、その軽いフットワーク。
大作というと付いて廻るゼイ肉のイメージと、それに対する大作アレルギーの蔓延する中、遊戯"シリーズより、金をかけた分だけ、かえって抜け抜けとリラックスしてくれたようで、潔い。
ただ、角川春樹御大自ら、パクられる側の社長に扮し出来ることならあなたを殺してやりたい"と鶴岡に向かって怨み言を吐くってシーン、パロディとしてもやはりイタダけない。この種のゼイ肉には、いくら悪食の私でも、とても噛み 砕く気になれないのである。 田山力哉
敗戦後しばらくの混沌とした時代にあっては、まだ個人の能力が自由奔放に発揮されることが可能であった。東大生の山崎晃嗣がその天才的な頭脳を生かし、闇金融業の光クラブを起こし、ぐんぐんとしていったというような事件はその一例であった。
が、その山崎でさえ、ほんのわずかの間の成功だけで挫折の道をたどり、自ら死を選ぶ。この映画のトップ・シーンで、事務所に火を放って死んでいく岸田森扮する隅田という男は、山崎がモデル になっている。
高木彬光の原作小説は、この実在の天才児にヒントを得て、彼よりさらに超人 的な才能と悪魔的な資質を持つ真の転載を作り出し、あの乱世に思う存分その才能を発揮させてみたら、という一種の空 想の世界を描いている。
だが夏木勲の人の良さそうな顔を見ていると、どうもそういう悪魔的天才のとぎすまされたような鋭さを感じない。ごく平凡な男が、なにやら一大決心をして画面上を動いている。
いや、別に異常な才能を持った人間が、異常な風貌をしていなければならない、ということはない。だから夏木のキャラクターが、鶴岡七郎という役に合っている合っていないということが問題なのではない。
このような、現実には存在し得ないよ男が、実際にはなし得ないような思いも掛けぬ犯罪を細緻に計画し実行していくということは、文字の上でそれを読む時、抽象的な面白さにゾクゾクさせられることも可能であろう。
だがそれがそのまま、具体的に視覚化されてみると、そういう抽象的な空想の楽しさが吹っ飛び、なま身の現実的な人間が目の前を動いているという、妙に矛 盾した興醒めることになってしまうということだ。
神波史男の脚本は非常に良く書けているし、ストーリーテリングとしてはかなり面白い題材なのだ。よその会社のオフィスを使っての手形のパクリだとか、佐藤慶の経営者をうまくたぶらかして多額の金をタダで奪ってしまうとか、南 米の公使館をオトリにして金をだまし取 るとか・・
すべて奇想天外で、トータルで五憶か なにかを法の目をくぐってせしめてしまうやり口は鮮かだが、これはあくまで原作者の頭脳のなかで作り出された観念の世界であろう。
その観念の世界が、現実の犯行として眼前に展開すると、どうもやっぱりピンとこないことになる。鶴岡七郎の犯罪計画は一点一画のゆるぎもないようだが、たとえばいくら土曜日とはいえ他人の事務所をああも巧く使うなど、実行の段階では全く奇跡に近い成功ではないか。
なんぼ金につまっても、年期を経た老重役が、ああもコロリと鶴岡の術中におちいって酔いつぶれるだろうか。計画としては理論上完璧であっても、それはやっぱり一種の夢物語であり、それが眼前ですべて理論通り成功してしまうのを見ると、ああ、これはウソだなと思い、なにやらアホ臭くなってくるのだ。
鶴岡が自らの犯行により、多くの人々を死に追いやり、それを苦にして悪夢を見るあたりなど、まるで平凡な男の俗な苦悩というレベルになってしまう。冷酷で、悪魔的な、異常な才人という人物像の創造は、少なくとも映像的には完全に失敗したと言ってよい。
やはり、松本清張のような日常的リアリズムによるものは映像化しやすいが、こういう頭脳的な知的遊戯を映像で表現することは、そう簡単には巧くいかぬものらしい。 村川透の壮然たる失敗作である。