霜月たかなか


  さしずめSFアニメ超大作とでも言えばいいのだろうか。何しろ3時間5分という長尺。
 超大作と呼ばれるゆえんは、だがそれでなく、作品の語る物語の方にある。
 ある未知の宇宙人残した巨大なロボットと宇宙船とを巡って、植民性に居住した地球人と、バックフランと呼ばれる宇宙人との間に起きる未来の戦い。宇宙人、巨大ロボット、そして主人公たる少年たち、と繰り出されるテレビシリーズ再編集版アニメ映画には、お なじみのキイワードが列挙される。
  その例にもれず、3時間五分というっ時間をもってなお、時間、編集共に十分とは言えず、接触編と発動編に分かれた二部をつなげる際のエピソードの切断、省略に至っては痛々しいほどである。発動編の初公開という謳い文句も、テレビ未放映部分の総集編という意味に過ぎなければ、どうしてもアニメファン相手のご都合作品と見えなくもない。
 それをあまりにも粗削り――と人と戸で決めつけるのをためらわせるのは、この作品が物語にことよせて語り切ろうとするエネルギーのすさまじさにおいてである。 話のかなめとなる井出成道の超エネルギーは、ある種の意思をもって、人類とばっふクランの双方を操ろうとするのだが、一応は地球の側について、迫りくるバッフクランの戦闘メカ舞台にその都度相手を上回る力をもって押収する。 巨大な敵メカを巨大ロボットイデオンの両ワン先から放射する光の束が霧崎、ついには一つの惑星を両断する。発射された光景は、星を貫いて反対側の宇宙艦隊を包むバッフクランが超新星のエネルギーを集めた全長数百キロに及ぶ破壊兵器を持ち出せば、それと井出との激突は宇宙の一角を崩壊させ、敵味方含めた登場人物の死を呼ぶのである。エスカレーションに次ぐエスカレーション。
  途方もない力と力の激突に巻き込まれて、バッフクランに追われての度が続く中、正だけが希望を求める若い主人公たちの上にかぶさり、幼児までもがむごい死にざまを見せる。さすがにどうしようもなくなってか、全員が魂となって残り、新しい星へ向けて 再生に向かうという一転してオプチミスティックなエンディングが付け加えられるが、それなしにはおさまりのつかないところまで、キャラクターでもテーマでもない物語自体の力に作品をゆだねた――という肝心の一点は大いに評価されなければならない。
  例え人類(バッフクランも同種の人類として設定されている)どうしのなす惨劇の羅列に終始したとしても、ただ映像の語るに任せ締めよと、死と破壊の宴に向けて作品を追っている監督――富野義行のダイレクトな想像力の開放は、彼を機動戦士ガンダムよりも伝説巨神イデオンの作者として評価させずにはおかないだろう。
  四六時中スクリーンをメカ同士の戦闘がし、エネルギーが難色物光になって乱舞する世界に、アニメーションもこれがそれなしには成立しえない作品であることを雄弁に物語っているのだ。 スターウォーズのマテリアルな感覚こそないものの、それに代わってアニメーションが最大限、リアリティとフィクションを接近させ活性化させる。
  考えてみれば、邦画は現在まで、このような知的に組み立てられつつ、勝途方もない物語を持ったことがなかったのである。 キネマ旬報1982年5月上旬 


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