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佐藤 「役者も30年やっていれば、それがどんな感じの作品になるのか、撮影している段階で大体検討がつくものなんですよ。 でも今回は、初号を見るまでは全く想像できなかった、こんなことは初めてですね。」
佐藤浩市が、最初に『誰も守ってくれない』の台本を手渡された時、プロデューサーや監督からはこんな言葉が添えられていた。 「フジテレビも社会は映画を作ろうと思うんです。」 しかし佐藤は普段から、その社会派映画という定義自体にナンセンスなものを感じてきた人間だ。佐藤 「もちろん単なる個人的な感覚なんですが、でも、少なくとも30年前にはそんなカテゴリーはなかったわけだしね。 多分世の中自体がおかしなねじれ方をしているから、そういう言い方になっちゃうんでしょう。 でも、それを言うなら、『悪魔のいけにえ』なんて最大の社会派映画だってことになるからね(笑)。 それに、社会派だからと肩ひじ張っちゃうと、この映画の先行きに、あまりいい影響はないんじゃないかと思ったんですよ。」
結果的に、君塚監督は本作を社会派ヒューマンエンタテイメントと位置付けたわけだが、それでも佐藤は 「いや、実質、エンタテイメントでしょう」と断言する。佐藤 「いったいどうなるのだろうかと緊張させて、でも最後にはわずかな希望が残る――という構成の仕方で言えば、やっぱりこれは純然たる娯楽映画なんだと思います。 なので、プロデューサーや監督には、やろうとしていることがエンタテイメントであるならば、社会派云々ではなく、 より上質のエンタテイメントを目指す方向で行った方がいいのではないでしょうか、という話はさせてもらいました。・・・と言っても、この話は、スーパー刑事が出てきて、いたいけな少女を守りながら悪と戦う話ではないわけで(笑) 台本を読んだ時点で、あくまでも観客と同じ目線で勝浦刑事を演じる必要があると考えていました。 つまり、どれだけ地べたで演じられるかということです。あと、事前に考えていたのは、少女と勝浦の関係性ですね。・・・要するに父性があるのか、って話ですよね。僕もそういう流れになるのかと思っていたし、監督も、最初は実際にそうおっしゃっていました。 でも、父と娘、大人と子供の関係じゃなく、対人間としてここで向き合ったとき、ぼく自身、彼女を守りたいと、初めて心から思えたんですよ。 それがなかったら、その先に続く浜辺のシーンで彼女に向ける言葉を、つまり、それでも人は生きていかなければならない というような言葉を、ぼくは言えなかったでしょうね。」
佐藤 「まあ、これらはたまたまではあるんですが、三谷さんのところで初めて喜劇というハードルに挑んだことが大きかったとは言えますね。喜劇ですときちんと銘打った作品への主演ほど、役者にとってプレッシャーなものはないんですよ。 はみ出したらそれは失笑になるし、足りなければ映画館から笑いは生まれない。 そこらへんのセンスを問われるぐらいシビアな問題はないですから。だから逆にこれを超えちゃえば、後は何でもできるなと。今は、そういう状態にあるんでしょうね。」
現在の境地に至るまでには――佐藤浩市もまた人間、こちらが抱くイメージとしては反・浩市的な、ともいえる「食べていければいいやと安全な方向をついつい選びたくなる」時期もあったのだという。佐藤 「30年もやっていれば、そのうちそういう気持ちも起きてくるわけですよ。そんなとき、三谷さんの喜劇をきっかけに、目の前に大きなハードルがあった方が演者としては面白いんだということを、改めて思い出したってことでしょうか。」
「芝居が面白いわけじゃないんだけど、明らかに若いころとは違う立ち方をしている自分を俯瞰していた」時期に三谷喜劇と出会い、 こういうところにもう一度行けたことを喜びとしている現在の佐藤浩市。佐藤 「とはいっても、役者生活も長いとやっぱり付き合いが一番大きくなってくるんですよね、もう最近は、同じことを効かれれば、付き合いと脚本と金って言ってますよ笑」