「白鯨」の構成と分裂 三木宮彦

この小文は、ヒューストン監督の映画「白鯨」だけを基にしたもので、メルヴィルの原作に拠ったものではありません。
 捕鯨基地ベッドフォードの描写は重要な構成因子である。教会内の無数の遭難者追悼盾や、出帆の見送り手は婦人・子供ばかりなことは過去にくり返されてきた悲劇を暗示し、 ボートで近寄って銛を打ちこむ漁法の描写は将来の奇禍を確定的に予想させる。波止場の老婆たちの顔の大写しはドキュメンタリー的な感動をさえ作り出している。 酒場の水夫たちも、新入りを迎しえて踊り興ずる姿は、演技されたものでなく、当時の生活をそのままぬすみ撮りしたもののよ うに見える。
 しかしヒューストンの目的はある異常な物語をすることにある。船長エイハブはかつてモビ ー・ディックに片足を奪われた。 常識ある人間ならここで隠退するだろうし、仇討を志すとしても生命まで犠牲にしようか?
 どれほどその熱情が大きくても、彼もまた世間の人として多くの物に縛られている。まず、彼自身もやとわれているのだ。 鯨油も持ち帰る義務がある。 遭難乗組員の遺族にも利益を配当せねばならぬ。また、万一の場合は全部をまきぞえにすることを考えねばならなかったろう。 その暇を与えぬほど大きな熱情とはどんなものか? 監督は適当な話術によってそれを観客に納得させる義務がある。それは大体異常な行動の積重ねから来心理的圧力を利用していて、船長からは、銛を組合わさせ番わせること等々、水夫側か らは、船長が夜通し甲板の上を歩き回ること等を語り合って恐れる行為の中に表されてい る。この言わば蔭から語る部分のたたみかけは実に巧みで、かえっていよいよ実際に姿を現わしてからのエイハブは、顔のタイプとしてはとにかく、どなりすぎて軽い。 だから、甲板掃除という低い体位から見あげるといつのまにかそこにエイハブがいただけでは充分でなく、彼の異常さと威圧力を示すためにもっとショック・ギヴィングな紹介法が必要だった。
 さて、一つの行動に対する1協力2反対3無関心の三反応のうち、物語の異常さを示すため、1は独立しては存在せず、3の群の衝動的盲目的な従属として現れる。 エイハブは特異な経験から特異な目的をひきだした男なのに、そうでない者から容易に協力者が出ては劇的効果上迫力を薄めるからである。
 スタバックは船長に同情しているが、彼には彼の、捕鯨は世界に灯油をもたらすからよい事だが復仇のために追うのは神を汚す事だという、倫理がある。彼はついに法律によって船長を抑えようとするが、水夫たちは同意しない。エイハブとの対立はスタバックがピストルを構える場面で頂点に達する。 家族持ちという設定で、彼が常識ある人なことは納得されよう。従って彼には射てなかった。と言って 1にも変らず、彼はただ諦観する。
 3としての水夫たちはエイハブを恐れかつ尊敬しているが、彼が白鯨に目標を限る事は理解しない。彼らとしては、他の鯨を捕り捕りモビーディッ 見つけたらついでにやっつけ る、くらいのつもりでいる。から、同じモビーディックに片手を奪われたが大漁を選ぶ他船の船長を配したことにより一応対立は示されているが、 水夫たちの無理解と不満の象徴として、捨て去られる鯨の大写しが是非あるべきだった。あるいは嵐の場面に暴動を用意すべきか 聖エルモの火をつかむエイハブへの恐怖で自ずと鎮まる等 けを
 視点を変えて、叙事詩??予 定された遭難談としてはどうだろう。まず、牧師マップルの説で指示される。神のくだし給うた命令を避けようとしてはならない。これはエイハブの熱情の是認である。 次に、追悼盾と老婆たちの描写で前以て弔われる。最後に、エライジャーが予言する。これは観客に将来の悲運を確信させる重要な伏線だが、 エライジャーがピークォド号から逃げて来たばかりの水夫 (この前の航海でも、エイハブがモビー・ディックを追ってひ どい目にあっているのは白鯨の背の数で解るのに、この映画だとベッドフォード土着の水夫たちが船へ乗ってから始めて船長の目的を知るように見える。それは足を失ったその次の航海 にのみふさわしい)の姿で現われず、予言も日常会話の中でなにげなくされなかったのは物語をいたずらに神秘的にしてしまったうらみがある。この物語で 異った性格の対立の中から悲劇が生れて来べきだったのに、彼らの運命が予言によって決められてしまったら皆むなしい操人形に堕してしまうではないか? さて、それは見張番の死・聖エルモの火の出現・不吉な凪・クィークエグの占いで頂点に達し、あとはむしろ静かに実現を待つばかりとなる。 クィークエグ以外の者は誰一人明日の死を自分の死と思っていない演 出に注意。それは船へ残されるとちょっと船長をきどってみたりする少年ピップで代表されて
 エイハブの死によって彼のまきぞえにならずにすむようになった人々はどうするか? そのまま逃げ去るとも、逃げる途中白鯨に襲われて不本意に死ぬとも考えられる。しかし、ここに第三の道があった。エイハブ の死体の手の動くのを見たスタッ ブがあの予言をして恐れて、逃げようと言う。思いがけず、その瞬間親代代の鯨捕りのスタバックが言う。鯨ごときに負けて逃げられるか、と。このすばらしい逆転(2ー1と3ー2ー1)によって劇は新しい進展を見せる。すでにエイハブの遺志でも彼の仇討のためでもない。彼らは突進し、ヨナのように白鯨の腹中に呑まれる。 彼らはベッドフォード・サガの英雄になった。最後の悲鳴をあげたとき彼らは尚人間だった。しかし、そのことは語り伝えられない。追悼盾はまたも増え、今後も増えつづけてゆくであろ
 彼らにこのような運命を与えるモビーディックとは何か? この小文はヒューストンの白鯨観論に帰着する。マップルの神の命令か? エイハブの悪をひそめた存在か? スタバックのただの海の生き物か? 人に一方的に挑んで破れたのか? それとも人間と対等に闘おうというのか? ただ、鯨の眼の大写しだけが何かを語るかに見えるが単にショックを狙ったのか、ヒューストンの意図は解らない。
 何故エイハブはスタバックに「俺はお前が好きだ。俺は正しい眼の奴を見ていたい」などと 言うのか?これでは自分の異 常さを自覚していることになる。すると彼も実は常識ある人か? それなら凪の場面で白鯨を逃がしたかと思い、あきらめようかと悩むほうが性格の統一もとれ、一層の速度感も与えられる。これとか「白鯨の背後の「悪が憎い」のような名セリフは全ヒューストン作品の魅力でもあり、あいまいさをさそう悪癖でもある。
 このような構成上の二三のあいまいさにもかかわらずこの映画を成功させたのは何だろうか。それはフィクションの背景に深みを与えたドキュメンタリ調と、最後の逆転のみごとさ である。彼らは嘆き悲しまずに死んだ。その暇がないほど生命 感にあふれていた。酒の さは老婆たちの涙とコントラストをなして、二つの意識の世界を分ちつつ、しかも表裏一体の基調となって全巻を貫いている。私はこの一対の場面を尊重する。ここに彼の詩があると思うから。人は、ヒューストンの関心を挫折にあると言う。 しかし挫折は事件の結末という表面的現象にすぎない。彼が真に語りたいのは、挫折をひきおこすほどの熱情に富む行動について、ある生命のありかた(ここでは海の男らしさ)への感動なのではあるまいか?。


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