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映画「白鯨」における文学との距離 荒正人
『白鯨』のような作品を映画化することは、これを正面から取り組むならば殆ど不可能である。それは、文学の罪でもないし、映画の罪でもない。 両者の間に横たわる深い距離のためである。極端なことをいえば、映画の『白鯨』を観て、小説を読まなくてもかまわないし、むろん、その逆のこともいえる。 両者に接した場合は、これを別々のものに考えたほうがよいであろう。両者を結びつける必要は必ずしもない。
初めにイシュメールの姿が現れ、心に十一月の雨の降るときは、海にゆくべきときだ、とつぶやきながら、山道を歩き、山道を歩いてゆくと、必ず谷川にゆきあたり、谷川は必ず海に通じているというようなことを、独白で語る情景がでてくる。 これは、この映画の発端の発端とでもいうべき小さい部分であるが、原作は必ずしもこういった簡単な扱いではない。
原作はこんな風になっている。 まずイシュメールが登場し、心の憂鬱のはけ口を海に求める。この男の語るところによれば、何千何万という人間が真直に海を目ざして歩いてくる。 ざんぶと飛び込みそうな勢いである。羅針盤の磁石に吸い寄せられるような工合に、男たちは海へ引き寄せられるのであると、作者は語りながら、つぎに、べつな例をもちだす。
「もう一つ、例をとろう。まず諸君は田舎にいるとする、どこかの湖岸地方の高地とする。どこなりと、お好きな道を歩いてみたまえ、十中九まで、諸君は谷にぶつかるだろう、そこには川の中流の淀みがあるだろう。 まるで魔術のようなものだ。天下第一のうっかり者が、深い深い夢想に落ちこんだと仮定し、その男を二本の脚で立たせ、両足を前の方へ進ませたとしたまえ、否応なしに、 もしその土地に水があるなら、その男は諸君を水のほとりへつれて行くろう。諸君がアメリカ大砂漠の真中で咽喉がかわいたとして、もし一行の中に哲学教授でもいるとしたら、この実験をやってみたまえ。 まったく、瞑想と水とは、いつの世になっても付物だということは、誰でも知っている通りだ。」
メルヴィルは、この例に続いて、この三倍位の長さで、またべつの画家の例をだし、さらにそれよりも長い分量で、イシュメール の口を通じて、なぜ自分が海にゆかねばならぬかということを具体 的に語る。これが、第一章の「まぼろし」であり、全篇百三十五章から成り立っている。筋は単純だが、その内容は必ずしも単純ではない。全篇を通じて、奇怪な情熱とでも評する以外に評しようのない烈しい魅力にあふれている。それは、すでに第一章のなかに煮えたぎっている。万一この最初の章を読んで、これはどうも自分に調子の違う作品だと思う読者がいたならば、そのひとは、このアメリカの古典と関係がない。それは、その読者が、文学鑑賞力をもっていないということにはならぬ。肌合いが異るだけのことである。映画『白』の場合は少し異る。イシュメールが山のなかを歩 き廻り、水にゆきあたっている姿だけをみて、この映画が自分の性に合わぬと思って席を立つひとは まずいないであろう。むろん、この映画は、天然色とはいえ、鈍い青と灰と褐色で、『白鯨』の暗い基調をだそうとしている。それは、みごとに成功している。だが、そういう色彩のなかに動くイシュメールの姿をみただけで、こ の映画がメルヴィルの調子をすべてとらえているということにはらぬ。それは、第一章の「まぼろし」の文章の調子と較べてみれば、ただちに納得できるに違いない。
スタンダールの『赤と黒』の映 画を観たときにも、映画と文学の距離を強くかんじた。『白鯨』は 原作に忠実な映画である。無声映画時代にやはりワーナー・ブラザーズが、この作品にもとづいてつくった『海の野獣』などは、原作では鯨と共に海に消えてしまうエイハブ船長が、恋人をえて幸福な生涯にはいるというハピー・エンドになっている。これなどはむしろ、『白鯨』の映画化ではなく、『白鯨』を材料に使って新しい内容の映画をつくったとみるべきであった。それに較べれば、たしかにこんどの『白鯨』は、驚くほど原作に忠実な映画である。ただし、この忠実という意味が問題である。それは、原作を守ったということを意味するのではない。文学的にもそうだが、映画的にみても原作を守ったということにはならぬ。前者については、第一章の「まぼろし」の部分の比較だけで十分である。後者については、問題が少し混み入ってくる。
映画『白鯨』は、原作の筋を忠実に追っている。ところで、小説としての『白鯨』の面白さは、筋にあるのではない。筋だけならば、気違いじみた、片脚のエイハブ船長が、白鯨を追い求め、ついに目的を達するが、イシュメールを除いては、すべてが海に消えてしまうという物語にすぎぬ。『白 鯨』の面白さは、メルヴィルが作中いたるところで、筋からはみだ し、海について、鯨について、人種について、また、当時のアメリカについて、独自の見解を、異常な情熱を傾けて語るところにある。いや、その内容よりも、語り口にある。『聖書』のように語り、シェイクスピアのように語る。叙事詩であり、また、ドラマでもある。『カラマーゾフの兄弟』に例えられたり、『リア王』に較べられたりする所以である。 映画でも、この調子を音によってとらえようとしている。それは、たしかに効果をあげている。鈍い天然色と、深みのある荘重なセリフや説明は、映画としての新しい調和を生みだしている。この意味でも、 原作に忠実であるといえよう。筋を変えなかったばかりでない。形の点でも、積極的に忠実であろうと努めている。これは、大変な努力だったと思われる。むろん、この努力のなかには、「白い鯨」をトリックでつくりだすというようなことも含まれている。これは、文学の側からみれば、本質的には大したことではないようにも受け取られる。だが、映画にとっては、大切な仕事のように思われる。スペクタクルとして、金さえあればできるというような工合に受け取るべきではあるまい。
文学は、スペクタクルという点になると、映画に全く歯が立たない。小説の『白鯨』を読んだひとにも、鯨のでる場合は小説以上だろ う。 という印象を強く与えるであろ 鯨の場面だけではなく、暴風 に遭ったときの船の状態なども、小説の描写はおよばない。聖エルモの火などは、どんな方法で写したかしれぬが、天然色で初めてその感じがだせる部分である。この映画はこの点でも成功している。
話は遡るが、発端のニュー・レッドフォードの港町の情景もたしかによく撮れていた。イシュメールが、捕鯨館ピーター・コフィンで、銛打ちのクィークェグと同じベッドに休むときの情景など、実に巧みにとらえられている。ニュージーランドあたりの人喰い人種であったクィークェグの、顔と体一面に文身をほどこした姿などは、小説からだけでは心に浮かんでこない。映画全体を通じて度々登場するが、強い印象を受ける。小さいことでいえば、鯨の教会で、昔銛士であった牧師が、船のさきに模して作った説教壇に綱梯子で上って説教をする様子なども、映画としてよく撮れている。 小説では、説明的になっていて、それはそれで面白いが、恐らく現代の読者にはかなりまだるっこい感じがつきまとうであろう。小説を読んで映画を観ても、映画を観ても、小説を読んでも、その対応関係は必ずしも正確なものではなくなってしまっている。両者は、独自の領域を拓いている。厳密にいえば、小説『白鯨』の場合は、十九世 紀の物語の特色である主情的な説明が多すぎるし、映画『白鯨』の場合は、風俗画のもつ外面描写に終っている。映画で新しい試みをするところにまではいっていない。
最後に、エイハブ船長の姿をどんな工合に映画的として造型したかという問題が残る。じつは、この点で映画『白鯨』の価値が決まるのだともいえる。結論的にいえば、グレゴリー・ペックのエイハブ船長は、余りにスマートであり、少し現代的にすぎるように思われる。むろん、メルヴィルの表現している奇怪な情熱のすべてを 映画で表現することは、初めからできない相談であったかもしれぬ。それにしても、復讐の情熱などについては、もっと強い独自な表現が与えられてよかったのではないかと思う。クィークェグをあ の程度に表現したならば、 ヒューストン監督は、ペックにもっと多くの註文をだしてもよかったように思う。この辺になると、映画の性格にも関係する。 スペクタクル映画としてならば、これ以上句はつけられぬ。スペクタクル映画として成功しているから、逆に主役の演技について難しい註文がだしたくなるのかもしれぬ。この船長を表現する演技は、作者メルヴィルの情熱にたいして、深い内面的な共感をもった俳優によって初めて可能になる。これは、いうべくして不可能な註文かもしれぬ。そうだとすると、 映画『白鯨』は、文学としての『白鯨』とはべつな鑑賞を求めているものであって、比較論などは無用の技であろう。私も、大体こういう考え方に賛成である