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白鯨の色彩設計 宮島義勇
「白鯨」のカラア・スタイルの 設定には、演出者ジョン・ヒューストンと撮影者オスワルド・モリスとがクレディットされている。 映画における視覚的表現の責任のあり方として、当然なことであるが、その供力の密度からいって、演出意図が、通常の色彩撮影処理以上のものを要求していることを示しているしそれに応じて技術者と しての可成の積極的な、また実験 的な意図を示していると思える。
テクニカラアのシステムが、色彩映画の上で、最初に商業的な成功を見せたため、色彩効果の設定上、ナタリイ・カルマスに代表されるテクニカラア社の独占的支配を許し、コンマアシャルな色彩論の中で長いこと足ぶみしてしまった。又、多層式カラアフィルムの 成功も、自然主義的な色彩論を抜けでる為の、技術的基礎を充分にそなえる為には、相当の時間がかかった。そうした時期を、最近ようやく脱しかけてき、そのための努力が多くのかたちで見られる。
テクニカラアの中のシステムで、色彩処理の積極的な仕事を最も特徴的に見せたのは、ジャック・カーディフを中心とする英国のカメラマン達だった。つまり、色彩が加わると、モノクロムの場合より、もっと民族的、風土的な諸条件がはっきりしてくるといえる。また、アメリカの技術者達がしばりつけられているコスモポリタニズムの支配からぬけてるのに容易な条件もあることなのである。
B・S・C(英国カメラマン協 会)附属のオスワルド・モリスが、アイルランドを中心に仕事をしたということは、「白鯨」のカラア・スタイルの成果の上の大きな条件の一つとして考えられる。
しかし、カメラマンのタレントというものは、潜在的性質のものであり、作品、演出、または主要な題材、対象等との相関的な関係の中で生かされてくるのである。だから、演出者ヒューストンの要請というものを、評価の基本からはずしては考えられないのである。
モリス自身がいっていることによれば、次の三つの点がヒューストンとの討論の結果としてあげられている。第一に写実的な描写で あるが、幻想的な雰囲気が必要で あること。第二に自然と動物にたいする人間の闘いを描く上から、いわゆる軟調描写を排除すること。 第三に一見して過去の時代であることを意識させること。そして、こういった条件を実現させるため、テクニカラア・システムのとっている三色分解撮影のネガテイヴに、さらに黒白のネヴティヴを追加して仕上げる原色版印刷の技法をとりいれた。又、原色の各ネガティヴ処理にも、可成りの調整を試みており、その成果には自信をもっていると報告している。
鑑賞に時間的制限のある映画において、また豊富なショットをも画面のうえで、一枚のタブロオを仕上げるような色彩の統一は非常に困難なことである。モリスとヒューストンが出しているような条件は、こうした作品なら必ずいわれて来たことなのであるが、色彩設計の課題として、はっきりとりあげられる自信というものは、「白鯨」の中に、その条件を受け入れる態勢があったからであろう。と、いうのは、この映画が、地域的に広範な感覚をあたえるが、そのとりあげられる主要な対象の範囲は、単純な海と船の中であり、視覚的な矛盾の問題は最少限度にとどめられる。それ故、色彩の統一も、比較的公式的に要約されるので、成功しうる確率も大きかったわけである。
しかし、その課題の積極的とりあげと新しい技法の導入とは、評価されなければならない。
実際の撮影は、オスワルド・モリスの他に、フレディ・フランシスの協力によるものである。
色彩効果は、幾つかの破たんはあるが、にぶい青と灰と褐色をつかって、成果をあげたといえる。
しかし、撮影全体の効果からいえば、次の諸点を疑問としてあげたい。第一に、原作のメルヴィルのもつ思弁的要素をドラマティカルな構図にまとめあげる点で、色彩の統一ということから、個々のショットの性格の平均化がおきているのではないかということ。第二に、主要な環境である海洋の表現が、かなり注意してあるにもかかわらず同様な原因から単純化されてしまってはいないか、ということである。
それ以外には、最も多くの努力がはらわれ、それだけに欠陥が見出されやすい嵐の場面とか、鯨との格闘の場面とか、帆船の沈没等の特殊撮影の効果の幾つかの点をあげたいが、これらの問題については自分としては、商売敵に対する批判というより、同業者としての弁護という立場をとりたい。
と、いうのは、「白鯨」のスタッフ達が提出している色彩設計の問題の提起を、やはり前進する方向のものとして受けとりたいからである。(撮影技師)