メルヴィルとヒューストン 平山杉一


 愛読者というものは、映画化によって、その原作が傷つけられることをおそれる。「白鯨」に関する限り、私もまた熱烈な愛読者として、その映画が心配でならなかった。
  「白鯨」の中の、メルヴィルの独特の寄道の部分を省いて筋だけを追う本が出ていたり、恋愛を入れた映画が出来たりしているが、 この「白鯨」には、そういうことを許さぬものがある。つまり、けがしてはならぬ人格風格をもつ文学だ。もとより普通の海洋冒険小説ではなく、小説ですらないかもしれない。 描写がないから、日本では小説の仲間入りをさせないかもしれない。大げさな比喩などをちりばめて歌うように呼びかけ、 どこまで横道にそれるかわからぬような考証を並べ空想を刺したりし て、 これを喜ぶものにはまたとない魅力に充ちた叙事詩の如き文学である。日本でいう小説とか、散文精神というものと無縁である。
 私は、昭和廿四年、筑摩書房の阿部知二氏の訳ではじめて読んだ。それが昭和三十年に完結するまで、五年間かかった。 私は、他の訳は読まずに、じっと待っていた。 別に筋を追うわけでないから待てた。そして五年間少しも私の イメージは色褪せなかった。
 第一巻が出たとき、谷崎潤一郎氏が、その面白さに三嘆したと書いている。 構成とか組立てを小説の面白さと見る谷崎氏を惹きこんだこの第一巻では、何の事件も起らずまだ鯨の一匹もとっていないのである。 あるものは、序景であり、考証であり、饒舌である。にも拘らず大ドラマの変転と錯雑にまき込まれたような錯覚に陥るのである。 それは、全篇に充ち充ちた情熱と、それが貼ってやまぬ道草寄道の考証饒舌の故である。
ジョン・ヒューストン監督もまた、この文学に魅惑され、 その映画化を永年の懸案としていたというから、この魅力の源泉ともいうべき情熱の音楽のようなものこそが、生命であることを知っていたであろう。
 ヒューストンは、その登場以来 「黄金」など人を破滅へと駆ってやまぬ情熱の悲劇を、好んで描いており、「白鯨」にその典型を見出そうとしたことも諒解される。
 私が、阿部知二氏訳の筑摩書房 版を五年間も待ち続けた原因の一つに、あの挿画がある。(ロンドンのカセル社版のものかどうか知らないが) 全篇にちりばめられた、 大小さまざまのこの版画風の挿絵が、実にこの文学の風格と合っている。壮大荘重の身ぶり、情熱の大芝居、ロマンチックな味嘆、などがよく写し出されて、 読むものをメルヴィルの世界へ誘ってくれる。この画家も、よくこの文学に映画化も、またこの挿画家の仕事に没入し、それをよく歌ったのだ。
 映画化も、またこの挿画家の仕事でなければならない。 イメージを造型し、それによって、自分の感激を人に伝え、メルヴィルに近づき得たならば、という願望が、作者を駆ったであろう
 ヒューストンの「白鯨」が、やはりこの挿画を媒介としたことは疑いを入れない。 クィークェッグなる銛手のいれずみ土人の顔あたま、 服装などが、先ずそうである。 更に、オーソン・ウェルスの牧師が、説教する教会の説教壇のごとき、つき出た十字架を竜骨とした船首をかたどった有様は挿画に負うている。
 この画家の絵は、つねに、傾く帆船と、背後に雲間を洩れる陽光が、矢のように、ときには、烈風でもあるかのように、急降下しつきささって、ある情熱を表現しているが、この舳に似せた説教壇に もそれが出ており、牧師をわざわざオーソン・ウェルスに演じさせた所以でもあるだろう。
 この映画が、かなりの成功を収めた一つの原因は、最後の白鯨との戦いに、この挿絵を用いたこと にある。 追跡第二日の白鯨との戦いに、一人拝火教徒が行方不明となる。これが、追跡第三日に姿を現わした白鯨の腹に、縄にひっかかった死体となって現われる、ぞっとするような場面である。原作はここに陰惨な呪いを見る。死体の目が、はったとエイハブ船長を見るのである。この百三十五章の巨大な白鯨の側腹に、縄と共にくくりつけられた死体の絵の構図をそのまま映画は用いている。 そしてこの場面は、イメージとして最も強烈なので、映画はこれをエイハブ船長の最後と結びつけたのである。拝火教徒をエイハブ船長とすりかえて、印象を明確にし、強くしている。映画としてはまことに適当な処置である。白鯨にのりこんで、刃を突き刺すところなど、よき創造であろう。 海鳥もまた、よく生かされた。
 白鯨のクライマックスに、力が こめられたのは当然で、かなり満 足させるのだが、挿絵家は百三十 四章で、おどり上った白鯨に後光のような光の矢を放たせ、汐けむりが、雲のようにただよう感じを現わし、そのおそるべき巨大を感じさせようとしている。日本へ来た外人が、雲のため富士山が見えず、そのまま帰国するとき、富士 とは架空の山、日本のイメージと しての山ではないか、と云ったそ うだが、この白鯨もまた、ある意味では象徴的なイメージであり、 ときに無限に巨大でなければならない。映画のクライマックスは立派で、まことに面白いけれども、完全に満足することはできない。 一切を具体化し、幻滅を与えるのを宿命とする映画にとって仕方のないことであろう。
 映画では、筋をかなり大切にするので単調を避けて、早く白鯨を出現させる。白鯨を先に出してから、原作ではその前にある、 失っ子供をさがし求めるレイチェル号や、更に画面のぼける見事な大暴風雨場面をもここに出している。 原作では白鯨は仲々出てこない。出ると、追跡第一日二日三日と原作は、夾雑物をなくして急する。 映画はここに多くを織り込んでいるのである。そのため、求めるものを、求め得ない焦躁や、果してめぐり逢えるであろうかという感じはかなり弱くなったのではないか、と思う。 従ってあのスペイン金貨も、原作ではエイハブがとってしまうが、映画では、見つけた水夫に与えられる事になる。 私は、白鯨が、頭上に舞う海鳥の群を従えながら、浪を切って堂堂たる航跡をつくり乍ら泳いでゆく、原作の美しい描写を、この映画に求めたが、それは無理だったようだ。 けむりは、はるか彼方からもっと壮大に見えるのか、と小説を読んで思ってもいた。
 エイハブ船長にも失望があった。挿絵に近づこうとしているグ レゴリー・ペックの演技はよくわかり、ときにそれに近づくが、あの大きな眼、暗愁、孤絶の感じが 出ない。年齢もまた若すぎる。
 原作は、こまやかな個々人の性格など描き分けない。運命をしか描かないからだ。
 映画は、そこに多少の性格づけを行っている。ただ一人醒めてい スターバック一等運転士だ。彼には妻子がある。出帆のとき、建物の屋上のベランダから、手を振っている姿が、簡潔に美しくとらえられる。 彼は原作では、最後まで、帰ろうとしている。映画は、エイハブ船長を、早く殺すことによって、今までいきり立っていた連中が逆におじけつき、戻ることを主張していたスターバックが、 この最後で、鯨とりの本能にかられて、最後の破滅への急追攻撃を命ずる。この一転に、劇的な性格の裏づけが見られる。劇的に納得 させるものが出ている。
 「運命のごとく盲目に、遙かな大西洋に突き入った」と原作が描く船出に、映画ではじめて、見送りの女たちを見せる。 その漁夫の妻の無表情が仲々いい。 映画がつくり上げるいいイメージだ。
 マストの上の見張りの孤独感などにも、原作は、多くの文字を費しているが、映画は、わざわざ、見降す空漠感などもとらえて、原作のもつ感じを失うまいとしている。そしてかなり成功している。 マストから落ちる水夫もうまい。
 ただ、メルヴィルが、ここで口にする、高きものへの讃美、白き純粋なもの、巨大なものへ仰、 つまり卑俗、卑少への軽蔑、そういうものは、映画には見られない。 それは統一されたものではないが、鯨の群を、「大聯合艦隊」と呼び、その血を、その目を、耳を、一切について弁護する感じはない。 「太陽と鯨とは、美しい日没の光のなかにただよいながら、ともに静かに死んだ」と、戦い終ったときの情景を落日のなかに、メルヴィルは書いているが、映画には鯨に対するそういう歌はない。 ただ熱い凪の中に太陽を真正面からとらえた場面などは、やはり、こういうイメージから出てくるのだろう。よき場面である。
 「沈黙の世界」でフカが鯨をお そう、この原作のような情景を見せるが、いま同じくヘミングウェイの「老人と海」が映画化されている。原作として見れば比べものにならぬが、映画となれば、単一化されているだけに、これも重量を持つであろう。 ただ「白鯨」 が、色彩をも沈めて、華かな海洋冒険であり乍ら暗い内部世界へ誘うメルヴィルの深さを生かして渋く暗く描き切ったのは、特筆すべく、恋愛を入れないといった何でもないことが、 アメリカ映画にとって、どれほど大変なことであっ たかを思うだけでも、このヒューストン作品には、尊敬と喜びを捧げなければならない。


戻る
inserted by FC2 system