デビュー作「青春の殺人者」で数々の賞を独占し、大型新人映画監督の出現とマスコミの話題をさらった長谷川和彦。
 今、3年間の沈黙を破り、「太陽を盗んだ男」を引っ提げて、大きく2歩目を踏み出し、前作がまぐれではなかったことを、堂々と証明して見せた。 「007とタクシー・ドライバーを賭け合わせた面白さを狙った」 「1300円払って、決して損はさせない」 と豪語し、言葉通り、沢田研二、菅原文太の異色の顔合わせで、日本映画の既成概念を打ち破った男、33歳。
 まだやんちゃ坊主の面影を残す彼が、ジーパンに革ジャンというスタイルで、エネルギッシュに語り続けた。 「考えてみれば映画には、音楽文学も演劇も、俺の好きな要素はいっぱいある。かといって人にやらせるわけだから、俺みたいに、一芸に秀でてなくて、気の多いやつには向いてる。 ガキ大将や応援団長みたいなものだ。よしっ、これなら俺にもできそうだって。この思いは、不思議とずっと消えなかった。」
 そう思った日から、彼が「青春の殺人者」で自らメガホンをとる日まで、14年の歳月が流れている。彼はその間、映研に入ったわけでも、8ミリのフィルムを廻したわけでもなかった。
 何故なら彼はマスターベーション的に映画を愛したのではなく、プロになって、見せる映画を作ることにしか、興味を持たなかったからだった。
 当時、映画監督になる一番の近道は、東大の美学を出て5社の入社試験を受けることと言われていた。それで彼は東大を志望校にした。高三の、もう冬に近い手遅れともいえるころ。 「暗記物は苦手だったけど、英数国なんかは面白かった。あいつは東大なんか狙って、受かるわけないと、皆笑ってくれて、俺はええかっこしいだから、ここで入ったらド肝抜いてやれると思うとわくわくしてね。 かくれんぼしてるのと同じ気分で、2か月半は目の色変えて勉強したね、全然嫌々ではなかった。もう一つの動機は、負けた形でなく、合法的に家出したいってことだったな。」
 そんな気分で東大に入ったこの人には、俗にいう五月病はなかったが、辛気臭い大学、女の子がいなくてつまらないという気持ちはあったという。 「俺は次男坊のせいか列を乱さない、みたいな考え方は好きじゃない。自分だけ楽しけりゃいいというのではなく、 まず、自分が楽しくなけりゃいけないと思ってるね俺は。一億人が好き勝手して、それでうまくいけば一番いいんだよ。」
 だから、議会制民主主義の基盤を崩そうとせず、前衛たらんとしない共産党はいかんと、彼の論理は展開する。 70年安保の時は、何かが変わるかもしれない幻想で石を投げたが、やはり徒労感は抱いた。日本では政治に何かを期待することが、ばかばかしくなった。 「アメリカという国は、自らの血を流して民主主義を勝ち取り、スラムの兄ちゃんが、大統領になってもおかしくない雰囲気があるだけ、退屈じゃないだろうとも思える。」
 社会全体の幸福をあきらめて、自分たちだけの幸福を求めてマイホーム主義に走る人間たちに、批判はないとも語る。それは、彼自身が、一度も選挙で投票したことがない、 てめえらのルールで生きてるんじゃないという感覚と同一線上の抵抗であるからだ。 故に彼は列やルールの中で生きてない人間像に惹かれ、主人公として選ぶ男はどうしても結果的に犯罪者、狂気に近いやつになってしまう。

列やルールの中では、生きられない人間という彼のテーマを、もう一歩掘り下げれば、「青春の殺人者」は家庭の枠から脱出した男であり「太陽を盗んだ男」は都市と戦った男である。 原爆という娯楽作品になりえないものをはらんでいる。そのタブーに挑戦してみたくなったという。その信念を支えたのは、大学一年の時に見た映画「長距離ランナーの孤独」。 こんなにダメなやつを、主人公にした話でも商業映画になるなら、俺もと考えたのだ。 今までのルールでは許されない新しい遊びを考えだして、その面白さをみんなにわかってもらうのに、結局3年かかってしまったが・・・
 普通ならば、ATGなどの前衛映画としてしか通用しないこのネタに、彼は東宝を引きずり出し、今を時めく2大スターの沢田研二、菅原文太を口説き、18万フィートのフィルムを廻した。 シュレイダーとも大喧嘩を繰り返しながら、シナリオを練り直した。だが、その障害の多い過程を、彼はワクワクしながら、やってのけた。 「映画作りということにも、俺自身にも、ワクワクしながらやるって気分が大事なんだ。半年間で3億5千万使って、遊んでやったって感覚だね。 決して使わされたわけでも、使わしていただいたわけでもない」と。 ふてぶてしいセリフに違いない、だが、大きなやんちゃ坊主的な彼が口にすると、少しも嫌味な感じを残さない。 きっとそうさせるのは、映画作りに対する彼の自信とエネルギーだ。 「俺はアイアムナンバーワンと思ってるしね、そう思ってるやつとは友達になれるね。シュレイダーにしたって、山本や沢田にしたって、みんな自分が一番だって思ってる。 誰もゴジのためなんて思っちゃいない。だけどそういう人間は、目いっぱい頑張れるんだ。自分のためにね。」
 この映画で沢田研二の評判はすこぶるいい。決して歌手の名声におんぶしてない。沢田のキャラクター抜きには、この映画の成功はありえなかったと思わせるほどだ。
 脚本家のシュレイダーはこのネタに一億円出すといったダスティンホフマンの話を蹴って、金銭的には比べ物にならないほど、不利な条件で長谷川に託した。 被爆国日本の、爆心地広島に生まれた若い監督に賭けた。 いずれも、アイアムナンバー1と思ってる人間の誇りと強さを見せてくれた。
 その意味で、今の若手映画監督の中に、自分のライバルを見出すことはできないと、彼は残念そうに言う。 「村上龍も大森一樹も、みんな目一杯やってない。恥ずかしながら、ちょっと映画を撮ってみましたって感じだよ。やつらには、小説だの医者だの他にあるんだな。俺なんか、監督やってなきゃほとんどクズだと思ってるがね。」 「俺はね、映画っていのは、まだ何かやれそうなメディアだと思ってるんだ。単に、ひと時の夢を与えればいいとは、考えられないね。寅さんみたいなエセ・ヒューマニズムの映画は好きじゃないんだな。 どっかで、ウソつけ、そんなにうまくいくもんかって思ってしまう。」


 映画に、目いっぱい身体を張ってゆくとき、彼の映画は強烈なメッセージを客にぶっつける。そして、喜劇的な素材も、どうしても悲劇性を帯びてしまう。 太陽を盗んだ男でも、主人公は、原爆の製造過程で、自ら被ばくする。その悲劇的なカタルシスが、不可欠なのだ。それは、長谷川が、体内被曝者であること、同世代の友人の何人かの死を身近に見たことと、無縁ではありえない。 彼は言う。 「人間は不条理に生を受け、不条理に死んでいくことから、免れない存在なんだ。その悲劇を、カンラカンラと笑いながら生きていくような奴が描きたかったんだ。」
 公開された今、彼は彼のメッセージへの受け手の反応を素直に気にしている。一人でも多くの人に見てもらいたいと、宣伝に意欲的で興行成績に関心を払う。 興行師や一般大衆の目を、批評家の言葉以上に気にしてる。 「撮ってる時より精神状態悪いよ。嫁に出した娘と同じだからね」と、笑ってはいたが。


 長谷川和彦は次回作に、再び水谷豊を起用して国から飛び出す男を描く計画がある。これで3本、彼の主人公はすべて男になるのだが、この人にとって女とは何なのかという疑問がわいた。 太陽を盗んだ男の中にも、池上季実子演じるゼロというDJが登場している。彼女は沢田に近づき、原爆奪還や逃走を助け、ちゃっかりTV中継してしまうという、いわば翔んでる女なのだが・・・ 「攻撃的な女がいいね、あのゼロは、必ずしもうまくいかなかったんだけど、やっぱ悪いことなんか、平気でやっちゃう女が撮りたいんだね。」


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