「国民投票の結果、赤旗やインターナショナルが国旗国歌になってもいいんじゃないですか」と言って、一水会も含めた右翼を怒らせた鈴木邦男の朝日新聞アンケート問題。 私は右翼関係の紙面を見て、
 「しゃれたコメントなのに、センスないなあ。同じ質問が来たら俺もそう言おう。」とにやついたのだった。 だが鈴木が作った新右翼の知的媒体レコンキスタに、なんと「鈴木の意見は一水会の統一見解ではない」という記事が出たのを見て私は愕然とした。
 私は今まで本や雑誌であれだけ天皇についてきわどいことを書いたのに、方々から批判抗議されたことは一度もない。 ところが鈴木バッシングは、変な人から夜通し電話をされたり、右、左、在日、警察、芸人、やっちゃん、文化人からと、天皇問題以外でもいじめ状態である。 どうせ何言ったって怒らない的なナメられたイメージが定着してしまった感がある。
 82年――当時の鈴木を知る右翼は、木村三浩君の二人のみとなってしまった。
 政治の死、管理教育、偏差値などの走りである我々の世代。重く息苦しい閉塞感、「誰か絶対として君臨するこの支配を解いてくれ」と、そのころ起きたのが77年経団連事件。 マスコミの悪口罵倒に限界はなかった。ただ朝日ジャーナルの特集の中で、「人は笑うけど、この熱は大衆に伝わる」、という唐十郎のコメントだけが頭にインプットされた。
 私は経団連事件から熱をプレゼントされた。
 ブントを辞め、一年後、新宿の模索社で一水会のレコンキスタを買った私は、直接定期行動を申し込んだ。ところが、全くなしのつぶて、機関誌も来なかった。 一水会もつぶれたんだろうと思った私は、80年秋、三島由紀夫さん没後十周年に当たる憂国祭に参加し、右の日学同、十円社の方へ行く。 後でテレビに一水会代表鈴木邦男が出演するのを見ても、まだあったのかと思うだけだった。 ところが81年末、喫茶店でコーヒーを飲みつつ新聞を読んでいた私は思わずカップを落としそうになった。
 社会面に大きく「鈴木邦男逮捕捜査令状を破り捨てる」 とあった。これはすごい。
 左翼セクトでさえ公安の令状を破る人物はいない。「一水会に行こう」と決めた。 82年2月1日、拘留期限も明けたころだと思い、古いつくりの飲み屋二階の一水会事務所を訪れた。その日は元自衛官の浜地だけがいた。2月3日再び訪れた。 今度は木村、浜地、今村、I、沢井、常と一水会のほとんどがいて、浜地が 「この人が、この前来られた過激派の方で・・・」と木村に紹介してくれた。 「どこに属されていたんですか」 「ブント。あなたは」 「義勇軍議長の木村です」 「鈴木邦夫氏は」 「あ惜しいなあ ちょっと前までいたのに 今日は、もうこないかなあ」
 木村は、私を近くの中という昔楯の会のたまり場だった店に連れて行った。沢井、浜地も一緒だった。会話は弾み、どんどん過激な方向へ転がっていった。 その店を出た私は、木村君の部屋兼義勇軍事務所に行って、翌日の昼頃までぶっ通しで24時間以上も話し続けた。
 木村たちは、今までに火炎瓶はやった、今度は爆弾闘争を準備したいというのだ。 権力の弾圧は、こちらの武装度に比例する。爆弾をやれば、まず普通の組織はつぶされる。今のレベルでは火炎瓶が精いっぱいだろう。
 とセクトでの英才教育で叩きこまれた非合法活動のノウハウや弾圧の実際を語った。
 2月10日、木村君と新橋で待ち合わせをした。
 鈴木邦男と言えば一水会の会長のみならず、全右翼を代表する大理論家だ、だが、非合法経験なら、こっちも負けないぞ、よし、左翼魂、ブント魂だ!
 昔の駅の待合室のような巨大なストーブのある古い木造の部屋、ゲラをチェックする鈴木、常、沢井、。木村が鈴木に近寄って 「鈴木さん、この前の、あれ、ほら、ブント」 筋肉質で頑強そうな体、地味なセーターと運動靴の鈴木がすぐにたってこちらを向いた。
 おお、これが、あの伝説の男!
 私は緊張して身構えた。ゾクにしろヤンキーにしろ左翼セクトにしろ、こういうボス公的な初の出会いは、まさに気が勝負を決する。
 が・・・次の瞬間、鈴木は深々とお辞儀をした。少し東北なまりの混じった素朴な声で 「木村からいろいろ聞きました。ぼくたちもまだまだ不勉強だし、これからもどうぞよろしくお願いします。」
 と言ったのだ。十幾つも年下で活動歴も若い私に対してである。 木村、鈴木、私の三人は印刷所近くの喫茶店に行った。そこには阿部力もいて、主に鈴木に質問されるまま、私は左の事を話した。


 そのころ、元第4インターとかアナーキストを名乗るTが私たちの周辺に登場する。 統一義勇軍に属したkの団体を二度にわたる陰謀で破壊。Kは私に、Tが本当に左だったのか、そして今はどうなのかを探ってくれないかと言ってきた。 私はTに会って話を聞いてみた。左の描く集会での各派の実質動員数、管制塔戦士でただ一人しゃべって転向したNとの仲、 一水会や義勇軍などに属する組織の関係についてである。
 80年代初頭、実際に現場にいなければ、左右ともその実態は全く分からなかった。 その状況の中で、それらをすぐ口に出せるのは権力側か特殊な立場に移行した左関係のどちらかと判断した。私は直ちに木村たちに注意した。 数日後、木村、浜地などの義勇軍メンバーが私の部屋へ興奮しながら入ってきた。TがKグループと仲の悪い彼らに、私はKのスパイで、 そのKは公安のスパイで義勇軍の情報を流しているのだと伝えたそうだ。 話し合ううちに木村の興奮は収まってきた。そこにTから、私と木村に近くの喫茶店に来てほしいと、呼び出しがかかってきた。 「ちょっと刺激的なことをしてすみません、でも、こうなると思っていた。 公安スパイのKをこの世界から追放するのには、あいつと周りの関係をバッサリ切る以外にどうしようもなくて、ははは。特に見沢さんの才能は・・・僕も会わせたい人がいるし」
 というようなことTが語った。
 私は鈴木と二人きりになり、話し合いを続けた。既に木村は、Tに「義勇軍の集会や一水会の勉強会に参加していい」、と言ってしまったという。私は嫌な予感でぞっとした。
 翌朝、私は吉井を呼んだ。元ブントの三里塚二期工事決戦地下要員だった男だ。「査問を煽って、自分は近くで待機する――これは、プロのレポの手口だ」
 と吉井は言った。
 関東を直撃する台風のさなか、私はKに連絡しKの手下のティーン一人と吉井の4人でTを連行
 私と吉井は普段の生活に戻ったが、Kは所属する上部団体のSに事態を話してしまった。Sは右であるが東北のベストランキングに入る暴力組織の親分でもあった。 SはKにすぐ自首しろと命令。事件は必ず発覚するので、その前に自首すれば系一等減で刑が軽くなるということが理由だった。 しかしKは私たちと出ないと約束していたので、一回だけでいいから皆で話し合う機会を持てるように願った。
 東急ホテルのスイートでその会合が待たれた。右側にS親分と筋骨隆々の面々。 左側は寂しく木村、鈴木、私の3人のみ。そして、いつしか、Kを自首させるか、させないかを決める、S側と一水会側の対決、激論となっていった。
 S側の怒声ともっぱら怒鳴りあいでやりあったのは、そう、鈴木一人だったのです。 「じ、自首なんてね、活動家の論理じゃなくてヤクザの、が、ガラス割りの論理ですよ・・・。 見沢は出しません!絶対出さない!いざとなればうちが地下に潜らせますから、地下から文章を書かせてレコンに連載させますから」 「ああわかった、わかった」
 ついにSがテーブルを叩いて叫んだ 「要するに、ウチと戦争やりたいわけね…いいですよ、いつでもやりますよ。あんた」
 私と木村君は思わず目を見合わせた、つい1,2か月前、私たちがたまたま、バイトで機関誌を作っていたある団体がSのところと抗争になって、銃弾が 乱れ飛んだことを知っていたからだ。 「い、い、いいですよ」鈴木は怒鳴るにしたがい吃音になる。 「一向にかまいませんよ。ただ普通のアリバイ的ななれ合いでなくて、僕や見沢や三浩は、死ぬつもり、死ぬなんて平気だよ」
 鈴木は赤く激昂した顔で言う。いつのもよれたセーター、運動靴姿に変わりはない。 「利害とかじゃなくて思想のため、人はなんでも何でもできるんだ。 今回の事件は僕も一人の命を取ったことと同じですよ。 そういうものをすべて背負いますよ、一生思想に生きますよ。・・・本に埋もれ、安アパートで一人、人間的な幸せなんか捨てて、命張ってるんですよ。 僕も見沢も三浩も。まずこの3人殺してから出られるもんなら・・・・」 「わかったわかった」
 Sがガードされて部屋を出て行った。
 見沢、鈴木、木村の3人は戦闘を終わり、近くの喫茶店に入った。
 まだ興奮冷めやらぬ鈴木。
 Kが自首する危険があるので、事件の証拠を別の場所に埋めなおすので手伝ってよと、先ほどから私は木村に頼んでいた。 さすがの過激派木村も勘弁してくれと引いているのを見ていて

「おい、冷たいな、仲間だろ、いや同志だろ、いや革命マシーンだろ!手伝ってやれよ」

すでに東急ホテルの他のメンバーたちは全員参考人として調書を取られていたので あとは当事者の木村か私どちらかが一言、「確かに鈴木はそう言いました」と供述すればまず鈴木は即逮捕だった。 公安三課と捜査一課の連中は、「俺たちゃ鈴木がとりてえんだ」
 と怒号を吐き続け、早朝から夜中12時過ぎまで連日、木村と私に集中攻撃を加えた。


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