夢みるアキンド天下を揺がす

醍醐久美子


  
一八才の時から、竜馬を慕い続けた武田鉄矢の夢が、やっと実現した。それが、自らの脚本で自ら竜馬を演じた「RONIN」である。風の噂では、彼は、この映画のために、海援隊を辞めたとか。いや、もしかすると、彼は、竜馬の映画を創りたくて、芸能界に入ったのかもしれない。「RONIN」の武田鉄矢には、そう感じさせる気魄があった。
  まず、私が驚いたのは、一人の男の夢のために作られた映画にしては、かなり贅沢なことだ。何しろ、活躍中の顔ぶれが、ひょいと顔を出しては、惜しげもなく消えて行くキャスティング。鉄矢拓郎の他、陽水・高中の青春ソングがフンダンに流れる音楽。おまけに、海戦シーンの巨大な船や、奇兵隊が倒れるひまわり畑まで、わざわざ作ったというのだから、大変な騒ぎだ。竜馬がお札になったわけでもないのに、今さら、ちょいと古くさいのでは?という気もした。
  ところが、武田鉄矢の竜馬は、古いどころか、極端に新しかった。歴史を変えた英雄でなく、ただの夢みるアキンド。なのである。
  映画の舞台は、一八六六年ーー史実にのっとれば、竜馬はこの年薩長同盟を結成させ、寺田屋で襲われている。つまり、政治的要人となっていた。ところが、武田鉄矢の竜馬は、全くそれらしくない。「お金をためて、黒船を買って、皆でアメリカへ行きたい」という夢しか、念頭にないのだ。彼は、そのために海援隊(この頃はま「亀山社中」という名だった)なる会社を作り、勤皇の志士たちに、ウエイターや、洗濯屋をやらせている。自らも米をとぎぞうきんをかけ、チマチマと貯金などするのだ。とても、翌年、大政奉還を促し、近江屋で暗殺されるヒーローとは思えない。そんな、ドンクサイ竜馬像が、実に愉快なのだ。
  思うに、「RONIN」には、誰一人として、カッコイイ憂国の志士など登場しない。吉田拓郎の高杉晋作も、川谷祐三の桂小五郎も、皆、ドンクサイ。そのドンクササに、何ともいえぬ捨て難い味がある、妙な映画だ。言ってみれば、見てくれも匂いも悪いが、噛みしめれば美味な「くさやの干物」に似ている。しかも、その味こそ、現代人の求めていたものだったとは・・・。
  武田鉄矢の竜馬は、現代人の辛さを知っている。まず、海援隊を率いる社長としての辛さ。「いつになったら勤皇倒幕の夢が果たせるのか!」と不平をぶつける志士の前で、竜馬は、言葉に窮する。志士たちは、サラリーマンの悲哀を、竜馬は、カリスマでない社長の悲哀を感じさせる。「わしゃ、勤皇も佐幕もよう解らん」と言う夢みるアキンド”は、なぜか、現代人の心をくすぐるのだ。
  そして、竜馬は、脱藩した志士としての、フリーの辛さも知っている。藩のバックアップがある高杉晋作に向かって、竜馬はフリー魂を叩きつける。「わしゃ、フリーじゃけん、好きにやるぜ」と怒る竜馬こそ、当世の自由業者の代弁者だ。無能な会社人間は、浮き草には、浮き草の苦悩があるのだ。大地に養分をもらっている君らに、何が分るッ!
  そんな武田の根底には優しさがある。長州征の最後の戦場となった、美しいひまわり畑を、兵隊の面々は、赤く血で染めた。竜馬は倒れた友たちに、必死で語りかける。すると、その声に、死んだはずの者たちが、フッと顔を上げる。このシュールなスローモーションは、鮮明な印象を残した。テレビ出身の河合義隆監督らしいセンスだ。このシーンを、武田鉄矢は、涙を流し、口から白い泡を飛ばして熱する。その姿は、まるで執念の塊であった。
  武田竜馬が、志士たちをひきつけたのは、彼の「夢」と「優しさ」に因る。彼は、決して、カリスマでも、スーパーヒーローでもない。そこが、現代人の求めていた魅力なのではないだろうか。
  「RONIN」に登場する志士たちは、皆、臆病で、ダーティで、優しい若者だ。彼らは、命を惜しまぬ幕末の志士というより、むしろ、一九八五年若者像に近い。そんな彼らの、あり余るエネルギーを一つにまとめるのは、至難のワザだ。なぜなら、彼らに忠誠心などないからである。それを率いるには、相当な説得力がいる。「夢」と「優しさ」を、大真面目に語らなければ、当世の若者を動かすことはできないのだ。
  「RONIN」を見ていると、幕末竜馬は夢みる男だからこそ、人々を動かし、歴史まで変えてしまったのだ、と思えてくる。そして、竜馬同様、昭和の武田鉄矢は、その夢で、多勢のプロを、とうとう映画を創ってしまった。夢みる男には、全く、はかり知れないパワーがある。世の中、こういう人間がいるから、面白いのだ。
  「RONINバンザイ!」という、ラストの異人さんたちは、無頼派への労いがこめられている。おかげで、我々浮き草の傷だらけの魂も、どうやら元気をとり戻したようだ。




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