内田吐夢の名作「飢餓海峡」の完全版を見た。うかつなことだが、私は、かつて公開されたこの映画が、完成された作品から三十二分もカットした不完全版だったとは知らなかったものである。こんど東映がこれをリバイバル上映するにあたって、カット部分を復元して三時間二分の作品にしたのである。かつて大幅にカットされたのは、おそらくは単純に、長すぎるという理由だったのであろう。作品が長すぎると、一日に三回上映できるものが二回しか上映できないというようなことになり、客の回転が非能率になるといって興行的に嫌われる。しかし、復元版で見ると、カットされた部分というのが、なかなか金のかかる大掛りな撮影をやっている部分でずいぶんもったいないことをしたものだと思う。そういう経済的な面からだけでなく、作品全体のテーマから言っても、これは重要な部分である。
作品全体の緻密な映画的流動感を狙わないためであろう、おそらく自分でカットに当った内田監督はあちらこちらのシーンから部分的に少しづつカットするというようなことはやっていない。じっさい、この映画はきわめて厳密に出来ていて、少しづつカットする。ということはまったく出来なかったろうと思う。ワンショットでもぬけると意味がつうじなくなってしまうのである。また、とびとびにいくつかのシーンをごっそりカットするということもやっていない。むかし「白痴」が大幅にカットされて公開されたとき、いくつかのシークエンスやシーンがそっくりカットされて、それでストーリーが通じなくなる部分は、字幕でさえられていた。これはいかにも、欠損映画然としていて、みっともないものであった。
「飢餓海峡」では、ストーリーの一部をごっそり削ってしまっていたのである。短縮された映画は、前半と後半がはっきり二つに別れていた。前半は戦後まもない北海道と青森下北半島を舞台にした荒々しい犯罪ドラマである。三人の刑者が台風下で殺人放火をして北海道の小さな町を焼きつくし、おりからの青函連絡船転覆事故にまぎれて下北半島に渡ろうとし、途中仲間割れが生じて二人死ぬ。三国連太郎の演じる犬飼という男だけが下北にたどりつき、大金で左幸子の演じる女郎を買い、その女郎の情のこまやかさにやっと人心地がついて、彼女に大金を与えて去る。その女郎・杉戸八重は、彼に深く感謝して自分もまもなく東京へ行く。
以上が前半であり、後半はそれから一気に十年とんでしまう。また女郎になっている八重は、むかしの犬飼が舞鶴で樽見という変名で成功者になっていることを知って訪ねて行過去を知られたくない樽見に殺される。そしてこれからあとは、東舞鶴署や、十年前からこの事件を追っていた伴淳三郎の演じる函館署の老刑事などを中心とする警察ものの捜査劇、推理劇になるのである。
ごっそりカットされてしまったのは、前半と後半の中間である。そこに約三十五分、杉戸八重の上京後の人生を描くストーリーがあったわけである。彼女は上京後、一杯飲み屋で住み込み、しばらくしてから同郷の友達を訪ねていき、そこで張り込んでいる伴淳三郎刑事の姿を見て逃げ、再び女郎屋に住み込むようになる。カットされた映画は、この間の経過を最少限度説明できる数ショットだけ残すことでなんとか分るようにしていたのだが、じつはそこに、上京後の一杯飲み屋の生活を中心とする戦後の闇市の風俗描写が約十分あったわけである。
この部分がカットされても、犯罪捜査劇としてはたしかに筋は通る。しかしこの映画を、数年間のどん底時代の日本人の心身両面の状態を描いた作品として理解するとき、このカットされた三十二分間の厚味は大きいのである。まず、夕暮れの闇市を俯瞰で撮ったパンと移動の長いショットがある。闇の品物を運ぶことを手伝っているらしい八重が、人の眼を忍ぶようにして、アメリカ兵や暴力団らしい連中の闊歩する群の中をこそこそ歩いてゆく姿をフォローしているのだが、こんな切実感のある間市風俗は、成瀬巳男の「雲」いらいではなかろうか。闇市と言えば、黒沢明の「酔いどれ天使」から深作欣二の「仁義なき闘い」まで、戦後社会をわがもの顔で凄んで歩いた復員くずれのやくざの天国として、荒々しい力のみなぎる暴力派のユートピアとしてのイメージが定着しているのだが、それは闇市というものの一面であって、当時のニュース映画がまざまざと記しているように、ほんとうに腹を減らした人々が切ないせっぱつまった表情でウロウロしている街でもあったわけで、その悲しさが太い沈痛な造型力によって、ゆったりととらえられているのである。八名信夫などの演じるやくざが登場するが、彼らは現在の東映実録路線ものに出てくる暴力団員たちのようにやたらと威勢よすぎるということはない。「酔いどれ天使」の三船敏郎のようにでもない。もっと、どうしようもなく暗いし、それなりの生活の重さが感じられる。その暴力団員たちの喧嘩や警察の手入れのそばでおろおろしている八重とその雇主のおかみ。こういう、そのひとつと生活の重さを実感させるのが内田吐夢のリアリズムである。また同時に、生活の重さをがっちり描きながら、いささかのあわれっぽさも思い入れもなく、その重さをまったくストレートに全身に受け止めている人々としての登場人物を描く。そこのどっしりと骨太い魅力があるのである。
この部分をぬきにしても「飢餓海峡」は多くの素晴しい場面の故に感動的であったが、この三十二分を復元したことによって、戦後荒廃した時代における日本人の生き方を描いた映画としてのこの作品の性格はいっそう鮮かなものになった。
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