忘れものは何かを問う

東京大学大学院生




平日の最終回だというのに、子ども連れのお母さんたちや制服姿の中高生たちで客席は結構ふさがっていた。この映画は、野坂昭如氏が実体験をもとに書いた同名小説(昭和46年直木賞受賞)が原作のアニメーション作品。監督(脚本も)はテレビシリーズ「アルプスの少女ハイジ」などの名演出で知られる高畑勲氏。今回の作品でもその手腕を余すところなく発揮していて、筆者同様ふだんアニメーションを見慣れていないらしい原作者の野坂氏をして「アニメ恐るべし」と言わしめている。舞台は太平洋戦争末期の日本。主人公は14歳と4歳の兄妹。この兄妹は昭和20年6月の神戸大空襲で母を失い、軍人である父は戦場から帰らず、孤児同様になってしまう。とりあえずの避難先として、ふたりは近郊の遠縁のおばさんの家に身を寄せるが、次第に居づらくなり、ついに家を出、池のそばの横穴防空壕でふたりだけの自炊生活を始める。けれど、たった二か月で妹は栄養失調のために死に、その遺骨を抱いて浮浪児となった兄も駅の構内で衰弱死する。
と、ストーリーだけ読むと子どもを主人公にすえた、よくあるお涙頂戴の戦争映画か、とタカをくくられるかもしれないが、どうしてどうしてそんなどこにでもある映画とは一線を画するものが、この「火垂るの墓」にはある。
まずなんといっても高畑監督の、フィルムの隅々まで目が行き届いた丹念な演出が光っている。
例えば、冒頭の空襲のシーンひとつとってもその迫力ときたら並みの実写ではこうはいくまいと思わせるほど筆者の前に座った親子は思わず肩を抱きあっていたものだし、日常生活の一コマコマにしても、時代考証やロケが徹底されているせいだろうか、なみなみならぬ現実感がスクリーンから伝わってくる。そうしたワンシーン、ワン・シーンのつみかさねがあってはじめてこの作品は単なる反戦映画を超えた人間ドラマとなりえたのだろう。
で、見る側の私たちとしては、こういう映画は、余計な余断や憶測なしにストレートにうけとめたいなと思う。ともすると私たちが「アニメーション」や「戦争映画」に対して抱きがちなイメージをなるだけ払拭して映像だけを見つめること。でないとすぐに「戦争の悲惨を若い世代に伝えねばならん」みたいな、いかにも出来の悪い受験生が、小論文のテストで書きそうなお題目のような言葉で自分の感想をまとめかねない。それじゃせっかく自分の中に生まれた、言葉にならないいろんな思いや感じが浮かばれない。どうも私たちは押しよせる情報の波の中でスレてしまったためか、すぐにレッテルに頼ってしまうところがある。どんな映画もいったん既成のジャンルに分類してからでないと、安心して楽しめないというわけだ。それで従来の枠にすっぽりおさまるような映画ばかりなら何も問題ないんだろうけど、そうじゃなくて従来の枠組みを超えようとしている映画を見るときに、お定まりの見方をしたんじゃ、一番おいしいところは満足に味わえないでおわってしまう。
この「火垂るの墓」でも作り手たちはきっと既成のアニメや戦争映画の枠を超えようとしたんだろう。アニメという土俵じゃなくて、日本映画という土俵の中で勝負したいんだろうと思う。そうでなきゃいくら原作者だからって野坂氏が「アニメ恐るべし」なんて言わないと思うよ。だって誰よりもこの映画を「反戦映画にしてほしくない」と思ってたのは野坂氏自身なんだから。そんな見どころがいっぱいつまった作品を、いままでのアニメ見るノリで見たり、アニメは子どもだましのメディアと頭からきめてかかったりしたんじゃせっかく頭もしっぽもハラワタも、もしかしたら骨までもしゃぶりつくせたかもしれない魚の塩焼きの身のところだけちょいちょいと味身するようなもので、ほんとうのうまさを知らずにおわってしまうかもしれない。それにだいいち、料理した料理人に対して失礼というものだろう。
この映画のコピーは「忘れものを、届けにきました」(同時上映の「となりのトトロ」と共通のコピー。糸井重里氏の手になるもの)私たちの「忘れもの」が何なのか、この映画は答をだしてはくれないけど、忘れたことさえ忘れてしまいがちな私たちに、「私の忘れものは何か」という問を残していく。もしかしたら戦争を生きのびることよりずっと生きのびるのが困難かもしれない「平和」の今を生きのびるための手がかりは、その問いのなかにあるのかもしれない。




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