誘拐事件をしっかり成立させないとロクヨンのテーマが伝わらない




  横山秀夫原作の大部傑作ミステリー『(ロクヨン)」を、近年出色のヒューマン・サスペンス2部作として完成させた瀬々敬久監督。撮影期間約3カ月の大作である。
  主人公の三上義信(佐藤浩市)は、県警の秘書課広報室勤務。この部署はまだ一年足らず、その前は刑事として20年余、現場で実績を残していた。
  「ロクヨン」とは、昭和天皇の崩御により、たった7日間で終わった昭和64年、その1月5日に起きた痛恨の未解決事件を指す刑事たちの符丁。身代金目的で誘拐された少女が死体で発見されたこの事件は、県警最大の失態として重く語りつがれていた。
  一そして時効寸前の14年後となる。
  ところで「(ロクヨン)』は、昨年の4月NHK土曜ドラマ(全5回)で映像化され、しかも〈2015年文化庁芸術祭大賞・テレビドラマ部門)を受賞している。
  三上役はピエール瀧で、視聴率はいまいちだったようだが、ミステリー好きが多い私の周辺では上々の評価、特にピエール瀧の、公私共に負荷を背負う我慢の演技は素晴らしかった。組織と個。職務の限界。正義と体面。そして夫であり父であることの責任と苦悩。
  「NHKのドラマのことは知っていましたが、放送が始まったときはもう撮影が始まっていてぜんぜん観ていません。後になってチラッと観たりはしましたが。原作が同じなので気にならないこともないですが、それでもあまり気にしていない」
  ただ、映画のキャスティングは、すでに発表されていたドラマ版とダブらないようにしたという。それにしても豪華なキャスティング。
  「三上役の佐藤浩市さんだけは、最初から決まっていて、あとはプロデューサーや周囲の方と相談して決めたんです」
  実はその三上役ついて、ピエール瀧のキャラクターと演技に洗脳されていたこちらとしては、佐藤浩市さんの三上役は、ちょっとソフトすぎるのでは?と思ったりした。むろん、それは完成作を観るまでだった。
  ほとんど出ずっぱりの佐藤浩市は、情報的な広報官の立場を自覚し、極力、自我や感情を抑えた演技をしているのだが、その抑えた演技から逆に無骨な男・三上の正直な思いが伝わってきて、ピエール瀧の三上像とは別の佐藤浩市三上が完璧に映画を引っ張っている。
  「三上で重要なのは精神的なものですから。原作では三上は自分の顔を鬼瓦みたいだと思っているんだけど。で、あとで横山さんに、浩市さんは鬼瓦ではないんですが、原作者的にどうなんですか、って聞いたら、そんなこと忘れて観ていたよ、って(笑)」
  映画は昭和64年1月5日のシーンから始まる。雨宮漬物工場から、繭玉の枝を手に元気良く出かける7歳の少女・翔子ちゃん。が、その数時間後、雨宮芳男(永瀬正敏)の自宅に祥子ちゃんの身代金を要求する電話が入る。明日までに2000万円用意しろ。警察に言ったら娘の命はない。雨宮は逡巡のあげく警察に届け、警察は直ちに逆探知機を含めた万全の手はずを調える。そして翌日、犯人の指示に従った雨宮は金が入ったスーツケースを持って車を走らせる。しかし、指定場所に着くたびに犯人の指示が変わり......。原作では、このくだりは、当時、雨宮の車の追尾班の一人だった三上が忸怩たる思いで回想するという形で語られるのだが、映画では冒頭で、無残な結果に終わったこの事件の流れをリアルに描き出し、その緊張感とスピード感には観ているこちらも前のめり。
  「この事件をフラッシュバック的に描いたり、説明的に描いたりしたら、ロクヨンのテーマが伝わらない。ファースト・シーンでこの事件をしっかり成立させないと、このあとのドラマやみんなの想いが伝わってこない。被害者や警察官、そして三上の積み重なった思い。それが一番だと思って64年1月5日に何が起きたのかをきっちりと描いたんです」
  が、「後編」で再びこの少女誘拐殺人事件を連想させる事件が起こる。今回、瀬々監督は、脚本家、久松真一と共同で脚本を書いている。どういう経緯なのか。
  「久松さんは横山さんの原作のテレビドラマ『18番ホール」や「誤報」などの脚本を書かれている脚本家です。それらを含めた横山作品を多く映像化しているのがコブラピクチャーズという制作会社で、今回「ロクヨン-』を企画したのもこの会社なんです。僕が参加したときは久松さんが書いたプロットがもうできていて、前編はここまで、「後編」はこういうふうにと。そのプロットから久松さんと脚本を作ることになったのですが、プロットでは「後編」の終わり方は、ほぼ原作通りだったんですよ。それでは映画としてちょっとシンドイ。そこで原作を変えて作りましょうと僕が提案して、いまの形になったんです」
  実際に後半には原作にはないドラマがいくつか盛り込まれ、三上が思いがけない行動に出る。
  「僕らがこだわったのは、広報官の三上が事件解決に向けて行動するのをやりたかったんです。原作は、事件にしても、県警の記者クラブとの対立にしても、あくまでも三上の視点三上の心の中の動きしか書かれていない。直接、行動はしない。けれども映画は行動しか描けないので、三上が行動するように変えたんです。行動が第一だと」
  その変更に関して横山さんは?
  「完成した映画を見て、これは“ロクヨン”ではなロクゴだなって(笑)。ジョークなんでしょうけど、否定でも肯定でもなく。脚本段階でも横山さんとは何回もお会いしたり、メールでやりとりしたんですけれど、三上の“行動”に、かなり抵抗があったんです。この脚本では三上は広報官の立場を超えている。これはやめてほしい」と。原作は、広報官の三上が、その立場、その視点で、少女誘拐殺人事件を見るというのが、横山さんの最大の発想ですから、原作通りにしてほしい、というお考えなんです。もう一つ、これは先日、全部終わってから横山さんが言ったことで、ああ、なるほどなあ、と思ったことなんですが、人生においては、自分が望んでいない役職や仕事、地位に就いたりすることがある。でもその望んでいない仕事や立場で何かを果たすという喜びもあるのではないか。三上はずっと刑事をやっていたかったが、広報官という身になって、そこで何かを掴んだ。人生においてそういうこともあるのではないか。それが思いがけない喜びにつながるのではないか。そういう思いで「(ロクヨン)」を書いたのだとおっしゃって・・・。でも僕たち作る側としては、広報官という地位の三上ではなく、人間としての三上を捉えてみたかった。三上が広報官というフレームを越える瞬間・・・・・・・それは人間として動くときに越えられるのではないか。そのアプローチの仕方の違いで、横山さんとかなり齟齬感があったんですが、映画っていうのはどうしても行動する三上を描かないと、人間・三上を伝えるのが難しい。最初、僕が提案した三上は、もっと修羅場的な行動をしていたんですけど、さすがにそれは勘弁してくれと横山さんに言われまして、少し方向性を変えた三上の動きを提案して、それで納得していただいたんです」




  広報官の三上と闘う敵側の立場で撮っていた



そして「-ロクヨン-」でかなり重要な部分を占めている広報室記者クラブの対立。広報室は県警の窓口ではあるのだが、県警側の都合次第で事件や情報を隠蔽することも少なからずあり、いままた、交通事故で重傷を負わせた加害者の名を匿名にしたことで、広報官・三上は記者クラブの面々から糾弾されていた。そもそも三上たち広報室にすらまともな情報を渡されない県警の上層部。さらに言えば三上が属していた刑事部の面々も、事務屋になった三上を敬遠していた。まるで“鬼っ子のような宙ぶらりんな立場で日々の仕事している三上と広報室のメンバー。その上、三上自身、極めて大きな問題を抱えていた。
  「実は記者クラブの記者たちについて、クランクインする前に、横山さんに言われたんですよ。記者の一人ひとりの個性をしっかり描いてほしい、と。それが今回の唯一の注文だったんです。普通だったら、記者が数十人も登場する場合、記者A、記者Bというように、記者はただの役割でしかない。事件が起きても記者たちの思いがあまり出てこなくて、シーンやストーリーを運ぶ役割でしかない。それだけはやめてほしいと。横山さんは記者出身ですから、そいう想いがあったんでしょうね。ですから記者たちのキャラクターにはかなり注意を払いました。俳優たちはインディーズ系の映画などに出ている人たちが多いんですが、助監督とも相談して、役名だけではなく全員に新聞社の名前や記者としての経歴みたいなのを作って演ってもらったんです。それも最初にワークショップみたいなことをやって、それぞ個性を生かした記者役を決めて・・・・・・」
  三上が記者クラブ室に足を運ぶシーンでは、数十人の記者たちが、自分のデスクや共有のソファーか顔だけを三上に向けるのだが、何度かあるこういったシーンの、それぞれの個性がワーッと見えてくる集団演技が実に見事で、そうか、そういう入念な準備をして撮ったのか。台詞らしい台詞はなくても、自分の役をしっかり自覚した若い俳優たちの実感ある記者演技。
  「でもね、匿名報道の問題がらみで三上が、交通事故の被害者の人生を語るシーンがあるでしょう。かなり長いシーンなんですが、浩市さんは、感情が切れるから長廻しで演らせてほしい。全部、演じきれる自信があるからと、結局、3台のカメラを用意して撮ったんですが、リハーサルのとき、記者役の俳優たちは、浩市さんの芝居にみな聞き入ってしまって記者役どころじゃないんですよ(笑)。浩市さんは撮影の前に、若い俳優たちに本気でぶつかってきてくれと言っていたんですが、この長いシーンではみんな浩市さんに見とれて記者の演技を忘れている。これではマズイので、途中、記者の誰かが立ち上がるとかの演出をつけたりしたんです」とは言え、三上に向けてあちこちから飛んでくる矢の中でも、集団で矢を飛ばす記者クラブの面々の報道、真実を要求する強さは、矢面に立つのが上だけに、ちょっと手加減してほしいほど。
  「いや、相手は警察です。国家権力です。一般市民じゃないんですから記者やマスコミはいくら攻撃してもいいんです。記者会見で記者がガンガン言うのは、結果的に警察側に問題があるからだし。またガンガン言う記者というのは、東京に本社がある大手記者で、地方在住の記者や地元の記者との対立もある横山さんの原作には、そういった記者クラブ内の対立も書かれているので単純ではないんですよ」
  実際、その辺の脚本と演出は見事で、三上たちはその対立を利用して、記者クラブの要求、抗議を何としても崩そうとする。
  「それに演出している僕としては、三上と対立する側に肩入れして撮っているつもりでしたから。記者クラブだけではなく、三上には上司、同僚など、いろんな敵が出てきますけど、どっちかっていうと僕はその敵側に立って三上に立ち向かわせるつもりで撮っていましたね。言ってみれば広報官の三上が、いろんな敵と闘う『新吾十番勝負』みたいな話ですから、これは」  



この映画が素晴らしいと言われれば佐藤浩市が素晴らしいということ



ところで、前後2部作での公開について。
  「2部作で撮ることは最初から決まっていたんです。横山さんがあまり切ってほしくないということもありましたし、この原作を映画化する以上、どうしてももとの長さは必要ですから。だから、本当は一挙に観てもらうのが一番いい。ただ興行の事情もあるのでしょう。一挙公開というのは難しい。そういうこともあって、今回は、前編はドラマで観せる、後編はサスペンス、というつもりで撮っているんです。ジャンルが違うように。でも2部作公開というのは、もし僕が客だとして前編を観たから後編も観るかというと、そうとは限らない(笑)。もちろん『ロクヨン-』は前後編とも観てほしいと思っていますが」
  今回、マスコミ用の試写では前後編を続けて観られるようにスケジュールが組まれていた。劇場でもぜひ・・・・・・
  「やはり興行形態ですね。いま番組の組み方がすごく複雑化していて、特に地方のシネコンなどでは、朝、昼、晩と違う作品を上映したりしている。単館系の劇場でさえも。そういう状況の中で、4時間の映画が一挙に上映される可能性はほとんどない。4時間も劇場を占有できるか。それは作り手側というよりも映画界全体で考えないといけない問題だと思うんですよ。興行側も劇場側も配給も、作り手も含めて....。だから、『64-ロクヨン-』だけ一挙公開の例外を求めてもなかなか難しい」
  「後編」の公開時に「前編」も続映してほしいし、「前編」と「後編」が続けて観られる上映スケジュールを組んでくれる映画館があるとファンには親切ですね。
  「そう、それが一番です。そういう組み合わせでの上映を考えてもらいたいですね」
  またキャスティングの話に戻りますが、主役級の俳優が、それぞれクセのある役を演じているのも「ロクヨン-」の大きな見どころです。中でも誘拐事件のもう一人の被害者家族の緒形直人さんとキャリア組の滝藤賢一さん。緒形直人さんのキャスティングは浩市さんから出た案でした。滝藤さんは別作品に出ていただいたこともありましたし、彼の映画も観ていましたから、彼なら出来るとお願いしたんです。滝藤さんは無名塾出身だからなのか、役の取り組み方が面白いんですよ。台本が真っ黒になるほど演技について思いついたことが書き込んである。で、現場では丹念に準備したそれをすべて忘れて演る、みたいなね。浩市さんは何も書いてない(笑)。ま、役者のタイプによっていろいろです。今回、浩市さんは、キャプテン、座長をやってくれましたね。自分がこの作品を背負っていることをよく分かっていらして。現場では自分の撮影以外のところでも、役者集団の代表みたいにみんなを引っ張っていって、そういう力強さがあったんで、若い役者だけではなく一線級の方たちも、みんな浩市さんの背中を見ていたと思います。浩市さんが中心になって動いていく......そういう意味でも『64-ロクヨン-』は佐藤浩市の映画だと思う。浩市さんがいなかったら出来なかっただろうし、この映画が素晴らしいと言われれば、佐藤浩市が素晴らしいということですね。今回の浩市さんはシーンによってすごくデリケートな芝居をしているし、その一方、一瞬の感情の爆発力もすごいですから」
  横山秀夫の原作を知る人も知らない人も、NHKのドラマ版を観た人も観ない人も、重厚にしてパワフルなヒューマン・サスペンス「64-ロクヨン-」に拍手を送るはず。三上の手足となる広報室の若い3人(綾野剛、榮倉奈々、金井勇太)も実にいい。そして瀬々監督のグイグイ押していく演出と、生きるやるせなさまで映し込んだような沈黙的演出。日本映画2016年上半期の骨太な秀作である。




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