池澤武重

生命の根源にふれてうち震わせる・・・・・・。




何年ぶりのことだろう、映画を見てこんなにとめどなく涙が流れ出したのは。涙はあふれてキリがなく、試写室の席を立つとき、顔見知りとツラを合わせなければいいが、と思ったくらいである。ことほど左様に私の眼は涙に曇っているから、この文章だって一刀両断、はおろか、手元狂って切っ先が対象に届くかどうかさえ心許ない。もとより冷静沈着というわけには参らぬだろう。だが涙ごしにしか見えぬ真実というものもまた、この世にはあるだろう。
昭和二十年九月二十一日夜、ボクは死んだ"の清太のナレーションに始まる、これはいわば"死者の書”だ。舞台は神戸、六月五日のB29の空襲から清太の死まで太平洋戦争敗戦前後の約三ヶ月半、短いが凝縮された生と死を、十四歳・中学三年の清太と妹・四歳の節子はホタルのように美しく、か細く、ホタルの季節を生きて死んだ。幼いなりに見るべきほどのことは見つくし、なすべきことはし尽くして。
兄妹は空襲の恐怖に耐え、わが家の焼失に耐え、病身の母の全身火傷による悲惨な死に耐える。父は海軍軍人だから母の死は家庭の喪失を意味し、わずかに身を寄せた遠縁の冷たい仕打ちによって、二人だけの家庭を横穴防空壕に作らざるえぬ。まだ保護者を必要とする彼らが互いに幼い保護者の役割を果たし、全身を寄せ合い、幼い智恵をふりしぼって戦争下の厳しい現実を生きのびようと悪戦苦闘する。このあたり、ママゴトのあどけなさと、生と死のあわいを生きる苛酷さが二重写しになって痛ましい。
戦争が終っても、二人の健気な戦いは終らない。節子の栄養失調による衰弱死から一月後、浮浪児の清太も妹のお骨の入ったドロップの罐を握りしめて三宮駅構内で野垂れ死ぬ。
原作はご存じ野坂昭如の昭和四十三年春の直木賞受賞作。映画は清太の死のトップ・シーンから神戸空襲に遡る原作の構成をほとんどそのまま忠実に辿る。慣れぬと、いささか読みづらい助詞抜きの野坂の文体に助詞を補い、明快・精緻に仕立て直した感さえあって、原作よりも更に哀切を極める。そして哀切であればあるほど生命へのいとおしさがこみ上げてくる。描かれているのは多くの無残な死なのに、訴えかけてくるのは反戦とか不戦とかを超えた生命のかけ替えのなさ、貴重さだ。
昨年度ドキュメンタリーの秀作「柳川堀割物語」の高畑勲(脚本・監督)はリアルな焼跡、自然、バックの細部のこまやかさと対照的に人物の表情を簡明率直に浮かび上がらせることで、あふれる生活感の中にメルヘンの香りをたきこめる。アニメで本当によかった。もし、一見うまいが達者すぎて、こまっしゃくれ女の子に実際に出てこられては逆効果だが、節子(声・白石綾乃)の生粋の関西弁、その無垢な声は心を洗い、爽雑物を洗い流されて無防備になった観る者の赤裸の心からは涙がとめどなく溢れ出すのだ。それは決してお涙頂戴ではない。そんな人間の感情の表皮のくすぐりではない。生命の根源にふれて、うち震わせる態のものなのである。
「四月怪談」にしろ、この「火垂るの墓」にしろ、原作は漫画や小説だが、浅はかなオリジナル信仰が生む密度の稀薄な作品よりどれほどましか。分野を問わぬ原作のタイミングのよい発掘は、料理の仕方によってはまだまだ映画の栄養素たりうるのではないか。節子を診た医者に"滋養をつけることだね"と素っ気なくあしらわれた清太は"滋養なんかどこにあるんですか"と絶叫する。暖玄飽食、経済大国とやらの今の日本で、あるいは物質的には満ち足りているのかもしれないが(それとてもいささか怪しいのだが)、人精神の滋養の在りかを見失って彷徨っているのではないか。ひょっとすると精神の存在自体さえとっくに忘れてて。







節子は、命のいとおしさそのもの

田中千世子




幼い節子へのいとおしさで胸がいっぱいになる。節子を引く兄の清太は私(あるいは私たち)である。サクマのドロップを一つ口に入れた節子が頬をふくらませているのを見て心がなごむのも私、刈りあげにしたうなじに思わず頬をすり寄せたくなるのも、半袖のブラウスからほっそり出ているその腕に触れたいと思うのも私である。清太の心、清太の視線の一つ一つが私のものになっていく。
節子は、命のいとおしさそのもの。生の柔らかい手触り。そして、死の不安。
野坂昭如の小説「火垂るの墓」を映画化した高畑勲監督は、原作を読んだ時、「これは神話だな、と思ったんです」と語っている(「アニメージュ」5月号)。母を空襲で失い、父も消息不明となった兄妹二人が、自分たちだけの“家庭”を築こうとして、それが「成功したにもかかわらず味が死んでしまうところ、この物語の悲劇性、ひいては神話性があると思うんですが」と、高畑監督は原作を見る。
出来あがったアニメーション映画は、監督が原作から掴みとった神話性を見事裏切る。そのことを映画は誇るべきだ。ドロップの缶から一つ一つドロップがなくなっていくように、命の力が体から徐々にすり減っていく節子の哀しさ。どんどんやせ細っていく節子を目の前にした時、物語の神話性は音立てて崩れてゆくのである。
節子は、生きた個として私たちの前にいる。清太の愛は、節子をいとしいと思えば思うほどその命を奪っていったのではないだろうか。親戚の家を出て川のほとりの横穴に住み始めた時から二人は死に向かって突き進んでいったように私には思える。生きようとして、節子をこ生き続けさせようとして、清太は母の着物を売り、タニシを漁り、ついには空襲警報が鳴り響くさなか、空っぽになっ家々にあがり込み、食べ物や着物を盗む。が、その行為は、たとえ節子の命をほんの少し延ばしたとしても、死へ向かう方角から外れることはなかったのだ。
この映画は、十四歳と四歳の兄妹の死への道行きだと思う。横穴に住み始めた頃、蚊帳の中に寝ている節子を清太が抱きしめるシーンがある。清太は私の心だ。柔らかい命を抱きしめたまま死んでしまいたいという願望が、節子は、「お兄ちゃん、苦しい」と言って離れてしまう。命はいとしければいとしいほど、人間の手をすり抜けていく。
死は、映画の至るところに顔を出す。戦災孤児の一人となって死んでゆく清太も、空襲で見分けのつかない体となって清太の前に運ばれてくる母の姿も、悲惨きわまりないものだ。が、そうした死とはっきり区別されたものとして節子の生と死が描かれていくことに私は深い感動を覚える。線と色彩によって表わされる節子が、まぎれもなくこの世の命そのものであるからだろう。五歳の白石綾乃が演じる節子の声を耳にすると、自分の命の全てを彼女に注ぎこみたいと思う。しかし、少女の命は、少女の中にしかない。「お兄ちゃん!」という響きの何と切なく哀しいことか。「お兄ちゃん!」と呼ばれても、呼ばれた自分は、彼女の命の外側にしかいることができないのだ。
この映画は、人物の描写と同じくらい、風景が丹念に描かれている。青い空にグレーを入れたら懐かしい日本の空になったと語る美術監督の山本二三氏の仕事には大いに敬意を表したい。その懐かしさが死の静けさに満ちているのは、人魂の明りの温かさが、人魂の冷たい熱を連想させるのと同じように、死者たちへの鎮魂となっているからだろうか。




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