鳥海永行、押井守といえば、日本を代表するアニメーション作家である。その2人が、20年前、布川ゆうじが創設したスタジオぴえろで邂逅していた・・・・・・。鳥海、押井、そして布川が熱く語る、ぴえろ誕生秘話とアニメーションへの想い



まず布川社長に、スタジオぴえろの創立のいきさつについて伺いたいのですが......。



布川 (以下敬称略)僕がタツノコで演出をしていた頃、ま、悶々としていた時期がありまして、ジョウさんから、やたら独立してアニメのプロダクションをやろうと誘われていたんですよ。ただ、僕は、タツノコ以外にもアニメ会社を7~8社、仕事でお世話になったり、いろいろと会社も見て来ましたから、やっぱりだいたい経営が成り立たないというか、難しいんですね。それに、当時、吉田竜夫さんも47歳で亡くなっちゃうし、他にもアニメ会社の創立者が他界されたりして、アニメのプロダクションやったら早死にするしかないかな、と(笑)......。僕としては、あまりやりたくなかったんですよ。ところが、時の勢いというか、はずみというか......。まあ、確固たる意志や目的もなくとりあえず始めちゃった、ってのがホントのところかな(笑)。で、「とりあえず」独立しちゃって、会社組織でないぴえろを、2年ぐらいやって......。

-「スタジオぴえろ」の名称はどこから......!?

布川 それもよく聞かれるんだけど(笑)、とにかく「~プロ」とかいう名称には抵抗があって、「スタジオ」でいこうと思ったんですよ。結構真剣に悩んで、そのうち、思い出したのが、サーカスのことなんです。僕は山形県の酒田市出身なんですが、少年期にはサーカスの巡業がよく来てたんですね。それで僕は、何故か興行の方じゃなくて、小屋の設営とか、準備の様子を見るのが好きだった。中でも、舞台裏でピエロが化粧しているのを間見て胸が踊った記憶があるんです。人を楽しませて自分の本来の姿は見せない・・・・・・そんなペーソスみたいなものに魅かれていたことをふと思い出して、「おお、スタジオぴえろでいいじゃないか!」って.........ま、実際初期の頃は、この名前、恥ずかしかったりもしましたがね(笑)。

会社組織としてのぴえろの出発点ということになると、いつ頃になるのでしょう!?

布川 さっきお話した通り、2年間ぐらい会社組織でないぴえろをやってまして、でたまたま『ニルスのふしぎな旅』という大作のお話があったんです。今考えれば、4~5人しかいないスタジオに、よく発注してくれたと思いますね(笑)。それが、一つのきっかけだったんですが、その時、名作物というと、当時日本アニメさんのやられていたラインが続いていまして、そちらとは違うモノを作っていきたいと考えたんです。そこで、『ニルス』のスタッフとしてまず浮かんだのが、鳥さん(鳥海永行)。鳥さんとはちょうど、僕がタツノコを辞める前に、フランスとの合作の仕事を1年近く一緒にやって、その実力や才能は高く買ってまた、『ガッチャマン』とかのアクショ路線で定評のある人だったんです。当時は「アクションの監督が名作物をやるとおもしろい」という、一つの方法論みたいなものもありまして、で、僕の中で「この人なら今までの名作物とは違う、おもしろいモノを作ってくれるだろう」ってことになって、まず、さんを引っぱったワケですよ。あ、それと「ニルス」スタート時に、鳥さんから押井ちゃんの紹介があったんだよね?

鳥海 いや、違うな。だって、タツノコ時代の押井くんはほとんど覚えてない。そういえ社員旅行のバスの中でワイワイ騒いでいた若い人たちの一人に、内気な感じの少年がいたかな」ぐらいにしか(笑)......。『ニルス』やってかなり早い時期に、制作(担当)の伏川(明)が連れてきたんだよね。で、会ったんだけども・・・・・・。最初、僕は押井くんに「びえろは正直言って、まだ海のものとも山のものとも分からない。タツノコはそれなりに金看板があるんだから、もう一度考えた方がいいよ」と言ったんだ。僕はもうあの頃は30代後半ですからね、一つのきっかけとして「これでやってくしかないんだ」って気持ちになっていたけれども、それを20代の若手が「果して新しく設立されたぴえろという場所でいいんだろうか?タツノコにいた方が給料も保障されていいんではないだろうか?」とか、そんなことを話して別れたと思うのね。すると彼、すぐにもう一度やって来て「お願いします」って・・・・・・。まあ、僕は2度聞いたら3度目はない人間で、「じゃあやってもらいます」となって、来てもらったんです。

押井 僕は、そこら辺のことはよく覚えていないんですよ(笑)。ただ、鳥さんに会う前に布川さんには会ってるんです。当時、ぴえろがあった三鷹の遠い方の(スタジオ)・・・・・・。そこの近くのとんかつ屋さんか何かで......。

布川 よく覚えてる。

押井 食い物が絡んでると、よく覚えてる(笑)。で、その時に「『ニルス』を鳥さんでやるんだけど、どう?」って話があった。ま、それ以前に伏川あたりから聞いていたかもしれないけど・・・・・・。僕は一応「考えてみます」と答えたんですが、実は、その時にはもう「『ニルス」だったらやりたいな」って決めてそして翌週、鳥さんに会いに行ったんです。確か1話の制作で大騒ぎやってた時で・・・・・。

布川 そうそう、で、3話の処理を急遽頼んだわけだから.....。

絵コンテは...?

押井 6話か7話か・・・・・・。何しろ、それまで処理を1本やってるんですよ。

「処理」というのは......?

布川 コンテ以降というか、チェックとか、最終的にフィルムになるまでの構成を・・・・・・。

鳥海 今はね、処理だけやっても演出だという人もいるんですけど、本来演出というのは絵コンテをきって、それを処理してちゃんと仕上げまでするものなんですが。でも、やっぱりしょうがないもんでね、TVシリーズの場合は、そういうお手伝いをお互いやらないと、あがっていかないという...............だから彼(押井)が来たけれども、実際、彼の力量がまるで分からないですから、いきなり絵コンテからやってもらうよりも「じゃあ、どのように処理してくれるか、見てみよう」という気持ちもあったんですよね。それが3話だった?

押井 う~ん、どうだろう、確か布川さんのコンテだったような.....。

鳥海 じゃあ、2話かな!?

布川 いや、2話の処理はオレがやった。メチャクチャ(セル画の)枚数がかかったって、伏川にさんざん怒られた覚えがある(笑)。僕も2本ぐらいやったんですよ。

『ニルス』では、全体にかなりの枚数使われたという話を聞きますが??????。

布川 いや(苦笑して)僕もね、前はアニメーター、そして演出とやってきていたし、当時まだ30そこそこでしたからね、絵コンテ1本とか動画1枚とかの単価は知っていても、 はっきり言ってアニメーションの全体の予算がどれくらいなのか、一切分からなかったんですよ。で、52本作り終わってみたら、当時のお金で4、5千万円の赤字を出しちゃった。.....まあ、あの時は、やめるにやめられず首も吊れずで......。結果的に「番組というのは単に制作するだけではダメなんだな」という・・・・・・・。当時は下請けでしたからね。そういう下請けの辛さというのを、数年間体験しましたね。ただ、まあ『ニルス』の評価は非常に高かったし、いい作品を作り上げたという意味ではスタッフたちはそれなりに満足感を味わったと思いますよ。

鳥海さんは、「ニルス」の総監督をやられるために、タツノコを辞められたのですか?

鳥海 いや、その前に辞めてます。但し、ちゃんと「お礼奉公」勤めてね(笑)。(吉田)竜夫さんが亡くなって、あの頃は、みんな動揺していろいろ動いたけれども、僕は、長引いて2年越しになっていたフランスとの合作を放り出すわけにはいかないので、キチンと終わらせて、納品もすませて辞めたんですよ。でも、それからどうするというのは頭になくただ辞めただけ・・・・・・。で、某社のTVシリーズをやって5話くらいで降りちゃった。その頃、オーバーラップするように、「ニルス」の話が来たんです。

一押井さんは、どうして「『ニルス」だったと決意されたんですか?

押井 アニメの演出というものを、ちゃんと学びたかったから・・・・・・。僕がタツノコに入ったのは26歳なんですが、その月に竜夫さんが亡くなったんです。編集で入ったのに、すぐ演出部に回されて、3か月で常時8本ぐらいTVシリーズの演出をやらされて・・・・・・。何とかそれをこなしていくんですが、僕としては演出をしているという実感が全然ない。もちろん演出を学びたいという気持ちはあったんだけれど、何しろものすごく忙しい。そのうち、笹川さんや布川さんたち教えてくれる先輩がいなくなって・・・・・。動画の見方とか、作画のことなんかも、見よう見まねでやってただけですから、たまたま、うまいアニメーターと組めば、いい作品が出来て、ボロボロの外注だったりすると、それは無残なモノになっちゃったりするわけですよ。どうやってごまかして納品するかとか、最短距離で物を直すとか、そういうことだけうまくなったり絵がなくてもカッティング(フィルム編集)出来たり・・・・・。それじゃ、やっぱりマズイんじゃないかと思っていたところに、「ぴえろという会社は、布川さんが作って、当時他では考えられないような、ゆっくり時間をかけて(アニメを)作っているらしい」と、噂で聞い......・・。「いいなあ、うらやましいなあ」と思っていたんですよ。たまたま、そういったに(ぴえろから)誘いがあったので、ピューッと飛んで行っちゃった(笑)。でもね、鳥さんの下でやることには、本当は怖さもあったんです。かなり実はためらった所もあった。もしかしたらボロボロにされるんじゃないかとか、クビにされるという噂もあったし、厳しい人でしたから・・・・・・。僕としてはびえろがどうなるかより、鳥さんにクビにされるのが一番怖かった。しかし、その辺の所は決断したんですよ。このままでは演出として成長できないんじゃないかと実感があったんで、とにかく、自分の師匠を選ぶんだと......。だから「ニルス』の作品自体より、鳥さんの下でやるって、気持ちが強かった。

実際、鳥海さんの下でやられてからは?

押井 最初は怖かったですよ、本当に(笑)。初めてシナリオを渡されて、コンテをきった時です。まず、渡されたコンテ用紙がデカかった!通常の2回りぐらいデカイコンテ用紙で、枚数は、1話につき最低でも8千枚は使えと言われたんです。これは当時の相場の倍なんですよ!もう、どう使っていいか全然分からない。今まで描いてきたコンテのきり方が全く通用しないわけですよ。おまけにその時の『ニルス」のエピソードは、雨が降ってきて、ガンたちが湖で小休止している間に、ニルスが近くの農家に食べ物を探しに行くという、ただそれだけの話。ドラマがないから、死ぬか生きるかという話ではないし、アクションがあっていい話でもない。ヤマがないから.........。今まで一番悩んだコンテでしたね。それでもとにかく好きなシーンを見つけて女の子が自転車で自分の農場にてくるシーンなんですが、これにたっぷりカット数を使って、時間をかけて、女の子がを抜けたり、小川を渡ったりとか、いっぱい描いたんですよ。僕は1人の女の子が何かをするというシチュエーションが好きなので、ここは音楽が何かを流して、きれいなシーンになるんだろうなと思って、ドキドキしながらコンテを鳥さんに見せたんです。ところが島さんは「シナリオにない。いらないんだよ「押井くん」と言っていきなり全部切っちゃった。ビックリしましたよ!がっかりもしたし、でも、その後「なぜいらないか」についてのちゃんとした理由を丁寧に説明してくれたんです。僕は元々理屈で説明されるのがすごく好きなんですが、その時も「なるほどな」と素直に思えたんです。

というと?

押井 それだけ切られちゃうと、当然、尺が足りなくなる。他にもバサバサ切られたから結局5、6分は足りなくなったかな足りなくなった分、どうするんだろうと思っていたら、「そこんとこを膨らますのが演出なんだ」と......。

一度切って、それから膨らませる・・・・・

鳥海 『ニルス』のシリーズのアタマの方は、ストーリーらしいストーリーが無いんですよ。まあ、僕もまだ30代後半で、若い感覚が残っていたんですかね。学生時代に安部公房から聞いた話に「『桃太郎』の話をいくら分析したって「桃太郎』なんだ」というのがあった。ストーリー主義からの脱却というのを安部公男が口を酸っぱくして言っていたんです。「おじいさんおばあさんが、山や川へ出掛ける間のプロセスーー道端の草に朝かなんかがついていてそれが瑞々しく光るなんていう見せ方もドラマになっていくじゃないか」と.....。「それをストーリーだけを追いかけて何通り作っても、同じ話になるだけだ」とね。僕は「ニルス』でそれが出来ると思ったんですよ。ストーリーテリングを度外視して、それでどうやってお客さんを楽しく引っ張り込むか、という・・・・・。初期はそういうこともあって、だんだん、まあ、後半に詰まってくるとストーリーというものに重点を置かるを得なかったこともありましたが(笑)

押井さんのコンテでのご苦労は、その後も続いたのでしょうか!?

押井 いえ、その後は実は悩まなかったし、鳥さんが、巷間言われているほど怖い人ではない、というのが判明して、まあ、そればっかりじゃないということも、後で判明するんですけど(笑)その時はそう思えたので、リラックスしましたね。たぶん、鳥さん自身がすごくいい状態だったんですよ。いいアニメーターはいっぱいいたし、1話のコンテがいいあがりで会社にも学研にも褒められたし、スタジオの空気もすごくいいし、夕方には仕事が終わっちゃうわけ。夕方には仕事が終わるアニメスタジオがあるとは思わなかったから、週に3~4回飲みに行ってました。ともかく最初の1本のコンテの後からは楽しかったなあ。

鳥海さんが、『ニルス」で思い出に残ったことは?

鳥海 やはり楽しかったですね。気分的にも今までの自分を一切切り捨てることができたし、組織としてもまとまっていて、現場はうまくいっていたという印象が強いな。だから最終回のアフレコで、小山芙美(ニルス役)さんが、テストの度に何度も泣いちゃって彼女は1年間のニルスの成長を見て泣いたわけですよ。僕等も、今まで作り上げてきたものが、これで終わったんだという感動がありましたね。押井くんがアニメーションの演出の基礎を学んだのが鳥さんと言っていたけど、スタジオの基礎を作ったのも、鳥さんですよ。まあ、そういう面をキッチリやれる人だからということも、こちらの頭にあったわけではありますが(笑)。ただ、2人(押井、鳥海とも、金銭的には無関心だったわけで・・・・・・。あの時、誰も考えていなかったでしょ。だって、布川さんのきったコンテが、1番枚数多かったんだから(笑)。とにかくね、『ニルス」で、ワシが出てくるシーンがあると、ワレの映像を集めて、それをみんなで見て研究したりとか、実際ラフで描いてテスト撮影して見直して結果を出していくという、よく考えれば、当たり前のことなんだけど、それが当たり前にやれたことが驚きだったんです。そういう環境って、どこにもなかったと思う。それに、同じ部屋に演出が全部集まってい何かあれば話が出来るという、アニメーターとも毎日顔を合わせて話し合えるということもこれまた当たり前のように出来ていた。

布川 そういう、スタッフがいい仕事が出来る、言わば制作する上での環境の整備というのも、ぴえろを作る際の僕の夢でもあったんです。その意味でも『ニルス」は、シンボリックな作品だったかな、とは思っています。僕自身にとってもね。当時「ぴえろはクリエーター集団だ」と、よく言われましたが、20年経った今、思うのは、何とかまた『ニルス」のような作品を作れる環境にするには、どうしたらいいかとやっぱりそういう気持ちは、すごくありますね。まあ、せいぜい頑張って仕事できたとしても、僕はあと10年ぐらいでしょう。これから20年ていうと、70歳だからね(笑)。

『ニルス』の後は・・・・・・?

鳥海 あの話をしなくちゃ!

押井 2人がいるから、僕から言いますけど、実は『ニルス』が終わって、そのアト番組の企画が突然ボツになっちゃって、しばらく仕事がない時期があったんです。「来月から給料が払えない!」って......。

鳥海 で、みなさんに出稼ぎをお願いしたんですよ。

押井 そう、演出部全員が出稼ぎをやった。僕は『名犬ジョリィ』鳥さんは単発長編案野さんが東映で少女もの、布川さんもやりましたよね。みんなでセールスマンやって、企画書かなんか入っているトランク下げて、いろんな所へ行ってそれをパーンと開けて並べて「さあ、どれをやる?」って仕事取って来たんですよ。それで、空白期間の社員全員の給料を確保しました。でもね、あの頃は楽しかったなあ、僕は・・・・・・。

それから、TVシリーズで鳥海さんと押井さんが組まれた仕事はないんですか?

鳥海 太陽の子エステパン」で、押井くんも加わるはずだったんです。ところが途中から「うる星やつら」の制作が決まって.....。

布川 いや、急遽決まったんですよ、『うる星やつら」の制作が。10月番組で8月15日に決定が出たんですよ。45日しかないのに、まだシナリオも何もない!いまだに1話のドタパタ覚えてるもんね。放映日の朝方まで、「これ運べ、これ運べ!」ってドタバタやってた。

押井 僕が覚えてるのは、「うる星やつら」がスタートして半年ぐらいまで、非難轟々だったことかな。毎朝、スタジオに入ると、ダンボール箱2つぐらいに視聴者からの手紙が送られてくるんです。その8割は脅迫状。カミソリやカッターナイフの刃はあるし、中には延々1時間ず~っと罵詈雑言が入ったカセットテープもあった。本当にうんざりしました。気も滅入ったし...もう2クールぐらいでクビかなって思った。けれど、半年経ったら(視聴者の反応が)劇的に変わったんです。**今は演出家受難の時代ですね。その頃から、丁度(制作)現場の態勢が整ってきた。やりたいことがスケジュールにようやく追いついてきたんですね。

布川 そういえば『うる星』のセル画をよく盗まれたな。小金井のスタジオの頃だったんだけど、泥棒が壁を壊して入って(笑)!結局一網打尽で捕まったんですが、当時(新聞の)3大紙やNHKニュースにも取り上げられたもんな。いや、昼夜問わず何度も小金井警察に呼び出されて・・・・・・。それでね、最初刑事さんたちは「何でこんなモノ盗むんだ?」って、不思議がって、でも、我々から事情を聞いたり、盗まれたセル画が1枚30万円ぐらいで売り買いされたなんてニュースも出たりするうちに、価値観が分かってきたみたいで、セル画が戻って来た時――もうボロボロで「捨てるしかない」って話したら、「ちょっと数枚もらえないか?」と(笑)。

押井 その後も入られた。オープニングか何かがまるごと盗まれて・・・・・・。確か換気扇から(泥棒が)入ったんですよ。しょっちゅう布川さんたち、小金井警察に行ってましたもんね。

―――話を戻しましょう(笑)。鳥海さんと押井さんが組まれたといえば、OVAの『ダロス』も有名です。この作品は世界初のOVAでもあったんですが・・・・・。

布川 本当はこれ、TVシリーズの企画としてバンダイさんに出したんですよ。しかし、諸事情で実現しなかった。ただ、企画自体は高く評価していただいて、ビデオにしてみようということになったんです。30分で4話作りました。ちょっと中途半端で終わったけど、終わったんだよね(笑)。

押井 一応、区切りはつけたんですけどね。

鳥海 企画を提出してから、実際制作に入るまでものすごく時間がかかった。だから、その間、あまりにもこね繰り回しちゃったんです。これは、どういう作品にも言えるけれども、いつまでもコチョコチョとこね繰り回していると、どんどん複雑になってしまう。52本(TVシリーズ)の構成出した時に、英断してもらってポンとやってくれてたら、もっとおもしろい違う世界が出来たのになあ、とも思いますね。

―――『ダロス』は、ストーリー順には発売されていませんが、これは何か意図が・・・・・・?

押井 2話、1話、そして3話の上下巻と発売されましたね。これは、バンダイさんが、「初めはハデな2話から発売したい」と・・・・・・。

鳥海 『スター・ウォーズ』の方式をちょっと、という・・・・

布川 一番おもしろい所から始めちゃえ、ということだね。

押井 基本的に1話を鳥さんがやって、2話を僕がやって、3話を半分ずつやったんですよ。僕が2話やってる間に、鳥さんは1話やって、僕はそのまんま3話の前半をやって、3話の後半を鳥さんがしめくくるという・・・・・・。

―――話の辻褄が合わなくなりませんか?

鳥海 2人だからできたのかな。そういう制作スタイルをとっても、お互い中身はある程度わかりましたから。コンビネーションはよかったですね。ま、なかなかできないでしょうが……………。

押井 鳥さん、今はそういうふうに言いますけど、大変だったんですよ(笑)。全体だとお互いやったことは別々なんですもの。まるっきりバラバラにやっていたから・・・・・・。

――その後、鳥海さん、押井さんともぴえろをお出になってフリーになられたわけですが、そのきっかけは・・・・・・?

鳥海 まあ、ぴえろに入って、制作現場として一つの組織を作り上げて、やがてそれとは違う別の組織が生まれてくるわけですよ。そうすると、どうしてもその間に軋轢が出てしまう。それを打ち消すためには、スターリンかヒトラー(独裁者)にならなければならない。しかし、僕はスターリンにもヒトラーにもなれなかったというだけの話で・・・・・・。そしたらばまたもう一回、アニメーションというものを見直すためにも、ね・・・・・・。

押井 僕は、とにかくフリーになってみたかったんです。自分で企画を出してそれを通して、監督して、それを世の中に出していくまでを、全部自分でやってみたかった。

―――押井さんが、それに踏み出していけた自信みたいなものは、TVシリーズもそうですが、監督された劇場版『うる星やつら』の第2作の評価が非常に高かったというところからもきているんでしょうか?

押井 それはやっぱりありますね。自分で本当に腹をくくってやった最初の仕事ですから。これで失敗したら、もうダメだと思っていたし、本当にこんなものを認めてもらえるか、半信半疑だったから・・・・・・。ともかく、1回思う通りにやってみたかったし、その結果次第で考えようと・・・・・・。やり終えて、ある程度評価してもらって、このまま自分で仕事をとって出来るのかなって、大喜びしたんですよ。

布川 演出家は技術者タイプとアーティストタイプに分かれるんですよ。技術者タイプは基本的にギャラとってなんぼだけど、アーティストはギャラじゃないわけね。彼(押井)はアーティストの方へ向かって行ったと。

押井 なぜかイケイケだったんです。でも、フリーになってみたら、甘くなかった(笑)。やることなすこと、みんな失敗という・・・・・・。

布川 やっぱり演出家という立場で、スタッフを引っ張っていくのは、なかなか大変ですよ。演出の資質以上に、スタッフを使っていくプロデューサー的な資質も持ってないと難しいですよね。

――鳥海さんには、今のぴえろはどう映っていますか?

鳥海 まあ、TVを見ていて、ぴえろ全体な印象で言うと、何か核が消えているのかな、分散しちゃってるなという・・・・・。プロデューサーたち個々がバラバラに育っているような気がする。あと、これはぴえろ作品だけではないけれど、気になるのは、演出上で、先達が後輩を指導していく部分に、えらい断絶があるんではないかという・・・・・。演出というのが、パターン化されちゃってるんだよ。今のアニメ会社のコンテをのぞくと、キャラクターや風景の見せ方までみんな同じ。これは誰から教わっているのかという不思議さと、もしかしたら何も教わっていないんじゃないかという恐怖みたいなものを感じる。

―――押井さんはいかがですか?

押井 僕はここ2、3年、ぴえろだけじゃなくてアニメから遠ざかっているからなあ。たまに見るのは深夜のアニメぐらいですね。でも、鳥さんの言うように、記号化してるっていうことは感じる。あとね、今は演出家受難の時代ですね。だいたい演出家って、アニメ会社の社員じゃないもの。身分を保障されてないから、みんなフリーであっちこっちの仕事をこなさなきゃならない。そんな環境じゃじっくりと自分の作品を責任持って仕上げるなんて出来っこない。かわいそうなんですよ。

布川 まあ、アニメーションという産業は、これだけ日本で隆盛を迎えているんだけど、結局こういう現場の抱えている問題は、一つ改善されていないわけ。待遇や環境の問題であったりとか、誰が責任を持ってどう教えていくのかという一つの主従関係も含めて・・・・・・。これは我々の今後の大きな課題だと思う。まあ、この問題に関しては、ピエロだけじゃなくて、あまたあるアニメプロダクションそれぞれが、今後の日本のアニメ業界をどうして行くかという展望や理念を盛り寄って、全体で一致した活動をするべきでしょう。そうしないと解決しないと思うんだ。

ーーなるほど。では、最後に鳥海さん、押井さんに伺います。これからのぴえろに臨むことというのは?

鳥海 はたから見てると、ぴえろは大きくなりましたから。スタッフも大勢いるし、昔の僕らがいた頃と全然違うし、これをどうやってうまく機能させていくかってことでしょ。うっかりすると、皮下脂肪が溜まっちゃうわけでさ、それをいつもスリム化をはかって動かしていくというのが1番大事なんじゃないでしょうか。

押井 布川さんのいる前で言うのはなんですけど「ぴえろってよく20年もったな」って思います。これはたぶん、現場のどうこうじゃなくて、布川さんがエライと、とにかくもたせてきたのは・・・・・・(笑)。あと、これは望むことじゃなくて、僕の感想なんだけど、以前『御先祖様万々歳!』の時に、劇中歌をスタジオに持ってきて現場で聞かせようとしたことがあったんです。で、歌を大音量で流してたら、隣の部屋から「うるさい」って苦情が来たんですよ。ずいぶん感じが変わったなと思ったわけ。昔はそういうことがあると、直接関係なくても、みんな集まって聞いていたんですよ。結局そういう雰囲気って確かになくなったんだなあと・・・・・・。みんな自分の仕事のためだけのプロフェッショナルで、言い換れば、みんなが集まってぴえろという会社を作っているということではなくなったな、と・・・

布川 それは単に個人の問題じゃない。全体として判断してはいけないんじゃないの!?

押井 いや、今、どこでもそうなんですよ。昔は、隣の班が何やってるのか、自分でのぞかないと分かんなかった。でも、今は、のぞきに行かなくとも、逆に大きく迂回した形で――例えばアニメ雑誌とかで――情報として加工され画一化されて入ってくる。だから誰しも同じようなことしか考えなくなった。僕らの頃は、自分で見たものしか情報としてないから、いろんなことを考えたんですよ。いい意味でも悪い意味でもね。ま(苦笑して)、僕が歳とったということもあると思うんですよ。歳とると、若い人って同じ顔にしか見えなくなっちゃうから・・・・・・。今の若い人だって1人1人きっと違うだろうけど、どうしても1歩引いた所で僕は見ちゃうし、逆に向こうも引いた所でしか接してくれない。どの現場に行っても、ヘタすると僕が最年長になっちゃうんですよ(笑)。

布川 でもね、僕も、押井ちゃんなんかがぴえろに入って来た頃に「変わったなあ」って思ったもん(笑)。ただ、今の若い人って、短い(年代の)エリアで人種がコロッと変わっちゃうという所はあるな。それは、時代の流れがどんどん加速してるせいかもしれないね。

―――お話はつきないようですが、きりがないので(笑)、この辺で終わらせていただきます。本日は長い時間、どうもありがとうございました。




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