なぜこんなにも早く逝ってしまったのか鈴木邦男(一水会代表)
野村秋介氏が死をもって訴えたもの
新右翼"の運動を担うようになって以降、この十年ほどの間、野村秋介氏は絶えず死を意識して行動していたように思う。いま、同じく新右翼の一翼を担った者として、改めて野村氏の早すぎた死を惜しむ。
思いあたるふしはある
野村秋介氏は本当に死んでしまったのだろうか、今でも信じられない気持ちだ。自決から三日が過ぎ今日(十月二十三日)告別式だったが、それでもまだ信じられない。この原稿を書いている今も「おっ、鈴木君、元気か」と電話がかかってくるような気がしてならない。「さすがは野村さんだなー」「最後のサムライだったな!」「そういえばこんなことがあったな!」と告別式では皆が話し合っている。もしかしたら、こういう事になるのかもしれないと皆、うすうすとは感じていた。しかし、こんなに早く、こんな形で野村氏との別れが来るとは思わなかった。
今から考えれば思い当たるふしはある。ありすぎる位にある。自決の当日、全日空ホテルで行われた民族派のシンポジウムでは野村氏の新しい本『さらば群青』が受付に並べられていた。「あれっ、又、ビデオを作ったのか」と思って通り過ぎる人が多かったが、単行本だった。五百八十ページもあるし定価も三千五百円と高い本だ。分量にしろ定価にしろ普通の単行本の二、三冊分だ。
この集会に間に合うようにと無理に本作りを急がせたという。二冊か三冊に分けて作る時間的余裕もなかったのだろう。その厚さを見て異様な本だと思った。買ってからシンポジウム会場に入り、本の帯を見た。そしてアッと思った。帯にはこう書かれていたからだ。
「戦闘的ナショナリストの『遺書」。饒舌の徒・進歩的文化人と称する醜い日本人よ、語るなら命を懸けろ!言葉と情念が厳しく交錯する行為者にして俳人・野村秋介の、これは『遺書』である」
ズバリ、遺書だと書いている。しかし、これを読んで、きつい表現だなとは思ったが、死ぬとは思わなかった。この本を作った二十一世紀書院の人達にしてもそうだろう。事前に何度も目を通しているからだ。「遺書」という文字を見ながら、それでも十月二十日の自決を予期した人は誰もいなかった。
僕も含めて皆が鈍感になっていたと言われたらその通りだ。しかしそれには訳があった。野村氏はそれまで何度も何度そのような言葉を使っていたからだ。「最後の闘いをする」「もう刑務所には戻らない」「死にざまを見せてやる」......と。だから「遺書」という言葉を見て若者に対する野村氏なりの厳しいメッセージだとしか思わなかったのだ。「命懸け」ということは野村氏の五十八年の一生全てに言えることだろう。しかし経団連事件のために府中刑務所に入り、そこを出てきたのが十年前だったが、その時から「死」ということを口にするようになったと思う。その時、つまり府中刑務所を出て、出迎えの人々を前に激越な演説をした時から「俺の命はあと十年」と決めていたのかもしれない。時期を自分で区切って、その間に自分の全てを賭け燃焼させた。そんな気がしてならない。
三島事件と<狼〉
僕が野村氏と知り合ったのは十八年前だ。初めて会った時から強烈な印象を受けた。それは十八年間を通してそうだった。十八年前というのは昭和五十年(一九七五年)だ。この年、千葉刑務所を出してきたのだ。昭和三十八年に河野一郎邸を焼き打ちして千葉刑務所に十二年服役していたのだ。
会う前から野村氏のことは知っていた。『新勢力」という民族派の月刊誌に、氏が獄中から投稿していたからだ。獄中からの手紙という形だったが中に俳何があって、すごい俳句だなーと思っていた。心(うたどころ)を持った維新という感じがした。その『新勢力』には僕も原稿を書かせてもらっていた。今思うと拙ない恥ずかしい原稿なのだが政治や民族派運動論を書いていた。
特に三島事件をめぐる論争では何回か続けて書き野村さんはそれに目をとめてくれたようだった。今、何気なく三鳥事件と書いたが、あれは三島個人の起こした事件ではないし、「稲の会」をひきいて政治的に起こした事件なのだから「楯の会事件」と呼ぶべきだと言う人がいた。それに対して僕が反論を書いた。楯の会として決起したわけではないし、楯の会百人で何かやろうとしたのでもない。むしろ楯の会にも絶望して必勝と共に自決したのだ。三島事件でまずければ「三島・森田事件」と呼べばいい。いやむしろ、森田が言い出して三島を決起にそったという意味では「森田必勝事件」なのだ。
......と、そういうことを書いた。「むしろ森田必勝事件だった」という題名だったと思う。それに対しても反論があり、又、応え、さらに・・・・・・と何度か誌上論争をやった。若いせいもあってかなりムキになって書いたことを覚えている。野村氏はそれを読んで、「出たら会おう」と言ってくれた。三島由紀夫の「絶望」と孤独の闘いというところに共感してくれたのかもしれない。
昭和五十年(一九七五年)に初めて会った。『新勢力』の主幹・毛呂清輝氏が会わせてくれた。「反共だけではダメだ。これからは新しい民族派運動をさなくてはいけない」と開口一番言っていた。又、僕が三一書房から出した『腹膜時計と狼』を評価してくれ、こんな事を言っていた。
「三島さんのやったことを右翼はその継がなかったでしょう。継げなかったんだ。もう戦後体制にどっぷりとつかっちゃったからね。(中略)それ(島の心情が)<狼〉にこだまして、その〈狼>の行動が我々にこだまして、そうして迂回して三島由紀夫の言ったことを我々にのこしてくれてるような気がするんですね。そういう意味でいま鈴木さんが<狼>のことを取りあげているっていうのはすごく意義があるんだ」
<狼>というのは連続企業爆破の「東アジア反日武装戦線」のことである。彼らは極左あるいはアナーキストと呼ばれた。しかし常に入りのペンダントを持ち自決の覚悟を決めていた。覆面、ヘルメットで顔をかくし、大衆を楯にして大衆の後ろから石や火炎ビンを投げて逃げるという今までの左翼運動とは全く別のものだった。むしろ戦後右翼が忘れ、捨ててきた「運動家としてのストイッシズム」「死の決意」を彼らの方が持っているのではないかと思い僕は単行本を書いたのだ。
しかしマスコミからは「右翼が極左を評価した」と書かれ、それを読んだ右翼からは総スカンを食った。徹底的に批判されたし、嫌がらせや脅迫も受けた。僕がやっていた一水会だって、かなりの人間がやめた。「左翼を評価するなんて鈴木さんはもう右翼じゃない。同志ではない。裏切り者だ」と言われた。孤立無援だった。だから野村氏が評価してくれた時は本当にうれしかった。
ただ、「三島事件のこだまが<狼〉になって出てきているし、その<狼〉の行動が今度は右の方に反響すると思う」という野村氏の言葉には驚いた。僕だってそこまでは思わなかった。野村氏は詩人だなあと思った。だからこういう文学的な表現をするのだろうと思った。しかし、これは当時の野村氏の心情そのものだったのだろう。
新右翼と赤報隊事件
この野村氏の発言は『現代の眼』の昭和五十一年二月号での僕との対談の中で言ってることだ。野村氏と会って間もなく、野村氏の先輩の家で長い時間、話し合った。「反共右翼からの脱却」というタイトルで、サブタイトルは「われわれは現体制の手先ではない」という厳しいものだった。天皇論、右翼論、運動論・・・・・・と多方面にわたって話をし、その全てにおいてほとんど考えが一致し意気投合した。全国の青年に呼びかけ、新しい民族派運動を展開しようという結論になった。
そして山形県米沢市をスタートに、福島会津若松仙台......と地方を回り「新しい日本を創る青年集会」をやった。合宿をやり講演会をやり自分たちの出版物をつくり......。新しい青年運動、大衆運動を目指して動き出していった。初めは大衆運動に期待したという点では三島由紀夫とも似ている。そして最後は自ら言葉で死ぬ決意を固めてゆく軌跡も似ている。
野村氏を中心としたとの新しい民族派運動がマスコミからは「新右翼」と呼ばれた。しかし昭和五十二年には経団連事件を起こし野村氏は再び獄中の人となる。一緒に決起に参加した三人の青年のうち二人は元「稲の会」の人間だった。三島のこだまが<狼〉にいき、それが右翼にはね返るとは野村氏自らのことだったのだ。
経団連事件で六年間、刑務所に入り、府中刑務所を出てきたのは昭和五十八年(一九八三年)の八月だった。僕の『補版・新右翼』(彩流社)の「新右翼関係年表」には、この野村氏の出所に触れ、「これ以降『新右翼』にわかに活性化」と書いている。
実際その通りだった。統一戦線義勇軍、日本民族義勇軍、一水会など「新右翼」が過激な闘いに打って出た。米・ソ大使館、朝日新聞社への抗議、火炎ビン投擲安藤太郎住友不動産会長宅襲撃。そして朝日新聞の記者を殺傷した赤報隊の事件もあった。
ただの赤報隊事件だけは続発した新右翼関係の事件とは別のところで起こっている。野村氏がこの赤報隊事件と何らかの関係があり、それ以降の朝日との闘いがあって自決したのではないかと穿った見方をする人もいる。しかし違う。三島由紀夫の自決が全く別なところにいた<狼>グループにこだましたように、野村氏の行動が赤報隊にこだましたということはあるだろう。しかし野村氏や新翼とは全く別の地点から赤報隊事件は起こったと思う。
「これをやったのは右翼ではないだろう。右翼なら必ず匂いがある。しかし今回の事件は全く匂いがない。それに、あれだけ腹の座った奴は右翼にはいない」
と野村氏は言っていた。ヨーロッパ型の乾いたテロリズムであって「日本型の右翼事件ではない」と思いながら、それでも強い衝撃を受けていた。又、赤報隊の文を読み、同感していたことも事実だった。赤報隊に影響されたことはないだろうが、期せずして同じく朝日を敵にしたのだろう。
いや、敵にしたという言い方は誤解を招くかもしれない。結果的には朝日の本社で自決し、朝日との闘いの中で死んだ。「朝日と刺し違える」ということも言われている。しかし最後は朝日の問題は終わっていた。朝日の問題は超えて、言論機関、マスコミに携る全ての人間の責任を問い、言葉の重さを知らせてやる。そんな気持ちだったのだろう。言葉を使ってい思想戦争をする右翼民族派の責任も厳しく追及したのだと思う。
死を覚悟していた十年
府中刑務所を出てきてから今年でちょうど十年だった。そして死と向き合い、「最後の闘い」をしようと覚悟を決めた十年だったようだ。遺書となった「さらば群青』の「はじめに」では自分のことについてこう書いている。
「敢えて何らかの特徴を挙げよといわれれば、戦後五十年、日本人が最も忌み嫌ってきた『死』や『暴力』といった問題について、常に距離を置きながらも、寸時として眼をそらすことなく生き続けてきた、ということくらいのことだろう」
特に最後の十年はそうだったと思う。十年前に出した時から「俺の人生はもう十年。それまでは思い切り闘う」と決めていたのかもしれない。続いてこうも言っている。
「とすれば、文章を書くことも、映画を製作することも、恋をすることも、何もかも遺作、遺言ということになる。だかこの書を世に送ることも、いわゆる芭蕉の言う『明日の辞世』ということになるのかも知れぬ」
この十年は日々、死を覚悟し、前提にして生き、闘ってきたという。だから、そうした言葉も随分と言っていた。「これからは最後の仕事だ」「生き様は見せた。今度は死に様を見せてやる」......と。又、「こうなったらもう死ぬしかないな」と言ったこともあった。「そんなことは言わないで下さいよ」と周りの人問も言いながらも、面と向かって<死>の問題は取り上げないできた。僕も含め皆が話題にすることが恐かったのだ。又、野村氏の決意が恐かった。
野村氏が自決した日、全日空ホテルでは「新しい時代に対する民族派の使命」とするシンポジウムが開かれていた。メインのパネラーとして野村氏も出席の予定だった。その時に受付の横に積まれていた印刷物があった。野村氏のメッセージだった。今にして思えばこれも遺書だったが、その時は分からなかった。
その中で、「マッチ擦るつかの海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや」という寺山修司の詩を引用し、この詩と「十数年にわたって心の中で対峙し続けてきた」と言っている。「そして今『ある!』と腹の底から思うようになっている」と言う。この遺書は「天の怒りか、地の声か」と題されているが、朝日のことについては全く触れていない。朝日の問題は野村氏の中では終わっていたのだ。
十月二十日のシンポジウムの案内状の中にもそれは書かれている。
「一年という年月をかけての戦いでした諸般の事情に鑑み、朝日側もそれなり誠意を示された事も考慮し朝日新聞社に対する抗識をここで一応区切りといたしたく、このシンポジウムの第一部におきまして皆様のご理解を仰ぐべく、ご報告致します」この案内状によると第一部は「『風の会』に対する朝日新聞社側の謝罪と見解」、第二部はシンポジウムとなっている。そして、朝日の出版局長が謝罪文を読み上げた。三百人の右翼民族派の人々を前に謝まったのだ。何か、かわいそうだなーと僕は思った。何もそこまでしなくともと正直思った。ところがそれは野村氏の思いやりだったのだろう。朝日の問題は終わったのだ。自分の考えを誤解して朝日や山藤を攻撃してはならない。そう言いたかったのだろう。
マスコミに対する怒りと期待
確かに問題の発端は『週刊朝日』に山藤章二氏が描いたイラストだった。「風の会」を「虱(しらみ)の党」と揶揄したのだ。それに激怒し野村氏は抗議した。山藤氏も週刊朝日も謝罪した。イラスト事件は終わったが、こうした事件を起こす背後には朝日の体質があると野村氏は問題にした。そして朝日側との公開討論会を要求した。
この問題を通し、マスコミの使命・役割を考え、訴えたかったのだと思う。今のマスコミに対して怒り、憂いていたということもある。と同時にマスコミに対する期待が余りに大きかったからでもある。「マスコミ批判勢力として正常に機能していれば大丈夫だ。全体主義にはならない」と常々言っていた。又、「もしヒトラーが現われれば僕は殺します。だからテロは否定しない」と言っていた。全体主義にならないようにテロ・暴力の必要性はあると言っていたのだ。全ては言論でやるべきだと言っていた僕は、この点では野村氏にいつも叱られていた。「君は考えが甘い」と言われていた。
マスコミに対する期待が大きいというのは自分も言葉を使って思想戦争をしているという自負があったからだ。侵略戦争、従軍慰安婦、南京大虐殺、そして大東京裁判史観。そうした書き方をする戦後のマスコミは、批判精神ではな日本だけが悪かった」という戦後的風潮に安易に乗っかっただけのものだと言っていた。「日本は侵略戦争をし謝罪する」と言うのなら腹を切れ、という強い表現もあった。
みんな言葉を軽々しく使いすぎる。貴任もとらない。それが戦後というエセ平和主義の日本をつくってきたのではない野村氏は言った。そして自分だけは言葉の重さを見せてやる。そう思ったのだろう。
そう言えば、こんなことがあった。一水会で講演してもらった時だ。会場には政治スローガンがいくつか貼られていた。これは左翼でも同じだろうが、「〇〇打倒」と「〇〇粉砕」「死守」といった用語が氾濫している。それを見て野村氏が怒った。「打倒や粉砕、阻止というのなら、それが出来なかったら死ね。その位の気持ちでやれ、そんな覚悟もないくせに安易に言葉を使うな」と言ったのだ。これには皆、シュンとなった。ただ「そんなことを言っても、スローガンなんだから。そんなかたいことを言わなくとも」と心の中で反発したことを覚えている。しかし、これは野村氏の方が正しかった。僕らも今ではそんなスローガンは使っていない。
安易なスローガンをやめろということは、運動をやってる人間にしか通用しない言葉を使うなということだった。「刑務所では言葉の通じる奴がいない」とも言っていた。だからこそ、言葉を大事にした。又、軽々しく言葉を使い、責任をとらない現代の風潮が腹立たしかったのだろう。五十八年という野村氏の激しい人生がそのまま大きな言葉だったと思う。
「もうこの位言ったら分かるだろう。あとは自分たちで考えろよ」ということかもしれない。朝日に代表されるマスコミや、民族運動をする人々、そして全ての日本人にそう言ったのだろう。そう思い、そう分かりながらも野村氏の死は残念でならない。左右を問わず活動家といわれる人々は、一般の人に通じる言葉を持たない人が多い。ところが野村氏は俳句をつくり、映画もつくり、本を出し、テレビに出演.....と、一般の人々に発信する言葉を持っていた。それらの言葉に触れて民族国家や人生について考えはじめたという若者は多い。
これだけの大きな言葉を持ち、影響力を持った人はもう出ないだろう。だからこそ早すぎた死は残念でならない。
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