見沢アウトロー総研 鈴木邦男と見沢知廉の研究




ワンサイクルたったので、この連載も一応終了する。あとは本業の小説にダッシュしますので、応援してくれた読者の皆様ありがとうございます。
どうせ終りなら、本誌でも『ヤンナイ』でも連載がカチ合ってしまった、鈴木邦男と見沢知の(知らざる内側)とキミョーな関係について考察......というか、バラしちゃおう。
今年、ロフト出版から『トーキングロフト』という本が出版された。その中の、見沢の鈴木とS川への訣別宣言が一部業界(笑)で取り沙汰された。
その件で、その後の展開をよく訊かれたりするが、S川は、お得意の二枚舌路線で、一方で「仲よくしましょう」と手紙をよこしながら同じ日、連載の夕刊紙に<見沢は物書きの恥〉(本誌でもやった、あの悪名高い島田荘司批判のよう)と、自分一人が被害者といったゲスな、文章になっていない文を書きなぐった。
しかし、鈴木は別に何もしないし、言わない。その本が出た後にすぐ、2回3回と会う機会があり、群青忌(野村秋介氏の回忌。毎年10月にする)の帰りの二次会と思うが、福田氏や鈴木と<足をひっぱる、集中的に叩かれる>という話になり、なに気なしに本で書いた批判のことを訊くと、「ああ、批判言われるのも評価のうちだからねえ」とポツリと言った。
さすが、十数年、マスコミの世界で生きてきただけのことはある(ただ「夕刻のコペルニクス」は、批判歓迎論争歓迎のやりすぎ傾向はあるが......)。
左翼は、シラフのときに延々と政治論をする。しかし酒の席では、もっと楽しい話をすることが多い。
しかし右翼は、シラフのときには余り喋らず、酒の宴(右翼では直会という)延々とムキになってとめどなく政治論議をする。
見沢と鈴木の特徴は、しかし右翼の酒論議に、まずつきあわない点にある。2人とも、10代~20代の学生当時は、かなりの本を読み、ペダンティックな論文を書きまくっていた。
「我々は危急の問題として、強固な鉄の軍閥を建設せねばならない。鉄の規律を誇る恒常的武装組織を確固として建設せねばならない。」(「武装闘争に決起せよ/」88年「義勇軍報」)
見沢と鈴木が酒宴に出ても、まず10代の女のコや若い男とキャーキャー冗談を言うばかりで、「まじめな政治論議につきあってくれない」という不満の声がけっこうあった。むろん、つきあおうとすればつきあえるし、その状況がくればいわれなくても参入するが、残念ながら今は、いくら時代が崩壊しているとはいえ、左右の反体制が、組織というだけの力をもっていない状態であり、それではマジメに政治に参加するのが空しいのだ。鈴木の場合は、外に長くいた分だけ、見沢よりも徹底して政治論議に入らない。10代のピアッシング、タトゥーおねえチャンと「猪瀬直樹は茶パツだよ」などと笑いふざけ合うのである。見沢が初めて鈴木に会ったのは、82年冬、『レコンキスタ』のチェックをしている印刷であった。この頃鈴木はまだ頑固な天皇主義者、右翼であり、<左翼は強い>という内ゲバ部隊などの話をすと、「うわー、いるなあ」と顔をゆがめていた。
ところが、戦旗が皇居にロケット弾をうちこんだとき、ほとんどの右翼は怒っていたのに、たまたま見沢と面会をした、見沢の母親とそのとき会っていた鈴木は開口一番「すごいねー、あの組織力は。一発で花火みたいに終わらないからねえ」としきりに感心していたのである。
鈴木は「腹腹時計と狼』と『夕刻のコペルニクス』でメジャーになった。見沢は『囚人狂時代』で一応メジャー化した。つまり、部数を売ることである。自費出版で何百部刷って右翼に配って自己満足する右翼著述業が、社会にどれ程の影響力をもつのかといえばかつて五・一五事件の橘孝三郎が、
「一回マスコミに出るのは、十万枚のビラを刷るのに相当する」
と言ったよう、まさにそのセリフ通りであろう。
さて、見沢も鈴木も独身である。20代ずっと入っていて婚期を逃してしまった見沢はともかく、鈴木の独身は右翼界七不思議の一つにたとえられている。ホモ説、ロリータ説、ブルセラ説...などが飛び交っているが、本当は何なのか、今度そっと教えて下さいね!

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