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あるアニメーション映画の企画がつぶれて、ボカッと前に穴があいた。自分の脚本で押井さんが監督をするはずだった。 ウサバラシにぼくのボロ車に乗って、二人でワーッと知床までつっ走った。
オホーツクに面する人気の無い河口にアジサシが舞っていた。砂の中に埋もれかけた突堤の先に座ると、 風にのったアジサシ達が目の前でほとんど静止して、やがて水中の小魚に突進する。 くり返し、くり返し突し、また空中に舞いあがる。彼はずーっとそれを見ている。座り込んであかずに見ている。
砂浜に何十羽もの海ネコだか、カモメだかミズナギドリだかがたむろしている。 ぼくは砂に足をとられながらヨタヨタと群へ走る。鳥達がみんなこっちを見ている。 ギリギリまで待ってから、彼等は風にのって舞い上がる。がたちまちむこうの砂浜におり立ち、みんなこっちを見ている。
あえぎながら、ぼくがもどって来ると、彼はまだアジサシ達を見ていた。
ホッケのひらきを山ほど買って、家でムサボリ食うんだという押井さんをのせて、一気に南へかけ下って東京にもどったら、ぼくはすっかり腰痛になっちまってた。
ぼくは実写映画に関心も興味もない。時たま、ほんとに時たまの気まぐれな観客の立場から出る気はない。 だから、押井さんが映画少年をいまだにひきずっているのを見ると、アニメーションの監督を実写の人がやるような違和感しか感じない。
うる星やつらの「ビューティフルドリーマー」、マンガ「とどのつまり」、抽象性の高い「天使のたまご」、実写「紅い眼鏡」と観て来て、 彼が何を考えているかは、「紅い眼鏡」に、いちばん、はっきり表現されていると思った。
でも、ぼくはふみこまないのは好きじゃない。アタルはラムとの距離を保ちつづけ、とどのつまりの青年は、 アリスらしき鼻たれの少女と結局どんなかかわりも持たない。天使のたまごの青年と少女も、彼がどんなに語ろうと同じようにしか感じられない。 紅い眼鏡を観ている内に70年のバリケートの中にいる高校生の彼が、俺にとって現実と呼ぶに値するのはこの瞬間だけだといまも叫んでいる気がした。
押井さんの登場人物が他者に手をさしのべ、ウソッパチでもその時だけの真情でも、気まぐれでもいいから、他人と泥くさいかかわりをジタバタする作品こそ、 ぼくは観たい。
押井守は才能ある演出家だ。だから、あのつぶれたアニメーションの企画を、今もぼくはあきらめずに、機会をうかがいつづけようと思っている。 宮崎駿