『テアトロ 1974年3月 北ベトナムの劇場から』


 ハノイの市立劇場はその夜もハノイ在住の労働者や近郊の農民たちで満員だった。1970年10月、日本からの最初の文化大砲弾としてベトナム民主共和国を訪れた私たちのために、 地方巡業をしていた劇団を呼び戻し特別に公演してくれたのである。 フランス統治時代に建てられたパリのオペラ座風の劇場をうずめた1500人ぐらいの人たちの中でネクタイをしているのは私たち代表団4人とベトナムの演劇関係者二人だけ。 私たちの前に座った副首相のグェンンズイチンさんも国民服を着ていた。 観客のすべてが私たちが写真でよく見たベトナムの人たちの普段着のままである。戦時下のためかベトナムのアオザイという民族衣装を着ている人は一人もいない。 女性の多くが菅笠を持っている。観客の農民の中には5キロの道を歩いてきた人もいるとのこと。 そして入場料は40円今夜が特別公演だからという事ではなくていつもそうである。
 フランスの統治時代ハノイ在住のフランスの貴婦人や紳士たちが華麗に着飾って席についていたことを想像すると劇場のデコラティブな飾りも妙に物悲しく見えた ベトナム民主共和国での新劇の歴史は比較的新しく抗フランス戦が終わりベトナムでの革命が達成した後に始まる。ソヴィエトから演出家等を招いて指導を受けたとのことだったが 私たちがその夜見たものはベトナム作家の作品でありチサンでの攻防の時の塹壕での物語だった。 この作家は実際に治山の戦いに作家として従軍し作品の完成前に戦死したのだがその意向をもとに周りの人たちが完成したベトナムの作家たちが銃ではなく ペンをもって戦いに参加し、なぜ戦うのか、決して間違った戦争をしているのではないという事を的確に人々に伝える役割を果たしているようだった。 作家同盟の一室で私たちは手と攻勢に参加しそのままサイゴンにとどまりサイゴンの人々の生活を見てきた作家にあった。 その作家は現在、作品として自分の見聞をまとめている最中であると語ってくれたことからもそれはうかがえる。
 舞台装置は何一つなく後ろにかけられた塹壕を示す幕だけだった。そのほかに見た芝居の多くがそうだったけれどすべてが簡略化されている。 時には村の空地で、時には高射砲陣地で、 時には防空壕の前で上映しなければならない必要性から生み出されたものがひどく新鮮に見えた。
 俳優陣の多くが27、8歳である。つまり、革命後育った人たちが第一線で働いているとのことだ。俳優たちの待遇も戦闘している兵士たちよりもはるかに良いらしい。 つまり、俳優とはいい声を出して体も丈夫で元気であること女優さんはいつも美しいことが仕事なのだという観念が徹底している。 ワンステージのギャラそして現物給与の品物一か月のトータルはファンバンドン首相よりも多くなるとのことだった。
 観客は実によく笑い、そしてよく泣いた。こちらの感受性がおかしくなっているような感じだった。それは、なぜ芝居をするのか誰のためにするのか、 という私たちの国では非常に規定しがたい命題を解決し、実践しているからであろう。
 芝居が終わって、人々の多くは徒歩で残りの人たちは自転車で暗い道を帰っていった。私たちには30万キロ走った古い車が待っていてくれた。 副首相のグェンズイチンさんが何で帰ったか私は知らない。


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