映画論講座 3巻 映画の創造(体験的映画演技論)

私は座談会などで良く舞台と映画ではどのような違いを俳優は感じているのかという質問を受けます。 たいていの場合、これにもう一つテレビが加わっているのですが。私はこれまでのわずかな経験から考えてみても 舞台と映画とテレビの三者に演じるうえでの、空間的、時間的な条件の違いからの制約を感じることはあっても、 それらが演じるということの本質的な違いをもたらすとは思っていません。 脚本家の意図があり、演出家の意向があり、それを受けて俳優が、自分の意図と、作家・演出家の意図をうまく噛み合わせて具体的な人物を形象し 作品全体の目的に奉仕するという作業は、舞台や映画もテレビもそれぞれに同じであるからです。しかし、この三社が演技の本質という点で何ら相違がないからと言って 俳優は実際の作業において舞台と上とキャメラの前とでまったく同じように声を出したり、動いたりしているわけではないのです。 この小論では、舞台と映画の演技上の違いを簡単に触れてみたいと思います。 私は新しい脚本を受け取ったとき、――私に限らず多くの俳優がそうなのでしょうが、最初に脚本を読むときの状態をとても大切にしています。 どんな変化球が投げられるかと、じっと待ち受ける打者のようなものです。もちろん、それぞれの俳優が持っている資質の違いがありますから 脚本に対面する仕方にもいろいろあります。元はい逃し三振をしても打席では容易に自分の打撃を組み立てなおすことができる人もいます。 私の場合、思い込みが激しい成果最初に受けた印象がなかなか受けにくいのです。ですから初めに脚本から受けたある感情を後に壊して再構築する作業に非常な抵抗を感じます。 しかし、この意識は自分の役が客観視できなくなる第一歩なのかもしれません。

ほとんどの場合、脚本を読む段階では、自分に与えられた役は何なのかわかっていることが多いわけですから、なおさら、自分が考えている自分を安易に自分の役へ 横滑りさせてしまいがちなのです。自分のことは自分が一番知っているようでありながら、どうしても自分を美化する意識が働きますし、だからと言って、自分は まったくあてにならないとして己への自信を全く失ってしまっては、ただの卑屈になってしまうでしょう。 俳優の仕事は脚本に接した段階から始まるものではなく、それ以前の俳優自身の日常に生活を如何に過すかというところで既にスタートは切られていて、 極端に言えば、ゴールは絶対に見えないというわけですから、自身と反省の両者のバランスをとる作業は、作品が完成した後にも延々と続くことになります。 しかしその事は、俳優の仕事だけに限ったものではないことは言うまでもありません。よく撮影の現場や、脚本の読み合わせの時に、私ならこのように行動しない と主張する俳優の言葉を聞くことがありますが、これなどはこの人間はこのように行動しないということと混乱してしまっているひとつの例かもしれません。 脚本を読み込んでいく段階では、セリフに付けてある句読点、棒線、セリフが丸で終わっているのかという事もおろそかにできない事です。 作家は文字にしか自分の意図を伝える手段を持たないわけですから、数か月、あるいは数年(数日?)かけて書いた一本の作品の隅々にまで 作家の意図が潜んでいると受け取らなければなりません。作家が、自分の作品を自ら読み上げるのを聞くと新しい発見をすることがあるのは、 小説や、詩ばかりではなく、脚本にしても同じことです。

映画の脚本を書くとき、各人物のセリフを一言一言その人物に扮したつもりで行ってみるある作家を知っています。 ほとんどの作家が心の中や時には声を出してそうするのかもしれませんが、この人はときには涙を流して自分の書いたセリフを言うのだそうです。 そして映画ができたとき、自分よりうまく演じた役者をうまい役者と思うのだそうですが、ほとんどの場合、自分が一番うまいのだそうです。 その話は監督俳優そのほかのスタッフなど自分とは違う感覚、考え方を持った人間に自分の子供を委ねなければならない作家という立場の 苛立たしさ、寂しさを感じさせるものでした。しかし、すべての作家が句読点にまでも心を込めているかというと必ずしもそうはしていられない粗製乱造の多い現在、 逆の意味で注意をしなければならないのです。

私の脚本の読み方で疑問に思っていることがあります。多くの人が小説などを読む場合、その小説から様々な場面を想像し、それを展開させてドラマを追っていくのだと思います。 もちろんその創造の仕方はその小説の内容文体などによりいろいろであるのが当然ですが多くはあたかも映画を見ているように自ら創造の画を選択し それをつなぎ合わせて時には自分が主人公になって未知の山野を駆け巡り時には自分の職場や家庭に舞台を持ち込んで自分の現実と重ね合わせて楽しんでいるのでしょう。

私もほとんどの場合層でありそれが映画の脚本の場合でもその脚本の要求する自然らしさをより正確にしようとする気持ちは単に楽しむというのとは 少し違うとは言っても想像の仕方には大した変わりはありません。 この自然らしさという言い方は誤解を招く要素があるのですがこの場合ごく単純に理解してください。つまり脚本から想像する場面が夏の海辺だった場合、 私が今まで目にした様々な夏の海辺や私が作り上げた海辺を思い浮かべるわけですが、それはあくまでリアルな海だという事です。 しかし、それが舞台の脚本であった場合無意識のうちにリアルな海を舞台上の海辺の装置に置き換えながらドラマを追うという事に気づきます。 その脚本を上映する劇場が決まっていてその舞台の様子を知っていたりするとなおさらそれは強くなります。 私が疑問に思うのはその違いが映画の要求する自然らしさと舞台の要求するそれとの違いから起こって来る当然のものなのか、 それとも映画と舞台の空間的、時間的な制約や違いを少し知ってしまっている私の脚本へのアプローチの仕方の妙な慣れからくる想像力の貧困さから生じるものなのか、 よくわからないという事なのです。 それが妙な慣れだとすると海辺を自分の役に置き換えた場合、自分の役への想像力、集中度もどこかで使い分けていると考えてしまうのはあまりに飛躍しすぎているでしょうか。 そのことが俗にいうテレビ的演技の第一歩なのかもしれないと思ったりしているのですが・・・。私は空間の違いなどと大げさな言い方をしましたが、 簡単に言えば映画と舞台の演技するフレームの違いのことです。 ご存じのように舞台のフレームは劇場の大きさによって決定され俳優が芝居する空間は常に一定しています。 外国の例ですが野外劇場で芝居をする場所が変わるにつれて客席を回転させてドラマを追っていくというものもあるようですが、 それさえも舞台のフレームは常に一定であるといってよいでしょう。 劇場で観客は、客席の一番前に座ったヒトと最後列の席の人と、幾分異なった視野を持たされたまま、 しかし、支店を選択する自由をもって、舞台上の俳優と同じ時間を共有しながら芝居の創造に参加します。

映画の場合、観客の見るフレームは数種に限定され、しかも観客の支援の方向は監督によって決定されます。 監督の決定によりカメラが自由に動き、時には俳優が豆粒のように見えるまで遠ざかり時には俳優の留の先にまで近寄ってくるのです。 つまり俳優が芝居をする空間がワンカットごとに異なってくるわけです。 キャメラの技術としては世界的に評価されてしかるべき宮島さんが「君に映画演技の大原則を教えてやる。それはキャメラのフレーム内で芝居をすることだ。」 と言ってくれたことがありましたが当たり前のことのようでその言葉の中には舞台と映画の空間の違いのすべてが含まれているとも言えます。 フレームをはみ出すという文字通りの失敗を今はヴェテランと呼ばれる俳優たちも、映画に出演っした最初のころは多かれ少なかれやっていたようです。 キャメラの位置がワンカットごとに代わるだけでなく、観客の目ともいえるレンズの種類も変わることがそうさせるのでしょう。

舞台のフレームをはみ出すという事はほとんどあり得ない思えるのですがそれでも熱演のあまり客席に落っこちてしまったり土曜日のマチネーを忘れてしまい 代わりの人が演じたことも何度か私たちの劇団にありました。 しかし、もちろん、それは例外と言っていいのでしょう。はみ出すことがほとんどない代わりに俳優は舞台上で声をその劇場の広さに応じて調整しなくてはなりませんし、 キャメラレンズの切り替えを自らの肉体で行わなければなりません。 これを思うように調節できるのが舞台俳優の特徴の一つであろうと思われるのです。しかし調節といっても肉声には限界があり、 二千人を収容する劇場と五百人のそれとでは同じ芝居を上映しても質の違うものになってきます。 俳優にとって芝居をする空間が一定である舞台演技とキャメラが近寄ってくる映画演技との違いは自分と相手役、 そして観客との距離の違いであるといってもいいのです。映画の場合、相手役との距離は、実際そこにある距離で芝居をしなければならないのですが、 舞台の場合は、相手役との実際の距離に加えて観客との距離を計算に入れなければなりません。 そしてそれは、映画の自然らしさと舞台の自然らしさにおける演じる側が意識しなければならない大きな違いでもあるのです。

私が俳優座に入って舞台に立った時、距離の感覚が全く映画やテレビのそれになっていて相手役にセリフが届かなかったり、 飛び越してしまったりという事がありましたが、舞台育ちの俳優が初めて映画に出演した時にも同じような現象が現れることがあります。 優れた舞台俳優は優れた映画俳優であるという外国の言葉はつまりは空間感覚の切り替えの自在さを言うのでしょうか。 映画の場合、モンタージュ手法とマイクロフォンのおかげで俳優自らが劇場の広さに対応しなくても良いわけですが その代わりにせいぜい長くても五分、ほとんどが秒単位のワンカットずるの積み重ねにいかに順応していくかという問題が出てくるのです。 モンタージュという言葉の意味はすでにご存じのことと思います。演出家の意図により一つのシーンをカットに分解し登場人物のアップ、ある時はセリフを聞いている第三者や まったく関係のない自然風景にカメラを向けて登場人物の感情やせりふの意味場面の意味をよりよく観客に伝え脚本家監督の思想をも作品として構築する手法を言うのですが この方法のために俳優が演技をするときに体験する時間の流れが舞台のそれと全く違うことになるのです。

映画の場合様々な条件によりラストシーンから撮影に入る場合もあります。同じセットの場面をまとめてとる場合もあります。 最初から順を追って撮影するという事はほとんどありません俳優はドラマ展開の時間的順序をたどれない訳です。 さらに一つのシーンをいくつかのカットに分解するわけですから数分間の時間の流れを作り出すために数時間ときには数十時間を必要とします。 子の演技の非連続性は演技者にとって時には苦痛でもあります。数分間のシーンの撮影のために常に体のコンディション声の状態を安定させなくてはなりません。 映画はいかにうまく待つかだという人もあるほどです。そのうえ、演ずる時間の長さを決定するのは監督であり俳優ではありません。 俳優がいかに演技で自己を主張しても後ではさみで切られてしまえばそれは消えてしまいます。しかしそのためにまずい演技が救われる場合のほうが多いとも言えます。 私も随分はさみのご厄介になりました。 舞台の場合は一度登場すれば演出家のはさみはその俳優自らに任されます。つまりモンタージュ処理を舞台上の俳優自らが行うわけですが、 俳優によっては稽古の時の演出家の指示と違って正面を向いてアップばかりを観客に強要する俳優もいない訳ではありません。 突然、新しい動きを初めて相手役を戸惑わせる俳優もいるのですが、確かに一度幕が上がれば、 舞台上で俳優は演出家の手を離れて自由になれたような気がしないでもありません。 が、そのような俳優は、いずれ観客のはさみに切られてしまうことになるのです。

映画はフィルムに画像を定着させてそれを組み立ててゆくことで別の時間の流れを作り出せるとすると、 当然俳優も通常の動作を省略せざる得ない場合が多いのですがm俳優がそれを納得し、細切れの演技にも苦痛を感じないためには監督の意図するモンタージュを理解し、 自ら進んでそれに参加する姿勢が、映画において俳優が単に素材としてのみ存在するという一線から飛躍する大切な要素といってもいいのだと思います。

フィルムの組み立て方次第で下手な俳優もうまく見えるという事は、監督のやり方次第で俳優ではない素人が登場しても立派に役目を果たせる寄りがあるという事です。 監督によっては映画に俳優はいらないと極論する人もあるくらいです。

かつての名作「自転車泥棒」や「アルジェの戦い」の例を見てもわかります。一昨年のモスクワ映画祭で金賞をとったイタリア映画に「自転車泥棒」の子役が 道端に座り込んで泣くシーンをデ・シーカ監督は、その子役の一番大切にしていたおもちゃを目の前で壊して、 彼が泣き出したところを撮影したというエピソードが盛り込んでありました。子役などの喜怒哀楽を引き出すときに、それと似たような方法がどこでも使われているようです。 素人と俳優を見事に混ぜ合わせて成果を上げた作品に山田洋二監督の「同胞」があります。これには俳優の長所短所と素人のそれがよく出ていたように思います。 一つのシーンを複数の人間が絡んでいる家庭でのリアリティは一緒に出ている俳優のほうがどうしても色あせてしまうのですがシーンの締めくくりや ドラマが次に展開するシーンでは俳優が担当していてそれなりの成果を上げていました。

もちろん、山田監督はそれを意図的に使ったのでしょう。

映画の場合、感情や、外見を肉体に強要するという方法が使われるのは子役に対してだけではありません。映画の要求する自然らしさにかかわる事なのですが、 小林正樹監督の「人間の条件」で仲代達矢さんが内務判で十人ほどの古参兵に殴られる場面で、監督は本当に古参兵役の人たちに拳骨で力いっぱい殴らせたようです。 顔がはれ上がってしまった仲代さんは「明日は撮影ができない」といったところ「次のシーンをとるから大丈夫」と言われがっくり来たと聞きましたが 私も小林監督の「いのちぼうにふろう」のリンチに合う場面での撮影後晴れ上がった顎と痣だらけの体でふうふう言いながら家に帰ったことがあります そのほか痩せること超えること涙を流すこと正常な歯を抜いて入れ歯にすることなど俳優も楽ではありません。

しかし、最近の風潮、特にテレビなどで俳優の基準がごちゃ混ぜになってきているのは、映画の特質と全然別の問題であるという事は言うまでもありません。 私はテレビの演技する意識を舞台と映画の中間に位置するものと思っているのですがビデオテープを編集する技術の進歩が映画のそれに近づいたから、 誰でもがテレビに俳優として登場できるとも思えないのですがいずれは映画そして舞台俳優の専門家がもっと進むべきでしょう。 私はそう思っているのですが、あまりに形式的すぎるでしょうか。


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