若い人たちが自主製作したアニメーション作品を10数本まとめて見てほしい。しかるのち感想をのべよ、ということでした。いまこうしてそれらの作品を思い浮かべながら筆をとり、じつのところ、軽い気持ちでひき受けてしまったことを後悔しています。うまく説明できるかどうかわからないのですが、同じアニメーションといっても、ぼくらが、毎週毎週現場から送りだしているそれと、彼らの作品とでは本質的に大きくちがいがあり、それは語ったり書きしるしたりすることによって決して越えられぬなにかであると思えるのです。ひとことでいえば、ぼくらの作りだしている作品は不特定多数へ語りかけるなにかであり、本来コミュニケーションをめざすものであるのに対し、彼らのそれはみずからへの語り、独言だということです。そして、彼らの作品にぼくらが魅力を感じるとすれば、それはまさにその点にこそあるからなのです。みずからのことばで、みずからの世界を語りたいという切々たる願いを映像の背後に感じるからこそ、ふだん見なれた動画の世界とはちがう興奮をよびさまされるのです。
けれどもそれは、ぼくらが仕事として選びとったこの世界のあり方とは、けしてあい入れぬものであり、ぼくらはぼくらの世界を不特定多数の人々(とくに子どもたち)へ押しつけることで、ぼくらの仕事を成立させてはならないと考えるのです。なぜそうなのかを説明することは、ひどく困難なのですが、かりに職業としてテレビシリーズを作りつづけるぼくらが、純粋にみずからのことばで語り始めるとしたら、その時にはある種の負い目を感じざるを得ないだろうという確信があるのです。
アニメーションという形式はひどく微妙なもので、その作品にかけられた情熱に正直に反応するものです。(べつにアニメーションにかぎらないかもしれませんが)。その作品にいくら人間を動員したかとか、あるいはどれだけの時間と資金を投入したかというようなこととはまったく別個に(別にそれも大事ですが)、あくまで実際に現場で手をふれる人間の思い入れのあり方が、その作品の水準を決定するものです。
その意味では商業的な場で作られるものであれ、個人が趣味として(あるいはそれ以上のなにかとして)作るものであれ、同じ根拠をもっているといえるかもしれません。しかし決定的に異るのは、ぼくらは作品を見てくれるすべての人々に語りかけることを選んだのであり、そのためにみずからのそれではなく、ダレにも理解される共通のことばを選ばなければならないということです。
彼らはそのような手つづきをとる必要はまったくないし、またそのような手つづきを拒否したところにこそ、彼らの作品の存在感の根拠があると思うのですぼくらと彼らにとって必要な交流というのは、じつはたがいに触れ合わぬことなのではないか、いやそれ以上に容易に触れ合うことは、たがいの作品の根拠をうしなう結果になるのではないかと思えるのです。彼らはぼくらの作品を家庭のテレビでこたつに入って見てくれればいい。笑い、そして手に汗をにぎり、その後は忘れてくれればいいのです。
ぼくらが彼らの作品を目にするときも、だからけっして技術的に云々することはさけたい。できるかぎり一個人として、接したいと思うのです。似ているように見えても、ぼくらと彼らは決定的に異なる、二卵性双生児のようなものです。そして、けっして合い入れぬ点にこそ、彼らの作品を尊重し受け入れていく共通の基盤があるのではないでしょうか。そのことをハッキリと認識することによってしかたがいの作品を、そのもっとも豊かな形で享受することはできないのではないでしょうか。
手をつないで語り合うのではなく、たがいに遠くから黙礼を交わせば、それがいちばんよいのだと思います。
たまたま試写の場に立ちよって、彼らの作品を何分間か見ていたあるベテランのアニメーターは、「もうああいうものは、とてもできないだろうナ」とつぶやいたそうです。
それでいい。それがいちばんいいのだと、思っています。 PSそういうわけで、個々の作品へのぼくのコメントはけっして批評などではなく、あくまで感想にすぎません。本来、彼らの作品に批評は無用のはずです。戻る