ゴジの映画「青春の殺人者」を観てからだいぶたつ。シナリオ田村孟、撮影鈴木達夫という大きな二つの力の間に立って、監督のゴジがえらく苦労した映画だっていう感じがしたことを覚えてる。田村孟のシナリオは書いてる自分の中へ深くおもりを下げていくような、自分をしめあげながら文字を一字ずつ吐き出していったようなシナリオだったが、映画になったときにはだいぶ変っていた。
一番大きな変り方はラスト・シーンだろう。トラックの荷台に一人乗った水谷豊が遠ざかってゆく。ゴダイゴの音楽がかぶる。「まるでアメリカ映画みたいじゃないか」と思って驚いてしまった。アメリカ映画は綺麗でカッコ良く、日本映画は汚なくて野暮ったい。こんなふうに無意識に考えるようになっていたから、「アメリカ映画みたい」というようなアホな感想が出てくるんだろうが、正直いってこのラスト・シーンの画面は素晴らしく美しかった。こんなに印象に残るシーンはそうあるもんじゃないと今でも思ってる。
俺にとってこのラストシーンが強く印象に残ったのは鈴木達夫カメラマンの撮影した画面のためだ。画面としての定着されたあの色調の明るさのためだ。ゴダイゴの演奏とが加わって、あの画面には涼しい気持いい風まで吹いている感じがした。
俺はあのラストシーンを見ながら、画面に感心しているだけで、水谷豊の表情によく注意していなかったと思う。ふた親を殺して、これから日本を(あるいは外国まで)ほっつき歩くだろう水谷豊の顔に何かが読み取れたかもしれなかった、と今は思う。
キネマ旬報に掲載されたシナリオには、ラスト・シーンに水谷豊の順のセリフで「おれは逃げる。逃げて、生きて...父殺し、母殺し・・・・・・そういう野郎として、日本中をいつまでも............」とある。映画にはこのセリフはなかった。セリフを削るか残すかは撮影現場の問題だ。だから、このセリフがシナリオの通りに水谷豊の口から出なくても別に問題はない。問題なのは田村盂がこのセリフで、主人公を一本の作品という枠の外へ突き離し、解き放ったことで終えたシナリオ執筆の作業に、撮影現場としてどういう画面をつくることで応えるかということだ。そうだろ?
俺はときどき、映画のラスト・シーンの後を空想することがある。例えば最近の映画で「幸福の旅路」というアメリカ映画がある。ベトナム戦争から帰って、社会生活に不適格と判断され、病院に入れられた男が脱走して旅する。途中、現実と思い込みとのギャップに苦しんで社会から落ちこぼれそうになるときに、バスに乗り合わせた女が、自分が一緒に暮すことでこの男を正常に戻そうと決心し、励ますところで映画は終る。俺は一緒に暮らし始めた二人が、どうやって亀裂を生じさせたり、それを埋めようとするか、どう憎みあったりするか、そっちも見たいという気になる。
「青春の殺人者」についていえば、今の俺は田村盂が主人公に与えたあのセリフ通り(かどうかは分らないが)、逃げ続けるもう一人の順を迫った映画を見たいと思うのだ。ゴジがこれから撮ろうとしている映画は設定はどうあれ、あのラスト・シーンに続く映画になるはずだ。それだからこそ俺は、俺という観客にラスト・シーンを見せたすぐ後に逃げ続けるもう一本の映画を空想させる、そういうラスト・シーンにしてほしかった。このシーンこそ脚本・田村孟と撮影・鈴木達夫の二つの力を強引にでも総合してゴジの画面をつくるべきだったと思う。ゴジのよく言う「ヤバさ」の予兆が俺には感じられなかったシーンなのだ。
話は変るが、このあいだの野球の試合、俺たちのチームがゴジたちのパニックスにボロボロに敗けたのは俺が行けなかったからだ。こんどは敗けない。また近いうちにやろう。(大久保賢一)
なにやら歯切れの良くないラブレターを貰った感じで、ためらいがちに返事を書き始めています。「青春の殺人者」のラストシーン"ヤバさの予兆"が感じられなかったという貴方の指摘に何と答えていいのか。全く気が重いのです。もう二年も昔の古い映画のことなんかどうでもいいじゃないか、俺は今書いている次回作のラストシーンの事で頭がいっぱいなんだヨ、それに自分が作って公開してしまった映画のことを『言葉』で云々しても始まらないじゃないか、言葉は所詮言葉、それだけじゃ何もウマク言えないから、俺だって映画なんか作ってんじゃんかよお、と乱暴な言葉でグチってみたくもなるのです。
映画に限らずあらゆる表現の担い手は、批評や批判に対して、所詮はその作品の中で答えていくしかないでしょう。『次回作は頑張ります、期待して下さい』と謙虚かつ傲慢に言い切るしか手は無いのです。
でもそれではあんまり素気なくて"返信�≠トことにならないじゃないかと叱られそうなので、あの映画のラストがああいう形になった経緯をチョロッと書いてみます。それで勘弁して下さい。以下は田村孟さんがまだ脚本に参加してくれる以前に、私なりにデッサンしていたラフストーリイのラストシークエンスの部分です。
ありったけの金をつかんで二人はオートバイに乗って家を出た
「何処へ行くん、順ちゃん?」
順は答えなかった。当てなんかあるはずが無い。スナック『キャリン』の前を通った。見おさめのつもりでみつめているうちに、ふいに思いついた。ガソリンをぶっかけて火をつけた。
『キャサリン』はあっという間に燃えあがった。
炎の中に立ちつくす順をケイ子が引っぱり出した。
我にかえってオートバイを走らせる。
街道をオートバイの集団が走って来る。
タカシ達だ。(このチンピラ暴走族たちは脚本の段階でオミットしました)
物陰に隠れてやりすごした。
火事場に走るのであろう、すごくはしゃいで白バイのサイレンを鳴らしている。
どこかから、本物のサイレンの音も聞こえてくる。
見送ったオートバイ群の向こうの夜空が赤く燃えている。
順の眼に勃然と涙が湧いてくる。
「順ちゃん、どしたん?」
「・・・」
「順ちゃん、泣いとるん?順ちゃんが泣いとるん?泣かんといこよう!!」
いつのまにかピーカンの夜明けだ。
順はまぶしげにサングラスをかける。
スターターをキックしてエンジンを始動する。ブルンブルン吹かしてみる。ギヤをローに入れる。
順はケイ子の両腕を自分の体にしっかり抱きつかせてやる。
二人を乗せて、オートバイは走り出した。
遠い、かなたの町へーー。エンド
これを書いた頃、私はラストで主人公二人を何とか一緒に逃げさせようとしていたようです。しかしそれはやはり出来過ぎではないかという疑念は強くありました。その後猛さんが脚本を引き受けてくれることになり、二人で話し合ってやっぱりラストは順を一人にすることにしようと決めました。そして、貴方が読まれたように順自身が自分の親殺し野郎としての未来を強く意志的に言い切る脚本が完成してきたのです。このラストの順のセリフは撮影が進行していけばいくほど私にとって大きな負担になってきました。水谷豊という俳優の体を通して私が描いている主人公は、果してそこまで強い人間に成長し得るのだろうかという不安でした。スナック炎上シーンの撮影はまるで修羅場のような混乱の中で行いました。ドサクサの中で私は例のセリフを燃えあがるスナックをみつめる順の後ろ姿で云わせ、アフレコをし、オールラッシュもそれで通しましたが、最後にダビングの段階でカットしました。私が作った主人公にとってどうしてもあのセリフは立派すぎると思えたからです。それに変えて私がつけたささやかな演技は、ラストカット、トラックの荷台の順が、自らが母親を殺す時につけた指の傷の包帯を取り去って投げ捨て、揺れる荷台にヨロヨロと仁王立ちになって、遠ざかる闇をみつめるという、いじましいものでした。このラスト抒情の垂れ流しと酷評してくれた人もいるわけで、貴方がいう「ヤバさの予兆が感じられない』という印象も同質のものかと思います。しかし私にとってやはりラストはあのようにしか在り得なかったのです。少くともあの時点で、共に駄目者である私も私の主人公も精一杯自分に正直であったと確信しています。予算オーバー、日数オーバー、呎数オーバーで疲労困憊の新米カントクは、格好つけたハッタリの嘘だけはつくまいと一生懸命だったようです。よろめきながらも、しっかり仁王立ちになる順に、私は奴なりの目一杯の生きる意志を仮託したつもりだったのですが、観客である貴方にそれが伝わらなかったとしたら、きっとそれは私の表現の失敗なのでしょう。
くだくだと自作を語るを犯すのはもう止めます。結局このセリフで返信を終るしか無いようです。
「次回作は頑張ります。期待して下さい」
<追伸>貴チーム『フィルメックス』が我が『パニックス』に惨敗(16対0のノーヒットノーランゲーム)した理由は、ひとえにチームの自信過剰にあります。すなわち背番号がエラソウすぎるのです。後藤和夫の『』をはじめ、『81/2』なんてのもありましたな。デカイ背番号に見合う実力をつけるには、練習練習また練習これしかありません。我々のような強豪チームでも敗戦試合の後には全員全ての仕事を断って一週間の特訓に明け暮れるのです(これはウソや)。再戦の日を楽しみにしています。今度は一点ぐらい取れよな。(長谷川和彦)戻る