ニュー・シネマと戦争の影川本 村上龍と組んでつくる今度の映画は進んでますか。
長谷川 いやァ、役者がいなくてね、まいってるんですよ。役者、ほんとにいないな、この国は。要するにみんなテレビに毒気抜かれてる、最初ちょっと出かけたときは毒あっても、もっとも毒だけ持ってるやつはテレビじゃスターになれないけどね。
川本 例えば女優だったら池玲子とか芹明香とか、そんなのばっかり集めてやってみたら。
長谷川 いや、そういうの全然かまわないんだけどね。ただ、よく知ってるからね、あいつらの...来なきゃ撮れないからね。奴らは、せめて欲を持ってりゃいいんだよね、生活がどんなにひどくても。欲をもう持たなくなるのね、明香みたいにあそこまで超越すると。クスリやってれば、もう映画なんていらないってぐらいだからね。明香が神代さんの映画でいちばん面白かったころつうのは、やっぱ持ってたですよ。すごいもう仕出しみたいなもんだからさ。最初出たときは、あ、この仕出しが役者か、つう感じのね。あれ、まちがって来たんだからね、クマの一本目かなんかに出たとき、名前完全にまちがっててさ、ちがうのが来たんだけど、まあいいから出せば、とかいってさ。それがスタートらしいからね。だけど、それがやっぱり、芝居する楽しさみたいの、まあ、ある面白さを持ってくれればさ、やれるわけじゃない。それで持ってたころというのはきっと一所懸命やったんだよね、ある日それはバカなことをして、次の日から来なくなってもさ。だけど、あそこまでもういっちゃうとね......
川本 いや、芹明香復帰第一作は長谷川和彦監督がいいよ。
長谷川 そうか、明香か。
川本 共演池玲子でね。だんだん日本もハリウッド的になってきたのかな。むこうは年じゅうあったでしょうが、ロバート・ミッチャムが捕まったり。
長谷川 あすこは変な国だもんね。なんか、やっぱりベトナム戦争やったのとやらないんで、全然ちがうみたいだね。国を挙げて人殺しを、まあ十年ぐらいやった国と、そういう形で人殺しはしてなかったってのは、やっぱり全然ちがうんだよね。あそこがいちばん面白い国だな。
川本 そうだね。日本は三十年間直接にはなんにもやってないけど、むこうは朝鮮戦争があって、ベトナムがあって、年じゅう戦争してた。平和時が一回もなかった国だからね。
長谷川 ただ、こんど五十日ぐらいいて、一人もベトナム戦争帰りに会わなかったね。年令的にはみんな行ってていい年なんだよ、例の『ロッキー』のスタローン、それから『タクシー・ドライバー」のマーチン・スコシージ、それから脚本書いてるポール・シュレーダー、レーン・シュレーダー、全員三十から三十五ぐらいでしょ。マーチンはもうちょい上かな、みんな行ってていいんだけども。まあ『タクシードライバー』組はだいたい奇形児だからね、精神的にも。マーチンなんてのは喘息持ちの、これは俺がアーミーでも採らないけどさ。(笑)
川本 使いもんになんないわけだ。
長谷川 来なくていい、ジャマジャマって感じよ。こんな小さくてさ、こういう部屋でタバコ吸うとき、非常にすまなそうに、「俺、喘息持ちだからタバコかんべんしてくれ」って奴だけどさ。それからポールなんてのは花粉アレルギーなんだね、あれ。それで徴兵検査の前の日にベッドじゅうに花をバーッとまいて......なんかの花粉なんだよ、三、四種類、それ嗅ぐともうボロボロになるんだってさ。目は真っ赤になって鼻水ジュルジュル、半病人みたいになるんだって。わざとそうやって行ったらしいよ。で、こうこうっていうと、いや、そんなものは陸軍へ来れば治ると言われて、それでヤバイと思って診断書用意したんだね、医者の、これは駄目だというのを。それ出してやっとOKになったらしい。みんな行かずに生き残ってるよね。
川本 微兵拒否とか、そういうわけじゃない。
長谷川 いや、徴兵拒否をみんな意図的にやってる。スタローンはスタローンで、白痴をやったらしい。要するに兵隊になれる能力ないみたいなさ。なんか言ってたよ、英語半分しかわかんないから、よくわからなかったけども。奴ら、べつに有名人じゃなかったからやれたわけだよ。カシアス・クレイなんかがすっトボけりゃすぐわかっちゃうけども、無名のスタローンがなにしょうが、これほんとバカだと思えばさ......。
それでシュレーダーなんてのと話した時、一人も会えないからつまんないって言ったんだよ。映画やってる奴でもなんでもいいから、ベトナム戦争へ行ってきた奴と話したいっていうと、そういう奴はもういないんだ、そういうのは死んでるっていうんだよ。やっばり、すごい死んでるんだね。実感としてその時わかったよ。とくにものを表現しそうな奴ってのは戦争の現場へいって無能なわけはないじゃない。だから、いないんだよ、要はね。ほんとにいないよ。
だけど奴らはいかないで、技術的に上手に徴兵拒否したわけだね、みんな。川本 『タクシードライバー』の主人公もいちおうベトナム帰りという設定でしょう。
長谷川 だから、そういう形で残っちゃうんだね。あれは関係ない、あれはバカで貧乏人が行ってるんだ、とは一方は思ってないわけだよ、当りまえのことだけども、花粉アレルギーが上手にやれなきゃ俺も行かされてたっていう実感はあるわけだからさ。それとやっばり俺達の十何年間というのとは、実感としだいぶ違うみたいね。
川本 アメリカ映画はほんと、ベトナム帰りっていう主人公がやたらと多いでしょう。『合衆国最後の日』の犯人がベトナム帰りだし、『ソルジャーボーイ』なんていうのもそうだし、それからこんどテレビでやる『パニック・イン・テキサスタワー』っていう映画。これは実際にあったでしょう、テキサス大学の塔の上に、自分の親を殺した男が、銃を持って立てこもり、無差別に狙い撃ちをするって話。
長谷川 ああ、あれ親殺しでしたか。
川本 ピーター・フォンダが出た「ダーティーハンター」という人間狩りの映画、あれもベトナム帰りだった。ベトナムで人殺しゃって帰ってきた連中4人が、休暇になると狩りに行く見たいな顔して、人の来ない島に行って人間狩りをする。通りがかりの人間を連れ去ってはそれを標的にする。4人ともふだんはまじめな市民でよき父親、よき夫なんだけど、要するにベトナムで得た血の味が忘れられないというクレイジーなんですね。それをヒッピーの代表みたいなピーター・フォンダが演じてるから恐かったですね。
ベトナム後遺症というのはアメリカのあちこちで残ってると思う。はじめからベトナム戦争に批判的で良兵忌避をしたり逃げたりしていた人間ならいまや、意地悪くいえばわが世の春みたいなもんだろうけど、あれを聖戦だと信じて実際にベトナムをはいずりまわっていた人間のうっ屈はすごいと思う。帰ってみたらまったく価値感が変っているわけでしょう。ヒーローだ男だとおだてられて出行って帰ってみたら今度は人殺し扱い。クレイジーになるのも無理ないかもしれない。「ソルジャー・ボーイ」とかサム・ペキンパの「ガルシアの首」とかはそんなうっ屈感を描いた映画ですね。「タクシー・ドライバー」だってベトナム戦争抜きでは考えられない映画でしょ。あの、都会のネオンがチカチカするシーンは、一種、戦場のようななまぐささがあるし、主人公の硬直した正義感だってどこか気違いじみてる。
考えてみれば、映画作りというのもクレイジーなことで、それがいまのアメリカの状況と見合ってるんじゃないかな。誤解を恐れずにいえば、ベトナム戦争がアメリカ映画をおもしろくしたともいえる面がある。
なぜアメリカ映画は面白いか
川本 今度アメリカを旅してきて、かなり刺激受けましたか。
長谷川 うん、面白かったですよ。まあ良くも悪くも、生れたときからぼくらの場合は、アメリカ文化に野合してこういう文化ができてるわけだから、外国へ行ったっていう感じはあんまりしないね。それと、まあこれはちょっとちがう次元のことだけど、ことばがね、やっぱり英語っていうのはらくなことばなんだね、喋るのに。アイとユーしかないでしょ。
川本 なるほど。俺を使おうか、ぼく"を使おうか、あたし"を使おうか、なんて感じが全然ないでしょ、誰と話しても。ウイリアム・ホールデンと話したってアイでありユーであるわけだから。そうすると、日本語じゃ言えないことが言えたり話せたりすることがあるでしょ。日本語でアイ・ラブ・ユーとはとても言えないね、直訳すれば。だから難かしいですね、逆に。だけど向こうだと、アイ・ラブユーというのはアイ・ラブ・ユーなんだから、まあアイ・ラブ・ユーだってなもんでね。アメリカの文化ってのは、そういう単純化されたので、おそらく英国で話されてた英語よりももっと単純化されてるような気がするんですよ、よくわからないけども。ぼくなんか、やっぱりだから、雑な人間にはある部分すごいラクですよね。誰とでもふつうに喋れるわけだし。
川本 アメリカ映画の面白さってのは、アメリカの面白さと一致してると思うんですよ。
長谷川 そうでしょうね、それは。
川本 一時期はフランス映画ってのが日本ではもう映画の代名詞みたいにいわれたけども、いまはヨーロッパ映画、全く面白くないでしょう。
長谷川 面白くないですね。
川本 ニューシネマ以後、アメリカ映画が実に面白くなっているでしょう、圧倒的に。それがなぜなのかと考えると、映画自体の面白さを支えている若さ”の魅力だからと思うんですよ。未完成品の魅力といったらいいか。人生あがった人間が説教されてちゃおもしろくないし、人生永遠の真実だの愛だのでもシラケる。結局、この"いま"を生きてる人間の息づかいが聞えるかどうかでしょう、映画の魅力っていうのは憎しみとか悲しみとか愛とか、いってみれば「通俗的な感情」をひろげられるのは映画しかないんです詩や文学がかつては荷なっていた部分をいまは映画がやっているといったらいいのかな。
映画っていうのは、文化のヒエラルキーの中では下の方でしょ。はしっこというか、すみっこというか、いわば文化の中の「周縁」にある。そしてすみっこにいるからこそ、中央にいる文化が表現できない、人間の荒削りで、未完成な「感情」を表現できるというよさがあると思うんですよ。歌謡曲のよさ、マンガのよさと、その点で似ている。雑の魅力といったらいいかな。長谷川 エモーションというか、感情みたいなものがストレートででてるんですよね。やっぱり、間接的に人を殺した人間よりも直接的に人を殺した人間のほうが、なんか結果として、見ちゃうわけだから、それをやってきた国だから、ないしはそのなかにいるという実感を、この何年かずっともってた国だから。フランスパリはちょっとしかいなかったけど、もう死にかけてるって感じする、みんな元気ないですよ、ともかく。
川本 若い奴も。
長谷川 うん。パリより東京のほうが数倍面白いものね。ただ東京というか日本というか、まあ日本なんだろうけども、やっぱり手をくだしてないでずっと来てるから、たとえばアメリカという国の民主主義みたいなものが、まあ何年か前にかちとったもんだとすれば、やっぱり与えられた民主主義でしょ、ぼくらのはぼくらなんか与えられたという実感もなしに教わってきてるわけだから、多数決で決めるのがいいのです、とかね。それが正しいともなんとも実感なしにやってるわけじゃないですか。教えてる連中に実感がないわけだから。なぜ民主主義が正しいのかみたいのなしに、きのうまでと逆なこと教えてきたんだなんてことは、まあいい年こくまで知らずにいるわけだから。ベースがいいかげんに宙ぶらりんの状態のまま、政治的にいえば六〇年安保とか七〇年安保とかみたいなことをやって、結果、ベースがない分どっちへ行ったらいいかわかんないっていうのあるですものね、その実感が。これはみんな確信としてわりともってる。そのベースの上でどっちへ走るかということがあるみたいな、取捨選択ができるような、こうコアみたいなものがね、正直言ってないですね、ぼくなんか。それはニヒリズムとか、そういうことともちがうみたいですね。ただ、なんにも無いみたいな。
川本 逆に、そういうなんにも無いからこそ、いまみたいに滅茶々々な時代にはこう向いているという......。
長谷川 まあ、なんにも無いのもしかたない、と開き直るしかないですけどね。もしもあのときこうしていれば、というのがないわけだから。
都市ジャック
川本 パリなんかに比べると東京は面白いっていったでしょう、それはすごく感じるんですね。まあパリなんか知らないんだけども、その東京の面白さを映画のほうがまだ表現しえてないと思うのね。いまいろんな分野で世の中ちょっと変ってきてて、どうも、これからかなり面白くなりそうだなという予感がするんですよ。一般にはシラケてるとかなんとかいわれてるけども、かなりいろんなものがぶっこわれてきて、価値のヒエラルキーみたいなものが完全になくなってきてるでしょう。そのなかで、これからなんか生れてきそうな予感がすごくするんですがね。
雑"なものの持つエネルギー、すみっこにいるものの活力というものがこれからは見直されていくと思う。というのは、「中心」がもういろんな意味で硬直化してしまって面白くもおかしくもなくなってしまったから。映画の分野でいえば、かつてはフランスの文芸名画が「中心」だった。人生の真実とか男女の愛みたいな”永遠"ばかりが語られてきた。これに対してアメリカ映画というのははしっこにいた。通俗だ、メロドラマだ、とバカにされていたわけですよ。しかし、アメリカ映画は一貫して”永遠"を語らなかった。いま生きていることのしんどさ、楽しさを表現し続けてきた。未完成品ですよね、その意味では未完成品の活力というものがい文化総体に対する刺激になっていると思うんです。
東京というのも、そういう観点でみると面白い都市なんですよ。中心にありながら、周緑のゴチャゴチャしたエネルギーをいっぱいかかえているでしょ。他人どうしが肌をふれあいながら暮している。そりゃ、たしかに田園の緑の中で生活してる方が身体にはいいに決ってるけど、人間って不思議なもので身体に悪いことーー、夜ふかししたり、タバコすったり、深夜映画見たりーーをしないと活力が湧いてこないということもあるわけでしょ。都市というと、これまでは、公害のゴミタメみたいな否定的イメージで語られすぎてきたんだけど、都市のゴミタメの持つ活力、みたいなものにもう少し目を向けてもいいんじゃないかと思うんですよ。長谷川 それは、ぼくなんか政治的な人間ではないから、良くも悪くもそうでないみたいだから、映画のなかでデッチアゲ話をやっていくわけですけどね、こんどやろうと思ってるのも、そういう話なんですよ。すごいバカなことを、都市に対してね。都市と闘うというんじゃないんだな、もっとニヒルなんだけども、都市を盗むというのかな、要するに都市をコントロールしちゃうんですよ、機能を奪っちゃう。でも奴にとってはゲームなんです。わりと目いっぱいの、きついけども、基本的にこれはゲームだということがわかっている。それはそのニヒリズムみたいなものがニヒリズムがやっぱりすべてだとは思ってないんですよ、こいつは。ニヒリズムは何かのドアをあけるための糸口だというふうに思ってニヒリズムを武器にしてるみたいなね。ニヒリズムに耽溺してる奴というか、自己陶酔してる奴をぼくはあんまり好きじゃないのね、わかりやすいから、わかりやすすぎてつまらない。そんなのはまあ、死ねば、ということにはならないんだな。そういう人間を見ててもあんまり面白くないですよ。だけニヒリズムを武器にして、次の扉をあけようとしてる奴ね、その向うに何があるかは本人はもちろんわからない、わかっててやるなそれは上昇志向ですからね、上昇志向で下向志向でもないような、まあしかし生きてるんだから、あけてみたいみたいなね。そういう奴の話をやってみようと思ってるんですよ。
『ロッキー』ではなぜダメか
川本 長谷川さんが「PLAYBOY」7月号に書いた��映画やりたい奴この指とまれを読んでて面白かったのもそうだけど、"感動"ってことをシルベスタ・スタローンが言ってて、要するに今までのヒーローっていうのは、いまあなたの言ったことばでいうとニヒリズムみたいなね。世の中、どうせそんなもんよ、みたいな中途半端なニヒリズムだったけども、『ロッキー』なんかってのは、常に積極的な人間というか、肯定的人間というかな、それが新しく出てきたって感じがするわけね。今までは否定のエネルギーばっかりだったでしょう。安保にしても何にしても、みんなそうだったと思うんだけども、不機嫌であるとか、世の中ってのは暗いもんだとか、そういうことばっかり言ってたのを、ここに来て、とにかく肯定しちゃえという動きがでてきた。それが肯定するっていうのは、なにも「PHP」的に、世の中明るいからどうのこうのとか、ヒューマニズムの肯定とかいうのとはちょっと違う。いま長谷川さんの言ったことばでいえばニヒリズムを一回経験した奴が扉をあけるという意味での肯定だと思うんですけど、そのエネルギーがやっばり必要だと思うのね、これからは。
長谷川 まあ、ぼくは『ロッキー』はだいたいそこへ書いてるように思ったんだけども、安全すぎることの危険さという意味で、やっぱり危険な兆候だと思うのね。素直に、ぼくなんかやっぱり弱いから、ああいう映画に、「二十四の瞳』観て泣いた男だから、(笑)単純にね、ガーンとくるんですよ。オマエよしッみたいになるのね。つまり、わかった、わかった、って気になるわけ。
川本 あの映画は『赤旗」までほめたからね(笑)
長谷川 それがぼくの正直な気持なのね。ただ、会って喋ってると、もう奴は撮ってるときの奴じゃないのね。
川本 偉くなっちゃったわけね。
長谷川 それは個人的な名前言っちゃよくないのかもしれないけども、まちがったら、たとえば『赤ひげ』の三船になっちゃうかもしれない、要するに説教たれるかもしれない奴だ。それは基本的にヤツが完全に病んだことのある人間ではないのね。生活が苦しかったとか、下積みがあったとか、そんなことはもちろんあるんだけども、基本的にすごく健康なわけですよ。その健康すぎるところがやっばヤバイなあと思ったですね。
川本 なるほど。だからやっぱり「赤旗」にほめられるんだな。
長谷川 だから五年ぐらいしたら、スタローン映画こそがいま最悪の映画だなんて、俺言うかもしれないね。それは「寅さん』いけないというのとおんなじような意味でね。ま、レベルがちょっとちがうけどね。スタローンの映画に対してはむしろ哀惜をこめてきっと言うと、ぼくは。たとえば黒沢がヒューマニストになろうとして、結局ヒューマニスト飛びこえて説教たれる人になったことぐらいの、それよりもうちょっと肉体的な共鳴はあるわけですよ、やっぱり。だけど、そうなるんじゃないかなと思うのね。そばにいて彼と喋ってると、すごい正しいこと言うんだもの。こちらは、いや、ごもっともごもっともて感じで、いつ「......というのは冗談で」と言うかと思ったら、言わないんだよね。最後まで本気なんだから。
川本 あいつがヒューマニズムを・・・。
長谷川 だから奴にとっては、たとえば『ロッキー』のなかで、中学生ぐらいの女の子を早く家へ帰れとかいって連れてって、女の子にバカにされるじゃないですか。あれジョークじゃないんだよね。
川本 本気で説教してるわけね、彼女を。
長谷川 うん。その説教がああいうふうにしか受けられないということはもちろん知ってるわけだ、そんなにバカじゃないから。だけど最終的に、この映画トータルで、彼女をやっぱり乗りこえたと思う奴なんだね。
川本 ああ、本気で彼女救ってやったわけだな。
長谷川 ああいう女の子を含めて、ある価値観みたいなものを、もうそんなものはないと思いつつある若い世代、同世代みたいなものを、やっぱ、最後ああやってアイ・ラブ・ユーと言い切ることでさ、まあ、俺はあの映画に関してはこえてると思うよ、それは。エモーションがつよいから。あれぐらい強いエモーションで迫られたら負けるよ。
川本 泣いちゃうわけね、最後は。それは、自分の中の通俗的センチメンタリズムの確認にほかならないんだけど、やっぱり泣いちゃう。
長谷川 よし、と思うですよ。だけど、そのエモーションはつくろうとしてつくれるものじゃ絶対ないですよね。だから一本目のときは奴は持ってたわけだ、自然に。それしかなかった、それだけで作ってたわけだから。ただ、二本目からはそれを計算して作るわけだからすると、下手すると下手するな、と思うね。ただ、あれがやっぱり大ヒットしちゃうし、ああいう映画をこう作っちゃうのだから、面白いね。すごい、やっぱ面白いよ、アメリカ映画というのは......。
「角川映画」と「フーテンの寅さん』
川本 いま、たとえば小説なんか読んでも、純文学なんてのは全く面白くないわけよね。
長谷川 そうですね。いや、ぼくはだいたい昔からあんまり読まないからだけども。
川本 それに代りうるものとして、たとえばいまニュージャナリズムというのが出てきているでしょ。トルーマン・カポーティの『冷血』、ノーマン・メイラーの『夜の軍隊』、ゲイ・タリーズの『汝の父を敬え』といった作品がすでに発表されている。これらの作品を読んでまず感じるのは、"あっ、これはまさに映画じゃないか!"という映画の魅力の再発見ですね。つまり純文学というのが、書斎にこもった人間が内面をのぞきこんでいる小説だとすれば、ニュージャナリズムというのはともかく外に出ていくんですね。内面なんかより外界の方がはるかに豊かだという発想。これが、アメリカ映画のよき��通俗性"と似ていると思うんです。
外界がいま非常に混乱して、それゆえに豊かになってきているでしょ、映画の作り手、小説の書き手は、「書斎」からどんどんこの外界にとび込んでいっていいと思う。それはいわゆるエンターテイメントとは違うんですよ。もっと現実の息づかいに敏感になるということであって、器用な、角川事務所的な毒にも薬にもならない娯楽映画を作るということとは違う。長谷川 いや、あれはエンタテイメントじゃないでしょう。角川のやってるのは商売の映画をやってるだけでね。もちろん、あんなふうに映画を話題のひとつになるようにした力っていうのは、やっぱ評価するしね、いいんじゃない、そういうバカがいてもと、わりと肯定的にバカといえるけども、俺はやっぱりいけないと思うのは、映画なんか要するに中身じゃないと、要するにいかに売るかにかかってるんだ、という、そっちのほうが上だというふうに思ってる映画ってのは、絶対敗北しますよ、当りまえのことだけども。だから、あれを反面教師にしておけば悪い動きじないと思うね。あるレベルまでいってる映画なら、要するに宣伝でヒットさせられるんだということは、やっぱり自信だから......。俺はあいつらには負けちゃられないというのはすごく思うね。
川本 『青春の殺人者』は興行的には・・・・・・。
長谷川 大変なもんですよ。もうATGはかなり儲けてるよ、きっと。予算の倍以上かかってんだからさ、永久にその借財は残るだろうってのがふつうだよね。一八〇〇万が三八〇〇万かかってるんだからさ。しかも俺も主演の水谷豊も原田美枝子も一切ギャラ取らないんだよ。だから実質的にいえばあの映画は七〇〇〇万ぐらいの映画だよね、製作費は、間接費いれないで。ギャラなんかみんなただみたいにやってさ。それで、東宝はもちろん儲けてる、東宝にとっちゃ儲けというほどの額じゃないかもしんないけども、ATGは当儲かるシステムになってるしね。今村プロも赤字なしですむんじゃない。
まあ、あの映画の話すると長くなるからあれだけども、ぼく、自信はあるんですよ、面白さという意味では。やっぱ、黒沢や木下恵介に感激した人間だからね、ぼくは。小津安二郎や溝口健二を近代美術館で見て映画やりたいと思った人間じゃないから、その自信はあるな。だから、ぼくがどんなに目いっぱい難しげな映画撮っても、自分の限界みたいなとこでぎりぎりで難かしげにやっても、まだコマーシャルだという気はあるんですよ、わからないものは撮らないから。ハッタリで減茶苦茶にわからなくするっていうのはあんまり好きじゃない。かっこよくないからね、わかってもないものをやってもしょうがないと思うから。ただ、ちょっとわからないという程度は、やっぱりやろうとするね、きっと。ただ、客に迎合するのが、まあたとえば今ま娯楽映画だといわれてきたとしますか、客のレベルはこんなものだから、これぐらいにしとかなきゃだめなんだと。それはいちばん客をなめてると思うね。迎合じゃなくて、やっぱりバカにしてるんだと思うんですよ。いわゆるプログラム・ピクチュアていうのが総体にバーッと力が落ちてきたのは、バカにしたからですよね。で、上手にバカにしたのがやっぱり生き残ってる。まず「寅さん』ね。すごく上手にバカにしてる、その技術は大変なもんだと思うね、誰でも一回は瞞されるから。そういう意味では山田洋次って人は大変な人だ、やっぱ共産党の中堅幹部ぐらいになれるんですよ。そういう非常に頭のいい人が見おろしてコントロールできる技術が、いちばんぼくなんかからは敵だと思うね。ほっといたらコントロールされるようなところにずっといたし、たいていこれからもいる人間だから。社会的に地位持つわけでもないし金持でもないし。するとね、これはやっぱり敵だというふうにいわざるをえない。
それと、客をなめてるというのは、まあ自分もなめてるわけだね。ぼくはどうせ娯楽映画の監督です、娯楽映画の俳優です、という言い方というもののなかには、やっぱりよくない自己韜晦があると思うですよ。それはたいてい本音としてそう思ってないから、みんな。そう言ってるほうがらくだから、そうするんだろうけども。それは「寅さん」ほど悪くはないけども、トータルに客を失うという意味じゃ、ベースの害毒を及ぼしてるのはそうだよ、やっぱり。それは「寅さん」を結果的に助けてるわけでしょ。まわりがストッと落ちるから、「寅さん』が残るわけだから。ぼくなんかも「青春の殺人者』が去年「キネマ旬報」の批評家投票で1位だなんてのも、半分おどろいたけど半分当りまえだと思ったですよ。なぜなら、それは消去法でいったら、俺のがいちばん頑張ってるもんなと、そういう自信があった。だから1234なしの5位ぐらいだというふうにぼくは思ってたのね。だけど、どうせそうはならないと思ったまあ「不毛地帯」だとかね、『華麗なる一族』なんてのがあるでしょなんかその手がたくさんあるんだから、たいていそういうんじゃない、と思ったね。ただ、そういうのの下だと嫌だなあと、すごく思ってたわけ。「寅さん』の一つ上だからね。もしも俺の映画がなかったら、去年「寅さん』1位なんだから、それ思うと俺はすごくいいことをしたと思う。それだけで俺は去年存在価値があったと思う。だから、それは許してやれるのよね。たまたまろくでもないものばっかだから1位になったんで、あんまりいい気にならないほうがいいと、まあたいていみんなそう思うだろうけども、ぼくもたいていそう思ってる、いい気にはそんなになってないけどね。それに関してだけは、だって俺がいなかったら「寅さん』1位だぜと言えるもんね、俺は。
同世代にとっての『青春の殺人者』
川本 授賞式のパーティーのときに田村孟が、同世代の批評家から支持がなかったというような言い方したでしょう。
長谷川 まああの人は、なんか言うときに、あることを否定しようと思ったら、そのことを言うためにいろんなものをもってきて言うから、全部べつにあの人があれで本音言ってるとは限らない。明晰な人だから言うことを上手に変えますよ。A級B級という言い方はあんまり好きじゃないけども、ぼくらの世代はB級志向の強い世代だと思うですよ。
川本 三十代はね。
長谷川 ただ、たいていぼくのB級志向というのは、B級志向というよりB級A級という概念を飛ばしたいと思ってるほうなんだ、きっと。だから、その分愛されなかったんじゃないかしら。要するにB級のなかから出でヒーローというふうに、ないしはB級でありつづけることこそヒーローと思ってる人たちに。まあたとえばATGから出るとか、なんかいちおう大上段に構えて映画撮ってるように見えるし。ただ、ぼくは決して大島さんのような映画は撮らないね。撮れないですよ、きっと。それは志向的にそっちのほうの人間でないから。やっぱ、三本立三十円で赤木圭一郎を見て、うわ映画!なんて思ってたほうだから。で、映画やろうと思ったの友達の兄貴がたまたま東映で助監督やって高校の夏休みのときロケ現場へ遊びにいったら、ちょうど、『網走番外地』の一本目だったですけどね、飯場みたいなとこでにぎりめし食ったりしてんのね、一緒に、ケッケなんつって。それで、うわ、映画っつうのは仕事なんだ、これやりゃいいじゃない、と思ったのね。それまでやっぱ、サラリーマンやる自信はないし、かといって、まあガキだから思うじゃない、船乗りになろうとか、パイロットは目まいがするだろうとか、なんかちょっと夢がほしいじゃない。やっぱ十六、七のころは、まだ若かったもんで。そういうわりと満たしてくれるものが、すごい直感としてあったですよ。あ、これだと思った。まあミーハーみたいだけど、健さんのとなりでにぎりめし食って、あとは、ワーっつって怒鳴ってる、それが仕事でお金もらえるなら、これはもう最高にいいと思った。直感的に監督やりたいと思ったね。役者ってのは恥を売る仕事だから、その技術はあんまりないと思ったね、おかしくもないのに笑えないしね、やっぱり。(笑)だけど、監督っつうのはてめえが写るわけじゃなし、怒鳴ってりゃいいんじゃないかという、そういう実感があって、それがぼくなんかのスタートだったから、こうインテリふうに入っていってないから、その自信はあるんですよ。だから、そういう意味で三十代の批評家、というふうな話り方というのは、ぼくはあんまり意味ないと思うけども、その支持が少なかったのは寂しかったですね。
川本 僕も含めて三十代の映画評論家っていうのはB級志向が強いでしょ。その点で、『青春の殺人者』というのは、脚本が田村孟さんだったせいか、まだ純文学ふう"の尻尾を持っていた映画だから、支持が少なかったと思いますね。ただ僕は、『青春の殺人者』のよさは、A級にもなれず、かといってB級にもなれないモタモタぶりにあったと思っています。過渡期の作品といったらいいか。B級の方がいい、っていうのは今や割りと簡単なことなんです。しかし、そうはいっているご本人の中にだってA級志向は残っているわけで、そこをくぐり抜けたうえでのB級やっぱ恥ずかしい仕事だから、要するに恥を映画志向でないと、ただの”好み"の問題になってしまう。『青春の殺人者』という、いわばセリフ過多の映画、つまり、文芸映画の尻尾がまだみえる映画というのは、その意味で、現在の中途半端な自分を正直に描いていいと思った。長谷川和彦が、痛快なB級アクション映画を作ったら、それはそれでどこか間違っている。そんなものは長谷川和彦に期待もしていない。
長谷川 そうですね。A級B級という言い方俺はほんとに好きじゃないけども、とくに自分なりにスーパーになろうとしてる奴ね、自分のちょっと先やろうとしてる奴ね。それやっぱりぼくは、批評家に説教されるつもりはないけども、それを評価できる状態というのがいちばんぼくはいい状態だと思うね。俺は少くとも自分はそうだと思ってたし、いまでも思ってるから。
川本 ただ、自分も含めて同世代の批評家は、ものすごくみんなこだわったんじゃない、あの映画は、やっぱり第1位を選ぶときに必ず『青春の殺人者』を選ぼうか選ぶまいかと、誰もが絶対考えたと思うんです、それはそういう意味ではやっぱり、俺たちの映画というものをもってたね、あの熱気はただ、些末なことなんだけど、「新人・長谷川和彦」というイメージが出すぎたでしよ。そうなると、単純な映画ファン心理としてなんだあんな有名なやつ”という反発が出てくるのね。これはいまみたいな情報化社会ではもう仕方ないことだと思う。若い映画監督は長谷川和彦しかいなかったわけだかどうしても役割として「新人」「大物」というイメージを荷なわなければならない。これが他にもいっぱい同世代の監督が出ているのなら、「長谷川和彦」もこんなに突っ張らなくてもよかったんですよ。このあたりは、長谷川和彦の不幸であると同時に栄光だと思う。
来たるべき劇場
川本 長谷川さんにとっては映画ってのは、なんかハングリー・スポーツみたいなところがあるわけ?
長谷川 いやハングリーまあハングリーといえばハングリーにちがいないんだけどぼくは単純に、ものを所有する喜びっちゅうか欲望っちゅうのは稀薄なんですよ。それはものというのは最終的にお金と置き換えられるわけだけども。ほんと年収三十万でも一千万でも・・・・・そりゃもちろん一千万のほうがいいですよ。ポケットに二百円しかないからタクシーに乗れないで、五時間意味もなく歩くよりは五分で家へ帰ったほうがいいもんね、やっぱ、その程度はある。めし食うときも五十円しかないからパン買ってがまんしょうかというよりは、五千円あるから焼肉でも食おうかっつうほうが自然ではあると思う。それができるかどうかというなら・・・・・それかまあ酒なんてのは、こんなものは原材料費タダだと思ってるから、飲み屋の金なんてのはある奴が払えばいいと思ってんのね、昔から。
その程度のことしかないのよね。それは一持ったことないからわからないけども、百万か一千万かじゃ、そのくらいの差しかないですよ。そういう意味では所有する喜びというのはほんとに知らない、無趣味だから。川本 あ、そう。
長谷川 いま、ぼくがいちばんクレージーなのは、やっぱり映画館持ちたいんですよ。
川本 その感じわかりますね。
長谷川 これはもうバカって、たいてい言われることなんだけども、ぼくは、客席三〇〇でもいいから、自分が完全にコントロールしていける映画館が持てたらね......と、ワクワクするんだな。凄いワクワクする。そういう映画館が持てればね、その前で客引きだろうが逆立ちだろうが、なんだってやってやるっつうのがあるね。
川本 なに上映する?
長谷川 なんだってやっちゃう。開店第一作は、「青春の殺人者』か。
長谷川 まあ、それは五作目ぐらいで。(笑)「ジョーズ」やるかもしれないし、「七人の侍」かけるかもしれないし、もっと変なのもかけるしね。ゴマンとあると思うから、映画っつうのは、ゴマンとある映画をなにかけてもいいし、やっぱり儲かるんだって、そういう映画館つうのは、なんだかんだつっても、やってる映画館つうのは儲かってるんだからね。いや、どんな映画館だって喫茶店かパチンコ屋に改造すれば、すぐ商売できる場所にあるんだから、それしないでやってるのは、少くとも利潤出てるからですよ。だって「青春の殺人者』なんて、例えば高田馬場のパール座ってとこに観にいくとき、満員でドアが閉まらない、三百円だからでもあるだろうけども。そんな映画、一週間二十万で借りてね。高いほうですよ。もしあそこまで落ちると一週間二十万ぐらいの映画料ってのは、それがね、三百円でどう計算しても一日で元とれる。あと六日儲けだよ。百何万純益だよ。モギリと映写技師さえいりゃいいんだから。モギリだって最近は置かないでコインでやったりする。こんなに人件費かからないものないんだから。
とにかく映画を観せることは儲かるの、まだ、やり方を考えれば、今までの映画館じゃやれなかったプログラミングっつうの、絶対できるから。こうやればもっといきやすいのにと思うプログラムにしてないものね。そのちがいはこのあいだロスアンゼルスにいたときに思ったね。ロスにいるとね、映画館の数なんかむしろ東京より少いですよ、あれだけ広くても。ただし何か観たいなと思ったら、必ず一週間のうちに観れる、ないしは二週間のうちに観れる。たとえばだけど、いま東京で、ちょっと『天国と地獄』観たいなと思ってもどこでも観れないよね。ロスだと、毎日ちがう映画やってる小屋がたとえばあるわけですよ。きょうは「ジョーズ」と「鳥』とか、次の日は「ゴッドファーザー」とかさ。必ずしもヒットしたものばっかじゃないわけだよ。で、オーシマナギサ週間とかさ。週間というのも横でやらない、縦でやるわけだね。三週間、金曜日だけ大島やるとかね。そういう映画の組み方だってできるわけですよ。ある程度それが興行としてやっていければね。その小屋ってのはたとえば金曜日の夜だけさ、『ザ・ハーダー・ゼイカム』みたいジャマイカ映画だね、ジミー・クリフ主演まあシンプルな気分のいい映画よ。もうヨレヨレの貧乏にいちゃんが、ジャマイカのド田舎から、要するに歌手になりたくてジャマイカの町に出てきて、いろいろウロウロしながら、まあ歌手になって......で、グラスみたいなことがベースにあるんだけども、まポリ撃ってさ、ポリに最後撃ち殺されるだけの話ね。これがこの四年から五年ぐらい、大ロングランつづけてるわけですよ。それは週一回土曜の夜だけみたいな、金曜の夜だけみたいなもんだよ。
もう一本は土曜の夜だけその小屋でやってるのは『ピンクフラミンゴ」といって、16ミリのポルノじゃないな、あれは。クレージ映画だよ。こんな太ったデブデブのオジちゃんがさ、女に扮するわけ。で滅茶苦茶な肛門で歌をうたったりさ(笑)それはそのオジちゃんがやるんじゃないのよ。映画のあっちこっちでやるんだけどさ。エロでもない、グロでもないのよ。要するにアナーキーだ、単純に撮る方法論なんか滅茶苦茶よ。もうほとんど素人ね。ハイ、パンしてズームして寄って引いてパンし返して、ああどこへいこう、みたいな(笑)もうどうでもいいみたいな。もう技術なしみたいなね。完全に素人が撮った映画っていうのが一目でわかる。技術がどうしたって居直ってる強さがあるんだよ。たかが映画だろ、映画さ、って。川本 日本でいうと、自主映画みたいな感じの映画?
長谷川 自主映画とか8ミリとか、わりと観ないから、よくわかんないんだけども。観ないのは、たいてい昔から、真面目そうだから嫌なんだよね。
川本 そうね。
長谷川 映研なんつうとさ、あもう、やめようみたいなね。映研へやっぱり入んなかったもんね、俺は映画監督やろうと思ってたけども。なんかさ、難かしいことやってんじゃない、あそこでは。それと最終的に連中が趣味でやっててさ、プロになろうという気がないみたいな、俺はそういう感じがして嫌だったのね。そりゃ、ゴダールなんかバカよ、っていえば簡単だろうけどさ。言ったってしゃあないね、そんなの。だって虚しいもんね。それから、「ぼくたちはすでに、この8ミリでゴダールを超えたんだ」とか、そういうのは冗談としては面白いけどさ、マジメにそういう話してる人とはさ、つきあうの辛いじゃないか。そんならフットボールやってるほうがいいやと思った。べつにアメリカンフットボールを超えたなんて思わないからさ、俺は。むこうへ行ったらせいぜい補欠の四軍ぐらいだと思ってさ、やってたわけだから。
活性化の場としての映画館
長谷川 それからロスで楽しいと思ったのは、作るほうも観るほうも、すごい層が厚いんだよね。四十五十のやつもどんどん映画館へ行くもんね。かと思えば、要するにもう戦前の映画みたいなさ、大古典映画ね。古い映画。そのニュープリント版を、もちろん白黒ね。それを毎日やってる映画館があるわけだよ、それ専門の小屋が。そこなんつうのはもう平均年令四十近いんじゃない、観てる連中は。それから、すごい若い奴もいるわけだ。観たこともない映画だから若い奴にはニューなわけですよ。でもう完全にペイしてるわけね、そういう小屋は。で、べつに小屋も客も突っ張ってはないわけ、ごく自然なわけ。
川本 楽しみに観てるんですね。
長谷川 ホント楽しみなんだ。お金払って映画観て、ひと晩・・・・・・安い娯楽ですよ、三ドルだもの。いちばん高かったのがホモ映画館で六ドルだものね。(笑)
川本 なんですか、それは、
長谷川 ホモ専門の映画館があるのよ。ホモのハード・コア・ポルノで、女なんか一人も出てこない。通行人も出てこない、女は全部男だもの。でも、きちっとやるんだから、ドンドンやるんだよ(笑)でも俺は、まあホモ映画はやっぱ、もう一回観たいなという気はあんまりないわね。いや、いけないというんじゃなくて。なんかもう楽しげにやってやがってさ。いや、楽しいにちがいないんだ、やってる奴は。(笑)
川本 愛好家ばっかり観にくるわけですか。
長谷川 うん、それしか入ってないんだよ。すごいきれいな映画館だよ、汚くないんだよ。椅子なんかこうやって坐ったらさ、クッションフッカリでさ、二段に動いたりしてね。だって六ドルだもんな。そこに五人ぐらいしかいないのよ。(笑)それでベイしてる。あれが不思議なんだよな。まあロスって広いから、土地代が安いから広い映画館つくることは、それほど抵抗ないわけですよ。だから、まあやっぱ、美しかったね。そんな突っ張ったりしなくてもさ、みんな普通にやってるもん、映画作って観ることぐらい。で観てる奴の言うことが、やっぱりレベルが高いね。映研的に高いんじゃなくて、(笑)正しいこと言うよ、素直に。この映画はあそこがこうだから、つまらないとかさ。そういうことを客がわりとはっきり言うんですよ。それはプロの批評家みたいなのがもっと高いテクニックのことばを使っていうことと本質的にわりと近いこと言うね。
川本 日本でもプロ野球のファンなんてのはものすごく質が高いわけでしょう。解説者を凌駕しちゃってるもん。
長谷川 そう、解説者があれで偉いと思う奴いないもんな。(笑)言い方が面白いかどうかの差だけだもんね。だから層が厚いってのは、たいへんそういう意味ではファームなことなんだね、きっと。それはまた作ってる奴をよくしていくんだ、きっと。
そういう意味では、やっぱりアメリカという国はいいなと思ったよ。それとやっぱりマーケットが広いからね。一本当てれば、ホラまちがったら次作れるからさ、自分の金で。川本 日本は映画館経営するのは難かしいんでしょう。映画会社が配給権みたいの持ってて、自分の好きな映画ばっかり上映できないわけでしょう。
長谷川 だいたい潰しにかかるでしょう。ろくなもんじゃないからね。しかも無名の一興主が持つのとちがうから、そこを、ある奴が見たら、こいつは運動してるんだなんて思うかもしれないね。そんな気は全然ないけどさ、やっぱ、それを拠点にしてやっていきたいと思ってるわけだから、ある奴がみたら困る存在なんじゃない。それ潰すことは、プリントやらなきゃいいんですわ。それに対して、それより強くなりゃいいわけでしょ、結局いってみれば。それより金を持つか、要するにそういう配給会社が配給したい映画をしろ逆に作ってればいいわけだから、それは交換条件でいえるでしょう。
それは昔からみんなそれに行き当るんだよね、小屋持たなきゃだめだと思うわけ。小屋持てばやってけるという実感はみんなもつわけですが、やっぱり、やらなかったりやれなかったりするのね。それは、まあどれだけ本気でそう思ってるかということがひとつあるし、それからみんな悪い意味で真面目にそう思いすぎたんだね、きっと。それは時にはアングラ志向になるしさ。要するに理解されなくてもいいと、これは表現の運動なんだみたいなね。俺はそういう趣味がないだけなんだ、単純に。それが悪いとは思わないけども、そういう人もいるだろうと思うけども。
だから、ぼくが小屋やるときは、みんなが観たい映画を選ぶから、「ジョーズ」と「鳥」の二本立なんていいんじゃない、と思うもんね。川本 うまいね、『鳥』をもってくるのは。
長谷川 そういうものが客をさ、つかめないわけないと思うしね。するとね、そうやって観せることと、それから、そこで観てる客か要するに映画撮る奴が出てくるんだから、『キングコング』と、無名の、という言い方はおかしいけども、16ミリ映画でも8ミリでも、二本やったっていいわけじゃない、面白ければ、ほんとにそれがしたら、それがいちおうゼニ稼ぐわけだから。そういうことをやっていきたいわけですよ、ぼくはべつにリーダーになろうなんつう気はないけども、そうやっていかないと、てめえがいちばんヤバイもんね、ほんとにお呼びがかかってる芸者みたいにさ、「ぼくは監督ってことになりましたから、よろしくお願いしまーす」とかってさ、ジイーッなんつって上目づかいに待っててさ。「撮るかー」「お願いしまーす」とかって。それでやしてもらってるうちはいいけどさ、絶対ずっとやらすわけないじゃない。すごく売れて「先生、うちでどうぞ」とかいわれてさ、そういわれても五年ぐらい五本ぐらい撮って、ちょっと二、三年何にもネタ浮かびそうもないと思ったときに、「いや先生に撮ってもらわないと困ります」とかいわれて、撮ってゴミなことしてもしょうがないしね。たいてい今までそのどっちかじゃない。その先生とゴミはさ、チョボだよ、みんな大差ないですよ。
そうすっとね、てめえが今年はなんかやれそうな気があんまりしないなと思ったら、こないだ8ミリ撮ったやつで面白い奴がいたから、あいつにそれじゃ16ミリらしてみようかとか、1ミリ撮ったやつに面白いのがいたから、こんど35ミリでカラーでやらしてみようかとかさ。それはえらそうに言うんじゃなくて、単純に商売でさ。あれ当るかもしれないぜというんで、やれるじゃない、小屋があれば。川本 なるほど。
長谷川 そこでかけときゃいいんだから。週に一回でもいいし、もし短篇なら併映でくっつけたっていいわけだしね。それで客呼べなきゃ商売下手なんですよ。ないしは客を見る目がまちがってるのね、きっと。ただ俺はそれにはすごい自信があるな、やっぱ俺が客だからね。そう思うと、なんでそれ、みんなしないんだろうと思うね。もちろん金がいちばん大きいネックだけどね。
川本 かなり具体的に進めてるわけ、その映画館のはなし・・・・・。
長谷川 うん。だから次一本はやっぱりビッグヒット当てないと、作家として、という言い方はおかしいけども、作り手として、あれはやっぱりバカだねということになればさ、ま、終りだよね、それはべつにあとバックアップしてるものは何もないわけだから。一本目はこけの一念でなんか元気だけあったけども、やっぱりあれはバカなんだよ、頭悪いんじゃない、なんてことになればさ、やっぱり終りだよ。
だから、それはいちばん大事だとは思ってるけども、それはそれでまた別な問題だから、それはどういう状態だって一所懸命やるんだから、どうせ。面白いものやろうとしてるんだから。ただ問題はそれが商業的に当れば、批評家にほめられることだけじゃない力は持てるよね。それは売れてる商品は買う人がいるから、単純に。だから俺、ATGが『青春の殺人者』が最終的にやっぱり儲かるぐらいのヒットになったっていうのは、すごいうれしいですよ。それだけはわからないから、要するにヒットしてみないとね。ヒットするはずだとか思ってても、ATGだからなあ、いや、長い目じゃあの映画だいぶ儲けるんじゃないの。
若い観客は笑いたがっている
川本 『青春の殺人者』なんかのお客はどのへんの層が多いんですか。
長谷川 うーん、ぼくも五、六回は小屋で観たんですがね。まあ客と一緒に観たいっつうのもあったし、海外版作る必要で試写観たいからどこで観れるかつったら、どこでも観れないの、仕方ないから小屋へ行って自分でお金払って観たんだけどね。あれも変な気分だったなあ。自分の映画を仕事で観にいくんだからね。三百円払って観たよ。入口でさ、「いや、あの、監督した長谷川ですけど」とかなんかさ、言おうかなあと思ったけど、三千円なら言うけどさ、三百円ならいいやと思うじゃない。後ろのほうでずっと、二時間つっ立って観たけどさ。立って観ると長い映画、許されないな。(笑)ふざけんなバカっていう気がするね。(笑)
川本 ホント疲れたよ。(笑)
長谷川 もうよせよ、っていう気がする。絶対こんどから二時間こえる映画作らないからね。それでもやっぱり入ってるほうがうれしいよ、立って観ても。ガラガラでラクして観てもうれしかないね、やっぱね。うん、そこで観たとき入ってた客は、やっぱり、大体学生じゃないかな。まあどの映画もたいていそうだろうけども。
川本 かなりスクリーンに反応してました?笑ったり・・・・・・
長谷川 それは「青春の殺人者」でいちばんおどろいたのはね、あんなに客が笑うとは思わなかったなあ。
川本 どんなところで笑ってました。
長谷川 要するに母親が息子を口説く件りあるでしょ、あすこね、まあそれは基本的にブラックユーモアっていうかな、黒い笑いはやっぱりあるけどね。だけど、そんなにこう媚びた笑いじゃないからさ。俺は目いっぱいみたいな感じで撮ったから、これは過ぎるかなと思ってるところもあるがね。俺が思ったより以上に笑うんだよね。オイオイと思ったりね、ちょっとホッとしたですよ。ああ、あんなふうに観てくれると助かるなと思ったよ。
川本 そうね、リラックスして観てくれると安心するね。
長谷川 それは映画を撮ってる精神が笑われてるということももちろんあるんだよ、きっとバカ、どうしておまえ力んでるんだ。みたいなさ。そういう笑いももちろんあるんだろうけども、そうじゃなくて単純に笑ってるのがあるね。それはむしろ、ちょっとホッとしたな。いい意味で、ああ、みな健康だなと思った。
川本 たしかにお客の側のセンスもずいぶんここんとこ、変ってきてる。笑いに対して、すごく敏感になってきてるのね。
長谷川 みんな笑いたいのね、ああなりゃ、なんだって笑うね、ほんとに。なにやってもこれは笑わせられると思うぐらい、笑いたがってる。わざと笑わせるためには撮ってないからね、あの映画はそうすっとね、わりと笑いに重みがあるわけよ。
川本 市原悦子の演技なんて、かなり笑わせるじゃない。
長谷川 だから、バカ、オンディーヌじゃねえって感じのき(笑)そういう笑いももちろんあるにちがいないよ。それから水谷豊を見てもさ、「ハムレット見に来たんじゃねえ」って言う奴がいるかもしれないという感じのさ、そういう笑いももちろんあるだろうけども、だけどまあ、かなり許した笑いだよ、嘲笑だけじゃなくてね。こう同化した笑いですよ、とは思った。まあそりゃ贔屓目に見たいからさ。嘲笑だけされてると思って笑われたら、なんか観ていられないものね、一緒に。(笑)それと、泣いてたね、たとえばまあいちばん顕著なところは浜辺でさ、アイスキャンデーの話するでしょう、イリュージョン見るでしょう。俺はまああれは水谷豊自身は泣いてもいいと思った、撮ってるとき。まあ自前で泣いたんだ。過ぎるかな、ということは言われたり思ったりもちょっとしたけども、まあ、しゃあないと思ったのね。俺もかなり目いっぱいだったから、あのへんは。
たとえば投書が来たりするわけだよね、封切のもう二、三日後ぐらいのときだよ、四回泣きました、みたいなさ。この思いをどうしてくれよう、誰にありがとうと言おう、みたいなね。そういう人いたよ。そこまで言われると、ちょっと照れるけどさ。しかし、ぼくや川本さんの世代じゃなくて、どーっと若いとこがそういう反応をしたっつうのは、俺はちょっと意外でちょっと安心したね。シラケということばじゃないね、やっぱり。むしろみんな、笑いたかったり泣きたかったりして映画館に行ってるよ。川本 感動したいんですよ、みんな。
長谷川 で、そのことに媚びようという気はぼくはないね。ただ『ロッキー』なんかが当ったりしてることを、インテリふうに、あれ......と解説する気はない。あれはあれでいいんだと思ってるからね。俺だって泣いたんだから、まあヒットするんじゃない、と思うよ。ただ、こっちは作り手だから、客とおんなじ部分と客よりちょっと先へ行かなきゃいけない部分と両方もっていると思ってるから、そういう意味ではさっきみたいな話になるのね。だけどね、本気でやってればたいてい当ると思うよ。
川本 詩とか小説ってのがいまつまんなくなったってのは、そういうナマのね、泣きたいとか怒りたいとか悲しいとか、そういうことをもう言わなくなっちゃったでしょ。やたらもう小さな技巧の世界に閉じこもっちゃってる。だから、いまそういう人間のナマで雑な感情をすくってくれるのは、映画しかないと思うのね。アッタマきたとか、イイとか、そういう雑な感情ね。だから映画ってのは絶対またこれから盛り返すと思う。
長谷川 盛り返したいですね。いや、ほんと盛り返したいと思うな。ま、ぼくなんかこの世界に入ったときは、もう落ち目のときだったから、そういう意味じゃ過去への回顧というのはむしろないですよ、最初から。だって月給二万五千円でやってたんだから。なんてことないけどね。
川本 やっぱり愛憎こもごもあるけども、その主人公に惚れなきゃだめよね。今までのは、なんかスクリーンから怒鳴りつけてるやつか、さもなきゃスクリーンのなかでもうすでにシラケちゃってるやつばっかりで。
アメリカの映画作家たち
長谷川 それはすごくあるな。アメリカ映画の優れてると思うのは、いいアメリカ映画は......まあアメリカ映画という言い方は適切でないかもしれないけども、説教はしないよ。ないしは説教してても説教されてる気にさせないよね。要するに、たとえば、この思いは、ないしはこの感情は、ないしはこの場所は俺が見つけた場所だというふうに客が思うようなうまさでやるしさ、作家がそこまで自分を隠すね。むきだしを、隠す知性なり知恵なり、あるよね。だから、やっぱりアメリカ映画は観てて気持いいですよ、いいアメリカ映画は、この十年ぐらいだけどね。
川本 惚れるもんね。やっぱり、こいつはいいっていうふうに、観てて。
長谷川 だから客の首っ玉つかまえて、おまえこれ見ろ、次これだ、みたいなチンケな教条主義がさ、ないのね。客に要するにどれを観るか選ばせるという謙虚さがあるんじゃないかな。それはやっぱ、大変なことだと思うよ。
それからロバート・アルドリッチというのにも会ったんだけど、いま『合衆国最後の日』やってる奴ね。その次撮ってたんだけど、要するにスター映画なんか絶対撮らないつうのね、まあアカ狩りOBとしては、すごいシンプルに、やっぱ監督である自分を信じてるね。映画なんて監督のもんだと思ってる。口に出して言わないだけで。だから、そのとき撮ってた映画も十二人の警官の話なんだけどね、役者はまあB級というか、たとえば『ロッキー』のあの兄貴とかさ。川本 ああ、バート・ヤングね。
長谷川 それから『ウィークエンド』のあの強姦男。
川本 ドン・ストロウド。
長谷川 とかね、なに、みんなそんな奴よ。
川本 いい役者使ってんな。
長谷川 そんなのが要するに十二人の警官やってさ。ま、そういう話よ。でもやっぱりすごい楽しそうにやってるね。まあB級映画ですがね。でも、バート・ランカスターなんて今や向こうじゃスターとしてはB級もいいとこよね。ランカスターなんて、『合衆国最後の日』で、どう高く取ったってギャラ一億取らないってね。五千万かもしれないっていってた。クリント・イーストウッドとかチャールス・ブロンソンなんては、ぼくらの感じではむしろ彼らがB級じゃない、ところが向こうでは絶対ちがうのよ。奴らの映画はどんなにいい映画作っても、世界中でテンミリオンは稼ぐわけだ、三十億は、ランカスターなんてさ、ワンミリオン下手したら稼がない程度の映画が多いわけだよ。だから誰がビッグかといったら、ブロンソンとイーストウッドなんですよ。それはね、後進国につよいんだ
川本 日本も含めて。
長谷川 うん、日本も含めて。ブロンソンなんて要するにビッゲストだよ。バート・ランカスターなんて屁でもないね、関係ないよ、もう。おいらの感じじゃさ、ランカスターのほうが上でさ、ブロンソンなんてそうじゃないと思うだろ、全然そうじゃないんだよ。それはやっぱ、正しい国だなと思うよね、うん。金がすべてっつうのがあれぐらいハッキりしてると、気分いいんじゃないかなあ。稼ぐ奴勝ちよ。
川本 ドン・シーゲルが、長谷川さんが書いてたなかではかなりくたびれた感じですね。