「U・ボート」は新しいか
長谷川 「U・ボート」を僕は、ちょっとソンな形で見ちゃいましてね。というのは、村上から「すごい、すごい」とさんざん吹きこまれて、そのつもりで見に行ったものだから、正直言うとちょっと期待はずれだったんです。それは間違いなく圧倒されて見るだけの力はある作品で、しかも戦争反対を変に感情的に激したりするのではなく、客観的に描写するという形で最後まで引っぱってきている、という点で確かによくできた映画だと思いましたけどね、しかし、どうも、そこまでなんです。いままでの戦争映画とは打って変わった理念なり表現なりがそこで始めて出された、というようなものじゃない。
昔、「眼下の敵」という映画があって、僕はそれが想い出されて面白かったんですが、あそこでは、アメリカの駆逐艦長ロバート・ミッチャムとドイツの潜水艦長クルト・ユルゲンスが、ナチスに対する皮肉な気持では両者共通しながら、丁々発止とやりあうでしょう。しかし、あの映画が作られた時代の空気から言えば、ナチスは悪いもの、という気分は蔓延していたわけだから、今度の「Uボート」ではそこのあたりがどう打ち砕かれるのか、あるいは「撃ちてし止まん」というところまでいくのか、そんなふうに僕なんかは期待していたわけですよ。ところが、やはりここでもナチスは絶対悪として、むしろバカらしいもの、唾棄すべきものとして、「眼下の敵」同様に位置づけられている。双方で違うのは、あのアメリカン・デモクラシーの楽天的な明るさみたいなもの、最後に艦長同士が助けあって立っている、みたいな明るさの有無だけであってね、それ以外のところでは、それほど新しいと思われるものはないんですね。
となると、やはり圧倒されるのは、具体的な描写のほうでね、僕は、それこそ、バルブがパチューンとはじけたり、ややよがっ使いすぎとは言いながら、ハンディカメラでドーッと移動するパワーとか、どうもそちらのほうに目が行ってしまう。しかしやはりもうひとつ何か違うものが見たかった、という気持はどうしても残りましたね。その違うものとは何なのか、それは自分でもよくわからないんですが、とにかくそんな感じでした。山田 僕は、「U・ボート」を、戦争を即物的に描いた、というふうに見る人がいるということに、むしろショックを受けました。つまり、あれは娯楽映画だと思うんです。娯楽映画としては非常に乗せ方がうまいし、撮り方もうまいし、演出もうまい。非常に面白かったですね。けれど、例えば犯罪映画のうまく作ったのを見たとするでしょう。まず犯罪者はろくな終り方をしませんよね。だからといって、これは反犯罪映画だなんていう議論をする人がいないように、「U・ボート」も反戦映画かどうかなんて次元で話す映画ではないと僕は思う。犯罪映画は、作る人見る人のなんらかの感情を解放します。そこに犯罪というものに対する哲学が必ずしもあるわけじゃない。ようするに、それによって楽しむ。それと同じことが、この種の戦争映画にも言えると思うんだな。
一時期、ヴェトナムに行って一発当てよう、みたいな感じで、カメラマンがたくさんヴェトナム戦争を撮りに行ったことがありましたね。そこで亡くなった沢田教一さんという人について書かれた『ライカでグットバイ』という本を読んで知ったんですが、そうやってヴェトナム戦争を撮りにいった人なんかが突然転勤や何かで香港あたりに行かされると、何を撮っていいかわからなくなるっていうんですね。平和な市民生活の中の写真種は、大半生死の問題とは直接には関係ないわけだし、こんなものを撮って一体何になるんだろうと、空虚さにおそわれる。戦争というものには、なにかそんなふうに人間の根源的な感情を揺さぶるものがあるんだろうと思うんです。それはいい悪いじゃなく。だから、そういうものが娯楽映画の一つのジャンルとして成立するのは、当たり前だと思う。で、その範疇でならば、僕はあれは傑作だと思います。
けれど、それを"反戦というふうに言うのは僕はやはり論外だという気がするし、あれはまったく即物的になんか戦争を描いてないと思う。イデオロギーとしては西部劇のイデオロギーですよね。大将がいて、ちょっと弱い奴もいて、その弱さの描写も後でそれを克服したとき、より効果がある範囲で使われる。みんなが互いに信じあっている。だけど、現実にはあんなものではない。即物的なんてとんでもない。僕があの潜水艦の中に一兵卒として入ったとして、無事生きのびて、潜水艦の中のことを描けと言われたら、あんなふうには絶対ならないと思う。下士官、艦長を見る目ひとつをとったって全然違うものになると思う。あそでは例えば使い古された「男らしさ」の概念が、全然こわされてないでしょう。本当の戦争はあんな通念を許さない、もっといやらしいものだと思う。娯楽映画だと思いますね。岩淵 僕もやはり、反戦映画なんてとんでもない、という気持です。制作者には、ややおざなりにしろ反戦映画にする意図はあったんでしょうね。僕も山田さんのおっしゃるように、あれはまったく西部劇だと思うんですが、西部劇としてならばひとひねりあるのが、最後のシーンですよね。ノーマルな西部劇なら、危険を乗りこえて無事に帰ってきて「バンザイ、バンザイ」で終わるところを、あれだけ苦労して死地を脱したあげく帰ったとたん空襲でバタバタと死んでしまう。そのひとひねりが戦争の虚しさを言いたいという、一つの言い訳になるんでしょうね。しかし、それよりも何よりも僕が一番いやだったのは、幽霊ヨハンという九回もの航海歴のある水兵が、一回恐怖におそわれたあと、翻然と悔悟してね、最後に勇気のあるところを見せるというエピソード、あれは非常にいけないですね。僕は戦争を知っている世代だからといって大きな顔はしたくないけれど、いまの若い人たちにとって危険なのは、やはり戦争体験がないからね、異常体験の中に身を置いてみたいという欲求があることだと思うんです。それが登山や冒険なんかで解消されているうちはいいんだけれど、異常体験がつねにあるのが戦争ということになり、その場でヒロイックなものが発揮されるんだと思われちゃうと、これはもう非常に危険じゃないか。だから、ヨハンが一度恐怖にとりつかれたら、もう二度と立派な男にならないでほしかったな。監督のペーターゼンも四一年生まれで戦争を知らない世代だから、即物的に書いたつもりでも、ああいう落とし穴に落ち込んじゃうんでしょうけどね。
ブレヒトがヒロイズムについて面白いことを言っています。人間というのは、非常に危険な状態に陥ると、自分の身を助けたいからやむをえず蛮勇をふるう、そういう蛮勇をふるわざるをえないような状況に落ち込めばだれでもヒーローになりうる、と言うんですね。無能な作戦ほどヒーローを生みやすくなる。ヒロイズムというものを、そういうふうに生まれてくるものだとして描く反戦映画というのもあり得ると僕は思うんだけれど、ヨハンの話などひどくまともな「崇高な英雄」のおハナシなんだな。監督にはおそらく悪意はないんだろうけれど・・・・・・。長谷川 むしろ、その悪意のなさみたいなものが、"新しくない反戦映画だと僕は思ったんですよ。つまり、いままで反戦映画と言われたものは大体こんなものだった、というか。反戦ということに対する方法論的な発見がないんです。そういう意味では、ストーリー的に西部劇とおっしゃったけれど確かにそうで、ナチスドイツという名の絶対悪が既にそこにある。それは他の映画でもずっとそうですよね。しかし、それよりもむしろ、ナチスドイツというものをきっちりと描いて見せてくれるものが僕は欲しいというかな、そういうものって割とないように思うんです。「将軍たちの夜」とか、いくつかはありましたけど。あと、あれ、なんて言いましたっけ・・・
山田 「地獄に堕ちた勇者ども」。
長谷川 それともう一つ、もとナチスのポーターが・・・・・・
山田 「ナイトポーター」かな。
長谷川 そうそう、「ナイトポーター」。「愛の嵐」か。あれなんかを見ると、なにかいままでの戦争ものとは違う理念なり発想を見たような気がしたんですね。おそらくそれは作者がナチスドイツの中に入っちゃってるからだと思うんですよ。ところが「U・ボート」の場合は始めから悪者がきっちりいる。つまり、ナチスが悪い、戦争が悪い、というね。そして結果的にはその「悪」に殉じているわけね。いくら頑張ってもレクイエムにしかならないんだ。いやならジブラルタルを通らなきゃいいじゃないか、みんなで逃げちゃえばいいじゃないかって。(笑)まあ、そう簡単にはいかないんだと言われてしまえばそれまでだけど。だから、最後のあのドンデン返し的結末も、あまりいい意味でのショックはなかったですね。なんだ大騒ぎして鎮魂歌というね。
山田 そうですね。犯罪映画で最後に逮捕されるようなもので単なるエクスキューズという感じがしましたね。
反戦映画のむずかしさ
岩淵 ナチスの問題で言うともう一つ、あの中に一人だけナチスの将校がいましたね。あそこでナチスと軍部の対立という問題少しあるのかな、という感じもするんだけど、しかしそういう描き方にも別の危険があってね、悪いナチスに抵抗したから軍部はいいんだというんじゃ、これ、どうしようもないわけですよ。あそこではまあ、デーニッツ提督が彼はヒットラーの死後、ほんの何日か総統になる男ですけどタンカーの乗員を救助してはいけないという命令を出してるわけで、そこでナチスも軍部も悪いと言ってるのかな、という気もしましたけど。
山田 ジブラルタルを渡らなきゃいけないという命令がきますよね。あれは、あの場にいたら、かなりショッキングでしょう。つまり、ナンセンスとしか思えない命令がくるわけだから。ところが、艦長はまるで悲劇の主人公が運命を甘受して男らしく黙って遂行する、みたいな感じの反応をする。ああいうところが僕なんかは見ててすごく常識的だという気がしましたね。
長谷川 あのナンセンスな行動は結局だれによっても否定されてないんですね。作家によっても、登場人物によっても。
岩淵 僕は原作を読んでないんですが、一度原作者が長いシナリオを書いているんですよ。そして、それがダメになってる。つまり、あれはシナリオ作りが三段階になってましてね、始めはアメリカと組んでやる大プロジェクトの予定だったんです。アメリカ側にスクリプトまで書かして確かコーエンというシナリオライターですが――それを原作者が読んで、こんなのじゃいやだと言った。いわゆるアメリカのナチス映画のパターン、ドイツ人=ナチス=悪のパターンになってたらしいんですね。で、それじゃ、自分で書いてみろ、ということになって原作者自身がシナリオを書いたら、延々六時間のものを書いてきた。(笑)そこで困ってしまうんだが、既にその時点で六〇〇万マルクの金を使ってしまっていて、それをなんとか回収しなきゃならん。で、テレビに売りこんだんですね。ペーターゼンというのはテレビ劇の監督なんですよ。その彼がシナリオを書いたら、それは使えるということになった。しかしそういうわけだから、六時間のテレビものというのが別にあるわけね。それを短くしたらしい。だから、あいだのいろんなところが抜けちゃっているんだと思うんですよ。さっきのナチスと軍部の問題とかね、ドイツ人にわかるところはもっとあるんだろうと思うけど、国際的なレベルではわかりにくいと思って、切っちゃっているんじゃないでしょうかね。
長谷川 ただ、あんなふうに行かれるとね。まあ、あそこでかなりナンセンスな命令に悩んだっていう顔はするんだけどね。
岩淵 確かにある理由づけがちょっと欲しいですね。なぜそういう無意味なことをやるのか......。わざと死地に追い込むというような設定が何かあればもうちょっとわかるんだけど。
山田 不思議な気がしますね。ナチスだってバカじゃないんだから。
岩淵 潜水艦をみすみす一つ・・・
山田 ええ。そこに何か一つ説明がないと、あそこは娯楽映画としても弱い部分ですね。
長谷川 弱いですね。ただ、さきほどおっしゃった戦争を知らない世代に僕も入るわけですけど、正直言うと、ちょっと戦争を見てみたいという野次馬的気分が僕なんかにもありますね。
岩淵 そうなんでしょうね。
長谷川 現実のものとなったらどうなのかはわかりませんけどね。それと、もっと単純に、自分自身がそういう人間だから、というか、例えば映画の素材を探すときにも、何もないような日常を描くのはあまり好きじゃなくて、人が死んだり悪いことをしたりする話のほうを選ぶタイプの人間だからかもしれませんけど。
岩淵 異常体験が欲しいという気持は僕もとてもよくわかるだから戦争というのは怖いと思うんだけど、逆に言いますとね、あの戦争中、僕は十七、八で、たまたま菊池寛の小説を読みましたらね、昭和初期の風俗でタクシーは出てくるわ、ダンスホールやカフェは出てくるわ、ああ、こういう豊かで自由な生活があったのか、こういう生活が欲しいなと思った記憶があるんですね。いまはこれが常態になっているから逆なんだけれど、戦争体験なんてものは絶対に必要のないものだと強調したいのは、そのときの気持を覚えてるからなんです。平時というのがいかに良さそうに見えたか、そしていかにいいかということ......。あの頃は、こんなことは生涯もう絶対経験できないだろうと思いましたから。
長谷川 ウチの長男がもう六年生なんですけど、もう僕なんかの比じゃないですね。戦争はもうはっきり娯楽ですから。「宇宙戦艦ヤマト」とか「宇宙戦士ガンダム」とか、衣替えはされてても、ようするに戦争映画ですから。で、安手といえば安手、わかりやすいといえばわかりやすい、あのヒロイズムみたいなものを、なんら疑問を持たずに見てますね。多少怖いな、と思ったりはするけれども。こちらは、その親なんだけど、あまり喜んで見るだけのものじゃいかんのだぞ、というようなサジェッションさえ、あまりうまく言ってやれない。
岩淵 このあいだ、朝日新聞で読んだんですけど、いま戦車のプラモデルを載せたりする戦争雑誌がすごい人気でしょ。ところが、残酷なカットは一切出さない、というパターンがあるらしいのね。一度そういう写真を載せたら反応がすごく悪くて、それ以後一切載せないようにしてるらしい。それに疑問を感じて足を洗って編集者もいるようです。その話を聞いて思い出したんだけど、ナチスの戦争記録映画というのも、やはり兵隊が死ぬところなんかはほとんど出していないとクラカウワーが指摘してるんです。僕は、反戦映画というものは残酷さをこれでもかこれでもかと出すパターンがやはり一番いいと思うし、その意味では「ジョニーは戦場へ行った」が反戦映画の最上のものだと思いますね。カッコいいところがまったくなくてね、戦場へ行った途端、一度戦争をしないうちにポカンとやられて、それでもうああいうからだになってしまう。あの無意味さみたいなもの。戦争映画というのは少しでもカッコイイところのあるものはまずいと思うし、「U・ボート」でも敵のタンカーを雷撃するシーンなんて、どうしても観客がやる側に立って見てしまうというところがあるでしょう。インディアンを凶悪だと思ってなくても、西部劇を見ているときだけは騎兵隊になっちゃうのと同じでね。そういう意味でも、僕は雷撃シーンもあまり好きじゃなかった。
山田 あの雷撃シーンで、タンカーから海に飛びこんだ連中を助けたいと思うのに助けないというのは、僕は嘘だと思いますね。戦争の最中に、しかも自分たちもその寸前にひどい目にあってる。やっと浮かんだわけでしょう。そんな状態で平時のヒューマニズムというんでしょうか、ああいう冷静さを持っているというのがおかしいですよ。
岩淵 戦時中の空襲のときでも、パラシュートで降りてきたアメリカの飛行士を、普通の住民が虐殺してしまった事件がいくつかありましたね。むしろその行為のほうがああいう状態では自然だったんだと思います。それが怖いんですよ。
長谷川 アメリカの資本が入りかけた分だけ、なんとなくアメリカン・ヒューマニズムのパターンが踏襲されてる、という感じもありますね。(笑)
山田 非常に常識的ですね。「ニュールンベルグ裁判」とか、カーク・ダグラスの演った「突撃」、あるいはジャック・パランス「攻撃」、ああいう映画の持っていた苦さのようなもの、ああいう複雑性が「U・ボート」にはほとんどないでしょう。それを即物的に撮っているんだと思う人が多くいるという怖さというかな。戦争というのは、実際にはもっともっとものすごく複雑なものだと思うんです。
長谷川 先ほどの「ジョニーは戦場へ行った」で言えば、僕はあの被いの中の肉体が見たかったですね。あそこまでキッチリ作ってあるんだから、一瞬でもいい、見せたらどうなんだと思った。あれは見せないことで、やはり、ある美化はされてますね。僕なんか割と映画を見て泣くの好きなほうだから、あの映画はとても泣きやすかった。(笑)まあ、割といい涙でしたけど。ただ、それじゃ、本当に芋虫みたいな存在、ただ生きているだけの姿を目の前に見せられたら、はたして本当に泣けるかと言ったら、これはもう少し違うものになったでしょうね。
岩淵 反戦映画で心配なのは、反戦をあまりにうたいすぎると逆効果になって、見るほうはソッポを向いちゃう、というようなことがあるでしょ。だから、むしろ好戦をもっとあおっちゃって、本当の好戦映画ばかりどんどんやったら、反面教師じゃないけれど、そのほうが効果的かなと思うこともあるんです。(笑)いまはみんなお題目だけは「反戦」で、そこに好戦を忍びこませている。この構造がとてもいやですね。
山田 戦争の怖さというのは、からだをひどくこわされたとか、そういう面ももちろんあるわけだけど、それと同時に、普通の状態のときには現われなかった側面が現われてくるというんでしょうか、一人の人間の。そういう怖さがあると思うんです。いつもニコニコしていたサービス業の人がある位置につくとものすごく残酷になるとか。しかもそれはすぐ死に結びつくというようなものでもなくて、ウンザリするような日常も戦争の中にあるわけです。毎日三度三度の飯を食わなきゃいけなかったり。そういう部分を、戦争映画はもっと描かなきゃいけないと思いますね。
岩淵 「Uボート」にも日常生活というのはないですね。「航行何十日」と書かれているけれど、何十日を送っている無意味さのほうはなくて、事件また事件ですからね。
長谷川 で、見てるほうは、やはり次の交戦を待ちますしね。早く戦え!って。(笑)
ヒロイズムは蛮勇である
山田 さきほど「男らしさ」という言葉で触れましたけど、「U・ボート」は、かつてのヒロイズムを全然とこわそうとしてないですね。
長谷川 そうですね。
山田 戦争映画を作る時、僕らはもっと真剣に「ヒロイズム」を問題にしなければいけないと思う。限定戦争の場合にはヒロイズムというのは成立すると思うんです。アメリカとソ連にはいくら軍備を拡張しても日本はかなわない、しかし人間の尊厳として言いなりにはならない、抵抗だけはする、というヒロイズム。それはそれなりに人間の尊厳を守るだろうし、かつては確かにそうだった。だけど、核戦争の時代に、そういうヒロイズムを残しておくというのはどういうことなのか。いま、もし、そういうヒロイズムを否定できないままで突っ走れば、日本なんて狭いから一つガーンとやられてなくなってしまう可能性もあるわけでしょう。そのときに、人間の尊厳、日本民族の尊厳を貫き通すのと、尊厳は捨ててもいいから生き残るということのどちらを取るか、と言われたら、僕はやっぱり生き残る道を取りたいと思うのね。それは通念としての尊厳を捨てることになるけれど、生き残ろうとすることが新しいヒロイズム、尊厳にならなきゃいけないと思う。日本はどうせ大国に運命をゆだねているわけだから、そしていまだってゆだねているわけだから、そのゆだねたところで生きていく日本人の尊厳とはなんなのか、そこのところを僕らはいま問い直す時期だという気がするんですね。
岩淵 もうヒロイズムというのはすべて蛮勇だ、と言ってしまってもいいような気さえ、僕はしてますね。
山田 フランスのレジスタンスが実際にはなんの意味もなかったと言いますでしょう。なんの意味もなかったけど、フランス人としては連合軍の力だけで自分たちの運命が決められるのは耐えがたい。自分も自分の運命に関わりたい。だから、精神的にあのレジスタンスは必要だったという言い方がありますね。そういう言い方を、だけど、核戦争のいまでもしていいのかという問題ですね。もっといじましく、地に這いつくばってペコペコして生きていく「男らしさ」を作らないといけないんじゃないか......。
岩淵 意味のある抵抗を否定しているわけじゃないけれど、その抵抗の仕方もヒロイズムじゃいけないんだな。
山田 もっとだらしなく......。
岩淵 そう、だらしなくやる抵抗のほうが本当は強いんだろうな。
長谷川 戦争と一言で言っても戦争にはきっといろんな戦争があって、例えば国家間の戦争か、反国家としてのかということ一つでも、形態は似ているけれど、意味は根本的に違うだろうと思うんですね。まあ、思いたい世代であるわけです、僕なんか(笑)だから、僕にとっての戦争というのは、第二次大戦でもなければ、もちろん日露戦争でもない、僕らが二十前後であった頃の七〇年安保がそうなんです。で、何年か前から「連合赤軍」を素材にした戦争映画を撮りたいと思っていて、ずっといじいじいじってるんですが、やはり映画資本は「連合艦隊」はやっても「連合赤軍」はいやがりますね。(笑)戦争映画として撮ろうとすると、同じように五億六億の金は現場で軽くかかりますしね、それ以前に、あれはおぞましいものだ、暗い、という反応がまずあるんですよ。「浅間山荘」だけだったら、テレビを媒体にしたヒロイズム感覚みたいなものもあったし、人質と友好関係保っていたということもあったりしてそれほどでもないんだけれど、そのあとで続々と公表されたリンチ殺人、あの同志殺しがやっぱり致命的なんですね。正直言うと、僕自身あれを知ったときは、「わからん」「なんでや?」という感じが一番強かったし。しかし、そのわからないところをそろそろいじって検証していかないと、もう戦争というのはなんなのか、とらえきれなくなってきてると思うんです。
「U・ボート」もそうだけれど、いままでの戦争映画というのは既に悪者があらかじめ決められている戦争でしょう。ナチスが悪い。そして、ヴェトナム戦争もいまやそうなりましたね。アメリカが悪い。ヴェトナム戦争を讃美した映画は初期のジョン・ウェインの「グリーン・ベレー」で終っている。つまり、悪が歴史的に検証されて、決まってしまった映画は、それじゃ西部劇になっていいのかという問題がそこで一つあるわけだけど、それと同時に、僕はやはり、まだ検証途中のもの、わけのわからんものを素材にしていきたいと思うんですね。それが僕にとってはいい意味でも悪い意味でも「連合赤軍」だったということなんですけど。しかも、あそこにも、ヒロイズムは厳然と存在したわけですから。岩淵 同志殺しまで行っちゃうのも、やはりヒロイズムの変形から来ていて、もしかしたらそれも、根は「連合艦隊」パターンと違わないかもしれないとまで思いますね。戦術論としてもヒロイズムというのはまずいんじゃないかな。左翼の戦術論としてもね。左翼のヒロイズムというのは、ちょっと日本独得の特徴みたいな気もするな。
長谷川 それとやはり日本の知識階級が第二次大戦を検証しきらないままに、六〇年、七〇年の政治の季節を迎えて、しかもそれも検証しないままにいまに至っているということが一つあると思いますね。やっぱり力のある反戦の表現が出ないとダメだと思うんです。力というのは魅力ということでもあるんだけれど。それに関して言えば、僕がときどき行くテニスコートは、新自由クラブの人が地主だということもあってか、核反対の署名の用紙が置いてあったりするわけね。で、なぜかそこの受付のおばちゃんは、僕が胎内被爆だということを知っていて、「長谷川さんにはいの一番にしてもらわなきゃ」なんて言う。だけど僕は署名も投票も一度もしたことがない男でね、いまさら気持悪いからやめよう、みたいなことになっちゃう。せいぜい、今日のビジター・フィーをタダにしてくれたら書くぜ、ぐらいの冗談しか言えない。なぜかと言えば、やはり署名という行為に魅力がないからですよ。反戦というのは、政治と人間の関わりあいをいじっていくことだと思うけれど、そういうのはやはり僕なんかにはないですね。だからもう子供に与える言葉もないですよ。(笑)
山田 政治の延長として戦争がある、政治の一手段として戦争がある、というような戦争についての醒めた解釈は昔からあるのだけれど、そういう冷静な部分というんでしょうか、そういう感覚で戦争をとらえようとする動きはむしろまだ少なくてね、ヒロイズムが力をふるっている。直接戦争映画でなくても、犯罪ものなりヤクザものなりの中で、ずーっと長いこと培われてきて、それはあまり変わってないんですね。で、そこをどうするかということが、これからの戦争を抑止するかしないかに関わってくると思うんです。
岩淵 それは確かにそうですね。
山田 だから反戦映画という形をとらなくても、なにかいままでのヒロイズムでは主人公になりそうもない人たちの見苦しさ、素敵さというかな、そういうものをもっと書くべきではないかと僕は思うのね。
岩淵 例えば今度の「連合艦隊」の中で、山本五十六がどういう形で出てくるか、僕は知らないけれど、そして実際に彼がどうという人だったのかもわからないけれど、山本五十六はいいんだ、と書くのは僕にはひどく抵抗がある。戦争中に特殊潜航艇が出たときにね、彼は「近頃の若い人なぞと口はばったきことは申すまじく」とかなんとか言ってるわけですよ。それは若い人たちをおだるパターンですよね。僕は、老人が若者に感心したりもちあげたりするパターンは一番危険だと常々思ってます。ジェネレーションのギャップはあるほうが自然で、老人が若者をなげいている時代のほうが健全だという気がする。五十六のあのおだてのパターンは、「若いのによく国家のために身を捨ててくれた、いいぞ」と言ってるわけでね、左右を問わず、ジェネレーションの衝突がないのは全体主義の兆候です。あの一言だけでも僕は彼をマイナス評価しなきゃいけない人物だと思う。日本の場合は、精神主義的なものがあまりにバカげているので、合理主義的な戦争屋ならいい、というパターンになりかねないんだけれど、そういう合理主義もいけないということを、はっきり言わなきゃいけないと思うんです。
山田 日本的判断で言えば、僕は、あの戦争の中心人物たちだって悪い人”なんてあんまりいなかったと思いますね。
岩淵 悪人じゃないですね。ただ思考のパターンがそうなっているのがいけないということを言いたいだけです。
山田 だから、悪い人がいたから戦争が起こったとか、悪い人は警戒しようとか、そういう姿勢でやっていく限り、戦争映画は現実をとらえないと思います。みんないい人だったけど、ひどいことになっちゃったというほうが、むしろ日本においては事実に近いんじゃないかと思う。
非カタルシスのカタルシスを
長谷川 昔、「長距離ランナーの孤独」という映画がありましたね。非行少年の主人公が少年院に入れられているんだけれど、足が速いので、始めて少年院から出されて走る自由を与えられる。彼はデカパンをはいて走るわけです、みっともなく。そのみっともないところが、僕なんかには非常によかったんだけれども。(笑)映画のラスト近くで名門校の生徒との対抗マラソン試合が行なわれる。トップで走ってきた主人公は二番目にくる名門校を半周くらい引きはなしてゴールのテープの前まで来てるのに、そのテープをなかなか切らない。その前で長いこと足踏みしている。結局、後ろからきた敵がゴールインするから、彼は負けたということになっちゃう。そのときそいつは所長から約束されていた"未来"を一緒に捨てるわけです。この映画を僕はまだ大学に入ったばかりの頃、日劇文化で見たんだけれど、そのとき僕の後ろで見ていたヤンキーの若者が突然立ちあがって叫んだんですよ。「Stupid!」。(笑)つまり、それを愚かだというふうにしか彼は思わないわけね。確かにカタルシスはないんです。後味が非常に悪い。僕だって見てて、とにかくそこは一応勝っといて勝ったあとで考えればいいじゃないか、勝つことは力なんだから、力がつけば自由も手に入るんだから、と思いましたけどね。しかし、後ろで叫ぶ「Stupid」という声を聞いたら、やはりヤンキーはアホやなと思いましたね。(笑)イギリス人のほうが、もうちょっとシンドイところでものを考えてるというか。
あれ、映画では監督はトニー・リチャードソンですけど――主人公はまた少年院のシンドイ作業に戻されて、その作業をしているところで終わるんですが、小説のほうはもうちょっと攻撃的なんですね。「そんなこともあったけれど、その後オレは少年院脱走して、国中を股にかけて悪いことをしまわってやった」みたいなセンテンスで終わる。気分としては僕は小説のほうが好きでしたね。映画はやっぱりちょっと苦すぎるというか。そこまでネガティブにだけ終わると、このネガティブが逆にナルシスティックになる、みたいな感じがちょっとイヤだったんだと思うんです。で、つまりね、反国家というのは例えばそういうものだと僕は思うのね。要するに、向こうが切ってほしいと思っているテープを切らないということ。だけど、それも「ああ、よく切らなかった」と手をたたく人があれば、ヒロイズムになるんですよね、きっと。岩淵 そうね。それもなる。そこへもっていければ理想的ですよね。でも、いまの映画は、まだ基本的にカタルシスの構造から抜け切れていないから。思い切ってテープを切らせないやり方を試みると、ある程度興業成績には目をつぶらなきゃならないから。(笑)これは「U・ボート」の問題でもあると思うんです。だから、非カタルシスのカタルシスをどういうふうにして生かすか、というのが反戦映画のキーポイントかもしれない。
長谷川 非カタルシスのカタルシスという、つまり新しいカタルシス、新しいヒロイズムを見つけない限り、結局いままでのパターンになっちゃうわけだから、どんなに悩んだ格好してもダメだということですね。
岩淵 そう思うな。やっぱりパッとテープを切らないとスカッとはしないからね、そこがむずかしいところですよね。
長谷川 僕は小説をあとから読んだんですけど、読んでホッとしましたね。「悪いことをしつくしてやった」と書いてあると、「よし!それでよいのだ」と思うわけですよ。(笑)
岩淵 臆病のヒロイズム、というのは、描けないものでしょうかね。臆病であることがヒロイズムである、というような描き方。
長谷川 そういう主役がなかなかいないんですよ。(笑)ある時期の喜劇、「馬鹿が戦車でやってくる」とか、ああいうものは割合イイ線までいってたと僕は思うんだけど、しかし最後はいつも人情劇に収斂していくモロさがあった。作り手のほうにも、やや偶然の所産、みたいなところもあってね。だけど、僕はハナ肇のあのアナーキーな「バカ」は好きでしたね。結果的には「寅さん」と同じように扱われちゃってますけど。
岩淵 もうひとつ問題なのはヒロイズムとエゴイズムの関係ね。つまり、ヒロイズムを肯定するときには常に自己犠牲がついてまわるでしょう。そしてエゴイズムはなんとなくよくないものだという意識もある。もちろんエゴイズムがすべていいというわけではないし、自己犠牲もまったくすべきものじゃないけれど、さきほど話に出た国家というものと映画では"U・ボートの乗組員全員とその中の一人、つまり個人との関係ね。幸い、『U・ボート」では、一人が犠牲となって死ぬためにあとの乗組員全員が助かるというパターンがなかったからまだ救いだけれど、そのパターンはよく出てきますでしょう。そのときにどういう形でエゴイズムのほうを肯定していくかということをもっと考えてもいいような気がするんです。谷川自分の映画で恐縮ですが、原爆を作って、その結果「テレビのナイターを最後まで見せろ」みたいなバカな要求をする人間を描いたのは、そういうトライのつもりもあったんです。でもやっぱり最終的にはいいカタルシスにならないですね。いいというか、気持のいいカタルシスにならない。やってて、こっちがわからなくなるんですよ。原爆まで作っといて、その最初の要求がテレビナイター”というのは割合いいジョークだと思うんだけれど、そのいいジョークをエスカレートしようと思っても、要するに要求がない......。
山田 そこのところが僕はとても面白かった。要求がないというところが
長谷川 一年くらい考えたんですけどね。ないんですよ。(笑)あと二つくらい、あの気持のエスカートされたものがあれば、これはもう大娯楽映画になれると。いままでなかった映画だと割元気よかったんですけどね。(笑)ところが一年くらい考えても、それはダメだ、あれもせこい、これは悪しき戦後民主主義にすぎない。(笑)何人かでしゃべりながらやってたんですが、とうとう見つからないんです。で、一度、映画を断念しようと思った。だけど、ないのならないということを、みっともなくやっても、もしかしたら映画になるかもしれないなんて思って。結局、ネタを捨て切れなかったんですね。
岩淵 自分一人が見たいという欲望のために、あとの全部の人間を殺すかもしれないというのはエゴイズムですよね。だけど、そこを居直っちゃってね、オレが見たいだけじゃないんだ、大衆の九九パーセントが見たいんだ、という形で、エゴイズムを群の意志として正当化しちゃう、そういうつなぎ方。そういう視点もあると思うのね。エゴイズムなら自分勝手にだけど、大衆の代表だというふうに切り変える。
長谷川 あ、そうなんです。そのときもひとつ思ったのは、ヤツがヒーローになってしまうということなんです。ラジオのディスクジョッキーなんかがしゃべってるうちに、なんとなくリアリティがあるという感じになってきて、次第にヒーローになっていく。ヒーローになって、それについてくる有象無象どもを、つまり、大衆を、ヤツが大量にドーンと殺しちゃう、そういう設定も考えたことは考えたんです。しかも、最後まで主人公は死なないワケです。ヤツを殺せば、またいままでと同じドラマになるだけだから。そしてたいした怪物でも奇型児でもないヤツが、つまり、自分で怪物になったわけじゃなくて、時代が時代だから奇型児的に生きてしまっている人間が、そのあともどこかで偉そうに生きていると、また次も何かを作るかもしれないと、そんな顔をしているところで終わるようなことをやりたいとも思ったんです。しかし、そのときの大衆というのが、これが一番描きづらいんですよね。「ガンバレ9番集会」なんてのが開かれて―主人公は自分で世界で9番目の核保有者だということで9番を名乗るんですがそこで「我らが9番、バンザイ!」なんて大衆に言わせても、なんか寒くてね。
岩淵 しかし、ああいう状況というものを考えてみると、彼の意図とは関係なく、大衆の中によく言ってくれた、この要求のためならオレも本当に死んでもいいぞ、みたいに考える連中が必ず出てくると思うのね。心情的支持者。親衛隊がね。
長谷川 ただ、いまはそういう、良くも悪くも突出した存在に何か託するという心情は薄いんじゃないかなあ、逆に。
岩淵 やっぱり良識に負けるかな。(笑)
一人一人の視点を生かす
山田 戦争中の体験というのは、自分だって小学校五年生のときに敗戦ですから、そんなにないですよね。ないんだけれど、「Uボート」を現実だと思うような世代がいることを知ると、ないなりに伝えるものがあるという気がする。じゃあ、それを子供にどう伝えるかと言うと、長谷川さんがさっきおっしゃったように、チャーミングじゃなきゃいけないと思うんです。説教してたって始まらないわけで。じゃ、そのチャーミングとはどういうことかと言えばそれはやはり生き生きと現実をとらえているということなんじゃないか。どんなにネガティブな意味しかないもので、現実を描かないのはよくない。しかし、僕は、戦争というものを一番突出した部分でとらえる「U・ボート」のようにああいうとらえ方はやめたい、よさなきゃいかん、というふうに、個人としては、思ってます。とても呑気だったり、静かだったり、あるいはうまくいっちゃったり、そういう部分も戦争にはあるわけです。平時には味わえないいい思いをしちゃったりね。そういう部分も踏まえなきゃいけないと思う。まあ、それだけ描くというのは、また片寄ってしまいますけど。
山田 そうそう。
岩淵 トップクラスの戦争劇ではなくて、庶民のクラスの戦争というのが問題だと思うんですが、そういう意味では、ちょっと古いけれど「私は貝になりたい」にも僕は疑問があるんです。つまり、彼は可哀想な被害者には違いないけれど、同時に盲目的にそれをやったことについての反省が足りないわけですよ。庶民の共犯者としての自覚というか。まあ、そこを"可哀想にしちゃったからウケた、ということはありますけど。でも、あの精神構造、つまり殺しているときはなにも疑問を持たなかったということには、なにかワンポイントが欲しかったな。これは戦時中の自分への反省も含めて言うんです。それは戦後の検証の問題ともつながるわけだけど。
長谷川 被害者を描いている限り、つまり、被害者としてしか作家がそれを認識してない限り、僕はやはりダメだと思うんです。加害者を描かなきゃ、それも加害者の魅力を描かなきゃ。そういう意味で、僕は、ナチスをきっちりと魅力あるように描いた映画を一回見せたらどうだ、という気がしますね。そしてそれと一緒に、映像が許すギリギリ範囲内の、いや、むしろ、ちょっとオーバーくらいの加害行為の具体的な写真を見たい。いままでの映画のようにソフィスティケートされていなくていいから、加害そのものの。高見順の「いやな感じ」のラストで主人公が中国人の首を切り落とす描写がありますが、あれは衝撃的だった。つまり、加害者がいるから被害者もいるわけでね、それを、すべて被害者のような顔をして、「かつて悪い人がいました」「時代が悪かった」みたいな形で出してくるのは、僕はウソだという気がする。その時代を形づくってきたのは、当のその被害者だと思っている人たち自身でもあるわけだから。そのへん、岩淵さんのおっしゃるように、検証のなさだと思うんです。
僕の親父はね、老年兵というのでもないでしょうけど、僕がお腹の中にいるときに出征して、そのときは名前を「国彦」とか「勝利」とかいうふうに考えていたらしい。ところが、生まれたときは戦争が終わっているわけですからね、そこで簡単に「和彦」に変わるわけです。(笑)僕らの年は、和彦・和子というのが圧倒的に多かったですよ。二十年二十一年で終戦をあいだにはさんでいますからね、名前を見ると、戦前戦後かわかるんです。で、これなんですよね、大衆は。平和になったから「和」をつけるんです。ウチの親父なんて、ごく普通の、まあ百姓の次男坊が農協に勤めて、「わしは赤じゃなかったが、ピンクじゃった。ピンクで一度ぶちこまれたことがある」というふうに自己検証するような男でしたけど。彼は戦後、僕らが子供であったときに何かを与えてくれたかと言えば、ウソだけはつかなかったけれど、与えるものなんて何もなかったですね。で、それは、いまの僕と子供との関係に近いですね。ないんですよ、何も。自分より弱い人間は殴っちゃいけない、出されたご飯は全部食べなきゃいけない、これだけですよ。(笑)うちの家訓はこの二つだけ。あとは自信を持って子供に言えることなんて恥ずかしながら何もないですね。山田 この頃、自分史という言葉がはやり出してますけど、そういう視点がもっと必要だと僕は思うんです。「Uボート」の場合は、その視点がないでしょう。あそこには情報部の将校がいて、彼が映画の視点と言えば視点なんだけれど、あの視点は自分史というようなものではない。通念、概念です。ああいう視点で戦争を描いちゃ、やっぱりいけないんじゃないかと思うんです。
国家というのはその気になれば個人をつぶすのなんてなんでもないわけでしょう。いまはなんとなくそういう部分をあまり考えないで済んでますけど、新幹線を通すから立ちのけ、というようなことだって、むろん以前とは違ってきてはいるけど、それにしたって結局はほとんど個人のほうが負けていくわけだし。僕はかつて強制疎開で住んでいた家をとりこわされた経験があるんですが、ああいうときの国の力というのは、斜に構えたり、蹴とばしてみたり、ヒロイズムでどうこうしたりしたって、そんなものとも思わない強さですよね。そういう国の権力の強さというものを、まず思い知らなきゃいけないと僕は思う。いま、もし、突然徴兵制を施行すると言われたら、それに抵抗できる人がはたしてどれだけいるか。僕は多くの人ができないだろうと思うんです。そのとき自分はどうするか。個人のレベルで何をするか、人格、知力を持っているかと考えるようなことが割合現実をとらえる重要な鍵になるような気がするんですね。
小田実さんは署名用紙に署名することはものすごく勇気のいることだと言うけれど、僕はむしろ、いまの時代は署名することが実に容易で、容易すぎてこわいくらいだと思う。「反核」だとか、あるいは「人種差別反対」をだれかが叫んで、「みなさん署名して下さい」と言う。それに署名することは実に簡単です。だけど実際には、営々と人種差別は続いているし、わが内なる人種差別もあったりして、そこでいろいろ苦労してるわけですよね。そこのところをパッと単純化してしまう人が出てきた。みんなが署名して、しないやつはだれだ、なんて言う。しかし、現実はちっとも動いていかない、その不気味さというかな、そういうことをとの頃とても感じるんですね。
いま、徴兵制が敷かれたら
長谷川 署名と言えば、お二人にダメな若者が聞きたいんですが(笑)、選挙の投票というのを、僕、一回もしたことがないんです。それは信念があってそうしてるわけではなくて、オレがしたからってどうなるわけでもないだろうという気分と、単純にめんどくさい、まあ、それがベースだと思っていただければいいんですが、残りの二、三割尻理屈みたいなことを言えば、僕なんかがむしろ夢想するのは、投票率が五パーセントを割ったりしたら、国家の側もいほど偉そうにしてられないだろうということなんですよ。それは社会党も共産党も含めて、ようするに既成の秩序というものが多少はショックを受けるだろう。まあ、それでも選挙は成立するんでしょうけどね。いまは悪くても五、六〇パーセントはいくわけでしょう。それはベストというよりもベターを選ばなければ、という参加の仕方がほとんどだと思う。しかし、つまベターだと思ってやることが、結局は秩序に貢献してるわけで、みんなも一度投票なんかやめてみたらどうや、と思ったりするわけですが、お二人はやはりされるんでしょうね。(笑)
岩淵 僕は律気だから行きますけど。(笑)その場合、例えば投票率が二〇パーセントを割ったら選挙は成立しないということを制度化するとか、そういう運動を同時にやるんなら、積極的に行かないということはありますよね。少々、図式主義者的だけれど。
長谷川 いま選挙に行かない人って、三、四割はいつもいるわけでしょう。それ、たぶん、みんな、僕みたいなものですからね。たいして理念はないわけですよ。理念がくっつくと、つまり行かないことにもまた意味がある、みたいになっちゃうと、それじゃ、行くのも行かないのもどっちでもないのはないの?みたいにすぐなっちゃう連中なわけだから。ようするに、めんどくさいから行かないという人も含めて、あんなものはどうでもいいんだ、あんなものはわしら信じとらん、という一つの意志表明には違いないと思うんですよ。
山田 それは原則として現体制はいかんという姿勢の発言だと思うけれど、ところがいまの多くの人たちは、日本はよくもここまで豊かに平和にやってきた、という意識のほうが強いわけね。そういう人たちに、選挙に行くな、そうすると政府はジタバタするぞ、と言ってみても、なぜそんなことを言うのかよくわからない、という人のほうが僕は多いと思うな。
長谷川 だから「行くな」と言っちゃダメなんですよね。みんななんとなく行かないというね。(笑)それがさっきから僕の言ってる一番ダラシない抵抗の仕方、というか、理念をかざさない抵抗の仕方でね、もし僕が生きてきた生き方の中に何かあるとすれば、それは例えば投票なんか行ってやらないということだと思うわけです。まあ、これも、こういう場所だからこういうふうに言ってるだけで、要はめんどくさいから行かないんでしょうがね。(笑)ただ、そのめんどくさいという大衆の感性の中にーー僕も大衆の一員には違いないわけでーーある正しさが、ネガティブなんだけど、あるような気もするんですね。だから、みんなで投票を棄権しましょう、という運動がおこったら、僕はむしろ困っちゃうわけです。僕は運動も信じていなければ、さきほどの署名も信じてない。かといって、いまの自民党政権、いまの秩序みたいなものがいいというわけでもない。だったら、むしろワーストではない比較級で言えばワルぐらいにやらせといたほうがひょっとしたら面白いんじゃないか。なにか、どういうんだろうなあ、よっとうまく言えないんだけれど・・・・・・。
山田 バランス感覚で?
長谷川 ええ。だから、彼らが一番傷つくのは、革新と言われる政党にみんなが投票して、それとせったりすることではなくてむしろ全投票率が二〇パーセントを割ったりすることのほうが怖いんじゃないかという......。
岩淵 でもね、ベターだと言うなら、革新が迫るということも一つのダメージではあるんじゃないかな。だからそれは選択の問題で、イデオロギー的には必ずしも革新政党を支持してなくても、バランス感覚で投票するということはあると思うな。それ戦後民主主義”と言われてしまうと、もうしょうがないな。そうなんだ、僕は。(笑)
長谷川 うん、やっぱり戦後民主主義だと思う、それは。(笑)
岩淵 ただ、はっきり言っちゃうと、長谷川さんのもややええかっこしいだという気もするな。(笑)
長谷川 いや、ええかっこしいじゃないですよ。ホント、全然ええかっこしいじゃない。(笑)ノンポリで石投げてるときは多少ええかっこしいはあった、ある種のヒロイズムはあったと思うけど、ホント、いまなんてひどいもんですよ。投票日なのに二日酔いで二時三時に起きて、子供に「今日は投票日なのにウチは投票にも行かなきゃ、僕らを連れて遊びにも行かないのか」なんて問いつめられてね、「いいんだ。オレンちは行かなくて。うるさいな、お前」「だけど、学校で投票は行かなきゃいけないって言ったよ」「うるせえな。学校の教師とオレのどちらがお前に飯食わしてんだ」(笑)これはもう、ほぼ浮浪者の家庭ですよ。だけど、そんなふうにしか言えないけど、オレにも一分の理由はある、という気持がどこかでしてるんですね。
山田 大衆がどこかでなんとなく政治活動というのがちゃんと機能していないと感じていて、で、みんながアパシーになっていくことが何かを動かすのではないかということですよね。
長谷川 無視するというね。それはテープを切らないということに近いと思うんです。
山田 でもねえ、僕はそんなことはまずないんだろうと思う。
長谷川 ないでしょうね。ないんだろうなあ。残念だ。(笑)
山田 希望としてはわからなくはないんだけれど、僕は現実にはないと思うな。
岩淵 国家の力でなしくずしに徴兵令を施行して有無を言わせないという過程は、やはり、絶対過半数がさらに増えていけばいくほど可能性が高いわけだから......。
長谷川 それが戦後民主主義だと僕は思うんだな。(笑)
岩淵 しかしね、ダメだと言われるとやはり抵抗したくなるんだけれど(笑)、第一次大戦からナチスが出てくるまでたった十五年でしょう。ところが、こちらはとにかく、三十五年もたしたんです。さきほど山田さんもおっしゃったけれど、前は強制疎開と国家に一言言われれば人民は何も文句を言わず土地家屋を手離したけど、ともかくいまは高速道路を通すにしろ飛行場を作るにし土地購入代がたいへんなわけでしょう。やはり庶民がそこまで要求できるまでに成長したんで、全然ダメだと言われるとやはり心外なんだな。(笑)ただ、ワイマール共和国十五年の三倍周期の四十五年くらいになって日本でもガタッと反動がくるんじゃないかと心配なんだけど。とにかく、その"全然ダメをどうにかしたいと、僕は投票に行くんだよ。
長谷川 そう言われるとよくわかりますがね。みんな、あんま言ってくれないから。なんだか全共闘時代の、良き教授と良き学生のダメな対話みたいになってきたなあ。(笑)
山田 いまのままでなしくずし的に行けば、もし自民党が徴兵制を本気で施行しようと思えば、僕はできると思うんです。議会のレベルでは。そのときに、どれくらいの人間がはたして徴兵忌避ができるか。運動でなくて個人的な動機でいいんですけどね。それぞれに逃げ回ったり、病気になろうとしたり、醤油を飲んだり、そういうことをどれくらいの人間がするかということが、戦後の答だという気が僕はする。
長谷川 僕は十パーセントも本格的な抵抗はしないと思うな。その場合もう一つ怖いのは、西独の徴兵制のように、「良心的兵役忌避者」という制度をまず残すだろうということね。するとみんな、簡単に良心忌避者で逃げようと考えるから、なお抵抗が薄くなる。逆に徴兵制は敷きやすくなると思うんだな。だけど、この良心忌避というのは実にむずかしいテストがあってね、実に論理的に忌避の理由が言えなきゃだめなんだ。生半可なことでは逃げられない。向こうの場合はまだキリスト教というのがベースにあるから、宗教的理由から、というのも論拠になるけど、日本人がそのテストを受けたら、もうほとんどの人がイチコロじゃないかな。僕はむしろこれが非常に怖いですね。
山田 戦争や政治にほとんど関心のない人でも、自分の生活がある種の豊かさで営まれていれば、それが侵されると思ったとき、人は本気でそれを確保しようとしますよね。そういう豊かさを、各自がどれくらい持ってるか、という問題が僕はあると思うんですよ。つまり、原爆は持ったけれど、さて何を要求しようかと思ったときに何も要求するものがないということだと、僕はやっぱ取りこまれちゃうと思うんです。
長谷川 それはそうですね。たいてい僕なんかも行ってから考えようと思うだろうな。つまり、まず逃げる手だてをすべてやってね、監獄行きはいやだから、合法的に逃げる手だてをすべてやって、その上でもう逃げる手はないとなったら、とりあえず行こう、となるだろうな。行って、一応もの作りのはしくれだから、行って見てこようと思うだろうな。あれ、だれでしたっけ、『裸者と死者』を書いた・・・・・・
山田 ノーマン・メイラー。
長谷川 彼が小説を書くためにオレは行ったんだと言った、そういう言い訳なんかを二割くらい持ちながら、まあ、行くんでしょうね。
岩淵 良心忌避者というのはね、兵役の代わりに社会事業をやらされるわけですよ。その社会事業というのは清掃事業であったり相当しんどかったり屈辱的であったりするわけだ。そうすると一年義務兵役をやったほうがある意味でラクなんですよ。兵役忌避を最後まで貫くというだけのハリをいまの若い人たちが日常生活に持ってるかどうかとなると、ちょっと心配なんだな。
山田 たぶんないですね。ないという気がするな。
いじいじと生きつづける
長谷川 また戦後民主主義の話になりますけど(笑)、一番ダメだったと思うのは、教育ですね。僕らが子供の頃の教育はようするに何もなかったですよ。いい先生に当たれば、その先生がなにかある自分の理念みたいなものを持っていれば何か授かりましたけどトータルには何もない。ところが、いまはもっとひどくなってますね。完全に国家の秩序の中に組み込まれている。僕ぐらいいい加減に生きている人間でも子供の成績が悪かったりすると気になったりしますもん。やっぱりすごい頭が痛いですよ。二人子供がいて、片方はまあまあなんだけど、もう一方がひどい点数を取ってくるわけね、テストで。僕はそこそこ出来た生徒だったから、ホントに見たこともないような点数の答案用紙なんですよ。そうすると、ついついフリークを見るような目で自分の子供を見ちゃうのね。どこかさげすんだ目で。女房が半ベソかいて「ゴジーー僕のことですけどーーに見てもらいなさい」なんて言うもんだから、そういう答案用紙を前に、いきあたりばったり「何やっとんじゃ、お前は」なんてやるわけでしょう。そうするとわかってなくはないのね。言えばわかるわけ。「じゃ、なんで書かなかったんだ」って聞くと「最初のを考えてたら時間がきちゃった」って。ようするに要領が悪いんだけれど、そういうのを見てると、ついつい「要領よくなれ」って言いたくなっちゃうわけね。「いまは何になるんだって試験があるんだぞ」って。だけどどこかで、こんな受験システムの中で優等生になってもロクな人間にはならんぞと思ってるから、そうも言い切れなくてね、どうしてやればいいだろうって、ホント、もうわかんないですよ。
山田 いま、学校の成績というのが唯一の価値基準みたいになってるでしょ。ほんとはもっといろんな価値の基準ができてくればいいんだけど、やはり戦後民主主義というのは僕なんかもどっぷり戦後民主主義なわけだけど��たてまえ人間を作ったんですよね。僕は��たてまえ"というのはそう嫌いじゃなくて、みんなが“本音”ばっかりになったらやりきれないと思うんだけど、しかしそれにしても”たてまえが少し勢力を持ちすぎと言うかな。「フランス軍中尉の女」という映画の中で、処女なのに処女じゃないと思わせて、回りから非難されることに快感を覚えるというような、普通の理屈で考えればなにがなんだかワケわからない、そういう人間のある種の真実ですね。そういうもの戦後民主主義の視点だとなかなかとらえられないというんでしょうか。で、そういうのをもっと多様化する役割を、映画や小説は持っていると思うんです。ところが、そういう複雑性を大切にするという力がこの頃実になくなってきていて、文学者までがばっと一つに統一されてしまうわけでしょう。そうなると、逆に抵抗力がなくなるんじゃないかという気がするんだな。もっとみんなくだらない、細かいところでジタバタしていくことをバカにしちゃいけないって気がするのね。
長谷川 僕なんか、自分のことはもうしようがない、もうここまで来ちゃったんだから、どうせなるようにしかならないだろうなんて思っているけれど、自分の子供を見てると、ダメな親父にしろ、何か与えてやるものがないということにちょっと困ったなあという感じがありますね。正直言うと、それもまあ、しゃあないか、とも思ってるけど。(笑)でも、それはこっちの立場の問題でね、やつらもやっぱり困るだろうなあ、なんて。できるほうの子なんて、もう僕に向かって説教しますもんね。なんてダメな親父なんだって感じで、体制是認の説教を。(笑)星飛雄馬の父のような立派の父親になって怒ってあげたほうが子供はうれしい部分もあるんでしょうね。しかし怒ることもできないでいる人間もやっぱりいるわけよね。
岩淵 僕は星飛雄馬パターンというのは大嫌いで、つまり根性ものがダメで、それならむしろダメ親父のほうがずっといい。
長谷川 そういう意味じゃ、ダメ親父の最たるものですね、僕なんか。しかし、ダメ親父も悩んでおるのですよ。(笑)
山田 でも、子供というのは、親が思うより勝手に生きていくと思うのね。
長谷川 まあ、自分の子供の頃を考えればね。
山田 だからむしろ僕は、自分はもうしようがない、と思わないで、自分がどういうふうに生きていくかということね、やはり自分の問題だと思うんですよ。で、僕個人のいまの課題としては、仕事がなくなる決心、というかな、すたれる自由というかな・・・・・・
長谷川 それなら僕は既に実行してるんだよなあ。(笑)
山田 前にちょっと書いたこともあるんですが、浅草という土地がどんどんさびれましたでしょ。しかし、あれは、さびれる以外に自分の存在を確保していく方法がなかったという気がするんですよ。もしあの街が高度成長と一緒に発展していったら、吉祥寺やなんかと同じような街になってしまう。さびれる以外に己を保つ方法がないというさびれ方というのがあるんじゃないかと思うんですね。いまの仕事で食っていけなくなる決心というのは、とても個人的なことだし、一種の敗北主義かもしれないけれど、しかし、そういうことをいろんな人が考えていくというのは、やはり大事なことなんじゃないかと僕は思うのね。
長谷川 僕もさびれきるしかないのかなあ。もう少しだ。(笑)いや、それは、ホントに自信を持って言えますね。去年は久しぶりに年収が二百万くらいでね。まあ何もしてないからしようがないんだけど、三十六の、子供が来年は中学にはいるという人間の収入じゃないですよね。限界にくると、じっと手を見たりして。(笑)オレも一人じゃないんだから、何かせにゃあかん、なんて考えますね。自分のやりたいことに、別に他人とそんなに差があるとは思えないんですけどね。映画なんて所詮はどこかで芸人であって、芸術家とは違うんだから。受けなきゃダメだと思ってますから。すると、理念がないだけにね、飢餓に対する理念がないだけに、やっぱりポチポチ淋しくなってきたりするわけですよ(笑)子供がね、この前一緒に風呂に入っていたら「よそのウチの手のお父さんは大黒柱だけど、ウチは小黒柱が二本だね」なんて言うんだよね。(笑)ここまでバカにされれば、オレはきっと父としてはいい父親に違いない、なんて思ったりもするんだけど、それは風呂の中であったかくて、やや余裕のあるときでね、寒いプラットホームに立ってたりすると、「あのヤロウ、小黒柱と言いやがった」なんて思ってね、くらーい気持になるね。(笑)どうしたらいいんですか、先輩。僕はどう生きればいいんですか。(笑)
山田 僕はここ五カ月くらい仕事をあまりしないで過ごしてみたんだけれど、やはり十数年、書きづめに書いてきたでしょ、そういう仕事をする癖がついてるから、最初ものすごく変になりましたね。不安で不安でしょうがない。ところが、しばらく経つとだらけてきて
長谷川 慣れますか?
山田 ええ。それはつまり食っていけないわけじゃないから、というせいもあるんだろうけど。戦後民主主義かどうかわからないけど、戦中、戦後を暮してる人間はなかなか越の金を使えないんだよね。僕も芸人で食えたら食いたいという気持もあったけれど、結局コンスタントな収入が何かないと不安で教師をやめられないみたいなところがある。なにか、われわれには明日はどうでもいい、というのがないんだよ。これはまあ、僕の性格のせいもあるかもしれないけど。
長谷川 ややリッチになり始めた頃に物心ついた僕らの世代とはやっぱり違うのかもしれない。
山田 それは違うでしょうね。食えなくなるのは、やはり僕は怖い。
長谷川 僕なんか非常に刹那主義的で、例えばウチの全財産が銀行の預金まで入れて一万円しかなくても、それでみんなでうまいもの食いに行っちゃうもんね。で、次の日はラーメンでつなぐみたいな。
山田 それはでも、やはり戦後の歴史が支えてるんですよ。経済的な繁栄の
長谷川 そのおかげで僕らはそんなふうに野放図に生きられる・・・。
山田 そう思うな。だから自分で生きてるような気がしていてもどこまでそうなのか心もとないのね。経済や政治情勢がパッと変わればそれで簡単に変わってしまう、気持まで変わってしまう、というようなものだと思うんだな。ミニスカートがはやり出した頃、僕はずいぶん上まで見せるな、ウワちょっとはしたないな、なんて思ってたのに、少し経ってひざ下までのスカートをはいてる女を見ると、なんてかたくなな女だ、なんて思うのね。(笑)それほどに、自分の感覚だってインチキなんだな。だから、みんな実感実感と言うけれど、その実感というのもすごい不安定なもので、信じがたいものだと思うし、その実感とか自分の感覚とかを頼りに現実を見るなんてことも、それほど安心できることではない。かといって、何か確固とした理念があるわけでもない。ある意味では長谷川さんとは違う生き方だけれど、何か非常にダラシのないところで、その場その場でいじいじやってる。自分をひっぱたきたいですね。
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