新しい潮流の中で助監督時代相米さんとの出会いはいつですか?榎戸 一九七六年の「青春の殺人者」です。まだ僕はこの世界に入りたてで長谷川組の制作部についていたのですが、そこに相米さんがセカンドの助監督としていました。いろいろ用事を言いつけられたりするうちに知り合ったんです今から二十六年も前の話です。
その後、相米さんの助監督になり、ずっと仕事をしていくわけですけど、やはり、どこかウマが合ったんですか?榎戸 単に、僕が使いやすかったからじゃないですか(笑)。
『青春の殺人者」のチーフ助監督はどなただったんですか?
相米さんはフリーの助監督になる前、日活撮影所で助監督をやっていましたから、僕の中にそういうプロの助監督につけるという意識がまずあったし、それ以上に、映画の現場で仕事をしていく上で、その渦中にいたいという思いが強かったんです。「青春の殺人者」で長谷川和彦さんやキャメラマンの鈴木達夫さん、技術の方々と出会い、長谷川さんの次の『太陽を盗んだ男」(79)へと紆余曲折しながら流れていくうちに、キティ・フィルムの多賀英典さん、プロデューサーの伊地智啓さんや東映芸能ビデオを立ち上げた黒澤満さんとも知り合う。「青春の殺人者」で出会った助監督の矢野広成がきっかけで、佐々木史朗さんとも出会うようになる。そういう映画界の目まぐるしい動きが当時あって、その中にいること自体にある興奮があったんだと思う。撮影所とは違う形で、町場の製作プロダクションにある種のベクトルが向いていて、その中でフリーの監督としては、やはり長谷川さんがトップランナーだった。そのトップランナーの近くにいれば、いろいろなことが見えるだろうと、若い僕がそう思ったように、相米さんも、多分、自分の立つ位置を探したいという意識で長谷川さんと一緒に日活を飛び出したと思います。榎戸 石山昭信さん。セカンドが相米さんで、サードが矢野。平山秀幸が僕と同じ制作部。製作担当が浅尾(政行)さんでした。石山さんも日活出身でしたから、当然、現場では何となく日活の神代辰巳さんや藤田敏さんの名前が聞こえてきたり、根岸吉太郎さんや池田敏春さんなどの同時代の日活のホープの名前も出てきて、若い僕らはわくわくし、映画界に新しい潮流が現れてきたと感じていたんです。
寺山さんの何の作品ですか?
それで「青春の殺人者」が終ったあと、石山さんが「はだしのゲン」(77)という映画にスタッフを全員連れていってくれたんです。ただ、鈴木さんや栗ちゃん(栗田豊通)たち撮影部は長谷川さんと、キティ・フィルムでミュージッククリップなどの仕事をやったりしていて、その頃です、鈴木達夫さんの引きで相米さんと僕が寺山修司さんの現場へ呼ばれたのは。榎戸 七八年に撮影した「草迷宮」です。相米さんはチーフ助監督で、頭の段取りを全部して、現場にもいましたが、仕上げの時は村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」(79)をキテ・フィルムが製作していたので、そちらの応援に行かざるをえなかったんです。僕はそのまま残って、その後もずっと寺山組をやることになったわけです。
そのあと「太陽を盗んだ男」になるのですね?榎戸 「青春の殺人者」から「太陽を盗んだ男」までの間に、相米さんが助監督としてクレジットされているのは「草迷宮』だけだと思う。「限りなく透明に近いブルー』は撮影後半から仕上げにかけて、編集などいろいろと相談に乗ってあげていたようですけど。相米さんは、長谷川さんのようにリーダーシップをとるタイプではなく、何となく参謀タイプでしたから。
この当時の相米映画も、子供や新人を主人公に使い、芝居というよりは彼らの身体性によって観せてますね。
『太陽を盗んだ男』では、相米さんはチーフで、僕がフォースでした。「青春の殺人者」から「太陽を盗んだ男』までは三年以上もかかっているんですが、この間、僕は相米さんと公私共々ずっと一緒にいて、最もいろんな話をした時期だと思います。彼の経歴や映画の話などをつぶさに聞いたのもこの頃です。
『青春の殺人者』の撮影中。彼の叔父さんが亡くなって現場を離れた時があって、その時、青森県の村(三戸郡田子町大字相米)の話を聞きました。相米さんは、生まれは岩手県の盛岡市ですが、お父さんが相米村の村長さんみたいな方で、小さい頃は、その叔父さんの家でよく遊んでいたようです。相米村には僕も相米さんの納骨の際に訪れたのですが、とてものどかでいい田舎でした。相米川という川まであって何か相米さんの原風景を見たような気がしました。
監督としての出発点
相米さんに一本撮らせるという話が「太陽を盗んだ男」の時に出たようですが。榎戸 本当に最後の頃だと思います。「太陽を盗んだ男」の仕上げと小物撮影(新聞記事など)が重なっている頃に、「今度、俺、撮らなきゃいけないんだ、それもマンガなんだ」という話しました。それが「翔んだカップル」です。薬師丸ひろ子主演の、いわゆるアイドル映画ですよね。
そういう映画でのデビューを、相米さんはどう思っていたのでしょう?榎戸 多分、抵抗があったと思います。相米さんは自ら語っていますけど、自分が育った日活ロマンポルノという環境も含め、男と女のナマな話をやりたいと助監督時代から考えていたらしいんです。ところが、実際に撮れと言われたものはコミックが原作だった。つまり、撮りたいものと撮らなければいけないものの差みたいなものにデビューの段階でぶつかったわけです。その時、相米さんは撮りたい素材と撮らなければいけない映画との距離をどう埋めるのか、それを考えることが演出なんだと言っています。それが自分が監督として一番最初に考えたことであり、自分の監督としてのスタートだったと。
確かに「翔んだカップル」というのは、アイドル映画でありながら、妙にエロティックで、「男と女のナマな話」という印象がありますね。
中略
型にはまった演技を壊すために何回もリハーサルを重ねたんだと思うんです。もっと自分の身体を信じなさいと。
多分、相米さんはロマンポルノの出身ということもあって、まず「肉体・身体」というものが出発点にあったと思います。肉体・身体を映画の中心に置くという......。ロマンポルノの女優というのは、演技的には素人であっても、肉体という確かなもので観せている。榎戸 「セーラー服と機関銃」でも薬師丸さんに無謀なことをやらせ、次作の「ションベン・ライダー」になると、スラップスティック的な肉体の横溢そのものです。ほとんど、キートンばりのことをやらせていたわけですからね。「飛び込め」とか「トラックに飛び移れ」という感じで、永瀬正敏君なんか、終ったあと「生き延びた!」なんて思ったんじゃないですか(笑)。相米映画における肉体・身体の問題、役者にあんなバカなことをやらせていたことって、一体なんだったのかは、あの作品を観るとよく判ります。材木置き場のシーンなどに、そういう面が端的に出ていると思います。
ションベン・ライダー」になると、相米さんの「基本スタイル」がさらに進んだ印象があります。先ほど話に出た材木置き場の長回しなど、極端にそういったスタイルが出ていますし、おそらく全体が長すぎるので切らざるをえず、映画の途中で永瀬正敏がパタッと消えてしまう。挙句の果てにストーリーをつなげるために字幕が出てくるわけですけど......。
実はあの貯木場には東南アジアからの材木がたくさん置いてあって、毒ヘビなんかがいっぱいいたらしいんです(笑)。あとで聞いてゾッとしましたけど。それなのに、「飛び込め」「飛び込め」と、ドボドボ飛び込ませて......。みんよく噛まれなくてすんだ(笑)。榎戸 あの時は、相米さんから「つながるように、どういう字幕を入れればいいか考えろ」とか言われましたよ(笑)。
それで自分の想像する映画作りをしようということで「ションベン・ライダー」を撮ったわけですか。
これは非常に興味深いことですが、相米さんは、自分が「ションベン・ライダー」に向かっていったエネルギーは、実は「セーラー服と機関銃」が大ヒットしたことによる不安の現われなんだと言ってるんです。監督として自分が想像していた映画作りと実際の映画がズレているにもかかわらず、多くの人に受け入れられてしまったことが非常に怖かったんだと。榎戸 そうです。相米さんは「セーラー服と機関銃」という映画を作る上で、自分が最も重要だと考えていた映画の要素を捨てていたのではないかという反省があったと言っています。つまり、映画とは何かということなのですが、まず第一に、それは映画の「技術」の問題です。もちろん、映画には役者や脚本が持っているおもしろさもありますが、映画の「技術」が担う要素なかでも特にキャメラの「技法」を考え直したいと思っていた。おそらく、その技法のひとつとして「長回し」が出てくるのでしょうけど・・・
中略
・・・ディレクターズ・カンパニーも相米さんにとっての「共同体」だったのでしょうね。榎戸 そうですね。「台風クラブ」はディレ・カン製作ですけど、ディレ・カンというのは、ある意味では相さん的な、撮りたい題材とらなければならない映画の間にいるという問題にさらされた監督たちが集まって作った組織ですからね。そして、自分たちが本当に撮りたいものを撮ろうということで出てきた企画が「台風」ですから。「台風」はディレクターズ・カンパニーが募集した脚本作品でしたが、当時、ディレ・カンで仕事をしていなかった相米さんとしては、この脚本をすごく気に入り、とても嬉しそうに僕に見せてくれたのを覚えています。でも、ディレ・カン製作でしたから資金的には結構大変でした。
「台風クラブ」は、公開の問題でもずいぶ苦労したようですけど。榎戸 しました。・・・・・・まあ、東京国際映画祭で賞をとりましたけどね。ただ、「台風クラブ」を作ったことで、ディレ・カンという組織としては、ツケを作ってしまった要するに運転資金や借金の問題が出てきて、「ラブホテル」を撮らざるをえないという現実に直面するわけです。ですから、予算的にも日数的にも相当厳しかった。僕が相米さんについた仕事で、シーンを切っていいと言われたのは「ラブホテル」が最初で最後。この予算とスケジュールでは撮すごい。れないということで相米さん自身が切ったほどです。とはいえ、そういうシーンはスケジュールの最後のほうに回すなどの配慮を僕はしましたけど......。
しかし、リハーサルの連続や「ションベライダー』の材木置き場の長回し、『雪の断章」のスタッフ百人での撮影、そして「台風クラブ」の雨、風 苦難苦闘の連続でしたね。
それにしても、「台風」も「ラブホテル」も、あの予算と日数でよくできたと思いますよ。「台風クラブ」は「台風」なのに、撮影中、一滴も雨が降らなかったんですから(笑)あの映画のスタッフは、それまでと編成が少し変わっているのですが、ともかく特機の力は、すごい。榎戸 よく頑張れたものだと今になって実感がわいています。それができたのは、やはり相米さん流のスタッフワークとスタイルがあったからこそだと思います。つまり、長回しにしても、雨風にしても、何にしても、その根本には、相米さんの映画への愛と問いかけ、映画とは何かという追求が常にあって、相米さんはすべてのスタッフをそこに巻き込んでいった。その意味では、相米組というのはひとつの疑似撮影所、映画のための「共同体」そのものでした。(二〇〇二年七月二十三日)
この相米慎二特集号を編むにあたり、相米映画に携わった方々、そして演じ手の皆さま、さらに彼の映画を愛してくださった方々に寄稿を依頼し、短い期間にもかかわらず、それぞれ心情溢れる、映画人としての生の声を頂戴しましたことに、とても感謝しております。本来ならば、スタッフ、キャストすべての皆さまに相米を語って頂きたいところでしたが、誌面の都合など当方の判断にて依頼し、原稿をお寄せ頂きました。
その際、相米の不在を未だご自身のなかで認められず、言語化することばの隙間から思いが零れ、致し方なく筆を置いた方もいらっしゃいました。その心情もまた、相米を語る痛切な声であろうと受け取りました。
また、誌面を表情豊かに、精緻なものにするにあたって、相米家のご遺族の方々、ならびに相米を撮り続けてきたカメラマンの安保隆さんはじめ、各映画会社多く制作プロダクションのご協力により、貴重な写真映像を使わせて頂くことができました。そして、写真入手の労をとってくださった長谷川和彦さん、相米に関する資料も田辺順子さんの協力なくしては叶いませんでした。何より、拙手の困難に際し相米映画のためと駆けつけ、ずっと編集に協力してくださった稲川方人さんの存在なしには、寄せられた思いをこのような貌に結実させることは出来なかったと思います。皆さまにはこの場をもって深くお礼申し上げます。
厳粛な死は厳粛に生きるための前提なんだ、という叫びを残し、映画という十三の階段を積み上げ、秋の陽のなか他界へと旅立った相米慎二。私たちはそのことばの意味を再度心に刻み、新しい世紀の「映画」とい地平に向かって翔び立たねばなりません。
ここに参集し、昨年九月九日に逝去した映画監督・相米慎二にことばを献じた九十九名は相米映画の証人たちです。そして、これを読まれるあなたが、次の証人として相米映画を愛してくださることを願ってやみません。
本誌を、映画を愛するすべての皆さんに捧げたいと思います。責任編集・榎戸耕史戻る