"動機づけ"と"思い入れ"テレビの「うる星やつら」を評価する宮崎氏と、宮崎作品はすべて見ているという押井氏には、世代を超えて共有する演出家の視点がある。
映画「うる星やつら」におけるパロディの見せ方
宮崎 ついさっき「うる星やつら」の劇場用を見てきまして、いくつか聞きたいなと思うことがあったんです。まず、パロディについてなんですけど、パロディというのは二番煎じでしょう、二番煎じで意味を変えるということですね。だから二番煎じにあまんじるけど、そのかわり違う見せ方をします、という、何ていうか、斬られて斬るというところがあるわけなんだけど、斬られていないと思うんですよ。設定を楽にしているという印象しかない。
押井 たぶん「卒業」のことをいわれていると思うんだけど......。
宮崎 いや「卒業」のということより、映像のひとつひとつなんです。例えば宇宙船が下りてくるとか、デザインは違っていますけど。あるいは時計塔が出てきて、その中に見覚えのある歯車が回っていたり(笑)。それがパロディだとは思えないから。むしろ設定を盗んだという感じしかしない。パロディにするなら、それは中途半ばにやっちゃいけないことじゃないかと思う。もっと自分たちの映像を大事にしなきゃいけないと年寄りじみていますけど。それが随所にあって。
押井 ただ、シリーズの方もそうなんですけど、ぼくも含めて演出はそれほどパロディを入れることを意識していなかったんです。ぼくがいつも考えているのは、映画的センスというか、アニメーションだけじゃなく、いろんな映画で蓄積されてきたセンスとか、そういったものは反映させたいと考えているだけで、パロディとわかる形でパロディをやったというのはほとんどないんじゃないかと思うんです。パロディというのは本来(見る人が)元ネタを知らないと成立しないものだと思うんですけど......
宮崎 そうですね。
押井 元ネタがわからなくても楽しいように作ってみようという意識はつねにあるんです。
宮崎 それはわかるんですけど、何かパロるのかパロらないのか、あいまいのままやっているような気がしたんです。戦闘になりかかって出撃するとき、兄ちゃんガンバレみたいなのが入って、ポーズが入っているから何かだとは思うんですよ。それが本当にいいのかなあ......。それが映画を高めているんでしょうか?
押井 ぼくのあたりは、かなり明確な意識をもってコンテを切ったんです。宇宙での艦隊決戦という、ヤマト的な設定で、その最中にラムとあたるが延々と痴話ゲンカをつづけている...というのが彼らの世界なんじゃないかと。
宮崎 でも、戦争はやってないでしょう。
押井 実際にはやらないわけなんだけど、それらしい状況になったときに、宇宙船の艦内中テンションが高まって、全員の気持ちがそうなったときに、そういうものに全然のせられない人間というんですか、あくまで自分たちの個的な意識でしか頭が回らない人間たちというのがぼくは好きなんです。これはかなり意識してやっているんですけど。
宮崎 それはわかるな。でも、あのときはラムも加担しているでしょう?
押井 まあ、そうですね。
宮崎 加担しているんであって、個の戦いがあるんじゃなくてね、無感動であるだけなんじゃないですか、戦争に対して。
押井 無感動といってしまえばそれまでかもしれないけど。
宮崎 それまでじゃないですか。キツイ言葉いっているかもしれないけど。ぼくはこういうことも気になったんです。部屋からみんな見ている、あ戦争だなあ、おもしろいなあと。この窓から見ているでしょう。テレビスクリーンじゃなかったと思うんです。ところが格納庫に入っている宇宙船のどこに窓があるんですか?格納庫の扉が開いたらその窓が宇宙船のハナ面だったとか・・・・・・そういうことを大事にしなきゃいけないと思うんですよ。何となく感じで映画を作っちゃいけないんで、その世界というものはドタバタでもちゃんと作るべきじゃないかな。あるいは、向こうに艦隊がいてこっちに艦隊がいるあの映像からすると、ものすごく近距離でしょ。で、あれだけ戦闘機が飛び出していけば、もう戦闘は起こっているはずだけど、結局、刺激するくだりだけで戦争起こさせない。むしろそこで激しく戦闘やって、たとえば帝国のために死ぬぞ~"とか"兄ちゃん~"とかいって、火を吹いて突撃したり特攻やっていて、そしたらバカな話が聞こえてきてみんな冷めちゃったというんだったら、これはある意味で強烈なパロディになると思うんです。個の争いという部分にいくかもしれない。ちょっと酷評ですけど・・・...見たばかりだから(笑)。そういうことを大事にしたほうがいいんじゃないかと思うんです。たしかにそういうことをやると作りにくくなるんですけど。その作りにくくなるところに何とかして挑むことが作品を作るときの重要なファクターじゃないかと思う。
押井 そのことに関しては、その通りだと思うんですよ。ていうのは、シリーズだとどうしてもスケジュールに流されてしまうから、まとまったものを作れるチャンスがあったら、設定を生かしたお話を作りたいとか。ひとつの設定だけでひとつのドラマを作れるんじゃないかとか、そういったことをやってみたいなあという気持ちが長いことあったんです。今度の映画の話があったときも真っ先にそれを考えたんですけどこれはちょっといいわけめくけど、実際には4か月しか時間がなくて、そこまでやり切れなかったというのが実情なんです。最初は、レイアウトを起こして、レイアウト間の予盾からまた設定を起こしてと、やっていたんですけど、最後は上げるしかなくなっちゃったということがあって。
宮崎 そういうことは、ぼくも非常によく思い当たります(笑)。コンテ段階では、あの出窓がシャトルの先端窓になっているということになっていたんですけど・・・・・・。そういうふうなところがあそこだけじゃなくていっぱいでてきちゃったんです。
宮崎 冒頭、宇宙船があらわれるでしょう。本当にいまの日本に現れたら大騒ぎになるでしょう。自衛隊でもなんでも出動してあげく結婚話だったみたいな。
押井 それはシリーズの第1話のときにやっちゃったんです。似ているんですよね、話の発端が。ああいう「未知との遭遇」みたいなのやりたくなかったというのが本音なんだけど、あれぐらいしか思いつかなくて......。結局やれたのは、出てきたのがバアさんだったということくらいで。
宮崎 1回やったこと、やりたくないですか。
押井 やっぱりいやですね。
宮崎 オレ何度でもやるけどな。手を変え品を変え(笑)。井手を変え品を変えならまだいいんですけど、手を変えていなかったので、それがイヤだったんですけど・・いつか宮崎さんが何かに書かれていたでしょう。「スターウォーズ」がはやったときに、宇宙船がカメラをなめていくシーン、あっちでもこっちでもマネしはじめてやる人間も見る人間もどっちもどっちだ"って。ぼくもそう思うんですけど......。
ラムは女のウラミがこもったキャラクター
宮崎 ぼくは「うる星」を今日見てて、やっぱり、女が作ったマンガが男の作った映画になっている、という感じがしたのね。だからあたるのほうに気持ちが入っていてラムのほうは何かわからない。自分が作れといわれたら困るだろうなと卒直に思うんですけど、例えば、ラムという女の子は、電撃をあたるに与えて、その後肩落としてタメ息つくんじゃないでしょう。コママンガだったらひとつのギャグとしてそこで終われるけど、映画は時間とそれにくっついている空間を連続して見せていかなくてはならないから、その後、肩を落としちゃうラムを入れるとシメっぽくなって...ラムというのはもっと明るい女の子のはずだから......むずかしいもんだなあと思って見ていました。
押井 ラムという娘は、結局1年半つき合っていて、わからないんですね。女の子ってわからないですね。本当のところ。あたるだと一発でわかるところがあるんですけど。最近のシリーズのラムって、どうも男好みのラムになりすぎているんじゃないかと、ある人にもいわれたんです。泣いたりモンモンとしたり......。スタートしたときぼくが考えていたラムは、どんなことがあってもアッケラカンとしている泣いたりしない女の子だと。ごく自然に、自分の資質として状況から超越している女の子だからいいんだって。また、作り直していこうと思っているんですけど。
宮崎 ラムっていう娘は女のウラミがこもっているキャラクターだから、結局わからないんですね。
押井 ええ、たぶんそうだと思うんです。それはすごく感じますね。
宮崎 女の復讐という感じがしますよ(笑)。
押井 高橋留美子のね。
宮崎 高橋留美子とその後ろに女の子がザーっといて(笑)。しょせん所帯持つしかないのか”って。・・・・・・ぼくのそばにアニメーターで、とても発想が似ている人がいたんですよ。突然、バラの花がルパンの後ろで輝いていたりする絵を出したりするんですけど(笑)。その人なんか見ている女の子のしたたかさを感じるんです。男、男ということによって発散しながら、けっして男に負けていない。男の油断のならなさを全部心得ていて、いまの女の子のバランス感覚みたいなものを感じましたね。恋のためなら死んでもいい、というんではないんですね。そのつぎ食べるカレーが辛口か甘口かというのも大事なことで(笑)。そういう生活感覚がものすごく下敷きにある。あのふたりが結婚したら、あたるのほうはオシマイだってよくわかっているから逃げまどっているんですね。飼われるだけですね、ラムに。はいアーン、ゴハンって(笑)。そうですね。やっぱり生活感覚が根底にあるのは確かですね。どんな破天荒なことがあっても、一方で夕食はちゃんととる。
宮崎 キチンとしているんですね(笑)。今日もしっかり食べましたという感じが
見る側と描く側が”時代"でつながっている作品
宮崎 「うる星」をテレビで見て、そうたくさんは見ていないんだけど、押井さんの2本くらい見たかな。面堂の家の中に攻め込んでいく話と、この前の海なんかキライだあ~~~”というの。(86話「竜之介登場!海が好き!!!!」)
押井 ああ(笑)。
宮崎 あれおもしろかったですね。作画もじつによく描いていて。あの海描いた人なんか、波なんかもよく描いていて感心しましたね。
押井 あの方は大変なベテランで、ぼくらの大先輩にあたる人(高橋資祐氏)です。
宮崎 テレビであれだけやるというのは、どういうことになるのかよくわかるから。そこらへんまではいつもやっておきたいという気持ちはあるんです。でもいろんなシワ寄せがくるんですけど。ひとつのシリーズが突出すると、どうしても他のシリーズを圧迫するし......。ただ、いままでここまでできたのに、これからやれなくなるということになると納得できない、というかいやでしかたがないですね。
宮崎 突出しても平気でしょ。
押井 結果的にはやっちゃったものの勝ちみたいなところがありますけど。
宮崎 そうなんですよ。そのとき何かいわれてもやってしまえばいいんです。
押井 劇場やっている間も落としたくなかったけど、だいぶシリーズのスタッフを引っぱっちゃって。だから劇場が終わってシリーズにもどってきたときは、一番、ホッとしましたね。
宮崎 10年前にぼくら「ルパン三世」を作ったでしょう。そのとき、作っている自分たちの気持ちにフィットするものがあったんですよ。むずかしいことを考えない、この気分はよくわかる、ということで作れたんです。自分たちが若かったということじゃなく、あの時代にルパン三世の持っていた役割というか意味みたいなものが、自分たちと世代、時代を同じくしていたから、スカンピンでみっともなくて、だけどしたたかで、フラストレーションを解消させてくれるものがあって。だから倒錯したのはやめようとパクさん(高畑勲氏)といっただけで成りゆきでワーっと作れたんです。自分たちは作画チェックもしないで、全部、大塚(康生)さんにまかせて。大塚さんはてきとうに遊びながら、ときどき逃げ出しながら(笑)。――そういうような気分が、いまの時代の「うる星」と非常に似ているんじゃないか。”ああ「うる星」はいまの世代の人たちのものなんだなあ"という感じがする。気分でやっていても、何か、見るほうと描くほうの側をつなぐものがある作品だなあという気がするんです。スタッフの間に何か共通するものがあって、同じ分母の上で仕事ができる。女の子が振り向いたとたん、髪の毛がフワッとなるというようなシチ面倒くさいことをいちいち描いているなんて見ると感心するんですよ。あれがどれだけ面倒かよくわかるから。髪の毛を別セルにして、ゆれもどしをかけたら中5枚入れなきやいけないとか。描くたびにいちいち思い入れしなければダメなんですね。この娘はキレイじゃなきゃいけないんだって。それはもう理屈を超えている。だからこの間の「海のなんとか」は、こういう手間のかかったところが随所に見られたから、しかもそれを受け入れて作っているから、制作の人たちもこの作品を大事にしているんだなあと思ったんです。
押井 ええ、それは本当に、いま制作デスクの久保真という人がよくやってくれているんです。みんなの無理も聞いてくれるし、8000枚になってもガマンしてくれる。
宮崎 それはものすごく大事なことですね。
押井 それがなければ、とうていこのシリーズのようなワガママな作り方できないですよね。
宮崎 ええ、もっとどんどんやっていいんですよ(笑)。結果的にみんなが何によってむくわれるかといえば、その作品がおもしろいか、おもしろくないかということだけなんですね。いままで演出の人をいろいろ見てきたけど、みんなのいうとおりに枚数減らしたり、現場にシワ寄せをかけまいと作った人はだれひとりとして尊敬されないです。クソミソです。作っているときに"鬼め”といわれている人のほうが、終わったときに、みんな自分の仕事に対し納得するんですね。やらせるほうはイヤなことも心得て、チャンとやらなければならないから。
押井 本当にイヤな思いをしていると思いますね。単価はそんなに変わらないから「うる星」の動画とか仕上げは喜んでやれるものじゃないです。手間かかるから。会社のつきあいで無理矢理上げてもらっています。
宮崎 もう、ここにこれ、あそこにアイツと、しっかりしたスタッフも出来たんじゃないですか?
押井 出来た部分と決別した部分と半々ですね。
いまホームズ”を作るむずかしさ
AM 宮崎さんのほうは放映された作品作ってないから、押井さんに「シャーロック・ホームズ」見てもらったんですけど、印象はいかがでしたか?
押井 アニメーションって、ち密にしっかり作ってあると見ていて気持ちいいんですね。
AM 声入ってないので、わかりづらいところもあったでしょうけど。
押井 いや、ほとんど話わかりました。
宮崎 あれは欧米に売ろうとか、さまざま条件が違うので、質の問題は通常のテレビシリーズとして論ずることはできないんで......。あの、ぼくらの世代の持っているものなのかもしれないけど作品作るときに”テーマとは""犯罪とは""犯行の動機とは�≠ニか、恐れ多くて、そういうむずかしいものには立ち向かえないから冗談にしてしまおうとか(笑)。......一応、そこまでやらないと作り出せないんですね。犯人をつかまえたらケリがつくというものじゃなくなっているんですね。ホームズの時代とは違うから。犯罪人が犯罪をし、悪人が悪いことをするというんじゃなくなっているんですね。だからいまホームズを作るというときに見当がつかなくて......。最初に思ったことは、原作を読んだ人間がその印象をそこなわれないように、名まえは同じだけど違うものにしたほうがいいだろうということでした。ぼくは「踊る人形」とか好きなんですけど、読まなければわからないものには手をふれまいと。ふれるも何も先に進まなかったけど(笑)。・・・・・・ただ最後まで引きずっていたのはいまなぜホームズを......しかもイスで......ということでしたね。思い入れする対象がなくて、しょうがないからポリィ(第2話の女の子)に思い入れするかってなもんで。そういうことでした(笑)。結論でちゃった。話を変えましょう(笑)。
押井 「ホームズ」の美術は...。
宮崎 山本二三さんです。
押井 まだ若いんでしょう。よく早川(啓二)さんに名まえは聞くんですけど
宮崎 若いといっても30歳くらいですね。仕事が目の前にあると、ニンジンをぶらさげられた馬みたいに”もうやめろ"というまで筆を動かしている人です。
押井 とにかくすばらしい人だと感じました。話には聞いていたんですけど。
宮崎 そういう意味でも「ホームズ」は世の中に出たほうがいいんですけど。
押井 ぼくも2年半前に「ニルスのふしぎな旅」の劇場用の演出をしたんですけど、いまだ上映されないんで残念ですね。
"動機"づくりさえうまくいけばふくらむ作品
宮崎 人間の動機とは何かってよく考えるんですけど、最近の作品には納得のいく動機づけがないんですよね。昔だったら親のかたきとかお家再興とか、本当かどうかわからないけど、一様みんなが了承しそうな動機で人が動いたんだけど。その動機づくりがたいていうまくいっていないから、人間が何のためにやってるのかわからなくなってくる。思い入れがファッションにすぎなくなっていて、雪のところでふたりがたたずんで、ジャーンと音楽がなれば何とかなるんじゃないかとか。こういう作り方がものすごく多い気がする。まあ動機だけで人間が動いていくんじゃないけど、これさえうまくいけばふくらんでいくんですけどね。これがいまの世の中、むずかしいみたいですね。ホームズのような探偵は最悪なんですよ。自分で人生を体験していくんじゃないでしょ。自分の人生を体験していくのはむしろ犯罪者のほうなんですよ。自分の欲望とか怨みとか、情念とかいろんなことで動いていく能動性を持っているんです。探偵は、人がかくしたいものを白日の下にあばいているだけ。いやな人種ですね。
押井 うちの親父が探偵でしたけど・・・(笑)。
宮崎 そうですか(笑)。何のためにやっているのか・・・・・・素朴な人助けというだけではちょっとはずかしい。そこらへんの見きわめがむずかしくてしょうがないから人生を楽しむために探偵をやっている男だったことにして。困ったですね。結局ドタバタを作っているんだけど、探偵とかドロボウとかあつかうと、やりたいからやっているんだろうじゃ済まないんですね。
AM 「ホームズ」は途中から描く人もイヌだという意識がなくなっていますね。
宮崎 ええ、1話はまだ動物という意識が残っていましたけど。もめたんですよ。人間ひとり出そうとか。それをやっていたらどうなったかよくわからないけど。ハドソン夫人だけ人間にして、彼女の前にいくとどんなエラそうなことをいっていても、ただのイヌコロだ、それでも精いっぱい虚勢を張っているイヌがホームズだとか、くだらないことを考えたんですけどね(笑)。なぜこの人は下宿屋をやっているかだれもわからない。そういうわけのわからない人間をひとり出そうと思ったんですけど。ぜんぜん違う展開になったでしょうね。
AM どっちがよかったんでしょうね。全部人間だったらどうなったでしょう。
宮崎 いやらしくなったでしょう。イヌだからまだ救われたと思います。自分の家を構えている人物というのはアニメーションのキャラクターとしてはいやらしい人物ですね。事務所でデンと構えている人間が、何かあってもそこに帰ってこれる人間がエラそうに女の子を助けたとか。ある事件を通じて、だれかとかかわり合いがもてるとか、心が通じたということがないと、ただドタバタするだけでしょう。第3話(「海底の財宝」)は、ワトソンのハドソン夫人に対する思い”でつながっているんです。見ている人はわからなくても、ひそかにそう思っているんです。海軍司令官に呼び出されて「せっかくのハドソンさんのお茶を飲みそこねた」「この非常時に女の話とは何ごとだ!!!」ってケンカになる。最後も、ハドソンさんの晩ゴハンを食べそこなってしまった......って。ずいぶんささやかなひっかかりですけど(笑)。そういうのもなくてかわいたドタバタをやろうという気になかなかならなくて。・・・・・・パクさん(高畑氏)なんか全然思い入れしていないようなフリをしているんですけど、じつはものすごく思い入れのある人なんですよ。人に見せないだけで。ぼくなんかまき散らしながらやるからみっともないんですけど。・・・思い入れなければ出来ないでしょう?
押井 それはそのとおりだと思います。
宮崎 何かに託して作っていないとね。対談の後も、スタッフ論や世代論などつきるともなく話はつづいた......。
男の演出から見た女性キャラクター
押井 ぼくも最初「うる星」で何に思い入れしていいのか、とっかかりがなくて、ずいぶんしんどかったんです。あたるとはどういう男なのかと、早川氏などとも話をしたんですけど、いまひとつつかみ切れない、実際にシリーズに入って解決していった部分がある。とにかくあたるというのは歩かない男だ、走っているときが一番生き生きとしているんじゃないか、というところから入っていった。
宮崎 そう、あたるというのは女から見た男じゃないかという気がするキャラクターですから。
押井 そう、それを男の自分が演出するんだから変わらずを得ないし(笑)。
宮崎 「赤毛のアン」のオープニングでバスト(ショット)がほしいねっていって、馬車の上で振り向くというカットを作ったんですよ。そうしたら、女の子から投書がきて「あれは男の見た女である」と。ガク然として、ウーンと考え込んじゃいました。あれを見た瞬間にこれは男が女を鋳型にはめたがっている"って、敏感に反応しているんです。いかにもさわやかそうに振り向くなんていうことが、男が女に期待する、こうあれという鋳型として受け取るんですね。いまだに解けないんです。じゃあどうすればいいのか。実際の高校生の話なんか聞くと、いま女の子のほうがテメーとか言葉づかいなんかひどいそうだし。
押井 ただ、そういう実態を形にして見せて、女の子が納得するかというと、そういう気もしませんね。
宮崎 そうですね。むずかしいところです。ぼくは、あんな女実際にはいないとかいるとか、ひどい目に会ったんですよ(笑)。そういう目で私たちを見ているに違いないって。
押井 そういうことをいう人がいることも確かですね。ただ、男から見た女、女から見た男ということを考えるときに、コナンがコナンであるためにはラナがいなければ、という部分あるでしょう。自分が英雄的になったり、自分を強くしなきゃいけないとか、一生懸命ガンバろうとか、対象がないとなかなかそうなれないところがある。女の子のほうも、そういう男にめぐり合わないかぎり、自分を確認できなかったり...。だからそれを片一方から見るというのは、ちょっと違うという気がする。
宮崎 どこかでそういうめぐり会いがないかと思っている人は多いと思うんですけどね。自分で気がついていなくても。
押井 そうですね。
宮崎 ところで、もう1本、劇場用の「うる星」作るんでしょう?
押井 まだ正式じゃないんですけど、話はあります。
宮崎 完成度が高いからいいんじゃなくて、熱気があふれていた方がいいこともあるし...。最初熱気でやって、次にはかならずクソッという形で開花するから。押井さんの場合でも、次はもっといい条件を取れると思うんですよ。スケジュールとかスタッフとか。それはなるべくもぎ取った方がいいですね。いざとなればスタッフにも遠慮しないで、死屍累累でもいいから......(笑)。
押井 そのへんが難しいですけど。
宮崎 難しくてもやるんじゃないかと思うけどな。難しいですね、といっているからやるんじゃないかな。
押井 ぼくにとっては次のが1本目という気持ちでやりたいです。自分としては何としてもリターンマッチをやらずにはおかないという気持ちです。
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