1年のアニメ界をしめくくる意味で、演出家として2年いちばんクローズアップされた押井守氏と、演出家としてだれもが一目置く高畑勲氏による、演出家対談を企画した。演出家どうしが、おたがいの演出の方法論や、作品についての想いを語るのは、なかなか機会がないだけに、おふたりの対談はひじょうに興味深かった。
高畑氏と押井氏は初対面である。おたがいに忙しいスケジュールをなんとかやりくりして集まっていただいた時間は、午後9時をすぎていた。高畑氏はやや風邪ぎみ。押井氏は劇場版「うる星やつら」の作業の真最中で、休む間もない。しかし、対談にいったんはいると、いろいろな話題をめぐって、両氏の会話は熱っぽく展開していった。
対談はまず「うる星やつら」を見た感想を、高畑氏が語るところからはじまった。話題はギャグの定義から、笑いはなぜ生まれるかという点に移り、高畑氏は連続性”ということについて語った。カットの断絶や飛躍で笑いを作るのではなくある人の行動をえんえんと連続させていくことで、それがおのずとおかしくなる、という考え方をする。たとえば「ルパン三世(旧)」などは、そういう考え方でやっていたという話。
それが高畑氏の作品作りの確固たる方法論なのかという押井氏の問いに、高畑氏はいままでに作ってきた作品の例をひいて答える。――「ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」とやってきて、それぞれ方法論は変わってきたし、変えてきたつもりだ。「ハイジ」ではごく日常的な表現のなかで、ほとんど気づかないぐらいの飛躍をさせている。作り手の側はリアリティからは離れているが、それをリアリティをもって見せることができるのではないか。それは実現しなかった「長靴下のピッピ」を考えるなかで、原作者から学んだことでもある。
それが「アン」の場合には、企画としてよりリアルなものを要求されている。ある状況を丸ごと描く、という連続性”の視点は「ハイジ」と同じように保ちつつ「アン」では、より客観的な視線を観客がもてるように描いてみる。主人公の15歳の少女の側に視点を移すのではなく、一種のユーモア感覚をもって、平等に見せていく。
そのときに、カット割りなどは自分の好き嫌いがかなり出てしまう。アップとバストとフルショットを併用するわけだが、いつも迷う―。それをきっかけに話はすすみ、音楽の話題や、押井氏が影響をうけた映画作家の話、それを契機として押井氏が演出家として考えたこと、と話題は展開していく。
そして、押井氏から質問があり、子どもの目の高さになって演出をする"という話題に入ってゆく。
前おきはこのぐらいにして、ここからは、おふたりの発言を追ってゆきたいと思う。(この要約部分ですでに対談は1時間半近くになっていた)
子どもの視線
押井 ぼくらのやってる仕事は子どもの世界を描くということで、その世界を描くのに、演出家自身も、自分のひざをついて、子どもの目の高さにならなきゃいけないっていわれたことがあるんです。
高畑 なかなか理論家がまわりにいるなあ(笑)。
押井 たとえば、ある感情を表現するときに、ピタッとスローモーションにしちゃうとか、そういうものはダメなんだ。「おまえが満足しているのであって、見る子どもが満足してるんじゃないんだ」というふうにいわれたことがあったんです。
高畑 ひじょうに子どもをよく知っている人が、そういうことをいうのはあり得ると思うんですが、それは、ぼくら自身が納得しないとわからないですね。わからないから、結局わからずに作ってるんですよ。最初からぼくも。(中略)ただ、子どもの反応をみる機会があったら、そこから学ぶことはずい分あるんですよね。そのときも、学ぶから、じゃあ子どもにあわせたほうがいい、ということ37ではなくて、自分の作ったものが、子どもにどういうふうに受けとめられているかということを知ることができるという理由でね。それを知らないと、きっとちがうものを作るかもしれないから。(中略)で、アニメーションを作るときに、子どもの目の高さで作るということを要求されたら、ぼくはできないですね(笑)。どうしていいかわからない気がするんだけれど・・・・・・
押井 よくある児童文学が、端的にいうといやらしい感じがするのは、それを書いた人たちが、子どもと同じ側に立って作ろうとして、だけど作れないというか、自分のなかにいる子どもと、実際に行動してるリアルな子どもとは、どうしても重なりあわない。重ならないことに目をつむってやってると、ああなるんじゃないか。重ならないことはあたりまえのこととして、そこからなにか作ればちがうんじゃないか......。
高畑 まあ、自分が子どもをもって、その成長期とともに、子どもの反応も変わってくる。そういうことをふくめてみて、それが役に立たなかったかといえば役に立ったし、それが反映してないかっていえば、反映してるでしょうね。(中略)ぼくの子どもは卒業してしまいましたが、絵本にどういうふうに熱中していくか、そんなことをみてると、ひじょうに、ああ、そういうものかなあ、とわかることがあるでしょう。(中略)だけど、さっき押井さんがいわれた、子どもの目で見てやらなければ、なんていう人が、そういうことをよく見ていっているのかということについてはね、よく見ている人もいるから、別に反対する理由もないけど、必ずしも、そのへんをよく見ていってるのじゃない人もいるのじゃないか、という感じはありますよね。なんか、批判してしまったみたいだけど(笑)。その人がどのぐらい感じてるかはわかるわけじゃないですからね。
押井 子どもの目にならなきゃできない、ということよりも、そういうふうに努力すべきだってことなんでしょうね。
高畑 努力は無理だ、努力という形では出てこないとぼくは思うんですけどね。そういうことを納得した経験がすでにあれば、反応をみたりということがあれば、それはこれか努力するということじゃなくて、もう了解事項として出てくることですから。だから、それは自然に出てくることですよね。こうすべきだ、といわれても、それが納得できなければ、やっぱりできないでしょうね。どうやっていいかわからないものね。そしたらぶざまなことになるでしょうね。
感情移入
高畑 「アン」の話はあまりしたくないくせに、いってしまうと、この本を15歳ぐらいのときに読んだ35歳ぐらいの女の人たちに、むかし読んだときのことを聞いてみたんです。ぼくはいま、ユーモア小説としてならおもしろいけど、そうでなきゃおもしろくないという小説をね、だれひとり、ユーモア小説として読んでいない。そしたら「アン」をやるときは、15歳の女の子の身につまされる話としてやらなくちゃいけないのか。(中略)それはできないって、自分で思いますね。ただし、(自分が)どこに立つかということになると、おとなに立つんだ、いやおとなということになるのかどうかわからないけれどつき放してやるんだ、ということでね。それは、自分が子どもをもっていて、しかも(その子がアンと)同じ年齢に達していたということが大きかったですね。(中略)その「アン」の登場人物のなかにマリラという女性(アンをひきとる女性で、親がわり)がいるんだけど、彼女がアンに「この服、着ていきなさい」というのは当然だしね、アンが「こんな服、着ていけないわ」というのも当然ですよね。だけど、どちらにも身をよせる必要はないのですね。アンにとっては、マリラという女がすごい権力をふりまわす大きな存在として見えるかもしれないけれど、そういうふうに描く必要はない。おとなだから、あたりまえのことをあたりまえにいうのは当然だから、そういわせておいて、それを等身大に描いておけばいいのであって。といって、アンのほうが全然わるい、アンのそういう気持ちはわからないという立場で描く必要もないし・・・・・・。
押井 その作品のとらえ方にもよるけれど、自分の描いている世界をあるキャラクターに感情移入して描くことも可能なわけですよね。
高畑 そうですね。(中略)
押井 たえず考えてしまうというか、ぼくなんかやってていちばん自然にできるのは、それなんですよね。つまり、自分があるキャラに感情移入してしまって、そのとき、そのキャラが見ると世界はどういうふうに見えるのか、どういうふうに聞こえるのか。それで一気にワーッと描いてしまう。そういうときは、だれでもそうだろうけど、ものすごく昂揚してね、作ったものがものすごくよく見えたりして。(中略)ぼくとしてはそのほうが納得できちゃうんですね。だから、演出する人間が、そういうふうに役者になってしまっていいのかって思うときもあるんだけれど。
高畑 それは、まあ、あるでしょうね。話はかわるけれど、宮さん(宮崎駿氏)なんかは、はっきりそうですよね。キャラクターに感情移入して。押井、そうやってみて、いつもスカッとする部分と、ある種の後悔というか、たとえば「うる星やつら」なんて、そういうふうに作っていっていいのだろうか、なんて思ったりするんだけれど。さっきの話に戻れば、子どもの目の高さになるというのは、そういった人のつもりはわかりませんけれど、ぼくはそういわれて、その感情移入ということをすごく考えましたね。あるアニメータにいわれたんですけれど、ぼくの絵コンテで、お母さんに呼ばれた子どもがトコトコ歩いている。「子どもってのは走るんだ、子どもをよく見てごらん、たえず走ってるじゃないか。そこにいくまで歩いていくのががまんできないから、走ってしまう。走っているうちに気持ちが昂揚してくる」。なるほど、そういわれて子どもを見ると、なるほどなあっていうこともあったし、そうすると、自分は全然子どものつもりで描いていなかったなあ、と思ったりしましたね
高畑 それは子どもに身をおくということとも、子どもを観察しろということとも、すこしちがうんじゃないですか。(中略)ぼくがアニメーションでやるときは、バーッと子どもを走らせるだろうけれど、現実には走らないこともあるんですよ、子どもを見てると(笑)。それはホントに。それは、なんともいえないような気がするし・・・・・・、なんともいえないという話ばかりて、だめだな(笑)。
押井 最後にはなにをいわれようと、はたから見ると、結局やりたいことをやってしまってるんですよね。
高畑 それは、ぼくらは映画なんかを作るから、感情移入のあり方をつい強い状態で見ようとしてしまうけれど、絵本なんかをみてると、そうじゃないんじゃないかな。(中略)というのは、絵本というのは、真に迫った絵なんていうのはひじょうに少ないわけですね。迫ってもなにもいないんだけど、しかし、子どもはひじょうに真に迫ったものとして、受けとるわけですね。だから、それじゃ、真に迫った絵はどういうふうに見えるのかというと、子どもにとって、ぼくらが感じさせているはずだと思っている以上に、恐怖感をあたえていたり、ひじょうに不可解なものに見えていたりする。そういう可能性も出てくるのだろうし、だから、絵本なんかで、ほんとうに成功したものが描ける人、その成功というのは、世評が高いというような意味じゃなく、子どもがもうすり切れるまで読むというような、そういうものを描いた多くの人は、まず子どもと接してますよね。日本でいうと、中川李枝子さんというような、保母さんをやってた人だとか、自分の子どもとひじょうにつきあいのいい人だったりとか。そうではない場合も、もちろんあるので、なんともいえないんですけれども。ただ、それは、その人たちがそこで、そういう問題についての哲学を発見してしまったわけではないんじゃないか。やっぱり、日常的に子どもとよくつきあっているから、よくわかっている。そういうことなんだろうと思うんですね。あるいは、絵本にするまえに、そのお話しを聞かせてあげたら、どういうふうに反応したかということに、その人自身がひじょうに新鮮な感動をうけて、そのフィードバックによって、絵本を生み出したのかもしれない。それに似たことを、ぼくらがしなくちゃいけないだろうとは思うんですね。そう思うけれども、仕事がいそがしかったりすると、もうそんなこといっていられない、ということもあるけど。ありますねえ、反応みてるひまもないっていう(笑)。
自分の仕事
押井 なんか、ある種のホンネをいえば、子どもの気持ちがわかるという気がぜんぜんしなくって、自分のなかの人間とか、自分のなかの女の子とか、自分のなかの少年としてしか理解できないというか・・・。
高畑 そうですね。
押井 自分が見たいものを見せる、自分はこう思うんだってことを、ワーッとやってしまうというか。人間なんてこんなものなんじゃないかとか、女の子ってこんなものなんじゃないかとか、そういう感じでバンバンやっているのじゃないか。そんなことに、ときどきやましさを感じたりすることもあるかもしれないんだけれど、ふだんはあんまり考えていない。だからそういうことを、人からいわれるとドキッとすることもあるんですよね。みんながいろいろいうほど、子どもとつきあうかというと、つきあうことなんてほとんどないしね。ましてや、中学生や高校生とつきあってるかといえば、全然つきあっていないし(笑)。
高畑 子どもと一口にいうけれど、子どもはほんとうに年齢によってどんどん成長していくわけだから、その時期によってまるでちがうんですよね。にもかかわらず、(作品として)出すものは、その対象をすごく広く求めているわけです(笑)。絵本だったら何歳から何歳までという、それがほんとに正しいかどうかは別として、分けかたがあるけれど、テレビの場合は「何歳から何歳の人、集まってください」というなら別だけど(笑)・・・・・・。どだい、こういうものをやってるときは、自分のなかの子どもとか、あるいは、自分のやりたいことをちゃんとやるとか、それしかない。「じゃあ、どうしろというんだ」と、ぼくなんかなってしまうんですよね。
押井 結局、開き直ってしまうしかないんですよね。そうしかできないものはしょうがないんだ、ということ「ニルス」をやってるときにもしろかったのは、小さな男の子と女の子から、いろいろお手紙がきたりして、それを読むと、けっこう楽しかった。今度「うる星やつら」がはじまって、高校生から手紙がいっぱいくるでしょう。すると、同じように思えなかったんですね。ふしぎに、なんとなくコワイ気がしたというか......。(中略)ある手紙で、週間のうちにこの「うる星」の時間だけは自分が生きかえった気がする、ほかの時間は自分は死んでるというのがあったわけです。(手紙をくれた人の家の)まわりは田んぼばかりで、家の裏を国道が走ってて。それはやっぱり、ぼくなんかすごく身につまされる、というか、あまりにも殺伐としているというか、ちょっとコワかった経験があるんだけれど。
高畑 それと似たようなことは、もうすこし小さい子どもについてもいえると思うんです。たとえば、アルプスを走りまわっている女の子を描いて、それを描いたテレビのまえに、子どもたちをひきつけてもしょうがないんですよね、ほんとうは(笑)。見るよりは、走りまわれるところがあったほうがいいと思うんですよ、やっぱり、絶対に(笑)。そういうことを考えると、なにやってるんだろうか、ということになってしまうんですよね。わりきれないんですよ。かといって、じゃあ、自分のやっていることを全面的に否定してしまっていいのかなあと思うと、やっぱりそうはいえない側面があるんだし。たとえば、ほかの人の仕事でいえば、ひじょうに感心した仕事なんですけれど、倉本さんの「北の国から」あるんです。あれを見てて思ったんだけれども、まあ、ドラマの内容にはいろいろ感ずるところはあるにしても、それとは別に、都会の子どももおとなも、あの画面の大自然をせん望のまなざしてみつめているというときに、せん望であっても、それはそれでいいんだ、という感じがしましたね。せん望というようなことばでいえるかどうかわからないけれど、やっぱりあそこにはほんとうの生活があるかもしれないと思うことが、せいぜい奥多摩(東京西部の山野部)ぐらい歩きにいったほうがいいというふうなたぐいのことに短らくするのじゃなくて、ひとつの重さとして、ちゃんと訴えているのだ。それは、すぐになにかに役に立つということはないだろうけれど、それを信じたいというのかな。(その作品が)提出しているものを受けとって、それによって、なにか問題がそこにあるなら、その問題を解決していくための力にならんわけじゃないな、あるいは、そう信じたい、というのかな・・・・・・。たとえば、アニメーションについて思うのは、いまの日本のなかで、冒険ものであれ、なんであれ、見る中高生がひじょうに多いとすれば、それだけ事情は悪いんだなあ、ということは思うんですね。
押井 それはその通りですね。
高畑 事情は悪いから、こちらに目をむけてくれて、われわれの職業がなりたっているというところがあるんだけど(笑)。そんなことをいって情けない笑いをうかべるんじゃなくて、作れば、いちばんいいんですよね。勇気を訴える冒険ものなんか、気を訴えることによって、見てる子どもが勇気ある少年に育つのに役立っているのだろうか。そんなこといつも思うわけじゃないんだけど、そう思うと役に立ってないんだろうなあ、ちらしてるだけなんだろうなあ(笑)、と思ったり......。
おわりに
というわけで、子どもの目の高さになるという話題からはじまったこの一連の部分は、約45分にわたって話された。途中、文章の意味がとりずらく、難しい部分もあると思ったが、あえて、おふたりの会話をできる限り忠実に再現してみた。
このあと話はさらにすすみ、アニメーションにおけるキャラクターの役割現在のアニメブームと、そのなかでのアニメファンの作品のうけとり方などが話題にのぼり、時計は午前1時をまわった。
ひとしきり話がおわり、対談を録音するためのテープをとめたあとも、アニメーションについてのさまざまな話題が話しあわれた。
対談を通して印象にのこったのは、高畑氏が、あるひとつの事柄を語るときに、その事柄にふくまれる可能性や多様性を、じつにていねいにひろいあげて語ろうとすることである。そのなかでも、この子どもの目の高さになるとはどういうことかという話題が、編集部にとってはいちば興味のある話題だったので、この話題にしぼって、対談を構成することにした。
そして、それは、演出家としては高畑氏よりかなり若い押井氏の、真剣な“対決ぶり”によって、いっそう興味深いものになった。このことをつけ加えておきたい。(82年12月9日、東京都江古田にて)戻る