「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とは何だったか
ラムの世界を描いたこの作品は、どのような意識を持ったスタッフによって作られたのか。各人に同一テーマ「ラムの内面世界を見てインタビュー」を出し、原稿イラストの3つの方法で自分の想いを表現してもらいました。ファンのあなたと同じように、スタッフもラムを想っている。その想いを受けとめてください。作品を観れば観るほど、それを作ったスタッフの心理が知りたくなります。彼らがラムをどうとらえていたのラムをどう観せたかったのか。ラムをどう愛しているのか・・・。
インタビュー
監督・脚本押井守
新作の映画を作るにあたって、どうしても前作「オンリー・ユー」が引っかかっていました。最後までわからなかったことがあるんです。
ラムという女の子は、どうして自分を捨てていった男(あたる)を、あのような冒険をしてまで救けに行かなきゃいけないのか!!"
その疑問が、ラムの内面を描きたいと思ったきっかけではあるんです。それからもうひとつ。もっと映画的な楽しさを出したかった。アクションというのは、アクション自体が楽しいんじやない。アクションが映画という表現の中で的確に行なわれているところで、楽しさが生まれてくるわけです。その部分が「オンリー・ユー」では荒っぽかった。キャラクターのヒダまで丁寧に描いてみたかったんです。
そうした意味で前回の映画はあたるを描いた作品になっている。ラムはどういうシチュエーションで描いたらいいんだ?と悩みましたが、僕にはよくわからないんです。宇宙人だから――というわけではなく、あの年頃の女の子が何を考えているのかがね。生身の女の子として"多少ズレている"として描くしかない。となると僕に出来るのは数通りしか方法がなかったんです。
ラムというのは前面に出てくるとわからなくなるキャラクターなんです。ボソッとそこにいるとか、ちょっとしたリアクションで生きてくる。TVシリーズでもラム中心の話は、描かれたラムが僕の思惑を越えて、ラム自身が主張をはじめてしまうんです。アニメーションのキャラクターというのは、どのように表情や芝居をしても限界がある。自分が思い描いたラムを描くめには、適切なシチュエーションを選んでゆくしかないということなんです。その作業をしてゆかなければ、ラムというのはどうしてもはがゆい所にいる。つき抜けないという印象になってしまうわけです。
たとえばこういう方法がある。
ラムというのはこういう女の子なんとあたるが言う。"そうじゃない"と面堂が言う。いや、ラムさんはこういうんだ"とメガネ。お母さんはお母さんで”いいえ、ラムさんはこういう人でした"と外面からせ感情表現についてめてみるという方法がひとつ。個々の見たラムというのは全て一面であって、本物のラムはさらにその奥にいるというやり方です。でもこれではディスカッション・ドラマになりかねない。それはそれでやってみたかったのですが、映画的な表現として適切だろうか?という疑問符がついたんです。
ではもうひとつ。
世界丸ごとラムの内面の意識だったらどうなのか。ラムが何を考え、何を願望し、さらにその奥底では何を望んでいるのかを描いてみたいーーという野望があったんです。そういう構成の劇が成功したと聞いたこともありませんんしね。
17ぐらいの少女は、お花畑のことなんか考えてはいないはずだ。あたるを自分の手のとどく範囲にとじこめておきたいとか、みんなの視線を絶えず浴びていたいとかが女の子の内面ではないか。それと相反するような、誰にも触れてほしくない部分やひとりぼっちになりたい願望いろいろなものがを巻いているでしょう。女としての自我が生まれてくる多感な時期ですからね。
そういうことを考えると、かなり生々しくなるんです。陰惨な内面が出てきかねない。演出としてはやりがいのある素材だけれど、自分自身の中のシリーズのイメージも大事にしたかったので、カラッと仕上げてみました。たとえばラムの内面に廃墟の世界があったにしろ、それは活気に満ちあふれているものとして描くしかなかった。あきらめた部分もかなりあります。
結局世界"として描くことにしたわけです。友引高校のドタバタとか、夏休みのような明るい廃墟とか、雨の降る何かが起りそうな夜とか・・・・・・そうしたものが映画を見終った時の印象"として残ってくれたらいいな、と思いました。ラムが実際に画面に出ている時は、ほとんど何もしない。逆にラムがいない時に、彼女の心象世界が出てくれたらいいと思った時に、はじめてコンテが切れるようになったんです。
画面の選び方は、自分の中に強く記憶に残っている光景を使ってみました。高校の学園祭で夜遅く残っている時のムードとか、少年の頃に憧れていた廃墟の中で暮したいという想いとか......。ある日起きてみたら、自分を残して誰もいない。街の中で普段やりたいと思っていることを全部やってみたい。スーパーーマーケットに入っていって買いたい物を全部手に入れたいとか。普段の生活の中での買って食べる"という一行為はつまらない。マーケットの棚から手づかみにして食べるとか。伊藤和典さんとも話したのですが、知らない人の家に上りこんで、おもむろにビデオを観る"などということも考えました。お金や学校が価値がなくなってしまう世界。その中で男と女がどうやって生きていけばいいのか・・・という部分を観ている人に予感してほしかったんです。極めて内面的な願望を出してわかってもらえなかったら仕方がないーーと開き直って作ったわけです。
学校の中や街の描写にも似たことが言えます。僕は真面目ではなかったので、高校の教室の印象ってあまりよくないんです。学園物というと30%ぐらいが教室の描写で終ってしまいますよね。TV版の「うる星やつら」もそうですが。僕にとっての学校の印象というのは、保健室や湯沸室のような隅っこの空間なんです。その点で今回の映画は過剰なくらいな現実感を出したわけです。夜の学校も昔の記憶。僕はよく夜の学校に入って遊んでいた経験があるんです。本来いてはいけない時間にそこにいる―という体験が面白いんです。(それを味わわせてくれるのが映画なんですけれど。)また、街の造りにしろ、なるべく僕の生活範囲内でまとめました。「オンリー・ユー」の時に下井草にスタジオがあり、毎晩終電近くに帰ったことがあります。私鉄の沿線というのは独特のムードがあって好きなんです。あたると面堂が夜の街走るシーンは青梅街道。深夜の都会の道路というのは、所々ショーウィンドーに灯りがついていたりして不気味なんです。アニメーションというのはそうした記憶や感覚の再現なんですよ。アニメでも説明はいらないんだというのが本心なんです。アニメは描写が多くて表現が少ない。僕は表現そのものを目指したかった。語られないある種の感情・・・雨の夜にかけた電話が本当に相手に通じているのか。本当は閉っているデパートの赤電話にかかっているんじゃないか?という妄想に近い感覚。そうしたものを前面に出してゆけば、不思議な世界を出せるのではないか。そういうことをやると演出の自己満足”といわれてしまう。でも本当にそうなのかな?という気がしたんです。とらえどころのない生理的感覚をアニメーションでも描けるはずなんです。
実写の場合だと、ある人間のバストショットを撮った時に、妙に後ろの窓枠に意味があるように思われたりすることがあるでしょう。それがある種の感覚を喚起する。切り取った現実が、現実以上の意味を持っているように見える。アニメーションでもそうした映像との出会いを意識的に仕掛けられないだろうか。(これは矛盾です。意識的に出会えないからこそショックがあるわけですから。)僕らの日常を根底から揺さぶるような映画を、カメラワークや編集の技術で見せたかったというのが大きなテーマです。
そういった意味では、TVシリーズよりもずっと映画向きな手法だったと思います。暗闇の中のスクリーンの方夢の感覚にずっと近いものだから。TVはクールなメディア、映画はホットなメディアですからね。戻る