演出家としてゾクゾクした「天使のたまご」

今関 「天使のたまご」の記事を「アニメージュ」で初めてみたとき、ウーン、しまった、と思ったんです。実は卵を抱く少女っていうのは、ぼくが昔やりたかった題材なのです。卵を大事に抱き続ける女の子、そして彼女の気を自分にむけるために卵をこわさざる得なくなる男の子の話で、幼児化からぬけ切れない少女の内宇宙を、SFとラブストーリーぎりぎりのところで描いてみたかった。結局シノプシスまでで実現できなかったんだけど、これまで押井さんの作品ずっと見て来たから、これは確実にやられるな、と思いましたね。それで昨日、東映ホールで試写みせていただきまして。感想をいうと「ビューティフルドリーマー」の外枠の部分を全部とっぱらっちゃって核の部分、つまり押井さんの内宇宙に近いものを抽出したみたいな映画だと思うんです。人の脳の中に入っちゃうみたいなスリリングさがあるんだよね。でもその核だけを抽出するというのが、ぼくの予想以上で驚異的でした。いまこんなのが作られていいのかっていう驚異ですよ。ぼくは映画館で見たからあえて映画というけれど、日本映画の中でこれが存在しちゃうっていうのは久方ぶりの快挙だと思います。もうホント、映画館でガンガンやってほしいです。

押井 いま夢とか、ファンタスティックなものを語るのに、SFXでその世界を作り出していくっていうのが広く受けられていると思う。でも夢っていうのは、それを作り出す人間とか見てる人間自身にとっても自分以外の何かでなきゃいけないわけですよね。それを自分自身で作ってしまったところからは限界づけられてしまう。だから夢を語るために必要なのは、SFXじゃなくて人間イマジネーションなんだ。つまりイマジネーションをどうやって消化していくのかってことが、映画に課せられた、いちばん大きな課題なわけなんです。今そういう意味で、「天使のたまご」は、もっと見る側のイマジネーションを作りなさいっていう映画でしたね、客が要求するものを気持ちよく出してっちゃう映画が多いなかで。絵の並べ方もカット割りというよりもイメージの羅列に近いところが部分部分あって、恐ろしく長い間があったりとか。

押井 今回、構成とか、並べ方というものを、あえてわかりずらくしたのです。あいまいなモンタージュとかあいまいな間とか、あいまいな構成というものを大巾に入れて、そこでいろいろなプロットとかシチュエーションを、見る人によってどう見てるかということも期待するためにね。オーソドックスな伏線を張って、ラストでその結論にいたるという、説話的な方法というものを極力排除してしまって、むしろイメージイメージをぶつけることで、どういうものが生まれてくるか、やってみたかった。そして、それを可能にするためにも、できるだけ絵を緻密に作ろうと、2分半でも3分でも見せられる絵を作ってみようと、これも同時に試してみたかった。

今関 1枚1枚、イメージが見事に絵になっていましたね。それにして映画ってプロデューサーから、あらゆる人がかかわっていて、そういう中でこれを作ってしまったという。なんというかディレクターとして最後まで押し通すという、青い炎的な感じかぼくなんかゾクゾクしますよ。売る側は題材的にこわがるところもあるだろうし、ディレクターとしては、かなりプレッシャーがかかったと思うのですが。

押井 一昨年、4、5本企画があっだけど、みんな流れてしまって。その最大の原因としてこわいという部分があったと思うんです。ハッキリいえば、わけがわからんという。売れ線じゃない。確かにいまアニメーションで要求されているものでないかもしれない。でも一方に、向こうは他の作品とは違うセールスポイントがほしいというのもあると思う。だからねばねばしかない。あるいはだますとかね(笑)。そういうふうなことは、どっかではやらなければならない。基本的にはやっぱり自分の作ろうとしているものに対するある種の確信です。それにもうひとつは、映画そのものがヤバくなってきてるんじゃないかと。はっきりいえば滅びに向かっているって感じる。今関さんもそうかもしれないけど、ぼくはやっぱり終電車に飛び乗ったという意識なんです。なんとか映画に乗っかれたんだけども、もう後はないような気がする。そういうこというと、これから始めようとする人は、それはないでしょっていうんだろうけど、そういう気がする。だからぼくは、いつもこれが最後の1本という気持ちで作る。もう後はない。だから思い残すようなことがあるものは作れないのです。映画を矮小化したスピルバーグ今映画、特に日本映画の先細りは目に見えていますね。昔は東宝とか松竹に専属の監督っていたけど、いま全部フリーでしょ。だからぼくらみたいな若造が出られたってところはあるけど。今そう、でも来たはいいけど、やっぱりまわり見渡したらトンネルだったみたいな。だったらもう好き勝手やってやろうと。へんな時代に来てしまった、ディレクターのピンチヒッターディレクター。そのピンチヒッターとしては、なにがやれるのかと考えると、やっばりどこかでマジョリティをめざしたい。いま若い子たちが、だれが日本映画を見てるかってことですよね。もっといえば暗やみ入ってスクリーンを前にして2時間3時間黙って見てるってことがむしろとてつもなくマイナーなんですね。いまの傾向でいえば、コンサートとかパフォーマンスとか、生志向ですよね。見に来た人間と舞台と一体感があって、その同時性が主流になりつつある。

今関 若い子が見に行く映画っていうのは、シネ・ヴィヴァンとか、岩波ホールとか、ちょっとしゃれた、コーヒ一杯1000円もするようなところ(笑)。それでなぜか東欧とかの映画。ひとつのファッションなんですよね。

押井 決して山下耕作(監督)の「最後の博徒」ではない。でもこれだけいろいろに娯楽が細分化しているいま、かつての映画黄金期のマジョリティを望むのは、無理なのかもしれない。でもだからこそ、映画っていうものが本来持っていた力を複権したい。その方向というのはSFXみたいな、非常に実現可能なイメージに作り上げるのではなくて、そこから見た人間が逆にイメージをふくらませていくものを作るのだと。つまり映画というのは、実はそこに作品があってということではなくて、人間が作品を見てふれあったときの体験だと思う。映画とは映画体験を指すのだと。そういう本来の一方で非常に実験的な作品かもしれないけど、密室的な作業でやるということではなくて、メジャーマークの下に大胆に持ち込むということをやってみたい。

今関 それはありますよね。マイナーで自主上映でやってますよじゃなくて、あえて東宝・松竹・東映で。

押井 そういう映画がいま、非常に受けいれられない状態というのは、SFX映画、さらにいえばスピルバーグの責任というのが、かなりあると思う。ぼくも「未知との遭遇」までは一生懸命見たけど、いまはスピルバーグは映画的技術とか、映画的記憶とかを総動員して、映画をわい小化しているとしか思えない。なぜかというと、彼は観客に自分が見せたいと思う映像しか見せない。それ以外の映像を、そこに重ねて見させるという可能性は、全然持たせないのね。ストーリー展開に最も有効な演出をそこで行う。そのために、よけいな障害物を全部取り払っていくという。それやれば確かに洗練されていくことにまちがいはないし、見てる間、おもしろいことも確かなのね。だけど特定のシーンとかしぐさとかセリフとか、映画ってその中にいろいろ多義的なものを含みうるからこそ、いろいろな出会いが可能だって世界のはずなんだよ。それがない。だからいつ見ても同じようにしか見えない。「レイダース」何回見たって、彼が考えているような映画にしか見えない。それは映画をやせ細らすだけで。そういう意味でも映画は退行している気がする。タルコフスキーがすばらしいってのはそこなのね。あの人の映画見て的確にいえる人間て多分いないと思う。うまくことばにならない。うまくことばにならないものを映像に託している。見るたびに、見る人の人生経験によっても、いろいろなものにだぶって見える。映像ってのは限定するもんじゃなく、むしろ拡散させるものだ。ぼくもスピルバーグの作品は好ききらい1本1本あるんだけど、スピルバーグ・ファンて、スピルバーグだけが映画的だと思ってる人が多いから、いやなんだよね。オールナイトで3本たて続けにみたりしたら、気持ちよくって、もうすっかりそういう錯覚作っちゃうのね。

押井 思考停止ね。それが快感である。映画には確かにそういう側面もあるけど、映画をたどりながら、いろんなことを考えていくっていう快感もあるはずなんだ。だけどスピルバーグも「未知との遭遇」まではいろいろな見方が可能だった。「ジョーズ」も「激突!」も。

今関 どうしてなんでしょうね。確かにそれはすごく感じます。映像にすきまがなくなったというか。思いこみの作品に拒否されちゃってるみたいな。

押井 「ジョーズ」のころはサメがサメ以上の何かに思えた。子どものころ想像した、トイレの下から何か出るんじゃないかというような、恐怖感なんの根拠もないのに存在そのものが恐怖みたいな。それがいまはサメはサメにしか思えなくなった。

今関 プロデューサー活動始めてから、ますますその傾向が強くなったみたい。自分のこまを、いろんな人にふっちゃってさ、編集で行間なくして、結局スピルバーグ作品になって、じゃ、監督はどこにいっちゃったんだと、情けねェ話だなあ。監督の意味がないってことは、映画の意味がないんですよね。

押井 映画の中にあった新鮮味の部分だよね、いってみれば。そういう要素を全部排除しちゃったってことだから。だけど、それでなおかつどれも大ヒットしちゃうんだから、当面の敵として、スピルバーグに負さるものはない。

今関 そうですね。それ以前にこっち側の力もどんどんつけなくちゃいけないんだろうけど。今後のキイポイントは「女の子」

今関 ところで「うる星」にしても「天使のたまご」にしても、かたりべとして少女を使って、そこから夢の世界やオリジナルなイメージの世界を広げていくというスタイルを取ってるものが多い気がするんですが、それはどうですか。自分にとってやりやすいからそうしたというのか。ホントいえば女の子を使うというのは非常に苦手なんですよね。わかんないから。「ビューティフルドリーマー」作ったきっかけも、それなんですが、あのラムって女の子が自分でずっとやってたにもかかわらず、さっぱりわからない。全然わからないからそのまま内実を探る話にしようとしたわけなんです。その意味でいえば、「天使のたまご」もそうで。最初は男の子を主人公にするつもりだったのが、やっていくうちに作品そのものが、あの少女を全面に出すことを要求してきた。その予感に従ってやっただけで、自分の計算があって少女使ったわけでは全々ないのです。むしろ女の子を扱うことに関してはいまでも及び腰なんです。そういうことでは、逆に聞いてみたかったんですよ。今関さんにあの「アイコ16歳」みたいな、高校生ぐらいの女の子の揺れる心みたいなのをピタッと押さえちゃおうという。

今関 ぼくの場合、もう期待しちゃうんです。そのわかんなさを演出しながらも、ちょっと勝手にやってみてって、カメラこに置いとくから自由にやってごらんみたいなところでつづっちゃう。その方がぼくはおもしろいね、映画作ってて。男が実写で出てくるとわかりすぎて気持ち悪いっていうか、なんか卑屈になっていうか。

押井 ぼくなんかカメラの前に若い女の子がズラッと並んでたら、まず相当ひるむだろうな(笑)。アニメーションでも若い女の子が圧倒的な世界なんですね。特に仕上げの作業なんか、ほぼ100パーセント女の世界。それも17歳から20歳前後の。もう怖くて仕事部屋に入れない(笑)。

今関 なんか原体験で悪いことあったんじゃないですか(笑)。

押井 「アイコ」みてて思ったけど、たとえば朝学校に行くまでの自転車の道ゆきみたいなのでも延々ととってみたりのポジションがあるでしょ。そういう面にはぼくは思い入れができない。ある意味でのいい経験が自分の高校・大学時代になかったからかなあという気もする。非常にかたくなに、作り続けるためには恋人などもっちゃいけないという思い込みもあったし。女の子と同棲してるのがみな次々とダメになってくのがあったりとか(笑)。ま、それは先入観だろうけど、なにかいい感じの女性体験があったんですか。変な意味じゃなくて(笑)。

今関 それはすごくあるかもしれない。ぼく、性的に女の子を見てるとかは思ってなくて、中学、高校時代のノスタルジーの延長みたいな形で。子ども時代から同世代の女の子みながら、一番美しい夕焼けを見ているような印象があるわけ。だれ見てもきれいだと。美しいという意味ではなくてなんか胸がキュンとする。恋ではなくて、一生に一度しか見れない虹のかかった夕日とか、雲の晴れ間から出た朝日とか、そんな自然現象に近いようなノスタルジー、センチメンタリズムこう全身に感じちゃうのね。世の中、女の子が生きてるって知ってるだけで毎日、ホントうれしいというような。

押井 ウーン、ぼくにはそういう部分は完全に欠落している。あこがれとか、ノスタルジックな感傷とかを起点として、世の中を肯定的に見れるという目が。だからあの女の子たちの笑顔にぶつかってはねかえされるような気がした。何を考えてるかわからなくて怖くて。

今関 おたがい病気ですね、両極端に。

押井 でもねえ、そこのところがむずかしい。いまの時代、実質のところを担っているのは、そのぼくからみるわけのわからない若い女の子たちの群れという気がしてしようがない。たとえば「うる星」の試写会なんかは、来るのは一〇〇パーセント男だった。その彼らがね、ラムが出てく大喜びしてシャッターバシバシ切ってる。そのちょっと驚異的な光景見てね。彼らがいまの実質を支えているという気が全然しないの。そうじゃなくてラムの向こう側にいるような、キャピキャピやっているように見えて、実は横目で男を見ている女の子たちが、いちばん恐ろしい。だからこそ「天使のたまご」も彼女たちがどういうふうに見てくれるか期待しているところがある。映画にいちばんふりむかせなきゃいけないのは、彼女たちなんじゃないかと。アニメファンの男の子たちを、いくらその気にさせても、何か違うんじゃないか。

今関 ぼくなんか「天使のたまご」を見て、まずそれ感じましたね。これは男の子にとっては完全に大いなうらぎりをしたなと。少女のキャラクターにしても、どっちかというと宇宙と自分の存在を考え始めた14、15歳くらいの女の子たちが、逆にのめり込める世界なんじゃないかなと思いましたね。

押井 そう、あのキャラの顔は、男の子にすこぶる評判悪いんです。でもそれを聞いたときに、それなら少なくてもいけたなって感じた。ぼくは逆に、いまはやりの顔は幼女っぱいけど体はやたらグラマーというのは気持ち悪くってしようがない。ただキャラクターをあてがってやるという非常に閉鎖的なサイクルにもがまんできないし、女の子もそういうところでは考えたくない。

今関 確かに生身の少女に近いというか、ホントの生きてるかわいらしさがあるっていうのは「天たま」の方の女の子ですよね。でも、いっしよに映画作ってる仲間とも話たんですけど、最近の若い男の子って現実の恋愛がなかなかできないらしい。というのは、いつでも女の子をかわいく見ていたいというのがあって、でも実際のところ、いつも男たちにいいようにはかわいくないから、すぐに別れてしまう。それでアイドルとかアニメの方へ行く。いつでもかわいいところしか見せないし、決して彼らをうらぎらないから。

押井 もう生まれついての消費者だね。あらゆるものが与えられるはずだという。これはきわめてヤバイ状態だ。この消費原則をどっかでつき崩していかないと、どうにもならない。それから何を考えているかわからない女の子たちの、あの横目でチラっていう意味がわかれば、何か非常にインパクトをもったものが出てくるような気がしてならない。それには作品中で女の子をどう描くか、これが大きなキイ・ポイントになる思う。

今関 いろんな意味で少女全盛時代ですからね。すると、目下の課題はスピルバーグと女の子ですか。(12月9日(月)渋谷東急インにて)

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