「天使のたまご」の少女は、ラムの影を引きずっているのか?「天使のたまご」から生まれてくるヒナは、「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」が親鳥なのか?



語っても語りつくせないことが映画になる

「天使のたまご」で1年ぶりに絵コンテを切りました。カンがにぶっているんじゃないかと心配だったけれど、意外とやれるものですね。僕は絵を描くのが苦手なので、絵のタッチを取りもどすのに時間がかかりました。「天使」はキャラクターデザインの天野喜孝さんのイメージを上手く伝えたくて、気を入れて絵コンテを切ったんです。ト書きの部分も、作画に微妙なニュアンスを伝えたくて、書けるだけの指示は書いたつもりです。「これはどういうことなのか?」とか「このとき、彼女はどう思ったのか?」というような具体的なことは書かないで、演技のポイントだけ書くようにしたんです。
  「天使」では樹・鳥・魚・・・・・・などさまざまなものが登場します。個個をとって「この魚は何を意味しているのか」と、考えることはいろいろあると思うんですが、比喩や象徴ではありません。そうも見えますけれど大げさに言うと暗喩です。それ自体が意味をもつ比喩ではなく、鳥なら鳥がそれ自体のイメージをもつということです。「どうしても言葉になりにくいある種の感情」のようなものを映画にしたかったんです。そのために必要なイメージとして鳥や魚を出したわけです。
  「天使・・・・・・」ではやはり「うる星やつら」の一部分を引きずっていますね。「ビューティフル・ドリーマー」のメタファーの部分というだけではなく、自分の思春期のころから考えていたことを映像にしているということが、です。逆に言えば、そのへんから離れられないので、ある種あきらめて開き直っている。今後もこの表現方法でやれるならやってみよう、いろいろな人に観てもらおう・・・と。生涯的なモチーフは、映像作家なら誰でも持っていると思うんです。宮崎駿さんにしろ、ヴィスコンティ、タルコフスキーにしろ、映画を作る人は同じテーマを手を変え品を変え語り続けている。語っても語っても、語りつくせないことがあるから......そんなテーマを持てる間は作家をやっていようと思うんじゃないでしょうか。「いつも同じことばっかりやってていいのかな?」なんて思うこともあるけれど、やりたいテーマというのはこれしか思いつかないんですよね(笑)。「このテーマはここまで」と言えるような作品に巡り合えば終わるかもしれないけれど、自分の中でそのテーマをつきつめることが必要で映画を作っているのだから、なかなか終わらないでしょう。



押井守は水から映画のイメージを発することが多いと語った。雨に煙る東京の片隅の街。そこはの想像力を刺激してやまぬ、情報の宝庫なのかもしれない



流れに逆らった「ビューティフル・ドリーマー」



この映画を作る前に、実はテレビシリーズの中で自分自身で脚本を書いて演出した作品が1本ありまして、「愛とさすらいの母」という作品だったんですけど、これが非常に怒られまして。こういう作品は2度と作るなと。結局、今まであまりアニメーションという形式の中ではやられたことのない作り方を試みたということなんです。
  ある種、非常に観念的な色彩を帯内容言ってみればキャラクターの存在そのものを問うような作品になっていたんではないかと思うわけです。「愛と・・・」で言えばあたるのお母さんがあるとき自分の現実を失ってしまい、夢か現実かわからない世界を遍歴してゆく。しかも最後に現実に帰るのではない。絶対に、永遠に不動の位置にあるいう現実感そのものが実は全部虚構なんだ、という話なんですね。
  それが思いのほか、非難ゴウゴウでして、ただ非常に喜んでくれた人も一部にはいたわけです。これは、アニメーションでやるのは無理かなと考えた反面、いつかまた絶対にやってやろうとも思いました。
  たまたま「オンリー・ユー」という前作が自分にとってとても不本意であったということと重なって、2本目の映画をやらないかと言われたときに、まっ先に考えていたのが、そのことだったんです。
  なぜアニメーションという虚構の中で「愛」とか「希望」とか「勇気」とか、死語に近いようなことばを繰り返さなければならないのか。僕らが現実に生きている感覚としては、こんなことばがただちに浮かんでくるような世界には、どうも住んでいないような気がしている。もっと得体の知れない、ある種の不安感に包まれて生きているのではないかと考えているわけです。そういうものを経ないところで、そんなことばを語ることはほとんど意味がないのではないかと思うわけです。
  動かし難いもののように見えている現実というものが、実は非常に不安定なものであることに気づいたときに、どうとらえたらいいのだろうか。この物語では、あたるたちは、どうしていいのかわからないときは、とにかく遊ぶんだということを言っています。現実の中で非現実なものにとらえられたときにどう対処していくのかと考えてみた場合、僕はそこにこそ、逆に希望のきざしというものがあるんじゃないか、というふうに考えているんです。



ラムと少女--いかにして画面を緊張させるか



「ビューティフル・ドリーマー」のラムの姿をした少女と、「天使のたまご」の少女ーー僕にとっては違う存在だけれど、結果的につながっているかもしれません。
  「うる星...」というのは情緒はあるものの、世界は限定されているんです。あくまで人間の欲望係数が行動原理なわけで「いかにして欲望を獲得していこうか」というのがキャラクターの行動原理で、あるときは食べるためであったり、あるときはカワイイ女の子とつき合うためであったり。非常にストレートな目的のためにどこまで開き直れるか。自分の欲望の充実のためにどこまでガンバれるかが物語を動かしてゆく。その中で、どうしてもその行動原理からはみ出してしまう部分が、ラムとあたるなんです。それが「うる星......」の全てだったような気がする。だからあの物語はいつまでも終わりを見せないんです。ふたりの行動原理が、あの世界からはみ出しているから、いつまでも作品世界からこぼれ続ける。
  今回の作品では反対に、そのこぼれていかない部分を形にしてみようと思った。現実の中で解体してゆくのは「ビューティフル・ドリーマー」でやったので、今回はいつ・どこでもない世界の中で、正体不明の事柄が展開して、最終的にある種の現実が浮かび上がってゆく。出発点が、ちょうど逆さまになっている。不要なものはできるだけ排除し、非常に純化されたピュアな形を見せたいんです。キャラクターもどんどん減って結局ふたりだけになった。セリフも極端に少ない。カット数も少ない。「ビューティフル」のときもそうでしたが、僕の場合「長廻し」が多い。カットを変える契機がだんだんなくなってきたような気がして。どうしてもここでカットを切り換えなければいけないという必然性がなくなってきた。本当はもっと少なくできるんですが、作画の耐久力の限界もありますから。実写の場合、廻しをすることで、役者の持っている肉体の雰囲気や情感が現れたりしますよね。アニメでも長いカットは作画するアニメーターに非常に緊張を強います。同時に長ゼリフにしても役者の緊張が芝居にいい効果として出ることを期待しているんです。ですから僕の場合、長廻しを求めているのではなく、キャラクターや映画のあり方を求めると、自然に長廻し・長ゼリフになるんです。



隣にいる人間は本当は誰なのかという不安感



この世の中には自分が具体的に関係を結んでいる人間のほかに、かなりいろんな人間がいるわけですよね。その場に居あわせた人間というのは、実は自分をめぐる、ある巨大な芝居をしている役者なのではないかというふうな、ある種の妄想に近いことを考えるわけです。自分が席を立ってしまえば、そこに残っている人間たちはみんな一斉にニンマリと笑うのではないかという不安な感じを持たざるを得ないんです。
  それが単に僕自身の妄想なのか、あるいは現代に生きている人間を、とらえて離さないある種の普遍的な不安なのか。そこのところはまだもうひとつ僕にはわからないですが、ただ自分で信じるところの感覚というものを、とりあえず映画という形式の中で試みるしかないのではないかと。「うる星やつら」というシリーズを2年以上続けたことの意味は、どうやらその辺にありそうだという気がしているわけです。
  フリーとなって去年1年間、4、5本の企画を準備したんですけれど、土壇場で全部ダメになりまして。その原因というのが、難解である、わけがわからん、あんたの作品は暗いから、ということをよく言われるんです。僕自身は、暗いもの、難解なものを目指して作ったことは1度もないわけで、自分にとっては非常にあたりまえの感覚をあるカタチにするとどうしてもこうならざるを得ないんだ、ということを言いたいわけなんです。まあ、暗さという面で言いますと、暗い部分を通過しないことには本当の意味での明るい世界に行けないんだという気がするわけです。
  (企画を出しても)そう受けとっていただけないわけなんですけども、それはもしかしたら、僕の作品に絶えず出てくる不安な影みたいなものが、人によっては見たくない部分を目の前につきつけられるという感覚があるのか、それとも単純にネアカでないのか。
  ただ、言わせていただければネクラが病気であるとすれば、ネアカも病気なわけで、どちらも大差ないと思うんです。ネアカにもネクラにもなりきれない中ブラリンなところでモノを考え、モノを作ることに意義があるのではないかと考えるんです。



オリジナルビデオへの失望そして、再生へ!



オリジナルビデオというのは、アニメにとっていわば新天地で、これから開拓できる処女地だった。テレビのような制約もないし、劇場用みたいに肩肘張ったところもない。それこそ希望だと思っていた。
  僕がアニメ界で初めてオリジナルビデオ「ダロス」を出してから、ちょうど2年。現在出回っているアニメのオリジナルビデオは、要するにテレビとどこが違うんだ?!?!というような状況になってしまっています。なぜテレビでやらないのかわからないような作品がビデオ化されている。テレビ化できないのはロリコン・アニメぐらいなものでね。すでに粗製乱造の世界に入っているということは、わずか1年で市場を荒らしつくしちゃったということなんですよね。ほとんど茫然自失という気持ちです。予算的にも苦しいし、スケジュールも無理がある。これじゃテレビをやってるのと変わらないや!というのが現場の正直な空気ですよ。こういうことってあるんでしょうか。映画の10倍ぐらいするお金を出し、映画どころか、テレビよりひどい作品を買うなんて。10回観ればもとを取れるというようなものでもないですしね(笑)。1年前にはバラ色の夢があったのに、制作者たちが自分でビデオという手段を手放してしまった。僕は、テレビではできないことに対する現場で鬱積している欲求不満がもっとビデオ作品に出るのかと思っていたけれど、いっこうに出てこない。何かビデオを作っている現場を見てきて、ほとんどテレビと同じ感覚で作っていると感じました。スポンサーの無理な要求を受け入れた時点で負けです。最近ファンの方たちがビデオ作品を観て「よくやってる」とか「よく動いてる」という言い方をしますよね。そういう観られ方をされること自体、制作者が甘く見られている。



鳥・水・魚・・・・・・写真が発想の触媒になる



映画を発想する場合、写真からスタートすることが一番多いんです。「天使のたまご」も最近買った写真集からスタートしたし。1枚の妙に心ひかれるような写真をながめているうちに、そこから描きたい世界が現れてくる。今回は鳥の写真でした。実際には鳥は1カットも出ていないけれど。あと、水の写真が好きなんです。目についたものを集めるようにしているんです。「天使のたまご」の中では、水面に向かって少女が放尿するシーンがあるんですが・・・。鳥にしろ水にしろ、自分にとってりアルに感じられる観念があるんですね。やはり学生のころ、スチール写真にこって一日中、街を撮って歩いたことがあったんですが、何げない写真の中に何かを見つけるのが好きなんです。水と魚と鳥の写真をながめていくうちに今回の作品ができた。アニメの技法を考えるのも、写真集を見ていて思いつくことが多いんですよ。どうやったらリアルになるだろう......とか。写真には、自分が意図的に写したのではないものがたまたま、写ってしまうことがあるんです。それが後から意味をもってきたり・・・・・。同じことをアニメ映画作りの中でもやれるんじゃないでしょうか。アニメのカットはどうしても説明的で何かを表現するための記号になってしまっている。映画の魅力というのは本来説明的な部分ではなく、表現そのもの・・・1枚の画が何かの意味を伝えてくれるというものだ、と。でも全部手で描いて、計算して作っていくアニメではとても難しい。でもその中にも、体験的に意味ありげな風景を何度か作ることはできた。やはりアニメも映画であと考えたい。ならばカットのぶつかり合いを生み出す仕組みを演出家として仕掛けていきたいですね。

戻る inserted by FC2 system