初顔あわせ対談
安彦良和・押井守
演出家にとって作家性とはなにか?片や劇場用作品、片やオリジナル・ビデオ作品。片や絵を30描く演出家、片や絵の描けない演出家――。ジャンルや方法のちがいこそあれ、自分の原作を自分で演出するという点では、おふたりの今回の仕事「アリオン」と「天使のたまご」は共通項を持っている。それを前提にしたうえで、アニメーションに対する考え方のちがいを、話していただいた。400カット対2000カット。この差の意味するもの対談のまえに、おふたりにはそれぞれ「天使のたまご」と「アリオン」のプロモーション・ビデオを見ていただいた。まず、そこから話はスタートした。
安彦 (「天使のたまご」の)絵コンテがサンライズにあったらしいんだけど、じつは見てなくて、3分のビデオの方だけなんです、見たのは。もうボチボチ終わるんですか?
押井 いえ。原画がそろそろ終わるんですが、あれは動画がかなり手がかかるんです。
安彦 そうでしょうね。
押井 動画はまだ半分ぐらいかな。
安彦 ビデオを見たけれど、全篇あんな調子で......。
押井 だいたいあんな感じですね。
安彦 400カットって聞いたけれど、そんなもんですか?
押井 そんなもんです。
安彦 400カットというと、ザッと計算して1カット平均1~13秒ですか。
AM そうですね。
安彦 それは、たいへんな作業ですねェ(笑)。
AM 安彦さんは平均4秒ぐらいですか?
安彦 4秒もないんですよ。2秒ぐらいじゃないかな(笑)。
押井 2000カットですよね。
AM ええ。でも、作品の時間の長さがちがいますからね。
安彦 恥ずかしいから、一生懸命切ろうと思ったんだけど。結局、こないだ計算したら2010カットありました。1998を目標にしたかったんだけれど(笑)。カット数を少なくする秘訣はなんですか、押井さん。
押井 もともと、竜の子プロにいたころはカット数が多かったんですよ。500カットぐらい描いても、終わらなくて。
AM テレビシリーズで?安彦そうでしょう。
押井 それで、スタジオぴえろに移って、鳥さん(演出の鳥海永行さんのこと。)についてからですね、少なくなったのは。とにかくムダなカットを切れということを徹底的に言われた。そのうち、話の運びとか、いかに省略するかを、しこまれた。
安彦 ウン、なるほど。
押井 あとはやっぱり「うる星やつら」をやったせいだと思うんです。やたら絵コンテを描きまくらなければいけなくなって、ほとんど毎日、コンテきってましたから。だから、とてもじゃないけれど、カット数を少なくしないともたない(笑)、というようなことも出てきて、減らせるだけ減らしてみようと思って、やっていたんです。ところが、いったんそうなると、カットを割るということに意味がないと、カットを割る気がしなくなってしまった。
安彦 アニメーターはどうですか?
押井 いやがりますね(笑)。
安彦 はじめは喜ぶでしょう。
押井 最初はカット数が少なくて喜ぶけれど、やっぱり描きはじめてみると、みんな青くなっていく(笑)。でも、ぼくの場合は(秒数の)長いカットは、逆に枚数が減っていくんですよ。こんどの「天使のたまご」でも、150秒というカットがあるんだけれど、それでも100枚いかないんです。長いカットだと動かさないというのが、ぼくの場合ある。
安彦 押井さん、自分で絵は描く?
押井 いえ、ぼくはだめです。
安彦 アニメーターとか、そういう”まがい"のことは?
押井 まったくやってません。こんどの作品で狙っている事というのは、作品が持っているリズム、描くこと自体から生まれてくるテンポとか軽さとか躍動感とか、そういうものとは別の重さ"を出してみたいということなんですよね。だから中枚数がどんどん増えてきて、よけい動画がたいへんになっちゃったんです。でも、そうして出てくる作画の不自由さが生み出す奇妙な緊張感とか、重さとかいうものが、いまはおもしろいと思っているんです。
安彦 動画さんは送り描きみたいになっちゃいますね。
押井 ええ割る"という感覚じゃないですね。
安彦 あのビデオを見て思ったんだだけど、これはもう送り描きだな、あの髪の毛の量とか、こんなの描きようがないなアって......。
押井 名倉(靖博。作監)くんなんてノイローゼ気味です。毎晩、髪の毛の夢見るっていうから(笑)。でも、あの描きこみをはじめたのは彼なんですよ。当初はあそこまでやる予定じゃなかった。彼が作監をやりはじめたら、どんどんエスカレートする一方で、もうあとには戻れない。キャラクターを作った段階で、もともと少女の髪の毛は問題だったわけだけど(笑)。
安彦 天野(喜孝)さんのイラストを、そのまま、とにかく料理してみようということで・・・・・・。
押井 そうですね。名倉くんが天野ちゃんの絵のファンだったということもあるかもしれないけれど。天野ちゃんの、ああいう流れるような線は、中割りしても、動かすとひじょうに薄っぺらいものになるだろうなという気がしていた。名倉くんの線が、逆に妙に力強いところがあって、それがむしろ良かったと思う。天野ちゃんは、動いた絵を見て驚いたというか、満足したらしい。彼自身、自分の描いた絵が動くということは、ほとんどイメージできていなかったということですね。
安彦 それは満足するだろうね、あれだけやってくれれば。あの髪の毛を見てて思い出したんだけど、むかし「哀しみのベラドンナ」(73年)という作品があって、ぼくが虫プロに入って1年目ぐらいだったかな。やっぱり、深井国さんのイラストをそのまま動かそうということでね。アルバイトで動画を3カットぐらいやったことがあるんです。そのときに、髪の毛ビラビラという原画をもらったんだけど、どうしようもないんですよ。とにかく動画で送り描きして、リピート(くり返し)にならないとかいって(笑)。えらい思いをしたことがある。それを思い出した。だから、あっ「ベラドンナ」だなって思っちゃったのね。「ベラドンナ」見ましたか?
押井 ええ、見てます。
安彦 むかし?
押井 竜の子に入ってからですね。
安彦 どうでした?
押井 ぼくは好きなんですけどね。ただ、原作のミシュレの『魔女』にずいぶん支えられている部分があるという気がして。
安彦 原作は読んでた?
押井 ええ。学生のころ。だからどうなるのかという興味もあった。深井国さんの絵も、好きだったし......。
安彦 ぼくはその原作を読んでいないんだけど・・・・・・。映画を一生懸命見たんだけど、きらいだったなア...。
押井 (笑)。
安彦 ほとんどつらかった。どうなんですか、原作と映画を比較すると。
押井 原作からすれば、ずい分ソフィストケイトされていますね。
安彦 そうでしょう。
押井 原作そのものは土俗的なものが、映画では一転して華麗な世界になっているから。
安彦 なにかひじょうに近代主義的な感じがしちゃってね。
押井 とことんモダンな映画でしたね。
安彦 だから、深井さんの絵じゃなくて、いっそ銅版画みたいなタッチでやればよかったのに、と思った。
押井 やっぱり、アニメーションで弱いところは全部避けたということだと思うんです。”止め"やカメラワークをふんだんに使って。ただ、見た当時の印象でいえば、そういう風な感じのものが、周囲にはまったくなかったから、興味がありましたね。
演出とアニメーターを同時に兼ねることのむずかしさ
初顔あわせということで、安彦さんがおもに聞き役にまわり、押井さんのこれまでの仕事の話がつづく。竜の子からぴえろへ、つぶれてしまったテレビ・劇場企画の話題から、「天使のたまご」へ。
安彦 完全に押井作品といえる映像は「天使のたまご」がはじめてになるわけですね。
押井 原作とか監修がつかないという意味ではそうですね。ただ「ビューティフル・ドリーマー」も原作の許すギリギリまで逸脱して作ったと思っているから、原作つきでやったという気がしない。しいていえば、テレビシリーズが原作だった。しかし、原作つきでやるということに、抵抗感が出てきたとはいえますね。安彦そうでしょう。「ビューティフル・ドリーマー」を、じつはビデオで3回つづけて見て、いつの間にか朝になっちゃった(笑)。「ナウシカ」より、受けたショックはずっと大きかった。作監のやまざき(かずお)くんなんか、むかしから知っているわけだけど、彼がこんなに変わったのか、変えたのは押井さんなのか、というようなショックがあった。
AM 変わったというのは?
安彦 それは、おれとやったときはどうしてあんなものだったのだろうという風なことなんですけどね。そういうときって自己嫌悪に陥る。押井さんは、そういうことはない?
押井 「うる星」のときは人の出入りが激しくて、こっちからやめてもらった人もいたんだけど、その後のことってほとんど意識してない(笑)。
安彦 それっきり?
押井 ええ。逆にいうと、目のまえの人間のことしか考えられない、ということだと思いますけどね。「天使のたまご」をはじめたら「うる星」からつきあってきた、若いアニメーターたちが、どんどん抜けていった。結局、作品の傾向を変えたことで、いろんな人間と別れることになったという感じです。ぼくの場合、絵を描かないせいもあると思うんです。極端な場合、組むアニメーターによって作品の傾向も変えてしまう。
安彦 絵を描けないことに、もどかしさは感じませんか?
押井 最初はかなりもどかしかったですね(笑)。で、ある時期から、ふっきれちゃって、誰と組むかがおもしろくなってきた。
安彦 最近、そういうのがうらやましいなという気になってきた。ぼくはもともとアニメーターで、いまも現役だから、絵コンテを描くときでも、誰もやってくれなかったら、おれが描くんだ、というのが必ずある。自分の表現能力みたいなところから出発して、しかも、時間や仕事量の枠のなかで考えているから、どうもダメだなァという感じがしている。
押井 ぼくからすると、逆の面もあるんです。結局、どんなすぐれたアニメーターでも、絵描きというのは、自分よりすぐれた絵描きのいうことしか聞かない。
安彦 そうですね。
押井 だから、それに対して、ぼくはことばで対抗するしかない。その気にさせるために、どういう仕事のさせ方をするか、どういう責任を押しつけたらいいか、という感じで考えるしかない。
安彦 たしかに絵描きの習性はそうだけど、絵描きどうしのことばは絶対に破綻しない。演出の注文はときどき、とんでもない理不尽なことがあったりするけれど、案外めっけもんもそのなかに入っている。絵描きどうしては、そういう破壊性は出てこない。だから、絵描きが演出をやるというむずかしさは、そのへんにあると思っているんです。自分が描くことを考えると、80分で400カットなんて、要求できないんですね。
押井 「天使のたまご」の理不尽さはしょっちゅういわれてましたけど、はじめてみると、けっこうやれたり、思い通りにならないけど、ちがうおもしろさが出てきたりとか、そういうことはありましたね。今回は、作監の名倉くんの絵柄そのものが、作品の世界を微妙に変えてしまった。その変えてしまった部分が、ぼくの考えていたものよりも、はるかにおもしろかったですね。そういう、良い面の方をおもてに出していく作業が、演出の仕事だと思ってるんです。
安彦 その「天使のたまご」については“これはぼくの作品だ"という方向へ、押していこうと?
押井 じつは、それはよくわからないところでもあるんです。自分は演出家だけど、演出家は作家なのか。たぶんちがう。では、作家であるということは、演出家の部分のどこかしらは切っていかなばいけない。そのへんはグチャグチャ考えてますね。結局ぴえろをやめてフリーになったということは、自分がやりたいものをやる状況に、すこしでも近づくためだと思うし。たとえば、自分がかなり好きなマンガとか小説を、アニメ化するチャンスがあっても、それをやるんだったら、それに匹敵するような自分のものをやりたいと思ってしまう。安彦たった3分だけど、ビデオを見て、押井さんは”演出家・押井�≠ナはなくて、やっぱり作家としての方向を明確に持ってしまっていると思った。だから、まったく傍観者的にいうと、これからつらそうだなという感じがしたんだけど。とくに、その作家性が極私的というか、わり”私”に執着していくという意味でね。
AM それは安彦さんにもいえますね。
安彦 うん。ただ、ぼくの場合はちょっとちがうと思う。「アリオン」にしてもそうだけれど、私小説的な世界はきらいじゃないけれど、私小説作家ってきらいだ、という風なところがある。日本のアニメーションというのは、テレビアニメもそうだけど、いちばんポピュラーな物語世界でしょう。そのなかで10何年やってきて、結局正解だったなって思う。だから、その物語世界から踏み出していくことのまずさというか、うさんくささを感じていて、そっちの方向へ行こうと思わないんですよ。
押井 そのうさんくささ”というのは?
安彦 以前にね、この業界に入って2年目ぐらいに、草月会館なんかでやってた自主フィルムの上映会を見て、悪夢のような体験をしたことがある。20本ぐらい見たのかな。ほとんど寝てるんだけど、目を開けると別なのをやってる。わぁ、つらいなあ、こういうことはやっちゃいけないんじゃないか、と思ったことがあったんですね。72年頃だから、アンチ・ロマン的な感じが強くて、そのなかで、個人個人の作家の必然性をこえて、一種の流行として、そういう作品を強要されていた不自然さを感じてしまった。アニメって、何だって描けば描けちゃうという、その性格の魔力があると思うんです。実写以上にね。その魔力に足をすくわれずに行ける人が、アニメ作家といわれる人のなかに、どのぐらいいるのか。押井さんもふくめて、どうかなァという感じが率直にするわけ。
押井 「ビューティフル・ドリーマー」にしてもそうだけど、ぼくの場合、物語る"ということ自身が意識のなかで完結しないんです。いわゆる額ぶちのなかにある1枚の絵を、距離をおいて鑑賞するというような形で、この世界はこうであると物語るようなやり方では、どうしても語れないものがある。だから、額ぶちの絵をいったん作って、それをある手つきでていねいに壊していく、その過程そのものを見せてあげたい。そのなかで、自分のいいたいことははじめて形にできるんじゃないか。その確信を深めたのが、あの作品だったんですね。テレビシリーズをやってて、各話完結というスタイルのなかで、自分がやりたい部分がどうしてもはみ出してしまう。それがたまりにたまって、ふき出したというか。
AM 安彦さんがさっきおっしゃっ物語世界という観点からすると、「...ドリーマー」はどうですか?
安彦 それは、高橋留美子さんの原作のまじめな読者でもないんで、よくわからない部分もあるんだけれど、原作そのものが、学園日常ドラマという仮象をまとっていても、破壊的な面というか、たえず反物語性みたいなところへ踏み出していく契機をはらんでいるでしょう。そういう素材で、テレビもやっていて、観客のなかに、もうベースとしての日常ができていたんじゃないかと思う。その世界に立脚して、それを押井流に逆転していく感覚に、観客が同化できたと思うんですよね。だから、押井さんが自分の作品を作る場合、そのへんがきびしい。草月会館の悪夢(笑)になっちゃうんじゃないか、という気がするんですよね。
押井 それは、かなり考えたところですね。だからこそ「ルパン」のような手あかにまみれた、ほとんど通俗という物語世界がまずあって、それをひっくり返すということをやってみたかったわけだけど。今回の作品でいうと、やっぱり少女が持っている普遍的なイメージが、まずあるはずだ、美学的なものもふくめて。そういう感性をベースにするところから出発するしかないんじゃないかと思ってます。まず日常的な物語世界そのものを成立させて、さらにそれをくつがえすというのは、そうとう時間をくってしまって、長編の場合、そこまでいかないんです。だから、ある種普遍的な少女がいて、十字架を背負った少年がいて、方舟があって、というような書割のなかで、何をどうやってくつがえしていくか、あるいはずらしていくか。それを、ぼくは古典の捏造”だと思ってるんですが。それがうまくいけば、美学的な芸術映画ではなく、物語からひとつズレたところで何かが見えるという、いまぼくがいちばんインパクトを持てると考えている映画に近づけると思っているんですけどね。
作品の舞台ギリシャ神話とキリスト教的世界―について
安彦 少女とか、鳥になりたい少年とか、方舟とか、そういう、いってみればポピュラーなモチーフを持ってきた意図は、いま聞いてわかりました。ただ、ひじょうに西洋風でしょう。だから、その古典の捏造を日本でやるというのはシンドイのじゃないかと思う。「ベラドンナ」がどうしてインパクトがなかったかというと、もともと西洋的倫理感がないんですよね。こっちには。そこに、魔女というモチーフを持ってきても、インパクトがなかった。ひじょうにスマートなものになってしまった。
押井 いわゆるあこがれみたいなものだけで作品を作って、それだけで自己完結してしまっている。だから、インパクトがないというのは、たしかにそう思いますが。
安彦 だから、方舟というモチーフが共通言語になるんだろうか。たとえば、西洋の人は、方舟を見たら受けとり方がちがうでしょう。
押井 聖書風な舞台をなぜ選ばなきやいけなかったのか、自分でもずいぶん考えたんです。むかしからその世界に興味があって、自分のなかできわめてリアリティを持ったオブジェになっている。たしかに、現代の日本で共通のことばになるのかっていうことは考えた。だから最初は、ああいうバタくさい舞台じゃなく、現代の日本を舞台にする予定でした。
安彦 そうだと思っていたんです。
押井 それがなぜ、ああなったかというと、さっきいったように、やはり絵描き天野ちゃんとの出会いをいうことですよね。彼の絵で現代日本を舞台にした話はできない。逆に思いきって、とことん洋物っぽく作ってしまおう、と開き直った部分もあるんです。AMひとつうかがいたいんですが「アリオン」もギリシャ神話という西洋文化の基礎にあるものを、物語の舞台にしているわけですね。その点で、押井さんが「天使のたまご」で狙っていることと共通点があるのではないかと思うんですが......。
安彦 キリスト教的モチーフというのは、入ってこないんです。じつはぼくの父親がクリスチャンで兄弟みんな教会につれていったのに、ぼくだけつれてってくれなかった。いかにも反教会的な顔をしてたのかな、とも思うんですけどね。ところが、神話というモチーフは自分のなかにも無理なく入ってきたし、観客のほうもそうじゃないかな、という感じがあった。あれは東西共通したものでね。それならば神話を共通言語にして、そこから勝手気ままをやるということはおもしろいんじゃないかと思った。最初から物語性をもって入っていけるし、
AM 押井さんは「アリオン」のビデオをご覧になって、どうでした?
押井 まっ先に思ったのは、アリオンを見たときに、どうしてもアムロとかジョウとかがだぶって見える。やはり固有の物語世界には固有の絵柄があるべきだ、という風な事をフと思っちゃうんです。ただ、映画ができたときに、アリオンという少年が、どういう風にきわ立った一回性として見えてくるかはわからない。断片を見たかぎりでは、ひとりのアニメーターが絵柄を変えても、どうしても出てきてしまう同じ表情が見えてしまった。つくづくアニメーションというのはふしぎなものだ、というのが感想でしたね。
安彦 それはもうしかたがない部分で、開き直っているんだけど、自分で絵を描いている以上、役者は同じなんですよね。それがメイクしたり、コスチュームを変えて出てきたり、周辺の状況をSF戦記ものにするか、スペオペにするか、ということだけでね。だから、自分も絵を描くのをやめたといわないかぎり、このくり返しになると思うんです。子どものときから、どんなつたない絵で絵を描く喜びってあるでしょう。絵を描くのをやめるのは、その喜びがなくなるときだから、そのときは同時に、画面を作る営みもやっぱりやめるだろうという気がする。天野さんなり、ほかの誰かにキャラクターを作ってもらって、作品を作るという状況は考えられないですよね、江藤淳じゃないけれど��成熟と喪失”みたいなことを、あきもせずくり返していくしかないな、と最近つくづく思いますね。
AM 話は戻りますが、西洋の古典的世界をモチーフとするという点ではおふたりに共通点があるといえますか?
安彦 物語性を軸にした形でぼくはやろうとしているし、同じ古典でも、押井さんは逆の方向でやろうとしているということですね。共通項もあえてさがし出せるし、共通項をさがしたら、まったく反対のものだったということにもなると思うんですよね。
押井 別の見方でいうと、アニメーションの手ざわり"に対するちがいという気がする。「アリオン」のビデオを見た印象でいうと、ポセイドンの上陸作戦の群衆シーンにしても3つ目の巨人との闘いにしても、普遍的なアニメーションの語り口というか、いままでアニメが培ってきたものをベースにしている、ということ感じる。その意味では、ギリシア神話の世界は背後に沈んでしまって、観客はそのアニメーションの手ざわりを自分のものにして、物語を追体験していくことになるはずだ、と思う。そして、見終わったときにアリオンという少年がどういう生き方をして、どういう結論にいたったかということと、作品全体の枠を自分のなかでどういう風にまとめあげるか。物語のひな型としての神話の意味は、出てくるとすれば、そこにしか出ないのではないかと思う。ぼくの場合は、そのアニメーションの普遍的な語り口を、あるところで断ち切ってしまう。そのはねつけることの緊張感で、観客をひっぱっていきたい、と考えている。
AM 安彦さんが、押井さんのような方向へ踏み出さないのは?
安彦 いちばん大きな理由は、自分が絵を描いているということだと思うんだけどね。押井さんがいったような、アムロが、ジョウがいうようなところは、ぼくにとっては、観客とぼくとの共通項になっている。それはそれでいいっていう感じがしている。自分が、絵を描くという技術にこだわっている限りは、その共通項が武器になっていると思うから。
押井 それは、かなりわかる感じがします。ぼくがつねづね、宮崎(駿)さんに感じていることも、それだから。あの人の場合は、典型的にそうでしょう。
安彦 ぼくもいわれるけれど、それいうんだったら、宮崎さんが、もっとロコツだろう(笑)と思うので、キザないい方をすると、宮崎さんにとってあのキャラクターのタッチ、ぼくにとってのそれ、というのは、一種の他人、つれそっている他人なんですよ。だから、おまえさんの顔が気に入らないといったって、それはもうしょうがない話だからね。
押井 だからこそ、アニメーションという側面で考えた場合、宮崎さんにしても、安彦さんにしても、宿命的にアニメーションになってしまうわけで。ぼくは、竜の子プロにいたころからそうなんだけど、どこかしら、アニメーションそのものの手ざわりと、ソリがあわない部分がどうしても出てくる。むしろ、アニメーションにないものを捜したがるというか。
安彦 押井さん、実写を撮りたいという気持ちは、いまでもある?
押井 いまはあんまりないですね。アニメーションのもの作りの方が自分にはむいている、という事がよくわかったし、逆に実写は不自由であるという意識しかないから。「...ドリーマー」にしたって、あれはアニメーションでなければ成立しない世界だと思うんです。単にカメが出せないから、ということではなくて。あのシーンは特撮をやったって、ひとつもおもしろくない。語ることば”として、ひとつの抽象化された絵というのが、ぼくの場合どうしても必要らしいという気がする。そして、その絵がひとり歩きして、アニメーションになってしまうことにも、ぼくはどうしても抵抗感がある。
安彦 その草月会館で悪夢を見たというのは、抽象から出発することの両面性の怖さ、なんだろうね。実体のあるものを抽象化していくっていう手順をとびこして、最初に抽象があるわけですよ。
押井 ぼくからすれば、それもたぶんアニメーションなんだろう、という気がする。もともと、日本のアニメーションというのはきわめて特殊というか、物語をはらまなければ成立しないものが作られてしまっているという感じがするんです。そうでなければ、アニメートすることそのものが表現であるという作家性も、ありえたかもしれない。しかし、たまたまそうではなかった。結局、ぼくみたいに、アニメーションそのものから出発したわけでもなく、絵か出発したわけでもなく、映画という妙に普遍的なところから出発しちやった人間からすると、やっぱり同じに見えてしまうんですよね、両極ではあっても。
安彦 「天使のたまご」は、以前にはなかった試みだという気がするのは、断片的なモンタージュじゃなくて、80分という長さで、ひとつの完結した世界を作る、ということだと思うからなんです。タッチは、「ベラドンナ」なんかにはあったわけだけど、そういう点で、ひじょうに興味深いと同時に、つねに危険をはらんでいるという感じもある。押井さんが作家として、立って行けるかどうかっていうことだと思う。またそのとき、押井さんが、作家・押井というのと、演出家・押井というのを、なおかつ使い分けていくとしたら、よけいつらいところへ行っちゃうんじゃないか、という気もする。
押井 実感としては、かなりつらくなってきていますね。
安彦 追いつめるみたいだけども、ここまで来たら、作家・押井で通してほしいという気もするわけですよ。
押井 ただ、なにかしらヌエ的なものが映画にはある。妙に芸術的になったりするかと思うと、ものすごく風俗的になったりする。じつは、そういう部分が、映画っていうものを生み出す根源的な力の源という気がしてしょうがないんです。だから、ひとつのスタイルを決定するということは、わりとたやすいけれど、自分としては、そういうわけのわからん部分、ひじょうに無節操な部分は手ばなせないな、という気がする。それはバランスということではなくて、芸術映画になったりとか、B級アクションになったりとか、その別れ目は微妙なもので、じつはどうでもいい。だいじなのは、どっちにころんでもかまわないという覚悟なんだ、という気がしてならないんです。
安彦 それはすごく正確だと思うんですよね。だから、どっちに行くのかはっきりさせなさい、というのは悪い意味での挑発なんです(笑)。単純に、それにのってほしくないという気分も一方であって。でも、1歩踏み出した人には、やはり、1歩でやめないで、せいぜい2歩か3歩は行ってほしいな、という気持ちも、あるんです。
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●対談をおえてこれまではでは「うる星やつら」の押井さんであり「ガンダム」「クラッシャージョウ」の安彦さんである、というイメージができていたと思う。そのイメージが、こんどのそれぞれのオリジナル作品を経過することでどのように変化するか?とても興味深い。中学生や高校生の読者のみなさんには、少しむずかしい内容になってしまったかもしれない。しかし「アリオン」や「「天使のたまご」をご覧になったあとで、もう一度この対談を読んでいただければ、ああ、なるほど、とうなづくところがきっとあると思う。安彦さんと押井さんには、われわ編集部の人間をふくめた、すべての観客をして、目覚させるような作品を期待しています。(文責・片桐)▲おふたりとも、力作を期待しています!!