白井
白井 あなたのように、三十歳で撮った処女作「青春の殺人者』(一九七六)が、ベスト・テンの第一位に選ばれて、それにあなた自身が監督賞をとり、水谷豊が主演男優賞をとり、原田美枝子が主演女優賞をとった、なんていうケースは、珍しいね。
長谷川 珍しさだけは、かなりのものだったらしいですね。
白井 だいぶ、プレッシャーがあった?
長谷川 まあだけど、何か多少そういうプレッシャーがあるほうがね、ぼくは頑張れるらしいです
白井 あなたが『青春の殺人者』を作った年はね、ぼくが『キネマ旬報』編集長をクビになった年でもあってね。当時、読者の人たちが集まってくれて、抗議集会があったりしたんだけれど。その時の楽屋にね、一人の洋画ファン青年が訪ねて来たんだよ。「あなたは『キネマ旬報』で『日本映画はいい、いい』って言い続けたけど、『青春の殺人者』みたいな映画がベスト・ワンだなんて、そんな馬鹿な話はない。あんたが編集長をクビになってよかった!」って言われちゃってさ。
長谷川 ほう。
長谷川 そういう客が、二作目の『太陽を盗んだ男』(一九七九)を見たら、どう言うのかね?
白井 その青年に「じゃあ、これから読者集会が始まるからさ、そこでその問題について、ディスカッションをやろうよ」って言ったらさ、「いや、ぼくは、これからヤマハホールに洋画の試写を見に行きますから」って帰っちゃった(笑)。
長谷川 (笑)
白井 そういう人たちがいるんだね。要するに、洋画を見て、洋画こそ映画だと思ってて、日本映画なんかくだらない、と思ってる。
長谷川 うん。
白井 日本映画というのは、実に貧しくつまらなく、なんにもない。なのに、長谷川和彦の『青春の殺人者』みたいなものを、話題を作るためにあの一味は持ち上げておる、という。
白井 あんな映画をベスト・ワンだとか、賞だとかいってしまうことがね、日本映画をますます駄目にしている、と考えている人たちが、いるということだね。
長谷川 まあ、二割ぐらいは当ってなくもないね。たいてい、どういうんだろう。邦画はもう眼中になくて、洋画ばかりを見る客の層というのはいる。洋画は夢を見やすいんだよね。
白井 そうなんだね。外国の話だし。
長谷川 それは、単純に同じぐらい貧しい予算でやっている映画でもね、それこそ、非常に大ざっばな言い方をすれば、そこに異国が映るから、じゃないですか。自分の住んでいる横町が映るのじゃなくて、異国の横町が映ってるわけだよね。それだけでもう、非常にロマンチックなんだ。
白井 だからさ、男と女がキスしてもね、外国人なら美しいと思うんだけどさ、われわれと同じ日本人がやるとね、何か醜く見えたりさ、変なはじらいがあったりするのね。
長谷川 そう。そういうベースメントは、間違いなくあるね。白井そうだよね。
長谷川 それにプラスすると、世界中で何百本か年にできる外国映画のさ、一流の商売になりそうなおもしろいものが、一応セレクトされて日本に入ってくるんだ、ということもある。
白井 それとね、これはかなり本質的な問題に関わることなんだけどさ。日本映画というのはね、いい映画っていうとさ、何か陰々滅々と、トリヴィアルな視点で人間を描いたものが多くて、見ると何だかいやになっちゃうというのが、あるじゃない?現代日本資本主義社会に生きる苦悩と憂鬱とを、コンク・ジュースみたいに濃縮してね、映画館で二時間も見せてくれると、もう生きてるのがいやになる、という。まあ、日本的規範からいくと、そういうのがいい映画、と言われるようなところがあってさ。ところが、アメリカやヨーロッパの映画にはさ、何か、見てて爽快になって現状の苦悩から心身をジャンプさせてくれるっていったところが、基本的に、あるじゃない?
長谷川 うん、うん。ただね、例えば、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(一九六〇)なんて映画があったよね。俺はあれは、好きだったね。まあ、あれも、今の白井さんの言い方で言えば、かなり陰々滅々たる話だろうな。兄貴と弟が女はさんでどうのこうの、みたいな映画でね。あなたには「良くない」と言われた『青春の殺人者』なんていうのもね、かなり陰々滅々たる話ですよ。 ただ、どういうのかな。陰々滅々たるところへはまり込んで撮るかね、それを一つの毒として、攻撃的にそれを自分の素材にできるかどうか。まあ抽象的に言ってもあまり意味がないんだろうけれども、そういうことのような気はするのよね。
白井 ぼくは『青春の殺人者』を、全くいいと思っていないんで、ワースト・テンに入れたいぐらいでね(笑)。
長谷川 うん、うん。
白井 ぼくは、あなたを助監督時代から知っている。神代辰巳の秀作『宵待草』(一九七四)のシナリオを書いたほどの男だからさ、第一作を撮ったら、何かもっと客観的で具体的な映像描写でね、画面を一貫させた、という形の映画を当然作る、と思っていたわけ。ところが、『青春の殺人者』を見たら、何かひと頃の日本ATG系映画独特の深刻作品系列のさ、陰々滅々、トリヴィアリズム作品になっているんだよね。なんかいやだったね、俺は正直言ってね。
長谷川 白井さん、試写室へいったでしょう。 試写室で見るのはね、やっぱり違うんじゃないですか。『太陽を盗んだ男』も『青春の殺人者』も、小屋(映画館)では、けっこう笑って見れるんだね。
白井 なるほど。
長谷川 どういうとこで笑うかというと、例えば『青春の殺人者』は、母親殺しの長いくだりがあるでしょう。そういう部分のセリフのやりとりで、客はかなり笑うわけですよ。俺はね、だから試写室で見る時よりも、だいぶ救われた気がしたのね。 要は、それはね、いい意味での健康な笑いなわけですよ。あんな、父親と母親を殺すくだりあたり、笑いなんていうものが出ようがない、というはずのところだけれども。まあ、ブラック・ユーモアと言ってしまえば、それまでなんだろうけれども。ある種の黒い笑いみたいなものがね。客から洩れるのね。それも、わりときっちり、声に聞こえる洩れ方をするわけよ。
白井 まあ、それを多少きびしくいうならばさ。あんなトリヴィアルでかつ観念的な映画でもね、今の若い連中はさ、妙に健康に、そんなふうに笑って見ちゃうんだ、というような気もするね、俺
長谷川 うん。いや、だけどね。俺もね、作り手だから、できるだけ客を信じたい、というかな。客は、わかってくれているはずだ、というふうに思いたいからかもしれないけれども。例えば、だいぶ云々されたシーンだけれども。その、水谷豊が泣くとこがありますわね、浜辺で。あすこで泣く客もいるわけよ。だから、あの木下恵介の『二十四の瞳』(一九五四)のね、ぼくらが泣いた、あの涙とおそらく半分は、一緒なんだよね。涙なんだから。だけど、半分はたいてい違うんだよ。
白井 違うね。
長谷川 涙の質がね。例えばチャップリンが、笑って笑って笑って、それから泣くというね、そういう俺なんかも嫌いではないある種の作品を、いくつか作ってきたけれども。ああいうふうに、笑って笑って、そして泣くということがね、非常にあの時代よりも、もっと今は難しい時代にちがいないね。だけど、笑って泣くというのがね、俺は、商業映画の基本だと思うよ。実験映画とか、前衛映画とか、自主映画とか、8ミリとかというのは、俺の頭の中ではあんまり映画ではなかったのね。
白井 それは、とてもいいことだよね。
長谷川 まあ、良いか悪いかはわかんないけれども。
白井 そういう人がさ、いざ処女作という時にね、大体、なんで田村孟さんにシナリオを頼み、232の人独特の観念的でセリフ過剰のシナリオを書かせてしまったのか。あなたはシナリオ・ライターとしても、自分でもっと具体的な行動描写で一貫したシナリオが書けるはずなのに。
長谷川 助監督の時に本(シナリオ)を書いていたでしょう。監督するってことは、俺にとって新しいことをするってことなのよね。だからあえて、田村孟さんにシナリオを頼んだ。そしたら、母親殺しの長いくだりを、最初に読ませてくれて。それこそ、一シーンで三十分もあるわけだから、まあ、普通には映画にならないんだけども。でも、映画にならないという感じがあるのを、よし、それならかえってやってみようというふうに思った、ということがあって。そこは、ちょっといじって変えたくなかったね。変えれば、それは俺流にいくらも変えるだろうし。
白井 自分でシナリオ書こうという気は全然なかったの?
長谷川 いや、それはね、初期にはやってみてた。まあ『青春の殺人者』にしても、俺もかなりシクックいじくってみてたのよ。だがその前に「十九歳の地図」という、柳町光男がその後映画化し中上健次の原作を半年位いじってて。ともかく俺との仕事は、ライターが嫌がるんですよ。連中にとってぼくは同業者なんだよね。それが監督をするとなるとね。どうせお前が勝手に自分の気に入るように直して撮るんだろうから、何か、その道具をやるのは辛い、みたいなね。それはまあ、こっちが勝手に僻んで、そう思ったのかも知れないんだけれども。ただ、一本目だけはなんとか他人の本で撮りたい、ということはあった。そりゃ本と監督を全部一人でやる方が楽なんですよ、絶対に他者との確執は少なくて済むから。監督の仕事というのは、他者との確執に尽きるわけだから。でも、楽な分だけ自分一人のイメージの縮少再生産になっていくというマイナスもあるわけでね。
白井 そうすると、田村孟さんという日本映画界の中でも、ことさら観念的なシナリオを書く人に存分にまず書いてもらって、それを、映像化の段階で具体描写で押し返すという挑戦をしてみようではないか、というわけ?
長谷川 いやまあ、それほどキッパリとカッコ良かったわけでもないけどね。俺の第一作は、今平(今村昌平)さんにプロデュースを頼んだわけですよ。ATGが声を掛けてくれた後でね。その時ね、たまたま孟さんが今平さんの学校で教えていたわけ。俺は孟さんはもうシナリオ書くと思ってなかった。小説家に転向した人だから。まあ、転向というと、おかしいけど。自分でもうシナリオを止めたと言った人だから、とても書くとは思ってなくて。ただ、シャープな人だから知恵を貸してもらえたら、と思った。それに、白井さんほど田村孟の仕事を俺は嫌いではないわけ(笑)。大島渚の『少年』(一九七〇)とか『白昼の通り魔』(一九六六)とか、その観念性も含めてむしろ俺はかなり好きだったのよ。俺が、中上の「十九歳の地図」をやると言ったら、「あれは映画には難しいですね」なんて言ってた。で、「十九歳の地図」を半年位いじって、なかなかうまくいかなく同じ中上の「蛇淫」ていう小説が出たのを孟さんが電話で教えてくれた。「十九歳の地図」というのはね、なんにもできない奴の話なのね。脅迫電話をするくらいで。なんにもできない奴っていうのはね、やっぱり、映画のネタとしてはダメだな、と痛感した。なにもできないでウシウシしてる奴に魅力を感じて選んだ原作なのに、俺は「なにか」させようとしたんだね。そうしなければ、中上が描いた小説の世界から、ハミ出していけないように思ったんだ。
白井 なるほど。
長谷川 これは、あかんと思ってね。これは俺向きのネタではないんだ、と思った。まあ、中上の小説の主人公というのは、基本的に大体ウジウジとなにもできない奴を、わりと上方ふうに書いてるわけだけれども。その「蛇淫」だけはね、具体的な行為があるんだね、親を殺すという非常に具体的な行為がね。ただ中上の小説には親を殺すところの具体的描写は、一切ないわけですよ。それが、小説として非常に未完成なところでもあって。しかも、現実にそういう事件があったらしい、ということは、調べようがあるということだしね。それで、おもろいから切り変えてそっちにしますわ、といってはじめてね。そのうち孟さんが「あんた、あんまり書けんのなら、ぼくが書いた方が」といった感じになってきた。彼はね、中上が書けてない、その母親殺しの部分を、書ける気がしてたんだね。それで今平さんに、押してもらって、引き受けてもらった。一週間で書きましょう、といって、まあ結果は半年かかったんだけれども。そして、孟さんのシナリオを映画にする中で、俺もだいぶ彼と喧嘩したりしてね。一時、没交渉になってたりもしたんだけど。ただ彼みたい本気で眼の色を変えて書く作家ってのは実に少ないわけでね。彼と組んで本当にキツかったけど、あれはあれでやっぱり良かったんだ、と今でも思うよ。
白井 『青春の殺人者』が、ATG提携の独立プロ作品として、すごい苦労して撮られた作品だということは、ぼくも知ってる。後半にもう製作費が失くなっちゃって、スタッフがロケ先の駅この前の芝生で寝た、とかさ。ラストの火事のシーンを、消防署に無断でオープン・セットに火をつ235け?けて燃えあがらせ、本物の消防車が来たのを使って撮って、大事件になったとかね。ATGの映画っていうのは、もう食うや食わずで、みんな本当に特攻隊みたいな突撃精神でやらなくてはいけない。まあ、そういう苦しい作り方をする作品の構造が、どうしても観念的な方向に傾くってことは、わかりもするんだけれど。で、「青春の殺人者』以後三年間、何にもやらないでね、『太陽を盗んだ男』ができるまで、ずっと頑張ったということはね。やっぱり『青春の殺人者』の反省といったら変だけど、あなたはそんなことを言いたくはないだろうけど(笑)。やはり、それがあったわ
長谷川 反省は、それはしますよ、もちろん。いろんな反省をするんだけれども。一つの反省は、やっぱり俺は、三千万円じゃ映画を撮れないと思った、というのが一番大きな反省だね。ただ、『青春の殺人者』で俺がね、やっぱり、うれしかったのはね、批評家選出のベスト・ワンを取ったことは、これは、それなりにうれしかったけれども、読者選出のベスト・テンという奴の三位だったことね。『犬神家の一族』(市川崑・一九七六)と『大地の子守唄』(増村保造・一九七六)に次いでね。要は、客が支持してくれておるやないけ、というふうに思ってないと、監督というのは頑張っておれんから。もっとも、俺みたいなタイプの監督というのは、好いている奴が百人いれば、ってる奴が二百人いる、と思わなければいけないわけだけれど(笑)。
白井 いや、個性的な監督というのは、そういうもんだよ。半分の人には嫌われるくらいの毒がなきゃ、現代はダメなのよ(笑)。
長谷川 それでも、嫌われたいとは、あんまり思わないけどね。
白井 まあ、そりゃそうだ(笑)。
長谷川 やっぱり、嫌われたくはないが。それはしようがない、自分の好きなようにやって嫌われるんならね。
白井 そして、その後『太陽を盗んだ男』まで三年間待ったのは、とにかく、億単位の製作予算が欲しい、と。しかも、画面に描くものは、具体的行動描写で、ダイナミックに一貫させてみようではないか、と。そういう作品を作ってみようではないか、ということ?
長谷川 それは、それは非常に強くあった。
白井 だろうね。
長谷川 一本目は、あれだけ無理言うて、スタッフにもキャストにもタダ同然でやらせて。ベスト・ワンなんてものを一応取ったから、なんとなく気分は収まったけれども。あれ、もう一回はでけんぞ、というのが、すごい強かったね。だから、スタッフには基本的には、ノーマル・プラス・アルファのギャラを払える体制をつくり、役者にも、もちろんギャランティする、と。しかも文芸大作というふうな小説のベストセラーの映画化とか、そういうものじゃないオリジナルをやろうとしたらね、それは、三年掛かりますよ。 いろんな小さい話も、大きい話も、声はかけてもらいはしたよね。あっちこっちから。ただ、頑張りきれない要素があったね。俺が企画的にのりきれないとか。企画はおもしろいけども、この予算ではやれんとか。
白井 でも、どうなんだろうね。たいがいの監督は、それでも、やっちゃうんだろうな。日数足らん、金足らん、役者不足、と思いながらもさ。でも何とかできると思うから。
長谷川 ろん、みんな勤勉なんだよ。やや、否定的に言っているわけだけど。しかし、撮らないのも、そりゃ、さみしいもんですよ。三十こえた男が、朝というか昼頃目が覚めて、どこにも行くとこがないっていうのはね。これは、白井さんも、『キネマ旬報』辞めて少しは、そういう感じも持たれたろうが(笑)。やっぱり、さみしいもんだよ。誰も自分を必要としていない、というね。監なんてものは、監督してる時は監督だけれども、監督してなきゃ、なんでもないからね、本当に(笑)。 単純にさみしかったね。だから、みんな、さみしさに負けるんじゃないかね。
白井 そうなんだろうな。でもよく、三年間頑張った。山本又一郎プロデューサーも、よくやったよ。
長谷川 いや、しかし、結果だからね。それで勤勉という言葉を言うんだが。要は、怠け者なんだ俺はそれと、行動のテンポが遅いんですよ、ぼくは。まあ山本又一郎という、わりと剛腕のお兄ちゃんと組んで、やってみたわけだけれども。俺は奴のことを今回、非常に評価したわけですよ。結果、赤字にはなったけれども。そしてなんか若い監督、プロデューサーで、馬力があるように言われるけれども。そうなんじゃなくて、一番オーソドックスなんだと思うよ。映画館で見る映というものに対する思いが、一番正攻法なんじゃないかしら。
白井 その『太陽を盗んだ男』のシナリオ第一稿を見せて貰った時ね、「どう思うか?」ってあなたが言うからさ、俺は「このシナリオのまま製作に入ると、大金の掛かったアート・シアター映画みたいな観念的作品になってしまう恐れがある」と言ったよね。それが出来上がったフィルムを見 たら第一シークエンスの皇居前でのバス・ジャックのあたりからね、沢田研二の主人公の理科教師の、原爆製造の完成と国家脅迫のあたりまでは、ものすごく具体的描写で、ダイナミックに、スリルたっぷりに、ひたむきに押したね。ただ、第一稿シナリオを読んだ時から疑問に思ってたところが、やはり出てきたのね。主人公が東海村からプルトニウムを盗んで、原爆を作って、さて国家を脅迫すると。さあどんな脅しをかけ何を要求するのか、ということになったらさ。「巨人・大洋戦のテレビをNHKに完全中継させろ!」なんてことを国家に求める、というのは、やっぱり映画を見てて正直言って、ちょっとひっかかった。 何だ、やっぱり、ゴジは結局、こんな観念的な戯画映画をやる気だったのか!という気がしたね。
長谷川 そうかね。そうかな。俺は、そういう意味じゃね、白井さんはね、やっぱり批評家なんだと思うよ。いやいや、俺は監督だけどね(笑)。監督であるよりも、時々、ついつい観客になったりするのね、映画見てても。自分の映画見てても。『太陽を盗んだ男』は、そのへん、あんまりそんなふうには、思わないのよ客は。あすこまでは「ほう、そんなことを言うのか」と思ってね、見るのよ。ただ、要は、奴がその後、何を国家に要求したらいいのかわからん、というふうにね、自問自答するところで、はっきり、これは、自分が思ってたドラマと、ちょっと質が変わってきたな、という印象を受けるんだと思う。俺の客の感じ、というのはね。
白井 ということは、「巨人・大洋戦をテレビで完全中継させろ!」というところで、ユーモアとして爆笑させたいわけ?
長谷川 それは、かなり笑って見てるよ。笑って見るという、その笑いがね、あなたは観念だと言われたけれども、あれはリアリティがあるんだよ。こんなことがあれば、ああなるんだろうな、といろリアリティはあるわけ。それは、五億円が空を舞うよりも、相当リアリティがあるわけですよ。
白井 でもね、そこがとても大事なことだと思うんだよ。ぼくは、映画というものはね、客観的で具体的な行動描写で、全篇ひた押しに押して描いてね、ハラハラ、ドキドキさせて最後までいくのが、オーソドックスだと思っているわけね。観念的テーマは、それを見終わった時に自然と出てくるのが、正しいんであって。だから、『太陽を盗んだ男』の例でいくとね。「十億円よこせ!』と国家を脅迫し、その受け渡しのありさまを具体的なリアリティをもって描き通し、いかに見事に国家から十億円を奪い取るか、とか、失敗したか、を秘術を尽して、観客をハラハラ、ドキドキさせて描く。それを最後まで貫徹させてさ、なおかつ、トータルすると観念的な大テーマの裏打ちもある、というような映画はできんものかしら、という気がするわけよ。
長谷川 いや、それは、非常に的確なことを言われてるんで。最初はどちらかというと、そっちの方向で考えてた。原爆をジュリーの主人公が作って、世界で9番目の原爆所有者だから「9番」と名乗って、テレビのナイター完全中継を要求するまでは、俺は、良しとしてたわけよ。これが最初シャブだからね。そして次に、さらにワーッと驚くような大きな要求が出てくればいい、と。あと二つ、大きいものが見つかれば、ちょっと歴史上にない、大きなスケールの娯楽映画になれる、と(笑)。
白井 でも、現代の若者の考え方としてさ、あんな場合、まず「金をくれ!」という要求になる、と思うよ。
長谷川 いや、だから「金をくれ」という場合は、金に大した意味はもう、ないわけ。金に驚きはないわけですよ。金はあたりまえなんだ。金を要求して取るなんて、そんな映画はもうゴマンとあるんだから。取り方が非常に問題なわけよ。その取り方というのが、言ってしまえば、思い付かなかったわけですよ。そんなに、すばらしい取り方がないのよ。それで、もう一つ考えたのはね、方法論の話なんですよ。 方法論というのは、単純な知恵だからね。それこそ、七センチの厚さのカバンをね、特急こだまの窓から投げろ、といったアイデア一個で、映画というのはできちゃうわけですよ。 で、それを必死に考えるわけさ、映画作りとは。 それを、一年半考えたけど。一年半考えて、なかったわけですよ、出なかったわけですよ。主人公の国家脅迫の第二の要求が出ないのと同じように、なかったわけ。要は、知恵が足りなくて。おそらく、その知恵というのは、トリックなんだよね。 p align="left">白井 そのトリックが、机上の空論になってしまうと、観客はシラけるけど。具体的な行動描写でダイナミックに一貫できるような、一種幾何学的な合理性を持ったトリックで、しかも、観客がアっというようなものを考え付ければ、最善なわけなんだけれどね。
長谷川 ただね、その金の場合、一つ弱いと思ったのはね。例えば奴がついに金を取ることに成功する。 そして自分のアパートに五億円積んで、そのうちの一万円札の一枚を掴んで街へ出て、ラーメン食っている、というエンディングを考えるわけだ。また例えば、飼い猫のニャロメが放射能で死ぬとすれば、その辺の猫屋で、代りのニャロメを一匹買う、とかね。そういう甘いドラマも、考えてみたわけよ。ただ、五億円を目の前にしたことを考えた時に、また、はたと現実がわかるわけよ。五億円の使い方が、ないのよね。五億円くらいではね。これは、五百億円取ろうが、五兆円取ろうが、そうやって非現実的な額になっていけばいく程、気分のリアリティというものが、失われていくのね。
白井 ただ、こういう映画というのはね、たいがい、どう使うか、なんてことまではいかなくてさ。例えば、十億円取って逃げ切れたか、あるいは、目的行動が途中で挫折してね、やられてしまったか。それだけをひた押しに押して描ければさ、いいんであって。
長谷川 それは、もちろんそうなんだけれども。これがね、ダイナマイトならね、それでいいんだよ、きっと。持っている爆弾が。 原爆だからね。原爆と等価値になる金額というものがないわけですよ。 単純に原爆と等価値な金額はいくらだといえば、五億ではもちろんないだろうし、ハカリに乗らないわけですよ。
白井 でも、そのアンバランスが却っておもしろいんじゃないの?
長谷川 原爆なんだから、来年の国家予算を全部俺に使わせろ、と。俺の組んだ予算はこうだ、というようなことをやれば、これは、まだおもしろいよ。ただね、映画だからね。小説でなら、そういう話はどんどん書けていくわけだよ。原爆を爆発させて大東京を廃墟にすることだって文字でならできるわけだ。
白井 そこで考えるんだけれどね。原爆を個人でひそかに作った人間が、国家を脅迫する。何を要求するのかと思うと「巨人・大洋戦をNHKテレビに完全中継させろ!」と。あるいは今あなたが言ったように「国家予算を全部よこせ!」という。俺がそこで感じるのはね、なんでこの作者は、すぐ映画の中に頭から「公憤」を持ちこんでくるのかな?ということね。俺は、映画というものは、具体的な「私怨」に基づいてね、主人公のすべての行動描写で一貫されるとね、画面がすごく切実でダイナミックな力をもち、観客一人一人の心をサスペンスに引きずりこむんだ、と思うわけ。それが『太陽を盗んだ男』でいうと、第一シークエンスのバス・ジャックをあれだけダイナミックに具体的に描き、第二シークエンスで主人公が東海村からプルトニウムを盗み、それをプライベートに原爆にするという作業を、あんなに具体的にユニークに、日本的に造型できた人がさ、第三シークエンスで、なぜ一挙に観念的な「公憤」にテーマを飛ばすのか?
長谷川 いや、あれを「公憤」と決めつけるのは違うんじゃないかな。あれはね、「テレビのナイター見せろ!」は「公憤」であると同時に、「私憤」でもあるのよ。そうだと思いませんか?244
白井 でも、要求するものが、手に取れる、具体的な物質でないとさ、「私憤」「私怨」のスリルは、出てこないのよ。
長谷川 いや、だけどさ、手に取れるものといったら、結果は全部金に置き換わるだけだから。 私は、一年半、まあ約二年、試行錯誤してましたからね。例えば、主人公のアパートがあ高台の五軒先のほうに、きれいなねえちゃんが時々見える家があった、としますか。それは、普通に考えれば、やや黒沢明の『天国と地獄』(一九六三)になるから、もうちょい、ひねれば、三軒先のそば屋の出前持ちのねえちゃんや、と。これに、えらい惚れとんのやけども、どうしたらええかわからん、と。で、あの女の愛をかち得たいということと、原爆を作るということを、例えば等価値に置くような......。 そういうドラマの作り方は、考えたわけよ。つまらなかったのよ、俺には。なぜ、つまらないかというとね、小説ならできるのよ。ということは、あなたの言われてることのほうが、むし観念的なのよ。 要は、理想の女なんてものが、例えばいるとしますか。男が女に惚れるみたいなことが、一つの真実だ、というふうな。 だからさ。金で買うというタイプのものであればさ、これは話が楽なんですよ。
白井 まあ、そっちへいっちゃうと混乱するから、元へ戻すけれども。だから、ぼくが思ったことはね、ゴシさんともあろうものがね、なんですぐ何かというとテーマを「天下国家のこと」に肩いからせて、とばせるのかなあ、という気がするわけね。犯罪者というのは、もっと一種エゴイスティックでさ、プライベートなことばかりやるであろうのに、という気がするわけよ。
長谷川 いや、俺がこの映画の原爆というネタに乗ったのは、これは、草加次郎じゃないから乗ったのよ。 草加次郎であったり、大久保清である犯罪者は、これはこれで、俺は興味なくはないけれども。やっぱりモノマニアックな人間なんですよ。要求することよりも、要求をする内容よりも、自分が手作りした爆弾が電車の網棚に乗っておること、それ自体の喜びが目的なんで。青酸カリ事件でいえば、青酸カリが入れてあるコーラが、電話ボックスの中にあって、それを、きっと奴はどこかから、見てるわけだ。もう奴は選べないわけだね、だれが死ぬかは。それに対する、ある種の、言ってしまえば陰湿な喜びですよ。これは、これで一つの作品は作れるわけだ。俺も興味なくはないですよ。ただ、それはもっと言えば、痴漢というふうな行為が持つ一つの犯罪性だよね。それがね、俺にとってはもうネタにならんという気がしたよね。かつて『純』という、あなたと、倉本聰さんがやろうとした映画があった。あれは痴漢とSLがカット・バックする話だったよね。あれを読んだ時に、一助監督であった俺が多少生意気なことを言ったとすれば「今さら、何が痴漢じゃい」と思ったわけね。大江健三郎が「性的人間』を書いたり、それをぼくが高校生の時に読んだ時には、痴漢にはそれなりのショックがあったよね。ああそうか、痴漢というのは、こんな事を考えているのか、と思って。そうすると、俺の中にある痴漢的な要素も、そうか、そういうことなのかなあ、というふうに思えるようなさ。そういうものは、表現の素材になれるという現代性が、あったわけですよ。
白井 あなたは、例えば、なぜ痴漢を描くのか?というと、やっぱり結局「天下国家」の方へテーマを持っていきたいから描く、わけだ。
長谷川 いや、そうじゃない。だから「天下国家」とあなたが言うから、話がややっこしくなるんで。そういう意味の「天下国家」ではないのよ。「天下国家」ではないというよりも、「天下国家」も「痴漢」も、要は同じなのよ。あなたの言う言葉でいえば、「私憤」と「公憤」という言葉が、一番的確だと思う。だから、痴漢も草加次郎も青酸カリも、これは「私憤」なんですよ。
白井 だから、要するに犯罪行為というものは、非常に具体的な、「私憤」「私怨」に発するものであるはずなんだよね。それがさ、頭から、抽象的な意味づけがなされて描かれちゃうと、観客はとたんにシラける、というふうになるわけだよね。観念の絵解きに、なっちゃうから。
長谷川 それは、絶対にそうです。ただ、要はね、自分の「私憤」として例えば痴漢してる人間を主人公として描いても、結果その行為トータルが「公憤」の領域にハミ出していかない素材は、俺はいやなんだ。 それはやっぱり俺の犯罪者に対する憧憬の強さがもしれないけどね。どんなにゴミのよう犯罪者でも、「誇り高き人間」であって欲しいわけ。それは犯罪者自身が自分を誇り高く認識しているということじゃなくてね。犯罪者自身は自分を、ゴミだ、クズだと思ってていいのよ。そう思ってるほうがむしろ当り前なんだ。ただ作品全体を見終った時にね、その犯罪者がどこか新しい気高さを感じさせてくれないと嫌なんだ。どうも上手く言えないけど、俺は自分の主人公を見下し描くことも、見上げて描くこともできないタイプの監督なんだよ。だから、いつも犯罪者を主人公に選んでるんじゃなくて、自分が理解できて、感情移入できる人間を選んでみたら、結果的にいつも、そいつは犯罪者って呼ばれる行為をしてるんだよ。
白井 あのさ、こういうことがあるじゃない。俺、アメリカの犯罪映画って、とても好きなんだよね。ということは、主人公は常にその「私債」で動いているからね。そして、その行動は、具体的な行動描写の積み上げであるからね。その犯罪行為には常に目的があって、いくら金を取ってやろとか、あそこへ入って宝石を奪取しようとか、あの女をさらってやろうとか、いうことになるわけね、徹底的に「私憤」で具体的行動なんだよ。それがまあ、成功してうまく逃げるか、あるいは失敗して。例えば、札束はさらったのに、それが逃げようとする時、トランクの札束がね。
長谷川 飛行場で飛行機のプロペラの風で飛ばされるとかね。
白井 で、それが具体性を失うと、それは観念になって、観客をシラケさせると思うよ、俺は。
長谷川 うん。だから観念になることがシラケさせるんじゃなくて、要は嘘の観念になったら、客はシラケるんですよ。きっと、それは、そうだと思うのよ。観念がいかんのじゃなくてね、それを裏打ちする具体描写が、観念と同等に力感を持っていれば、それはシラケないんですよ。
白井 その通り。った後に、観客の心の中にね、作者の訴えたい観念が読みとれてくる。要するに「私憤」の貫でエンド・マークが出てさ、観客はむしろ映画館を出る時、ムラムラと「公憤」を感じ始めるようなものでありたいわけ。俺はさ。
長谷川 うん。それは良くわかる。ただね、例えば、あなたがアメリカ映画の『ローリング・サンダー』(ション・フリン・一九七八)を誉めていたようには、俺は『ローリング・サンダー』を、やっぱり誉めないんだよね。 それは、戦う敵に、あまりに矮小なものを選んでいるからさ。要するに、奴がやっつけに行くのは、メキシコのチンピラですがな。たかがギャングだよ。いや、たかがギャングだからダメなんじゃない。たかがギャングとしか観客に思わせない陳腐な描き方をしてるからダメなんだ。要するに使い古された勧善懲悪の復讐劇でしかない。あんな奴をやっつけても、やっつけることにも今や興奮できんのだよ。あの映画で好きだったのは、ラストの「レッツ・ゴー・ホーム」という一言だけだったなあ。だから、ヤクザ映画というのがね、最終的においらの中で魅力を失っていったのは、ワン・パターンの悪い親分しか出てこないわけだな。こいつをやっつけたってしょうがないぜ。ということが、さんの映画から文太の映画に変わっていった、大きな流れなんですよ。それはね「こいつをやっつけても」というのは、「こいつが悪くて、こっちが良い」というととなんだよね。こっちも同じように汚ないぜ、ということを見せたのが『仁義なき戦い』(深作欣二・一九七三)なわけでしょう。 こっちが同じように汚ないぜ、ということを見せる時にはね、そういうふうに対象を描いていく場合は、絵のような仇役はもう出て来ないわけだよ。出て来得ないわけだよ。
白井 『ローリング・サンダー』の場合はね、あんな奴を殺ったってさ、一見、目前の報復は貫徹されたけれどもね、実は何も終ってはいない、ということを示したこと自体で、一応の目的は達せられている、という気がするよ。
長谷川 俺が、さっきから言いかけていることを、思い出した。『太陽を盗んだ男』の犯人の特質性はね、自分を「9番」という名の国家だと名乗るということなんですよ。こういう自己認識を持った犯罪者は、かつていなかったわけだ。大久保清も草加次郎も、永山則夫も青酸カリ・コーラ犯人も、だれも自分を国家と等価値なのだとは思わなかったわけ。国家というふうに言うと、あなたは、またすぐ「公債」と言って「天下国家」と言うから(笑)。そうじゃなくて、国家というものも、おらっち一個の人間も、価値は変わらんぜ、と。ないしは、価値はこっちがおるから、おまえらも存在でけるんやで、というね。それは、俺流の気分のいい、ふてぶてしさなわけですよ。
白井 でも、そんなふうに「天下国家」にまですぐ、いかないのが犯罪者だ、という気がする。もっと陰湿でプライベートなのが。
長谷川 いや、だから「天下国家」ということと、ラーメンが五十円じゃなくて、なんで三百五十250円なんだ、ということはさ、これは、関係があるわけだからね。普通の想像力があれば。
白井 でも、それは多少いやな言い方をすると、東大出身の観念的インテリの思考というか(笑)。
長谷川 いや、いや、そうかなあ。そうかなあ。いや、白井さんの中にね、やや否定的に言えば。どういうんだろう。「私憤」というものをさ、もう少し矮小なものじゃなくてはいけない、というふうな、思考が。
白井 そんなことはない。俺はね、さっきから言ってるように、『太陽を盗んだ男』の第一シークエンスは、すごくいいと思うんだよね。マントの下に軍服を着た伊藤雄之助の老人がね、中学生の旅行バスに乗りこんで来て、皇居前でバスジャックをやる。そして「天皇に会わせろ」と要求するね。
長谷川 だけどね、「天皇に会わせろ」と言うバス・ジャックのおっちゃんこそは、実は観念のたるものでね。
白井 だけれどもね、そのことが、われわれの心の中にダイナミックにうち込まれてくるのはね、あのバスジャックの一部始終が、実に具体的に細部にわたって、スリリングに描き込まれていたからなんだよ。
長谷川 うん、うん。いや、だから「描写がね、ゴジは下手だったね」と言われるんならね、まだ監督としてね、反省できるのよ。だけどね。白井さんが、十億円なら十億円をどういうトリックでもって取って、トリックに対するカウンター・トリックもあって、それを見せる映画にすべきだったんじゃないか、と言われるけど。それは、その試行錯誤は、俺もしてみたのよ。うまくいかんかったんだよ。うまくいかんというのは、一つは、そういう話にする上での「大トリック」を思いつかなかったのよ。これ、正直に言うわ。また仮に思いついても、俺は「万歳!」とは言ってないな。そうなると、もう別の映画なんだよ。原爆というものを何者でもない一人の若い男が自分一人で作って、「9番」と名乗って、そして、テレビのナイターを見せろ、と言うね。この三つに俺が乗っということの本質に、やっぱりあなたの疑問が、あるんですよ。「ゴジ、それは、もう少し平たい話にせんといかんのやないか」というね。「お前、天下国家の方へ行き過ぎとるんやないか」ということだと思うから。ただ、欧米の映画で金を取る話が非常にうまくいくのは、トリックのうまい下手はあっても、金を取ったら脱出して逃げられる、という実感があるからでもあるわけよ。その国境を越えて逃げるという感じは俺らぐらいの世代になっても、まだないね。実はレナード・シュレーダーが最初書いてきた本が、そういうんだったんだ。金を取って、ブラジルへ飛ぶ飛行機の中で終るんだよ。とね、やっぱり嘘をつけ、と思うわけさ。寅さん映画の甘悲しいハッピー・エンディングを見るのと同じような「嘘をつけ!」というような気が、俺はする。そういう本になっては、俺は撮れないと。それから俺とシュレーダーの一年半にも及ぶホン直しが始まったわけだけどね。ただ、シュレーダーのオリジナル・アイデアがやっぱり抜群に力があったんだな。それに奴がこんなシツこく頑張って書いてくるのに、俺が投げ出すわけにはいかんぞという、想いも強かった。
白井 あんた、こういうことを言ってたね。主人公が原爆を製造した後、さて、何を国家に対して要求しようか、と考えた時にね、「巨人・大洋戦を完全にテレビ中継しろ」というふうなことしか出てこなかった、という。そのこと自体の現代性、みたいなことを。さらにその次に、彼が今度は二つ目、三つ目の要求を考えた時、何も具体的に浮かばなかった、出てこなかった、という。主人公のシュリー自体の頭の中に何も浮かばなかった、という、そのこと自体がテーマなんだ、みたいなことを
長谷川 いや、テーマなんだ、というよりも。経緯を言えば、三つの要求を設定して、その最初のシャブとしては「ナイター完全中継」要求は結構だ、と。ただ、次にもっと具体的で、もっと大きくて、もっと気分のいい要求をあと二つ考え出そうとした。それがね、思いつかなかったわけよ、結局ね。
白井 そのこと自体が大テーマなのだったら、それはそれでね、またおもしろかったと思うんだよね。でも作品の作りは、そうなっていない。
長谷川 うん、そうそう。だからね、企画を捨てようと思ったわけさ、一回は。それを思いつかんのだから、このネタはあかん、と。ダメや、といって投げようと思ったわけ、一回は。ただ、俺が捨て切れなかったというのはね、ネタだけで勝負しないでも、まだこのシャシンは戦う余地がある、と思ったのね。
白井 でもね、ぼくが言ってることというのを、あなたはやっぱり、本質的にはわかってるんだ、と思うのね。だって作品の後半で、一所懸命、浮き上がった観念を具体的描写で縫い合わせよう、としてね、かなり頑張ってるもの。カー・チェイスなんかさ、日本映画としちゃあ、それこそ歴史始まって以来といっていいくらい具体的な映像描写でね、ひた押しに押してる。それからビルの上でのジュリーと菅原文太の対決とか、転落のシーンなんていうのをさ、ちゃんとスタントマンを使ってね、極力具体的に撮ろう、というようなことを、やっている。あなたは、わかっているんだと思うんだよね。映画の力、というものはね。
長谷川 小説でいえば、ロマンがあって、アンチ・ロマンがあった、と。で、映画もそうなりつつあったし、そうなったわけでもあるわけだけれども。アンチ・ロマンというのは、俺はダメなんですよ。要は観客としても、作り手としても、資質的に楽しめないんだよな。やっぱりロマンがいいのよ。ただ、ロマンがこれだけ存在しづらい時代なのは、間違いないわけでね。しづらい時代で、しかもロマンを追うってことがね、シンドい(笑)。
白井 しづらいからこそ、また観客は映画にロマンを求めるわけで。
長谷川 だけど、その時に物を作る人間としてね、俺は自分で認めてやれるのは、「お前はそれでええのだ」と言えるのは、嘘はつかん、ということよ。自分が信じてないことを、「こういうふうに頑張れば、こういうふうにいいことがありますよ」とかね。「こういうふうにやったら、こういうふうにダメになるんだよ」とかね。それは、どっちでもいいんだ。自分が本当に思っていれば。自分が信じてないことは、目の色を変えて、撮れんわね。
白井 そりゃそうだろうね。
長谷川 だから、自分に正直にやるとね、ああ、なっちゃったんだよ。
白井 それは、わかるよ。そういう正直さがないと、映画はダメよ。でも第一シークエンス、第二シークエンスまでは、あれだけ細部の描写にリアリティを持たせてやれたんだから。第三シークエンスも、第四シークエンスも、第五シークエンスも、もっと具体的映像描写のひた押しで、ダイナミックにいってもらいたいわけですよ、観客としては。
長谷川 まあ、しかしね、極力いったんだぜ、俺は。どうも自分のシャシンを喋るのは、うまい具合にいかんもんだけれども。
白井 あなたがね、はなから映画作りを戯画化の作業だと思い、観念の絵解きをやり、図示をやている監督だなんて思ってたら、俺はこんなことは、言いませんよ。そうじゃない、第一シークエンスと、第二シークエンスは、あれだけ頑張ってやって、成功してるんじゃないですか、ちゃんと。まあ、ハリウッドを再々例に引くのは、よくないとは思うけれど。あえて言いますがね。アメリカ映画の場合なんかだとね、第三シークエンスでは、さらに、より以上の強力な具体性を持ったショッキングなシチュエーションを作り出すのが、くやしいね。一種幾何学的な正確な計算で。日本映画は、どうしてそれが出来んのかなあ、という無念の思いがあるわけよ。
長谷川 いや、第三クォーターがやっぱり一番難しい。
白井 日本映画の場合はね、たいがいそうなんだよね。「起承」あたりまではうまくいくんだ、具体的描写で。だが、肝腎の「転・結」で、観念が見え、作者のテーマが絵解きになり、図示され観客に与えられる、ということになっちゃうことが多い。
長谷川 うん、うん。だからね、その第三に当たるところをさ、悪い言い方ですれば、まじめなアクションを撮ること、でね、アクションをアクションらしく撮ることで、突っ走ろうとしたわけだよ。今回の場合は。要するにデパートで包囲されるシーンからカー・チェイスまで、というのは、そういうことですよ。あれは、観念的な意味は、ないんだけれどね。
白井 かなり頑張った、と思うんだけれどさ。でも、何かやはり車に乗って走ってるのも観念で、追ってるのも観念だ、という感じが多少あるけどね(笑)。
長谷川 そう言っちゃうと、全部観念だぜ、映画なんて(笑)。でも、そういう時にね、『太陽を盗んだ男』で一番つらかったのはね、こういうふうな映画を一回でもいいから撮りたい、と思った時、「あれがお手本や、俺の映画の」とか「あれが師匠や」というのが、ないわけさ。それは、黒沢明の描写の力のあるところが好きだ、とか、今平さんのここはおもしろい、とか、大島渚のこれはどうだとか。部分的には、それはなくはないよ。だけどね。
白井 また時代がね、管理社会化が進んで、慢性症的に、安定してしまってて、動きの出てこない、ノッペラボウな時代だからね。なおのこと、難しい。
長谷川 まあ、白井さんの中にある「それはゴジ、天下国家の方に走り過ぎてるよ」という言い方は、俺はわかる気もするけれども。しかし「天下国家」が映画に入らないように作品を撮ったら、いかんよ。結果は入るんだよ、やっぱり。
白井 結果は入るんだけど、それは、結果入るんであって、中途から説明的に入れられると、非常に困るわけです。
長谷川 でも、そういう意味じゃ、一本目よりは二本目の方が多少はやれてるやろう? ようなったやろうが?ようなったと言うてもらえまっか?シツコイね俺も(笑)。
白井 言う。だからこそ、またこれだけ、いろいろと言っているわけだよ、もちろん。で、次の新作は何をやるつもり?
長谷川 『連合赤軍』をやろうと思って、シナリオを作ってるところ。
白井 それは、いけるね、絶対。
戻る