70年代東映を代表する大ヒットシリーズとなった『仁義なき戦い』は、仮想の「家」に置き換えられた「組」を基盤として日本に根付いてきたヤクザ社会の、その基盤自体を危うくするような混乱を、映画自体も体験しつつ、それを自身の変容としても受け入れているようなアクション映画だった。一方でそれは、当時の日本社会の変化、変容にもたとえられる社会劇にもなっていた。しかし、前作「顔」の中でも描かれているように、家とそれを支える前提となっていた社会基盤の崩壊があらわになってしまった現在日本において「仁義なき戦い」の意味は大きく変化せざるを得ない。プレスシートの「演出意図」に記された「現実的にもすでに古典的なヤクザの抗争劇は終わっているので、それだけではとても映画を組み立てられない。それで話の重心に30年ぶりに出会った男ふたりの葛藤と友情を据えた」という阪本の言葉は、劇作における認識であるとともに、そんな時代に「ヤクザの抗争劇」を引き受けた彼の、日本社会とのつながりを示す言葉であると思う。
  したがってこの映画の根元は、『仁義なき戦い」の直前の時代にある。小学生の悪ガキふたりは、あるときやくざを殺してしまう。以来ふたりは離れ離れになってしまったのだが、その思い出は、ふたりに取り憑いてはなれない。成長してからも、豊川扮する門谷には耳鳴りの障害として、布袋扮する栃野には故国韓国への絶対的なつながりとして、ふたりを思い出の70年前後の時代へとフィードバックさせる。この映画の風景が、どこかすでに時の流れから見放されたかのような幽かな輝きを持っているのは、そのためだろう。
  一方現実のヤクザ社会の中で起こる跡目争いは、徹底して動かぬ者の勝利となって終わる。たがの外れた抗争の果てに、その抗争の中で常に曖昧にたたずんでいただけの男が、家を曖昧に包み込んでしまうのである。「家=組=基盤」が壊れたあとに現われたその曖昧なたたずまいに、主人公ふたりの妄執とも言える忘れえぬ傷が対置させられる。そこにこそ新たな仁義なき戦いの始まりがあるのだと、この映画は告げているように思う。

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