赤井英和と大和武士を交互に主演に起用した初期4作の最後は、阪本順治が初めて関西を離れて撮った作品となった。とはいえ『鉄拳』の最後の殺風景な宅地造成地での大和武士の戦いを見せてしまった阪本にとって、父も死に、母も消えた場所での大和のその後を描くのは、どうしてもやらねばならないことだったのではないだろうか。したがって、ここでの舞台はとりあえず東京周辺ということにはなっているが、もはやどこでもない場所と言ったほうがいいだろう。
  大和はそこで、父となっている。仕事は幼稚園バスの運転手で、それもまた父親的な職業である。もちろんそこには、「鉄拳」の菅原文太や原田芳雄のような彼にとっての父親的な人間はおらず、「鉄拳」に続いて孤児的な役割を与えられている彼だが、しかし自ら父となることはできる。つまり、まるで「どついたるねん」の赤井英和が演じたらしっくりくるような社会復帰した男を、母性を欠いた殺風景の中で「鉄拳」の大和が演じるというねじれから、この映画は出発する。
  したがって、子供は誘拐されて殺され、妻も家を出て行ってしまうというその後の物語の展開は、彼にとっての「復帰」は「社会復帰」のような形ではありえないことを、世界に対してはっきりと刻印するための儀式のようなものだろう。だが彼を孤立させる犯人(佐藤浩市)もまた孤立した男で、主人公の妻は夫の代わりにこの犯人の元へ身を寄せる。犯人は主人にとっての他者ではなく、限りなく自分に近い他人なのである。つまりここでの3人の関係は、通常の三角関係ではなく、同種のものの連帯に近い関係だと言える。彼らが結局壮絶な戦いを繰り広げるのは、それゆえである。その連帯を断ち切ること、つまり自分で自分を殺すことによって、彼らは「再生」するのだからその自死と再生への強い欲求は、その後の阪本映画にも常に張り付いて、スクリーンの片隅に、陰惨な影を落とすことになるだろう。

戻る inserted by FC2 system