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幻想「火垂るの墓」(『火垂るの墓』メモリアルアルバム 節子)1988年
昭和二十年九月二十一日夜、「ぼくは死んだ」。ぼくとは、小説『火垂るの墓』の主人公である十四歳の少年清太。 これに先き立つ一月前、幼いヒロイン節子が死んだ。 『火垂るの墓』の作者であるぼくは、彼等の死後、四十三年を経て、まだ生きている。
過酷な戦場から、不思議に生命ながらえて、いわゆる復員した、ぼくより七、八歳年上の男たちは、ある時期、「戦後を余生とみなす」といっていた。 「余生」というからには、それまでに「充実した生」があったのだろうが、ぼくには、始まった時と同じく、 突然、終った戦争、いわゆる「平和」がよみがったところで、何が断ち切られ、 何が連続しているのか、さっぱり確かめられないまま、飢えに追われて日々を過ごし、とても「余生」と観ずるだけのゆとりは、心身両面になかった
しかし、清太と同じく、ぼくも四十三年前に死んだのかもしれない。節子と二人っきりで過ごした、 空襲で焼け出されてからの、三か月足らずにこそ、ぼくと節子は生きていたような気がする。
自分以外の人間を、はっきりと見分け、言葉を通じあわせ、一人で生きているのではないと確かめ得たのは、 あの年のみじかいといえば短い夏、しかし、ぼくにとっても、節子にとっても、永劫にひとしい、生であった、いや、「あった」と思いたい。 節子にとって失われた未来だが、ぼくのすべても、過ぎ去った夏にある。現在も未来も過去にしかない。
節子は死んだ。本当に、骨と皮だけになって、睡るが如くという形容は、餓死こそもっともふさわしい。その、やがてはしゃべらなくなり、 まばたきもせず、まったく表情を失って、仰臥したまま、身じろぎさえかなわず、外は雲一つないカンカン照りだったが、 節子の見開いた瞳に、かすかな光もなくて、この時、節子の脳裏に浮かんでいたものを、生き残ったぼくが、あれこれ思いやってみてもはじまらない。
母の死をどう受け止めたのか、よく似た年頃、といってもあの当時、さすがに二十代も前半なら、 火に追われ、常に死と隣り合わせの日常であっても、なお生の盛りの艶やかさを失わなかったが、さらに年上となれば、大人の女も男も、それぞれ同じに見えた。
海への道を歩いていて、彼方に佇む女の姿を眼にし、にぎっていた節子の手の震えを感じたことがあるし、 幼い子供を連れて歩く母親の姿を、うらやむのではなく、ただ、見とれていた。
節子にとっての全世界は兄であり、『火垂るの墓』の清太はこれにこたえている。
思い出にすがるにしては、あまりにも幼い。紡ぎ出す、以前の甘美な記憶、さらに、これを色どり鮮やかな五色の糸をより、身にまとうにしては、はかな過ぎた。 いや、これは大人の感傷、ないしは弁解で、餓死するまで、節子は、現実の生を、たしかに生きた。
節子は明らかに死期をさとっていた。神にすがることも、その導きを受けることもなく、その日その日を、たしかに生きていた。
人っ子一人いない夏の海辺、そこはかつて、父に伴われて遊び、折悪しく曇り空で、彼も灰色に沈んでいたが、 キャッキャとはしゃぐ節子の表情と、家も親もないまま、ただ海だけは、沖合いの雲の切れ間から、幾千もの光の矢を降り注ぐ、 静かな沖合いに見入り、また波打際でとびまわる節子のそれに変りなかった。
死ぬとわかっていれば、どうして、昔をふりかえり、過ぎし日と現在をくらべて、悩むことがあるだろう、 一日一日が、そんな大人の思い入れをけとばしてしまう、満ち足りた生なのだ。
蛍をみよ、ある時は輪になり、果てしなくのぼるかと思えば、ただ風のまにまに流され、 葉末に息づき光り、縦に横に斜めに、闇にあればこそ輝き、遊んでいるではないか。
節子の飢えを、ぼくは思いやれない。ぼくのは十四歳の、まさしく餓鬼のそれだった。 「おなか減ったァ」と甘える時、節子が、必ず、「お兄ちゃん、どないしたん?」と心配した。
頭の中で、自分の体の、節子に較べれば、まだ、肉の残っている、どこかを切り取り与えてやりたいと思い、さし当たって、 それは指であったが、タマネギと一緒に炒める場面を浮かべ、しかも、生唾をのみこんでいるのはぼく自身で、 あげくは、節子の分まで、つまり、その養いとなるべき、大豆のカスや小麦のフスマや、カボチャの茎や芋の葉を食べてしまった。
節子の飢えはどんなものだったのだろうか。腹が減ったからといって節子は泣かなかった、死んでしまった蛍に涙を流すだけで、しかしまた夜が来て、蛍が乱れとべば、 ぼくの方は、ひたすら荒みきり、ヤケとなって、野荒しから、さらに泥棒までを考え、実行もしたのだが、 節子は、一日を水だけで過ごして、なお、蛍に見とれ、どうやらその中の一匹を追うらしく、 細いうなじの上の頭を、ゆっくりめぐらせ、やがて、蛍そのものにひかれる如く、せせらぎによく足をすべらせた。蛍のように軽い体だった。
死んだ母の、あるいは父の魂が、蛍となってもどってきたというような、小ざかしげな思いではなく、蛍と、ただ遊んでいただけであろう。
蛍でまぎれる飢えであったと思いたい。節子は、遊びつつ死んでいったと思いたい。 死を思いさだめればこそ、他の誰よりも、満ち足りた三か月と少しの生であったと思いたい。
ぼくには、節子が何のために生まれて来たのかとか、四歳の女の子が、突然、孤児同然となり、飢えに苛まれつづけて死んだとか、 考えることが、もはやできない。生き残った者の、身勝手と十分心得た上で、節子だけが生きたわけじゃない、ぼくもまた、類いなき生を享受し得た。 節子のおかげで、ぼくも生きることができた、節子は、ぼくの母といっていい。ぼくが、節子にとっての全世界だったのではなく、実は逆だったのだ。
だからこそ、生きているぼくもまた、節子と共に死んだ、昭和二十年八月二十一日、燈火管制が、都市を外れたあたりにおいても、解除され、 ホッホッと、人工の灯の色が、横穴壕から見渡す、家々に点じられ、それは、蛍とちがって、温かいぬくもりのある光であった。
天からの火垂るも、葉末にひそむ蛍も失せて、節子は、甘い水の恩寵を求め、とび立った、ぼくは苦い水の、現し世に生きのびている。現像の世を生きる。 もはや節子の面影をしのぶことすらかなわぬ。ぼくの中で美化しているのだろうが、ろうたけた幼女という「言葉」だけが残っている。
節子と一緒に死んでしまったのだから、余生のはずはなく、もし生きているのなら、戦後といわれるこの四十三年間は、夢に違いない、 戦後の時間が確かなものであるのなら、あの、三か月と少しこそが夢であり、ぼくの現在は、夢遊病者。 所詮「盧生が一炊の夢」には違いないにしろ、実際、手ざわりが不確かなのである、ぼくにとって、ぼく以外の人間は、節子しかいない。
いや、二度、夢と現実が混乱しかけたことがある。 ぼくには娘が二人いるが、彼女たちが、節子の死の年齢に近づいた時だ。まず、必ず死ぬという確信の如きものがあり、 時すでに、食いもの不足の時代じゃないから、ごく当たり前に、クッキーやケーキを食べ残す。 ご飯の場合だとそうでもないのだが、いわゆるお菓子の類の、食べないなら食べない、食べるなら食べる、どちらかにしてもらいたい、 食べかけのまま放置されているものを眼にすると、ぼくは放心状態に陥った。 「食べかけ」にどういう意味があるのか、とたんに、節子をまざまざと思い出すというより、あの年の夏に戻ってしまい、節子の待っている壕へ、食べかけをかかえて走り出す。
娘たちが、節子の死の年齢に近づくと、二度とも、ぼくは家を出た、半年ほど外国へ出かけたり、国内をうろうろして、 とにかく娘のそばに身を置くことができなかったのだ、といって、ことあらため節子の菩提を弔ったわけでもない、そもそも節子の墓はない。
節子にまつわる何やかやを、小説に仕立て、実際に、今もこの文章を書いている。かつて、その食べものを奪った如く、また、その血肉をひさいでいる感じは、しかしない。 もともとぼくも死んでしまっているのだ、こういうのをこそ世迷い言というのであろう。
錯覚と、十分、承知だが、六月五日から、八月二十一日までの日々を、今も、何かのキッカケさえあれば克明によみがえらせることができる。 そのキッカケは、戦後の年月のうちに少なくなる一方だったが、このところ、まだ身近にしばしば登場して、即ち、健康に良いといわれる食品がそうだ。 繊維質としてのフスマ、良質の蛋白である大豆、その他南瓜、サツマ芋、寒天、トウモロコシ、はては野草までが美容に効果があるといわれ、 わざわざ栽培される、蛍は、自然のよみがえりの目安として、これまた保護を受けている。だが、やはり、この類は、節子と結びつかない。
四十三年前の、みるもおぞましかった代用食が、そして節子を死に追いやった食物が、今は不老長寿をもたらすらしく、 それはそれでけっこうだが、しかし、ぼくと節子の過ごした生の時間には及ぶまい。 節子の最後に観たものを、ぼくも観ることができるのだろうか、ぼくは、餓死をのぞんでいる、節子と同じように死ななくてはならぬ。 そしてようやく醒めるのだ。海へ行く、野荒しの収穫を一緒に食べる、蛍をみる。